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2008年9月29日 (月)

競馬となのはの雑記

 某友人のススメで競馬を始めることにした。ちょうど寺山修司の競馬エッセイ(こないだの本は読み了えて、いまは『馬敗れて草原あり』)を読んでいるところだから、タイミングがいい。とりあえず基礎知識と、簡単な予想方法を教えてもらった。
 まずはイメージトレーニングということで、土曜の4回阪神5日の内、二レースを、一レースあたり千円と仮定してやってみることになった。ぼくの配分は以下。

[1R]

9 トップカミング
11 セキサンダンスイン
馬連:300円

3 アマノシーザー
単勝:700円

[9R 西脇特別]

14 ヨクバリ
16 クリーン
馬連:400円

2 ダノンマッハ
6 エスポワールシチー
馬連:400円

14 ヨクバリ
単勝:200円

 結果、ビギナーズラックもなんにもなく惨敗。1Rは、トップカミングが勝ったのだがセキサンダンスインは6着。西脇特別は、追い込みと先行の二通りの展開で予想してみたのだが、エスポワールシチーとクリーンの複合できた(いや考えりゃ当然の話なんだけど)。
 せっかくなので、日曜の4回阪神6日もひとりでやってみた。何事も練習。

[5R]

3 ダンスシェイカー
12 アマノスパイダー
馬連:300円
ワイド:200円

5 ホッコーマスコット
単勝:100円

18 ハマノオラトリオ
単勝:100円

1 テイエムマイサクラ
15 メイショウオバナ
ワイド:300円

[10R 神戸新聞杯]

1 ディープスカイ
単勝:800円

4 ヤマニンリュバン
単勝:100円

9 ナムラクレセント
単勝:100円

 5Rはやたらひねった買い方をしてみたものの、テイエムマイサクラが勝っただけで、やはり惨敗。神戸新聞杯はディープスカイが勝ったので1600円もどってくるわけだが、1番人気のGI馬の単勝に突っ込んだだけだからなんとも。
 まあ、マイナスが減ったのでよかったけど、まだまだイメトレでも厳しそうです。

      ×      ×      ×

 魔法少女リリカルなのはの無印とA'sを(youtubeで)全話視終わった。魔法少女モノが好きなのです、カードキャプターさくらとか邪道魔法少女シリーズとか、あとプリキュアとかも含めて。
 なのはの魅力はやはり戦闘シーンにあると思うし、それを措いてはありえない。基本的にかっこいい魔方陣とか大迫力の魔砲攻撃とかが好きだ。それとは別なファクターとして、各作品が魔法というものを理論的にいかに扱っているかという点にも興味がある。なのはの場合であればコンピュータ・プログラムに擬した(ある意味では『ああっ女神さまっ』以来の伝統的な?)解釈をとっている。魔法があってその解析があるというのは、古来からの召喚魔術(霊的存在を呼び出して使う)の考え方にはない新らしい(そして魅力的な)立場だろう。そこでは霊的存在もまた、技術によって解体され構成されることが可能なのだ。でも、原子論的ではない。エネルギー(魔力の場)とプログラム(式を打つ)の二元論だ。はてさて、魔術も大衆化が進んでいる?
 それはそれとして、ちょっとA'sの脚本の出来に感動してしまった。さすがシリーズ最高傑作の呼び声高いだけのことはある。物語は序盤から、敵味方に割り切れない、複雑に交錯する意志の中で展開し、キャラクターの役どころを見事に配置することで、加速度的かつドラマチックな終盤を演出することに成功している。当然、主人公の有する個的な意味も、物語のなりゆきと深くかかわりながら、大きな対立軸を演出してゆく。終盤の、観念的で象徴的な情景描写(たとえば「闇の書」完成のシーン)も、その描き出す絶望や喪失によって物語に神話的亢揚をもたらしてくれる。
 脚本自体がひとつの魔法だね。魔法とは、世界(物語)をデザインする力であって、それはだから演出力であり煽情力だ。魔法を使うためには、魔法がいかにして構成されているのかを知ることが必要だ。物語に秘められた術式を解析し、闇の書の意志がスターライトブレイカーを撃ったように、それを自分のものにすること。あるいはそんなところから始めてみたい。

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2008年9月25日 (木)

『新現代詩』第5号、読書記録

 本日、参加している同人『新現代詩』の第5号が手許に届きました。2008年9月秋号、特集は「抒情/うた」で、龍書房刊、156頁のA5版です。ぼくは斐青映士名義で『卒業』という詩を掲載しています(2頁追加の4頁分)。まあ、実はネットで読めるようにもしてあるんですけど。いつものごとく何部か剰ってますので、連絡いただければ格安でおゆずりします。

 それにしても今号、いかにもぼくは空気読めてない感じがします。4頁分を、最小のフォントを使って、殆ど改行のないベタ書きで埋め尽くした纏綿体のぼくの詩は、一見しただけでまわりの頁から浮いていますし、読めば読むほどさらに浮いている気がします。抑もそも、アメリカでもあるまいに、9月に卒業の詩を載せている時点で空気読めてないのは分かりきってることなんですが。
 でももう、空気読むのは辞めることにしました。空気を読んで一つ事をじっくり成すより、空気を読まないでたくさんの事々を放射状に掻きまわしてゆく方が、よほど効率的だと気づいたからです。ぼくと関係する方々は、これからもさまざまな迷惑をこうむってゆくと思いますが、気になさらないでください、ぼくは気にしませんから。

