2009年12月14日 (月)

雑記 20091214

 二十歳になりました。TANI_Ro^hei です。

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 Twitter 始めました。
 http://twitter.com/Taroupho
 http://twilog.org/Taroupho

 mixi と pixiv をはてしなく放置中ですが、Twitter に移行する気は特にないです。ほかにも放置中の作業がいろいろありますが、辞めたと宣言するまでは辞めてません(でなかったら、いまごろぼくは文士とか名乗っていません)。開店休業は開店中です。

    ○

 スタディユニオンさんのウェブサイトを制作するということで、経費がおりて Illustrator を購入してもらいました。そういうわけで、現在いくつかのウェブサイト作成計画が進行中で忙しいです。スタディユニオンさんは無料ですが、これからは一応お金取る感じでやってゆきたいと考えております。お知り合いは格安でやりますので、お仕事あったらくださいませ(XHTML+CSS でクロスブラウザ仕様、W3C Markup Validator を通るぐらいのものは作れます。JavaScript プログラミングや CGI の設置もできます)。
 実現可能性はあまりないですが、株式会社作ろうかナーなどと画策中です。

    ○

 最近読んだ本はブログをみてください。最近の呟きは Twitter をみてください。ああ、これは日記と呼べるのだろうか……。

 二十歳になったことが信じられません。生まれたことも、まだ死んでいないことも、同じぐらい信じられないけど。
 最近、人と話すことが本当にどうでもよくなってきました。ぼくは過去に三度、新人賞に応募したことがありますが、一回は小説で一回は詩、一回は短歌とまるでバラバラです。たまに魔術に興味がありますが、たまに数学に興味があり、たまにパズルの話をしますし、たまにウェブ制作系の技術を勉強しています。あと哲学が好きです。一体ぼくが誰であるのか、みなさんに分かるように弁明しないといけないのかも知れません。
 でも、その弁明をする気力が、どうしてもおこらないのです。まとめて説明してほしいと言われたら、ぼくは「文士」だと答えます。そして文士というのは、文学作品を書く人のことではなく、文士としての生き方をする人のことです。だからぼくの人生自体が文士です。ぼくが自分にただひとつだけ、ストーリーを与えてよいのなら、ぼくはこのようなストーリーを制作します。ほかに何も作りたくありません。

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2009年10月27日 (火)

ゲーデルの不完全性定理

I1   I2

 第39回京都哲学道場(10月25日)のレジュメをアップしておきます。

◆第39回京都哲学道場「ゲーデルの不完全性定理」レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39.pdf
◆イラスト:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39i.pdf

 イラストの解説は本文にないので、簡単な説明だけしておきます。

 【図1】
 形式的体系の文命題は、最初の記号(主演算子)が「~」(否定)であるものの集合(否定文集合)とないものの集合(肯定文集合)との、かならずどちらかに含まれる。どちらの集合も可算無限集合なので、まず肯定文集合の文命題に A1, A2, A3, …と番号をふることができて、これらおのおのを否定することで、~A1, ~A2, ~A3, …と否定文集合の文命題にも番号をふれる。図では、上平面に肯定文集合の文命題を、下平面に否定文集合の文命題を整列させている。
 対応する文命題同士に青線を引いている。ある文命題に対する証明図が存在する場合、その文命題のところに青いダイヤ記号を置くことにする。このとき、形式的体系が不完全であるとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれていないような青線が存在することであり、形式的体系が矛盾するとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれているような青線が存在することである。このように、不完全性と矛盾性とは対照的な概念である。

 【図2】
 図中の「数学」は「形式的体系」と同義。数学(小円)に対する超数学的分析が、再び数学(中円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第1不完全性定理。第1不完全性定理の超数学的分析が、みたび数学(大円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第2不完全性定理。超数学の審級は、どんな場合でも数学の背後から働いて意味の領野を支えている。

 実は、上でアップしたレジュメは「数学篇」で、第II部として「哲学篇」も執筆するつもりだったのですが、ちょうどゲーデルの原論文に I と書いてありながら II が存在しないのと同様、力尽きて哲学篇を書くことはできませんでした。書いたところで解説するのは無理だったと思うけど。あまりにも内容が豊富なので、議論するまえに理解を共有すべき点が多すぎるのです。結果、宣告通り「討論」というより「講義」という感じになってしまい、それが成功だったか失敗だったかというと、……少なくとも成功ではなかったと思うな。
 以下、不完全性定理についての覚え書。

