2011年5月25日 (水)

第7回岡山哲学道場「真理と証明」/他

 第7回岡山哲学道場(5月21日)は当方の発表でした。テーマは「真理と証明」で、数理哲学について発表して参りました。

 レジュメ「真理と証明」(当日配布版に多少の加筆修正を加えたもの)
 http://www.ilp-project.net/storage/pd_okayama7.pdf
 議論終了時点のホワイトボードの様子
 http://www.ilp-project.net/storage/img20110524a.png

 レジュメは二部に分かれており、前半は前回アップした「真理の身躰性」についての小論をそのまま転載したもの、後半は当方の数理哲学ノートからの抜萃を断章形式で排列したものです。前半と後半とには内容的な繋がりがあり、全体として当方の数理哲学に対する基本的立場が示されてゆくという仕組みです。
 今回の発表は、ここ二年程のあいだに当方が数理哲学についてあれこれ考えたことを纏めたもので、「総決算」とまではとても言えないものの、「第一次中間報告」的な仕上がりになっていて、内容にはある程度の自信がありました。特に「断章・数理哲学ノート I」はそうした性格が強く、ぜひ多くの方に読んでいただいて、いろいろなご意見・ご批判を頂戴したいと思っております。
 例会参加者はうらQ氏、深草君、当方の三名と少なめでしたが、うらQ氏は数理哲学にご関心のある方ということで、発表内容をすんなり理解していただけましたし、レジュメも最後まで読み切ることが出来ました。有意義な討論が出来て、当方としては満足しております。

    ○

 翌日の22日は第6回奈良哲学道場で、根暗氏ほか(当方を含め)四人で、恒例の永井先生のマン哲(『マンガは哲学する』)を検討しながら、例によって本筋がどこなのか分からない乱れ飛ぶ議論を楽しんで来ました。

 議論終了時点のホワイトボードの様子
 http://www.ilp-project.net/storage/img20110524b.png

 今週末の関東開催には、当方は参加しません。次は第1回大阪哲学道場(6月5日、新規開催!)に参加して来る予定にしています。

 哲学道場
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/

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2011年4月 7日 (木)