      ×      ×     ×

 読書記録。最近読了した本は以下の7冊。

◆宇賀田為吉『タバコの歴史』(岩波新書)
 煙草文化史の碩学、宇賀多医学博士が著した喫煙史通説書の白眉。新書でありながら、国内にこれだけ文献を渉猟し、事こまかに記された喫煙史の本がかつてあっただろうか。たいへん面白くためになる、次代に喫煙を志そうとする者はすべからく読んでおくべき名著。
 一書は、紀元後最初の百年間におけるマヤ族の喫煙より、大空白時代を経てコロンブスが喫煙習俗を発見してより、新世界から旧世界にもたらされた煙草がまたたくまに世界を席捲してゆく様子を、感情を排した綿密な考証と深い知見とをもって描き出している。よくあるたぐいの、プカプカ紙巻をふかしながら読むような「煙草こぼれ話集」では決してない。この書を読むとき、われわれは襟を正して、紫煙の語りかける歴史に耳をすます必要があるだろう。
 世界史的な視点から煙草の伝播(いかにして地球を一周したか)を論じているが、日本伝来についても他章の数倍の紙幅を費やして論じており、われわれ日本人が読むための煙草史としてもバランスがいい。どの国でも、伝来するやいなや喫煙に席捲され、いかなる禁令をも形骸化させられる、煙草の魔性がよく理解される。惜しむらくは、内容がかなり高度であるため、煙草学の専門家むけのトピックが多く、初めて煙草史に触れるような一般人が読んだ場合、重箱の隅をつつくような議論に多少飽きがきてしまうことである。

◆筒井賢治『グノーシス 古代キリスト教の<異端思想>』(講談社選書メチエ)
 グノーシスについて、おもに紀元二世紀に焦点をあてて論じた書。読みやすい本ではあるが、かなり高度な内容にまで触れている。グノーシスを代表する三派、ウァレンティノス派・バシレイデース派・マルキオン派それぞれの学説を、ナグ・ハマディ文書などの新らしい研究成果を採り入れながら、深いところまで立ち入って紹介している。筆者の主張とそれに基づく各章の構成も、しっかりしていてゆらがない。
 しかし、この本が面白いのは、この本が筒井賢治という著者の本として著されたという事実以前に、まずグノーシスそのものが、とてつもなく面白いからである。ウァレンティノス派の、まるでミステリのように構築された厳密な神話体系。バシレイデース派の、「存在しない神」と「上方展開」を中心にした、アクロバティックなグノーシス思想。それからマルキオン派の、異邦の神からもたらされる神話なき救済。どれをとっても、非常にゆたかな物語の種を孕んでおり、深い思索の海に、この異端思想を学ぶ者たちをいざなってゆくようである。各派の思想の詳細は、ミステリでいうところのネタバレになってしまうから、あまり書きたくない。ぜひとも一度、本書を手にとられることをお奨めする。

◆折原一『遭難者』(実業之日本社)
 コンセプト・ミステリの駄作。読んで損した。
 本作は、ある登山家の追悼集を模した二冊子が函入りになっており、本物の追悼集のようなかなり凝った作りこみになっている。白馬岳周辺の地図や登山家本人の写真(誰?)などが随所に掲載され、母親の手記、事故報告書、死亡届、告別式の弔辞などから、重層的に物語が展開される。この、追悼集だけから成立するミステリというコンセプトは、ミステリ読みなら垂涎のものだろう。でも、それだけである。
 まず、リアリティがない。ミステリを成立させるために、多少追悼集からリアリティが奪われるのは仕方のないことだろうが、それにしてもひどすぎる。折原は叙述トリックを書かせるとかなりの才覚を示すが、文体なんてどこ吹く風のひどい文ベタで、その下手さ加減が本作では白日のもとにさらされている。誰が書いたという設定の文章を読んでも同じ文体で、しかもリアリティがないという意味においても同じだから救われない。いま小島烏水の山岳紀行文集を併読しているが、あまりの落差に情けなくなってくる。そもそもこんな、ひたすら自分が死んだときの山行きについてだけ書きまくられ、他の山行きの思い出がいっさいないような追悼集を、ぼくだったら絶対に作って欲しくない。
 それから、トリックがなくてカタルシスもない。リアリティのなさのせいで雰囲気すら楽しめないのに、トリックひとつなくて救われどころがない。コンセプト・ミステリをコンセプトだけしかない状態で書いたらこうなるという、よい見本だろう。恩田陸の短編集『象と耳鳴り』に、手紙だけで物語が進行する短篇があるが、あっちの方が数百倍面白い。

◆竹本健治『狂い壁 狂い窓』(角川文庫)
 刮目せよっ、これぞミステリ。鬼才、竹本健治の大傑作!
 本作は、あとがきによると、かの名作『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』の水脈につらなる、狂気三部作の掉尾を飾るものであるようだ。以前より名作の噂高く、ときどき探してはいたのだが手軽に入手することができなかった。ちょっと前にノベルスで復刊されたようだが、それとは別に古書肆で見つけ、読むことができた。
 ストーリーは六つの挿話より語りおこされ、樹影荘の住人たちに次から次へと襲いかかる怪異を軸に、複雑な展開を見せる。冒頭の挿話は、それだけで短篇の幻想小説として成り立ってしまうほど完成度が高く、それが物語と重層的に絡み合ってくるのだから、まさに竹本健治の面目躍如、世のミステリファンをして踊り狂わせる筆さばきといえよう。通奏低音をなすのは、神経症的不安と分裂病的恐怖との竹本健治的結合としか表現しようのない、独特の世界様式である。それは、現実を一瞬にしてひっくりかえし、遠いノスタルジィと現在的な分離不安とを融通無碍に飛びめぐる、観念のめくるめく建築を形作る。しかも、ホラーと見せかけてアクロバティックにミステリ的着地を決めてくるから、もうなんとも、けなしようがない。
★以下ちょっとネタバレ的な話★
 244頁で明かされる、くだんの言葉の真相には、ちょっと笑った。
 それから、作中ではいっさい言及されていないが、六組の住人の名字はある法則にしたがっており、そこからひとりの例外を探せば、作中で誰が探偵役にまわるかはおのずと明きらかだと思う。

