他人の日記
京都に帰ってきました。
この土曜・日曜と、なんだかとても濃密な時間を過ごした気がする。それぞれの場がおのおのの毒を以って語りかけてきて、そのなかで浅瀬におぼれるように自己嫌悪と他者嫌悪のあいだを往復していた。
土曜日。午前9時半に京都競馬場で某君と待ち合わせ。京都4レースまでを観戦することができた。近ごろでは某君は、ぼくが予想した馬は当たらないというジンクスをえたらしく、ぼくと馬が被ったの被らないので一喜一憂していた。実際、ぼくは彼の競馬勘を「鬼やな」と思うし、自分には無理だと思う。かといって論理的にやろうとしても、ぼくの知らないところで血統理論だのパドック読みだのの非科学的なファクターが、幽霊のように暗躍して、結局ぼくを勝たせてくれないわけですね。ぼくは寺山修司みたいに、あいまいなものをあいまいなままで自分の糧とすることができない。
午後1時より、朝日カルチャーセンターで永井均の講座を受講。競馬で時間をオーバーしてしまったため十分遅れで入室し、一睡もしてないのが祟って中盤がかなり眠かった。終了後、講師控え室に十数人が集まって、軽い質疑が行われていました。ぼくが深草氏に「遅れる」と連絡を入れたので、がぜん崎山氏がヤル気になったらしく、各個人に対する一人称「私」と集団全体に対する一人称「私」が同じかどうかみたいな話を、かなり長く討論していました。崎山氏がなにか価値のある話をする可能性は皆無なので、ぼくはまったく聴いていませんでしたが、崎山ワタルが永井均と議論しているというその状況が面白かった。ただただ笑えた。
午後3時半ごろより、その場にいたお数方も来場し、9人という近来ではかなり大人数の盛況具合で、第29回京都哲学道場が開催。けっこうな混戦で、本当に戦争みたいだった。京哲史上もっとも白熱した議論だったかもしれない。ただ、いい意味で白熱していたわけではもちろんなかった。かといって、まったく無益な白熱でもなく、永井均の斜め上で白熱していたような感じ。京都哲学道場には、手を挙げてから喋るとか、相手の議論を遮らないとか、感情的にならないとか、そういう種類の無駄に建設的な縛りが設けられておらず(哲学とは建設的な営為ではない!)、そういうよさがある意味ではフルに生かされていた。ある意味ではちょっとうるさかった。しかし、そんな状況でも道場が機能できているのは、深草周という有能な進行役がいるのと、崎山ワタルという難攻不落の楯があるからで、このふたりがいなくなったら均衡は一気に崩れると思う。
日曜日。秋葉原。ルノアールという喫茶店で時間をつぶしてから、午前10時半ごろから文学フリマの開場を待つ列にならぶ。ゼロアカ道場だけブースが隔離されていたが、一般会場への入場を待つ列と、ゼロアカへの列とが同じくらいの人数になっていた。ゼロアカの購入を急ぐ必要があるとはまったく思えなかったので、ぼくは一般にならぶ。
文学フリマでは、15冊ほど同人誌を買った。ゼロアカでは、道場破り組の3冊と、門下生では形而上学女郎館・最終批評神話を購入。むしろ落としたいグループだけ買わなかった。その他購入したのは、評論誌や短歌誌など。みんなうっとりするくらい装幀とか製本とか凄いの。とくに短歌誌は、文学フリマで短歌って、なんだかとても楽しいというか、普通にアリな気がしてきた。老人の呟きをよせあつめたような現代日本の商業短歌市場でキャリアをもつくらいなら、文学フリマで短歌やる方がよっぽど信頼のおけるよい仕事だと思う(小説の場合なら商業市場の方が信頼できる)。本当に短歌って、一首ながめただけで善し悪しが量れてしまうからね。
そういえば、形而上学女郎館さんの同人誌ミシュランで、なぜか送りつけておいた『或』が三ツ星に輝いていた。まあ非常に光栄でありがたいことではあるのですが、毒舌でさんざん扱きおろされることを期待していたぼくとしては、なんとも微妙な話ではあるw
なんというかこの二日間、ぼくはいろんな場のなかにいて、どの場からも相手にされていないような気がしていました。それぞれの場のなかで、自分の立ち位置や人とのかかわり方について、ある軸を基に自己嫌悪と他者嫌悪を往復してしまうわけですが、その軸自体が次の場では脱構築されてしまって、そもそも意味をなさないようになる。だから、確かにどの場でも自己嫌悪していたと言うこともできるのだけれど、逆に言えばその自己嫌悪は「大したことのない自己嫌悪」でしかない。要するに、この二日間、ぼくは大したことのないことしかしていなかった。つまり、ぼくが訪れたどの場も、ぼくにとっては大して興味のある場ではなかった。
ぼくには自分の仕事がなんだか分かっている。べつだん泣きごとも言わない。誇る気もない。ただ、ぼくは世界中の誰に対しても「大したことのない人」でしかいられないだろうな、という気はする。そして、自分自身に対しては、非常に困難なことではあるが、「大したことのある人」になりうると思う。そしてぼくは、もはやあまり他人に関心をもちたいとは思えない。
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