【小論】 「正しさ」の“身躰性”について

 ここにある部族が存在して、その部族の人々は、「証明」という概念にわれわれとは少し違った意味合いを与えている、と仮定してみよう。すなわち、その部族の人々は、ある対象 c と c から連続する 99 個の対象との、どれもが述語 F を充たすことを『証明』可能なとき、c から連続するすべての対象 x に関して F(x) が成立することを『証明』できる(というか、前者それ自体が後者の『証明』である)、と考えるのである。通常の推論法則に加え、こうしたルールをも許す場合、例えば、1 と 1 から連続する 99 個の自然数とのそれぞれ(要するに 1~100)に関して、約数の個数が 13 以下となるのは『証明』可能である。それは、単に各 n の約数を列挙すれば示される。このことから、この部族の人々は、「“従って”、(1 から連続する)すべての自然数の約数の個数は 13 以下である」と結論付ける。
 如上の推論法則を用いて彼らが『証明』済みとした全称命題は、われわれの基準に照らし合わせてみれば、たまたま「正しい」命題のこともあるが、常に「正しい」わけではない。例えば 192 の約数の個数は 14 であり、上の全称命題の反例である。しかし、この反例をその部族の人々に示したとしても、彼らは自分たちの『証明』概念が誤りを含んでいたとは考えないだろう。彼らの次の世代の人々は、恐らくもっとわれわれの用法に近い意味合いで「証明」という言葉を使いはじめ、自分たちより前の世代が理解していた『証明』の概念を、ただ因襲的なものだとして却けるとしても、いまの世代の部族の人々にとっては、反例の存在は『証明』概念の不備などではありえない。それはそう、彼らには多分「理解不能な(人智を超えた)出来事」であるに留まるのだ。われわれにおいても、この種の出来事は現に存在している。例えば、世界の存立という出来事に関してその原因を問うてみるとき、われわれの認識を規定する『因果』のカテゴリーは、それを「神秘的だが事実そうである出来事」として把握する外ない。そして、われわれの子孫が将来にわたってそうした『因果』概念を保持し続けるかどうかは、われわれの関知するところではない。彼らが進化論的な長い時間を経過したある未来、現生人類の認識能力では神秘的出来事としか取り扱えないこのことを、彼らはただ「自分たちの祖先が利用していた因襲的な『因果』概念の不備」と言って済ますかも知れないのだ。彼らがそこに認めるのはありふれた「誤り」の類型でしかなく、われわれの眺める「神秘」の姿を彼らが見出すことはないに違いない。
 一般に、形式的体系に関する超数学的考察の場面では、命題(論理式)の「正しさ」という考えは意味論的なもの(モデル理論)と統辞論的なもの(証明論)とに分かたれる。そして、このような場面においてであれば、先の部族の人々も、自分たちの『証明』とは異なる「証明」の可能性、複数の「証明」の定義が併立する可能性を、単にトリヴィアルな指摘の一種として承認するに違いない。しかし、そうしたときも、彼らの実行する超数学的考察そのものは、彼らの『証明』の立場に立って進められざるをえないのである(彼らはペアノ算術を考察して、ゲーデル数の小さい方から 100 個の文命題にいずれも証明か反証の存在することを示して、ペアノ算術は完全であると結論するかも知れない)。これは「メタ言語」の話ではなく、“「メタ言語」を可能にするもの”の話である(かの部族の人々も、勿論「メタ言語」というツールを理解し使用することができるだろう)。ここで重要なことは、客観的には区別可能であるかに思われる二種類の「正しさ」(「意味論的真偽」と「統辞論的証明可能性」)が、ある水準においては一致せざるをえない、ということである。すなわち、「定理」であることがそのまま「真」であることを保証しうる地点が、どこかで確保されていなければならない。これは、「正しさ」の“身躰性”としての「証明」を考える、ということである。「真」が「証明」を“受肉”できるという事実は、じっさい信じがたいほどの奇蹟であるとぼくには思われる。
 従って、「証明」とは、本当は、公理からある形式的な手順に則して定理を導出してゆくこと“ではない”のだ。それは、端的に「真である出来事」が認識に“与えられる=創り出される”という直截的経験である。しかし、しんじつ奇蹟的なのは、そうして「真なる命題」が創出されたとき、それが“たまたま”客観的行為として、ある形式的な手順に則したということへ読み換える“こともできる”、ということである。勿論、この関係が成立しないこともありえた(しかし、それが「ありえた」ことにはどんな意味があるのだろうか?)。なぜなら、本来“証明すること”は“ある形式的な手順に則すこと”ではなく、それの形式的手順への翻訳が成功したのは単に偶然だからである。尤も、われわれの「証明」に関する形而上学が「形式的手順に翻訳可能であること」に依拠して成立している可能性 [註1] はある(それはかなり確からしい。「チャーチ=チューリングの提唱」がこのことを示唆する)。先の部族の例においても、彼らの『証明』概念はある形式的ルールに従って構成されていて、その形式的ルールを介して彼らの『証明』はわれわれに理解可能なものとなることができた。その想定はだから必然的であるが、別の見方をすれば「そうでないこともありえた」と言える。しかし、われわれの形而上学の外部に「証明=真理の身躰性」を想定するとき、「証明する」とはいったい何をすることなのか、われわれには理解することができないのである。そもそも、それは再び「証明」という言葉で呼ぶことを許されるのだろうか? もし許されるとすれば、それは「真理が身躰性を所有するのは必然的である」という、われわれの信念に由来するのだろうか? そうだとすると、新たに別の形而上学が、すなわち「身躰性の形而上学」が、われわれの眼前に立ち現れて来るのかも知れない。と同時に、それを論究することは広く一般世界学上の基礎的課題であり、数学的証明の意味を論ずることから出発したこの短文は、いったん筆を擱くこととなる [註2]。