◆下村努/ジョン・マーコフ『テイクダウン 上』(徳間書店)
◆下村努/ジョン・マーコフ『テイクダウン 下』(徳間書店)

 副題は「若き天才日本人学者VS超大物ハッカー」とつけられている。アメリカで実際にあったハッキング事件をテーマに、情報セキュリティの専門家;下村努が犯人であるケビン・ミトニックを追いつめてゆく経過を描いたノンフィクション。
 期待していたほどには面白くなかった。少なくとも二巻本で読みたいと思わせるにはちょっと残念な内容。帯は「究極のインターネット戦争」だの「今世紀最大のミステリー」だのと煽ってくるが、そんなに大した話ではない。頭脳戦というには地道すぎる。IPスプーフィングの手口を見破ったところがスリリングといえばスリリングだが、そうなると頭がいいのは下村ではなくケビンの方だ。「トム・クランシーとコナン・ドイルが合作しなければ、このような作品は書けない」とあるが、コナン・ドイルにこれだけ地味な作品を書かせるには、トム・クランシーとやらがよっぽど面白くない小説を書く必要があるだろう。
 作者の天才自慢は、巷間にいわれるほどには鼻につかなかったが、ジュリア・メナペースとの恋愛沙汰を削除して、この本を一巻本にして欲しいとはつくづく思った。

◆中沢新一『雪片曲線論』(中公文庫)
 前の日記を参照のこと。

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2008年9月22日 (月)

ポスト構造主義は何の役に立つのか考えてみた。全裸で。

おお人類が無知であるのは、
見よ、たかだか哲学道場が月に一度の開催であるからにすぎぬ。
                  ……タニ・ローヘイ(1989‐没年不詳)

      ×      ×      ×

 戯言は扨措き、先日の長崎哲学道場の話。
 此間は、参戦者が二人しかいなかったこともあり中沢派にまわる者がおらず、そういう場合は発表者がダミーで「手の内の者」を演じることが多いのだが、あいにくぼくは、ダミーでそれをやりたいと思えるほどにも中沢のよい読者ではなかったようだ。そういうわけで、論戦は成立しなかった。かわりに、中沢新一をも含めたニューアカ(ポスト構造主義)について、包括的な意見のやりとりがなされた。
 ニューアカは、フランス現代思想という言葉で括るのは的を得ていないし、ポストモダン思想とよんでも悪くない気はするけれど、やはりポスト構造主義として括るのが、暴力的ではあれそこそこな分類だと思う。親分格の浅田彰の流儀がポスト構造主義だから。で、崎山氏はニューアカ全体を以下のように批判した。
 ニューアカ的な言説・批評というものは、あるひとりの哲学者・あるひとつの対象についての議論を、批判・再解釈(要は脱-構築)することによって成り立っている。これはつまり、おおもととなる対象を一次資料とするなら、その一次資料に対する二次資料を資料として、自分の批評を組み立てていることになる。図式化するとこうだ。

[対象:一次資料]←[A:二次資料]
                ←[B:三次資料]←[C:四次資料]……

 この[B]以下が、ニューアカの人々の言説にあたる。これは一次資料に対しての言説として、学問的厳密性をたもてているのだろうか。もし「あなたの議論は対象を正しくとらえていない」と反論されても、「この文章は二次資料について書かれたものだから対象とは関係ない、ゆえに対象を正しくとらえていなくてもかまわない」と自説を擁護できる。しかし、そこには対象に対しての議論のつみかさねがなく、ちっとも建設的に機能しないので、有用性もなく発展もない。それは、唯の空疎な妄言に過ぎないのではないか? というわけだ。
 これに対してぼくは、もちろん二次資料から言説を組み立てることには必然性があると答える。それは、一般にニューアカの人々の思考法が、対象の存在を消去するものだから、あるいは、まさに対象の存在が消去されるということをめぐって展開される言説だからである。

[抹消された対象] ←[A]←[B]←[C]←……

 すると崎山氏は、ではニューアカの人々は時間軸についてどう考えているのだろうと言う。つまり、ニューアカの人々でも時間が存在することは認めるだろう。そして、時間が存在する以上は、[対象]より後に[A]が、その後に[B]が書かれるという先後関係は、換言すれば[対象]が[A]を規定し、その[A]が[B]を規定するという規定関係は、動かないだろう。ならば、[対象]についての意見は[A]の方が[B]より信用できるし、その時間的な関係が[対象]の原典性(オリジナリティー)を保証するのではないか、ということだ。
 ぼくは、いやそんなことはない、ある対象についての言説はニューアカ的思考法ではシミュラークル(事件)の関係に入るので、そこでは[B]が[A]のシミュラークルであるということと、[A]が[B]のシミュラークルであるということとは、区別がつかないのだと述べる。[A]、[B]、[C]と、次々に増殖してゆくテクストは、すべてが表象であり実体性はなく、その躍動する力の場だかテクストの快楽だかが言説の到達可能な一切なのだ。
 でも時間的な先後関係はあるんでしょ、と崎山氏。そこで、ぼくは少し図を修正することにする。東浩紀が『存在論的、郵便的』で「デリダの特殊性は、エクリチュールのゆらぎを、間テクスト空間への溶解としてとらえるのではなく、ネットワークの不完全性の問題として考えたところにある」というよーな雰囲気のことを言っていたが、要はそういうこと。[対象]は存在するけどアクセス不能なの。