○ゲーデルの不完全性定理は、人間理性の限界を示したものなどでは全然ない。こういう誤解はただのミスリーディングなのであって、数学の術語であるところの「不完全性」を、日常言語における「不完全性」と混同しているだけである。このことを、次の事実が端的に示している。

「矛盾している体系は完全である」
「自己の無矛盾性証明が可能な体系はかならず矛盾している」

 つまり、数学は完全である必要もないし、自己の無矛盾性証明が可能である必要もない。だから、数学が不完全であり、無矛盾性証明ができなかったとしても、それは数学の限界などでは全然ないのである。

○では、ゲーデルの不完全性定理にはどんな哲学的価値もないか。そんなことはない。ぼくが考えるに、ゲーデルの不完全性定理というのは、「意味を言葉(形式)にするとはどういうことか」という、言語哲学の全域にわたる、このうえないアポリアそのものなのである。「自然言語における数学」の構造が「形式的言語における数学」の構造に投射されるとは、どういうことなのか、ぼくには全く意味が分からない。なにしろ、自然言語における数学とは、形式化されざる数学なのだから、形式化されざるものに構造などある筈がないではないか。そもそも自然言語の数学と形式的言語の数学とは比較不可能な筈であり、比較不可能なもの同士が同一の構造を有しているとか、ある構造を反映しているとか言われても、それがどういうことなのかぼくには理解できない。
 自然言語と形式的言語の関係は、意味と言葉の関係である。自然言語における数学的意味が、形式的言語の内部で言葉として形式化される。ところが、形式的言語は自然言語を完全に表現することはできなかった。このことが不完全性定理の示したことである。

 意味→言葉=意味→言葉=意味→言葉=意味→……

 この無限背進(超越論的階梯)は、事柄の本質を隠蔽している。すなわち、この系列のどの項にも本当の〈意味〉は登場してこない、ということをである。〈超数学〉は、常に背後から働き、意味の領野の全体を支配している。このような〈超数学〉が、その一端すら形式化されることは遂になかった。そういうことなのだろう。つまり、あらゆる数学はもともと形式的だった。自然言語と形式的言語の関係は、ある形式とある形式とのかかわり合いにすぎなかった。〈意味〉は、常にすでに背景に退いてしまっている。だからこそ、比較が可能になっていたのだ。
 〈数学〉とは絶対的な壺である。その壺は、二人の人間が向き合ったものとして眺められることは「決して」ない、そのような「壺でしかありえない」壺が〈数学〉である。

○ところで、記号列のゲーデル数化とは、記号列を自然数に単射する操作のことだった。また、ゲーデルの対角化定理は、対角線論法という自然数論の技術を使っている(対角線論法がどの程度「自然数論」的なのかはちょっと謎だが)。そして、自然数論を含む体系は自然数論を利用して、自己を表現することが可能となる。いったい自然数とは何なのだろう。
 ぼくにはかなり驚きだったのだが、形式的体系の論理式は可算個しかないのだという(ゲーデル数化が可能なのだから)。ちなみに、一般帰納函数の個数も可算個しかなく、チャーチ‐チューリングの提唱によると、それは計算可能函数と一致する。また、表現可能性とも一致するそうな(「この論理式は証明可能である」という自然言語の文は、原始帰納的にプログラミングすることができなかったので、表現可能ではなかった)。
 この可算無限の空恐ろしさ。

 関係ないですが、去る10月12日に開催された、第3回京都数学研究会のレジュメも、折角なので張るだけ張っておきます。
 http://www.ilp-project.net/storage/kms003.pdf

 以上。

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2009年10月 6日 (火)

不完全性定理の雑記

 ゲーデルの不完全性定理の入門書である、前原昭二『数学基礎論入門』を読了したので、なんとか読めるだろうと思って、ゲーデルの原論文(岩波文庫『不完全性定理』)に手を出している。この本、紙幅の殆んどが解説で占められているという凄い本。しかも数学的解説ではなく歴史的解説なので、本文を読むのには何の役にも立たないというオマケつき。
 しかし、さすがは時代がかった数学論文。読みにくいことこのうえない。50ページほどしかない本文の、すでに15ページほど読み進めているというのに、いまだ無限の崖の前で立ち尽くしているような、この絶望的な気分といったらどうだろう!