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[註0] 文中の“ダブル・クォーテーション”は、適切な文書フォーマットにおいて傍点表記されることを意図したものである。
[註1] 第3回哲学道場駒込での筆者発表「奇蹟と偶然――来るべき世界学のための序曲」参照のこと。本稿全体が、該発表で予告された「世界階層の理論(theory of world's hierarchy)」の、数理哲学に関する具体的試論としての意味を帯びているとも言える。
[註2] 余談であるが、本稿を草した切っかけは、「“完全な証明”とは何か」と考えたことだった。数学上の著名な定理に関して「誰々が証明したが、その証明は不完全だった」などと言われることがある。しかし、その時代において、その証明が“実は完全な証明だった”ということは、丸切りありえない話でもない、と考えたのである。

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2011年3月 6日 (日)

告知 20110306

 第55回京都哲学道場(3月19日)は当方の発表です。テーマは「レーヴェンハイム=スコーレムの定理――パトナムによる形而上学的実在論批判」で、以下の論文などを纏めて発表する予定です。

 津留竜馬「パトナムのモデル理論的議論と水槽の中の脳」
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110002534264
 中村正利「レーヴェンハイム=スコーレムの定理とその哲学的問題」
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000557208

 翌日は第04回奈良哲学道場で、当日までに発表希望者が現れないときは、永井均『マンガは哲学する』の第4章をテーマに討論が実施されます。両日とも、参加者を募集中です。
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/

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 本日のお昼、Twitter 上で necratallo 氏他と倫理学に関する議論をしていました。発端は、当方の以下の呟きです。

 『よく相手の主張に批判を加えてから憤る人がいて、批判そのものは正しいと思うのだが、なぜ憤るのか全然分からないことがある。憤りたいのなら、わざわざ批判などせず最初から憤っておけばいいのに、と思ってしまう』
 『これは結構興味ぶかい話で、要するに、相手の主張が論理的な誤りを含んでいることから、相手に対して憤ってよいということは、論理的には導けない、ということだ。それなら、なぜ相手の主張を論理的に批判する必要があるのだろうか。ただ「気に入らない」という理由で、好きに憤ればいいのではないか』

 続きはまとめをお読み下さい。

 「「論理」は「感情」を“正当化”するか」
 http://togetter.com/li/108662

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2011年2月 6日 (日)

京都哲学道場紀要/他

 最近の活動について纏めておきます。
 以下、「n枚」とあるのは、すべて原稿用紙換算です。

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 まず、『京都哲学道場紀要』第一号(企画・編集: hiropon氏)が完成しました!
 とりあえずはPDF出版ということになり、哲学道場公式サイト上にアップロードされています。
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/files/kiyoh_kyoto01.pdf

 執筆陣は以下の四名です。

- 坂田正幸 <哲学道場駒込主宰>
- 谷口一平(当方) <公式サイト アップデート担当者>
- 深草周 <哲学道場世話役; 京都哲学道場主宰>
- 土田久作 <特別寄稿>