[対象]←×××―[A]←[B]←[C]←……

 まあこの図式が妥当なものだと仮定して、本当にアクセスが不能なのかどうか崎山氏の共同主観性説と少し対立するも、どうどうめぐりなことが分かっているので対立はお流れ。で、どっちにしたところで、ニューアカの人々の思考法は、現実の[対象]はもとより現実の[A]や[B]や以下略に対して、自分でイデアールな[A']や[B']や以下略を立て、その脳内王国で

……[A']―[B']―[C']……

 という等質空間を作りあげてから、その[A']とか[B']とかを批評するものだ、という意見で一致した。だからこそ時間の先後関係もないシミュラークルみたいな考え方も出てくるのだ。脳内王国成立時点(現在)に[A'][B']以下略すべてが属するのだから、同時に現前するのは当然である。

      ×      ×      ×

 で、ポスト構造主義って何の役に立つの?

 議題はニューアカ(ポスト構造主義)の遺産に移る。ポスト構造主義は何を遺したのだろうか。そして、ポスト構造主義は何かの役に立つのだろうか。崎山氏は実用説(理論が役に立てば立つほど真理に近いとする考え方)をとっているので、こういう話の流れになるのは必然である。
 手始めに学問的な遺産について考えてみる。二人無言。はい、いっさいゼロですね、なんにもないですね。困ったものです。脱-構築派の差別論とか読みたくもないしな。
 せいぜい挙げられるのが、大きな意味での文芸批評の分野くらい。それにしたって薄っぺらで面白くない。というのは、批評の相手が表象(脳内王国のイデアールな対象)なので、質量はかぎりなく無に近い。重みがまったくない。ここで「テクストを読むっていうのは、いかに華麗にテクストから深い読みを截り出してくるか、そのアクロバティックさを競う芸なんだ。つまり剣道の演舞みたいなものさ」というわが先輩の言を想い出すものの、ニューアカとその後継者の奴らはそんなことすら考えてねぇ。彼らにとって「テクストを読む」という行為は目的じゃなく手段だからだ。彼らは、テクストを読むことを通して、まさに「対象へのアクセス不能性」だの「表象しか存在しないシミュラークルの世界」だのを描き出してみたいだけだからだ。だから、どの論者も同じことしか言っていない。適用をちょっと変えただけだ。実は作品に対してなにかを言いたいのではないから、作品論としては面白くない。
 なんでメタに立つかなぁ。[A'][B'][C']の等質空間があることを分かっていても、そんなことを無視して唯の[D']であろうとすることは可能なはずだ。芸っていう軽いノリでも、のめりこんだ感じのイタいノリでも、なんでもいいけど、何も言わないよりは何か語っている方が面白い。それなのに彼らは、[D']を書くかわりに「実はこの文章にはダッシュがついてるんですよ。あ、他のテクストもみんなそうだけどね」と言って、それで終わり。サーカス観にきて、主催者が「ところでこのサーカスはとなりのサーカスとシミュラークルの関係にあるんですよ」とだけ言って、それで終演。え? サーカス本編? ハッ、っていうこのスタンス。
 だったら結局なんの役に立つんだろう。崎山氏と頭をひねらし、がんばって考えてみて、以下の二案を案出できた。

    【1】弁論術

 ポスト構造主義は弁論術に役に立つ。なかでも「煙に巻く」作戦部門の「梯子をのぼらせておいて上まで行ったらぶったおす」作戦に役に立つ。
 この術は、まず相手の意見を観念化するところからスタートする。相手が意見を述べたら、「その意見はまとめるとこういうことですね?」と、よく分からないまとめを提示して、相手の意見をイデアールに変形(ダッシュづけ)する。次に「その意見に対してこういう意見が考えられますね」と、観念化された相手の意見を土台に反論を提示してみる。「この反論に対してはさらにこのように反論できるでしょう」と、どんどん梯子をのぼらせる。とにかく速度が重要だ。相手に「でも……」とか言わせちゃダメだ。で、最後に「というわけで、あ、でも今のは全部表象で、実体とか関係ないですし、それじゃ」と蹴ったおす。
 まとめると「あなたの意見は××というわけで、それに対しては××という反論があって、それにはまた別に××という意見も考えられますが、それに対しても××と反論することはできて、だからあなたの意見は正しいと思ったかこんにゃろー!」ということになる。
 あれ、でもこれって要するに藁人形論法……。

    【2】ミステリ小説

 ポスト構造主義はミステリ小説を書くのに役に立つ。ここで[実体]とは殺人事件のことである。それに対してさまざまな推理が提出される。

[殺人事件]←[推理A]←[推理B]←[推理C]←……

 ところが、実は殺人事件は存在しなかったのである。われわれは、現実にはなかった架空の殺人事件について、あれこれ推理をめぐらせていただけだったのだ。

[抹消された殺人事件] ←[A]←[B]←[C]←……

 しかしデリダ探偵は、殺人事件は確かに存在したのだけれど、われわれは決して真相を知ることはできないのだという。そこでは、架空の殺人に対する架空の推理が戯れているだけで、だから犯人は登場人物であり作者であり同時に読者であって、よく分からないがアンチミステリが書けてしまう。

[殺人事件]←×××―[A]←[B]←[C]←……
  =(……[A']―[B']―[C']……)

 あれ、でもこれって要するに後期クイーン問題……。

    【結論】

 絶望したっ!! あまりに役に立たないポスト構造主義に絶望したっ!!