 ついでながら誤植発見。p.29 の上から 15 行め。

【正】ψ(\X, \V)=εx[x≦φ(\X) & R(x, \V)]
【誤】ψ(\X, \V)=εx[x≦φ(\X) & R(\X, \V)]
※但し、ドイツ文字は X→\X、V→\V としている。

 英訳でも確認してみたので、多分間違いないと思う。
 http://www.research.ibm.com/people/h/hirzel/papers/canon00-goedel.pdf

 というか、直前の二式からも明らかであるし、そうでなかったら式の意味が通らなくなる。とはいえ、そんなことは理解してから言えることであって、こんなくだらない誤植に一日悩まされてしまったぼくとしては、絶望感に拍車をかけないでくださいと言いたい。
 今月25日の京都哲学道場までに、レジュメを作らないといけないのだけど。それまでに読めるだろうか。読めたとして、なにをどう纏めたらいいのだろうか。とりあえず、定理解説篇と哲学篇とにでも分けて、それぞれ作業を進めてゆくしかないかも知れない。

 ああ、この鬱憤は、ゲーデル的脱構築とかほざいてる哲学徒どもを完膚なきまでに批判することで晴らすことにしましょうかw

【2009/11/6 追記】 訳者サイトに訂正があるのを発見。
http://www.shayashi.jp/vitae-jp.html#iwanamibunkocorrections

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2009年9月28日 (月)

雑記 20090927

 よく考えてみたら ilp-project.net のドメインと容量 1.2GB のウェブスペースを所有しているにもかかわらず、全然使ってないや。というわけで、当面せめてもオンラインストレージとして利用することにします。

 土曜日は深草君と数学研究会でした。とりあえず、過去2回分のレジュメをアップ。

◆第1回京都数学研究会レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/kms001.pdf

◆第2回京都数学研究会レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/kms002.pdf

 殆んどの方には何の有用性もないようなことしか書いてないので、アップする意味があるのかどうか分かりませんが……。

 それと折角だから、花映塚のリプレイファイルでもアップしてみよう。

◆LunaticCOM にきわどく競り勝ったの:
http://www.ilp-project.net/storage/th09rep.zip
【内容】霊夢vs幽花、霊夢vsてゐ、魔理沙vs幽花、霊夢vs小町、霊夢vsメルラン

 なんてか、大変残念な感じの詰め合わせになっております。まだ見られる動きになっているのは、……小町戦ぐらい?(いやそれも充分ひどいが)。メルラン戦はあまりにひどかったので、さっき撮りなおしました(それでもまだまだひどいが)。

    ○

 あと、Mitaka 凄いです。やたらに重いけど。
 http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/

 今年は世界天文年らしいですね。

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2009年9月24日 (木)

全歌論は全歌論にあらず

 『寺山修司全歌論集』(沖積舎)を所有しているが、寺山歌論の最重要論文である筈の「短歌における私性の問題」(★)が収録されていない。せっかく読めると思って購入したのに、なかったものだから、とてもがっくり来た。つい先日、『寺山修司短歌論集』(国文社)が出版されたので、こちらもチェックしてみたのだが、やはり収録されていない。おかしいなあと思っていた。
 ところが、ふとしたことから知ったのだが、寺山の評論集『遊撃とその誇り』(三一書房)に、ちゃあんと収録されているのである。とりあえず、どの本を購入すれば読めるのか分かったので、文句はないのだが、それにしても、どうしてこんな変なことになっているのだか。版権の関係であろうか。

(★)精確なタイトルは失念。資料が手許にないのでうろ覚えだが、たしか前衛短歌論争として有名な三論争の内で、寺山修司‐嶋岡晨の「様式論争」の立役者を演じた論文だった筈。

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