 当方は「睡りのない夢――文学の第一法則について」という仰々しいタイトルで、短い文学論(8枚)を寄稿しております。是非お読み下さい。

 なお、著者責任で誤植を一点指摘しておきます。
 第1段落15行目: 「成し遂せるせる」→「成し遂せる」

 執筆時点(昨年11月)から少し時間が経過したので、読みなおしてみると、いろいろ気づく点がありますね。一点だけ註記を加えておきます。
 <註記>
 「夢のなかで、誰かがぼくに話しかける。ぼくが誰かに話しかけるのではない」というのは、「無意識」について述べたものだと解釈してよい。夢のなかの発話は「無意識」から「意識」への呼びかけであり、目覚めているときの発話は「意識」から「無意識」への呼びかけである、というのが、ぼくの言おうとしていた内容である。ぼくの言葉では、前者を「予感論=多意味の審級」と、後者を「文体論=無意味の審級」と、それぞれ表現する。従って、「言語が可能となるためには、言語の外部からその存立を支えるものが、例えば逆説としての夢が、不可欠なのかも分からない」という件りは、「意識を可能にするものとしての無意識」を主張したものであり、「文学」は「無意識における創造行為」あるいは「無意識を黙示する形而上学」として定式化される。以上は、最近読んだ美学哲学の論文に多少影響されての補説である。

 【哲学道場

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 それから、以前にも告知しましたが、昨年12月5日に発行された、松平耕一氏主宰の批評系同人誌『新文学03』に、レヴューを7本寄稿させていただいております。折角なので、情報を纏めて再宣伝しておきます。
 当方の寄稿は特集「このコンテンツがエグい!」に対してのもので、すべてがネットカルチャー部門に含まれます。「星野しずるの犬猿短歌」のみ、2,400字の拡大枠にして貰いました。レヴューしたコンテンツ(作品)の一覧を以下に掲示します。

- 「東方紅魔郷Ultraモード 2周目突入」(1枚)
- 「古明地こいしのドキドキ大冒険」(1枚)
- 「炉心融解(Hard-R.K.mix)」(1枚)
- 「イラストタグ「オナホ妖精」」(1枚)
- 「ゆめにっき」(1枚)
- 「ジャッカル」(1枚)
- 「星野しずるの犬猿短歌」(7枚)

 なお、「古明地こいしのドキドキ大冒険」の選択にさいしては、深草周氏の助言によるところ大きく、またレヴュー内容に関しても、氏との検討が大変参考になりました。ここに謝意を表します。
 「星野しずるの犬猿短歌」論に関しては、特に補説の必要はありませんが、少し永井哲学らしく内容を要約しておけば、星野しずる論の名を藉りて、戦後短歌史における〈キリスト〉としての塚本邦雄を描き出した、というところです。鋭い人なら、これで読まずとも内容が分かるでしょう。本気で短歌に取り組んでおられる歌人の方には度しがたい評論と映るかも知れませんが、これはある一面の構造を抜き出して論じたものであり、そのかぎりでは戦後短歌史の一面の真理だと思っています。

 文芸空間社『新文学03』の取り扱い情報は、以下に纏めてあるようです。
 http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html
 「とらのあな」通販も始まっています。
 http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0010/25/20/040010252010.html

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 後は、Togetter の情報でも纏めておきます。
 当方は、一年ほど前から Twitter を利用しておりますが、Twitter 上での議論を Togetter というサイトを使って保存しておくことができます。以下は当方が纏めた Togetter の一覧です。

 【当方の個人ページ

 §哲学
- 「深夜のTL:永井均・東浩紀・時間・道徳・グノーシス」(2010/5/15)
- 「正しい日本語的な何か、あと永井哲学とか」(2010/6/1)
- 「【哲学】意識・存在・文体・表現・論理」(2010/10/14)
 §差別論
- 「反‐差別論:“差別”は実在しない!」(2010/6/17)
 §その他
- 「「東方地霊殿」の解釈ゲーム」(2010/4/29)
- 「市民に開かれた哲学とは何か:哲学カフェ VS 哲学道場」(2010/6/10)

 以上。

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2011年2月 4日 (金)

せかいはこんなふうにできている

 ……らしいです。
 http://www.ilp-project.net/storage/img20110203.png

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 ということで、前回の日記の件は、とりあえず納得しました。お世話をおかけしました。

 尤も、何故教科書にこの程度の図が掲載されていないのか、その不親切さの点は、依然として不満なのですが。モデル理論に関しては、まだ全然よく分かっていないです。図に間違いがありましたらご指摘下さい。

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«メモ:自然数論の完全性・健全性