      ×      ×      ×

 いや、別にポスト構造主義についてバカにしたいわけではなくてですね、いやとりあえずバカにしてみたけど、それだけではなくてですね。ぼくはかなり迷っているわけです。たしかに芸としての文芸批評は軽いかもしれない、そりゃ島宇宙に閉じこもってるだけかもしれない、でもこな×かがで描きたいのなら欲望にまかせるべきで、そこでコミケ全体を批評してても仕方ないんだよな。
 たとえば、以前 hiropon 氏が京都哲学道場で唯物論の話をなさいましたけど、結局ぼくがそこから読みとれたのは、「唯物論‐観念論」という二元論を「真の唯物論=力の場」一元論に脱-構築する、というストーリーでしかなかった。そこで問題なのは、その論者が何が言いたいのかということ、つまり「真の唯物論こそ素晴らしい」と言いたいのか、それとも「このように、どんな理論も脱-構築されちゃうから理論なんかくだらないよね」と言いたいのかが分からない。ベタなのかメタなのか理解不能。中沢新一も同じ。オブジェクトレベルなのかメタレベルなのかが分からない。それを「クラインの壺だしオッケー」は不誠実だし、だったらひとりでクラインの壺を高速回転していればいい話で、何で批評にしたいのかが分からない。何で喋る気になれるのか分からない。ただメタの梯子をひたすら駈けてゆきたいんなら、それが「唯の相対論」とどう違うのかが分からなくなってくる。
 一方で、あらゆる構造に対して脱-構築が可能であるという認識は、殆ど自明なくらい正しくて、いろいろな対象にそれを適用してゆくことができる。だから、その認識が何かを言い当てているのは分かる。でも方法論が根本的に間違ってる気もする。
 ひいきのひきたおしだけど、というかポスト構造主義の文脈に登場する人ではないですが、永井均はちょっと違うとも思う。

      ×      ×      ×

 軍艦島、渡航したよ。

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2008年9月20日 (土)

第3回長崎哲学道場#レジュメ

 2008年9月20日(本日)、長崎市内のファミリーレストランで、第3回長崎哲学道場が開催された。参加者は崎山氏とぼくの二名。テーマは、たまたまブックオフで百円だったから読んでいた中沢新一の『雪片曲線論』。レジュメは、本文の内容にいっさいつけくわえる点のない単なる要約で、このレジュメを読むくらいだったら本文を読むべきだと思う。非常に読みやすく分かりやすい内容だったので、レジュメをまとめるに当たっては徹底的に二項対立図式に還元した。このような仕方は、しかしいかにも「建築的思考」の所産だね。二時間強、おもにポスト構造主義(ニューアカ)について討論が交わされた。

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〔2008.9.20〕長崎哲学道場No.3レジュメ/制作:TANI Ro^hei
◆中沢新一『雪片曲線論』を読む

≪中沢新一『雪片曲線論』(中公文庫、1988.7.10初版)の第Ⅰ部『雪片曲線論』の読書ノートまたはメモ≫

    §1 建築的思考と流体的思考

★建築的思考
同一性をもった不連続な単位としての事物(世界の素材)と、その生成変化の場としての空虚な空間とを原初的に想定し、その空虚な空間を舞台として、文法・法則を通じて事物が組み合わされ、配列されることで、人間にとって意味のある世界(象徴秩序)が成立する、という思考法。世界を実体性・構造性において把握しようとする。

★流体的思考
同一性のない、連続的な躍動する力に充たされた場として世界を把握し、あらゆる事物をたえまなく変様してゆくものとしてとらえる思考法。それは建築的思考の眼からは無秩序(カオス)として映るが、奔流する流れにみずから身を投じる(知性を自然化する)ことで、そこからジェネレーター(複雑性を生成する単純な原理)を見つけてゆくことができる。

★中観仏教と密教

<1> 静態的思考(静的な建築的思考)
世界は不変のカテゴリーの体系から成立しているという考え方。

<2> 弁証法的思考(動的な建築的思考)
世界を「静止‐動態」という対立が生成発展してゆくプロセスとしてとらえる考え方。単純な静止的構造として世界を切り出せないため、主語(静止)+動詞(動態)において世界を切り出してこようとする。

<3> 中観仏教的思考(合理論的な流体的思考)
上記二種の建築的思考を、無限変様の場であるありのままの世界「空」から目を背けるものとして、共に批判・解体する。言語的認識(弁証法的思考)の手前にある「空」に、直観を通して肯定的に踏み入ろうとする。

<4> 密教的思考(経験論的な流体的思考)
中観仏教的思考の自然主義化。静態的・弁証法的思考への理性的批判に飽きたらず、意識の流体的な場に直接おりたってゆくための技術知を探るプラグマティックな企て。意識の力の能産性から出発する内在性の哲学。

★空海における結合
密教の思想家;空海は、能書家、名文家、土木技術者でもあった。空海にみる建築的思考(A)と流体的思考(B)の結合。
◇書道
A: 意味を伝達する言語機能
B: 渦巻く墨痕による官能的な音楽性
◇名文
A: 明瞭に意味を伝えること
B: 視覚的音声的な音楽性
◇土木技術(流体力学)
A: 構造、秩序、幾何学的配分を扱うソリッド・システム
B: 流体への感覚や体験的知識を扱う流体モデル

    §2 アトミズムとクリナメン

★アトミズム
物体をそれ以上こまかく分割できないエレメント(原子)の組み合わせとして理解する思考。現代の、原子論を基軸とした自然科学的唯物論も、このかたくなな建築的思考を脱しえていない。

★クリナメン
古代の自然哲学者;ルクレティウスによるアトミズムの変形。原子を、物体を構成する基本単位としてとらえると同時に、原子には傾斜運動(クリナメン)という性質が内在しているとする。
傾斜運動とは、原子は運動中に、まったく不定の時点に、まったく不定の位置で、進路を少しそれ、運動が変化してゆく、という考え方。この性質がなければ、すべての原子は空間を一直線に下降するばかりで、衝突はなく、秩序が生成されることもない。

★カオス・コスモス・自己差異化運動

<1> カオス
カオス(無秩序)とは、すべての原子が直線運動しかせず、秩序が生成されない状態。実際には、世界には秩序が形成されており、クリナメンの運動性はカオスを破る。

<2> コスモス(建築的思考)
コスモス(秩序)とは、全体の目的因に沿って構成要素が整然と配列された世界。クリナメンの運動性は、その無目的的な不定運動によって、コスモス(建築的思考)からも逃れ去ってゆく。

<3> 自己差異化運動(流体的思考)
クリナメンの運動性は自己差異化運動である。その運動の、どんな微小な領域をとっても、そこには差異(ズレ)が孕まれており、どれだけ拡大しようともなめらかな運動にはならない。その軌跡はいたるところ微分不可能であり、流体モデルによってしかとらえられない。

    §3 平板な図形とフラクタル

★平板な図形
形式主義数学が前提とするような図形・曲線。細部を拡大してゆけばゆくほど曲線はなめらかになってゆき、最終的には直線と同一視される。このような曲線を基本として微分学は可能になる。

★フラクタル
形式主義数学をおびやかす図形・曲線。細部をどれだけ拡大していってもなめらかにはならず、いたるところが微分不可能である。クリナメンの運動性はフラクタルであり、流体モデル(渦巻き)もまたフラクタルである。フラクタルには最小の部分や構成要素はなく、どこまで拡大していっても自己相似なパターンが現れる。それは単純な原理(ジェネレーター)によって成立するが、建築的思考では把握不可能な複雑性をもつ。自然では、シダ植物や水流、空気の乱流など、いろいろな場面でフラクタルが発見される。

★形式主義数学への無限の侵入
自己矛盾なき完全な数学体系をうちたてようとした形式主義数学は、二方向からの無限の侵入により自己の限界を知ることになる。二方向とは、無限大と無限小である。
無限大とはカントールの集合論のことで、カントールは無限大を「超限数」として数学に導入した。だが、集合論はさまざまなパラドックスをも導き入れ、完全な数学体系をおびやかした。
無限小とはフラクタル幾何学のことで、これは気象理論や流体理論ともむすびつきながら、数学の分野に流体的思考を導入することに成功した。

    §4 非連続性の原理と連続性の原理

★非連続性の原理
知性は、これまで自然を「非連続性の原理」にしたがうものとして扱ってきた。目的論的思考は、自然を構造的=形態的な秩序をもつものとして把握し、意味の作用によって生の流れを言語的秩序に分断する。だが、このような建築的思考は、フラクタルである自然の細部をあえて無視し、知性を故意に抽象化したものである。

★連続性の原理
連続性の原理は「スケーリング」の思想によって表現される。顕微鏡をのぞきながらスケーリングを変化させてゆくと、世界は次々に新しい存在の連鎖(セリー)、異なる倍率からなる存在の束、フラクタルとして立ち現れてくる。それは単なる混乱ではなく、それぞれが水脈をもち、理法にしたがいながら有機的に関係している。世界は連続的だが平板ではない。

★間の思考
カオスとコスモスの間の薄膜を走ってゆくクリナメン、建築的思考と流体的思考を結合させる密教的な経験主義。世界の実相をとらえてゆくためには、知性に渦巻きを導き入れ、知性を流体化する、このような「間の思考」が必要とされている。フラクタルの導入によって数学が自然化されたように、われわれは自己の知性をフラクタル化・自然化し、流体モデルにしたがった新しい自然哲学を作ってゆく必要がある。

以上

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2008年9月12日 (金)

日記を書くー

 九月二十日(土)、第三回長崎哲学道場やります。発表者はぼくで、テーマは偶然読んでた中沢新一の『雪辺曲線論』。のんびりした内容だし、構図がはっきりしてるので纏めやすい。で、そんなこんななことをやりながら、月末までには帰京します。帰ったら某ゆい君と競馬の勉強をする予定。あと、某F草先生がまだ持ちこたえてたら FX の勉強とか。それから、また別の知人とヤフオクとかね。でも基本は、現在完璧に気が抜けてるので、英気をやしなわねばと思ってます。冬の間に一本長編小説が書けたらいいんだけど、こればっかりは分からないね。
 ヤフオクで福田和也『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』を落札。オライリーの『JavaScript』とか喜安亮介『スタイルシート ワークショップ』とか、ウェブ制作系の本をヤフオクで買おうとして、すぐに高値更新されたり入札を忘れたりしてましたが、ようやくヤフオクで物が買えました。それにしてもなんで石原莞爾。
 現在仕事がないので、職場では暇つぶしに JavaScript の勉強をしたりしています。JavaScript で迷路制作スクリプトを作ってみようとちょっと頑張ってみてますが、まず迷路を変化させる基本的な函数から html を操作するインターフェースを確立しないといけないし、次に函数を操って実際に迷路を作ってゆくアルゴリズムも考えないといけないし、なかなか難しいです。しかもインタプリタだから実行速度遅いしね。オブジェクト指向とかよく分からない、ぼくの脳内ではプログラミング言語はみんな手続き型言語。そういえば、拡張子を html→hta に変更するだけで、簡単にアプリケーションが作れちゃうみたいですね。
 そんなお仕事も明日で終わりです。あとは、左奥歯のクラウン(かぶせ物)の下が炎症おこしてるので歯医者行って、荷物まとめて色々な解約手続きして、と。水面下で計画してることもあるし。今日はとある事情で大変イライラしていた、というか激怒してたんですが、もうどうでもよくなりました。早く元気になれ自分。

 その他。

 あずまきよひこ『よつばと!』の8巻が出たみたいね。あと、ハナヤマのキャストパズルも新作きてるようじゃないですか。買い買い。
 http://www.torito.jp/

 同人誌募集してるみたいなんで『或』参号送ったろ。
 http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/20080728/1217249449

 へー、芦ヶ原伸之も会員だったのね。面白そうだから記念受験しようかな(しかし会員にウェブデザインできる人がいなかったのかw)。
 http://www.mensa.jp/

 二冊同人誌を買った。
 『月光』
 http://hudukiyumi.exblog.jp/8488816/
 『ゾ』
 http://www.geocities.jp/red_tail_ben/rt/c-magazine/main.htm
 同じ「同人誌」という言葉で括っていいのか、もはやよく分からない。

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2008年9月 6日 (土)

いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』

 いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』(91年新潮社刊)を読んだ。先週末に三割ほど読み、残りを今日、昼食に入ったマクドナルドで五時間半居座って読了。終盤はかなり亢奮して、ページを繰るのももどかしい感じだった。本当に凄い小説、そして小説らしい小説。こんな小説がたいして評価されてない(のかどうか知らないが、少なくとも現在絶版である)日本の文学環境に殺意を覚えたぐらい。

      <あらすじ>
 物語の舞台は、デゼール(砂漠)、またはムスリム・トーキョーと呼ばれる小さな町。売れない芸術家やミュージシャンが集まり、フェイクとドラッグが氾濫する二年間だけの計画都市に、ひとりの記憶喪失者が出現するところから、物語は始まる。謎の男はみるみる内に予言者として教祖に祀りあげられ、町では不良集団らを巻きこんで、信者と反対派の抗争がしだいに激化してゆく。主人公;恭一は、町の計画者;章平や、解体屋(洗脳外しの専門家);立原らと共に事態の収束を図ろうとするも、謎の男からは救世主であるとの予言がくだされ、宗団にも深くかかわってゆくのだが……。

 物語は初め、一見無宗教的な猥雑と欲望の巷、爛熟した現代都市においても、人々は人生の目的・渇きをいやす「救い」を心のどこかで求めており、そこからいかにして現代における宗教が発生してゆくか、を描いたものと読める。宗教は人生に意味を与える。宗教は、本来は虚無・混沌である筈の人生に対して目的を与え、贋物の安定を保障してくれる。人は安定を求めるものだから、そこから必然的に宗教が発生する。
 だが、物語はそう単純ではない。謎の男は意味どころではなく、むしろ徹底した無意味そのものである。男は記憶を喪失しており、発する言葉も理解不能であり、起源がなく、神という装置を担うには非常に不安定な機構である。ここで顛倒が起きる。人々は男と繋がり、男をそれぞれの形で意味づけしてゆくことによって、男と繋がった自らの存在をも意味づけしようとする。男はあまりにも虚無であり混沌であることによって、虚無や混沌の意味づけを、すなわち世界の意味づけを、彼に対する者ひとりひとりに求めてゆくのである。章平らにとって男は詐欺師であり、信者にとって男は予言者である。男は詐欺師=予言者であり、またそのどちらでもないような、すべてを呑みこむ涯しのない虚無である。男の前に立つとき、人々は無意識に意味を捏造してゆかざるをえない。そのようなプログラムのもと、男の存在は町を翻弄してゆく。
 けれども、そこで宗団が成立しうるということ自体が、まだこの意味づけ装置が、なんらかの形で人々をとりまとめられているということを示している。すなわち、男は虚無であるが、虚無であるがゆえにこそ崇拝されるという、顛倒した「神という装置」が、そこではまだ動き続けている。よく分からないが、東浩紀(ラカン)いわゆる「対象a」、つまり否定神学ってやつかもしれない。
 主人公;恭一が、男と相互干渉し、やがて男と同一化してゆくところが、この小説のもっとも面白いところだ。男は「今日から私が恭一だった」と言い、「いや、恭一の父だった。それとも恭一、お前が私の父か?」と言う。父とはエディプスによって殺されるべき神のことであり、恭一は神=虚無によって意味づけされる存在であると同時に、神=虚無そのものでもある。物語の最後、男は父(=恭一)の言葉によってもはや虚無ではない、ひとつの意味として凝固し、そのまま死ぬことで恭一とすりかわることに成功する。恭一はそこで、父=神=虚無である自分を発見し、そのような自分を担ってゆかざるをえない。終章の副題は「私を語る者はすでにいない」とつけられており、男(神)はもともと存在していなかったことになる。代わりに自分自身が虚無であり神であり、何者でもない恭一が、なんの意味もない恭一が、ただ立ち尽くすところで物語は終わっている。男の最後の予言は「どしゃ降りだった。前も後ろもわからないどしゃ降りだった。その中で、私を見つけ出す旅を始めなさい」というものであり、ここで「私」は、直後に行方をくらます男のことでありながら、同時に自分自身のことをも意味している。神は行方をくらました(神は死んだ)。次に見出されなければならないのは、もはや神ではなく、虚無としての自分自身なのである。

 とにかく面白いし、精神分析的な枠組みも絶妙な小説だった。自らの父であり子でもあることによって解体=建設の分裂病(無限の脱構築)を生きる謎の男を触媒として、主人公自身が自己を解体=構築の無限背進として生きるようになるという構図は、現代思想の文脈でも語れるんじゃないかな? おそらく著者は、かなりテーマについて意識的だと思う。『ノーライフキング』(最近文庫化されたね!)によって「ぼくらの新しいリアル」とその「生みの苦しみ」を描きあげた著者が、さらにこんな素晴らしい小説を書いていたとは。二冊一緒に読めたら死んでたよマジで。

 それにしても、世紀末的発想かもしれないけど(そしてもう世紀末は過ぎてしまったけど)、このごろ、いま人類は人類でないものに進化してゆこうとしているんじゃないかな、と思える。あらゆる既存のシステム、特に人類が人類たりうるような源初的システム(たとえば言語)自体が、重要な変革を遂げようとしているんじゃないだろうか。種としての人類がどんな生物(バケモノ)に変化しようとしているのか、それはぼくの理解を超えているけども。
 ああ、また「我らは時代の突端に立てり」とか、未来派みたいなことを言っちゃって……。

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2008年9月 1日 (月)

ないとめあ

 文学を志す少年少女たちが次々に殺されていった。事件の謎をとくため、日本中から集まったエリート文学少年(少女)であるぼくたちは競作小説を開始するが、魔手は刻一刻と迫り、仲間たちはどんどん物言わぬ死体に変わってゆく。事件の謎に肉薄していた筈の少女が八つ裂きにされて血の海にうかんだ時、次に殺されるのがぼくであることにぼくは気がついた。もはや興味本位ではいられない。殺人者は、これまで一度たりとも狙った獲物を逃したことはなく、また少しの時間も待つことをしらない。おそろしい怪力と怜悧な頭脳、そして残虐無比の精神を兼ねそなえたバケモノなのだ。決死の単独行に打って出たぼくは、とうとう事件の裏に、文学の裏社会で暴利をむさぼるハイエナども、闇文学ブローカーの存在があることを嗅ぎつけた。廃工場の二階、裸電球の点った管理室にて、闇文学の帝王と呼ばれる太った男と、彼の幇間である痩せぎすの男とが、今回の事件について喋り合っている。窃み聴きしていたぼくは、彼らが真犯人であるという充分な証拠をつかんだと思い、殺られる前に殺ってやると、ナイフをひるがえして躍りかかった。太った男の背中に、ぐさ、とナイフが突き立ち、男は「なにがノーリスク・ハイリターンや、このあんぽんたんが。こないな子犬に咬みつかれよってからに……」などと呟きながらくずおれる。続いて痩せぎすの男に馬乗りになったぼくは、躊躇なくナイフをふりあげる。男の瞳孔がきゅっと窄み、「え、なんで……」と呟くのをきいて、ぼくはぞっとした。この男は、なぜ自分が殺されるのか分かっていない。つまり、この男はこの連続殺人の犯人ではない! だとするともはや時間はない、事件はおそらくぼくの想像をはるかに超えている、そして次に死体になって転がるのは自分だ。ナイフは男の喉を刺しつらぬく。ぶひゅっ、っという声と共に、噴出した大量の血がぼくの頬を濡らす。その瞬間、ぼくはカミソリのような恐怖を覚えた。理解を超越した力の主が、文学をつかさどる破壊的なバケモノが、ぼくの背後で殺戮のひとみを見開いている。ぼくはふりかえ……

 という、ひさびさに最悪な悪夢を見て、午前四時くらいに飛びおき、しばらく寝られませんでした。前夜のぼくはかなりダウナーで、ひどい不安の中でもがくような状態だったので、脳が見かねてリフレッシュ装置を仕組んでくれたのかもしれません。あまりの恐怖に全部吹っ飛びました。
 ところで、こういうタイプの超越的な敵、一切の弱点がない絶対的な破壊者、といった存在は、ぼくの悪夢の中では非常によく出現します。姿も見えず、音も聴こえず、近づく者は一瞬にして灰に返される無形の悪魔。これが動物に仮託されると、熊か猿ということになって、ぼくは熊と猿とが非常に嫌いです。ライオンや虎はたいして怖くない。でも、熊というと人喰いのイメージしか思いうかばず、猿(特に類人猿やチンパンジー)には分裂病的な恐怖を感じます。小猿も醜いから好きではない。血に棲まう同族嫌悪的なものかもしれません。

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