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2008年12月18日 (木)

三次元的文章推敲術

 こないだ少し考えたのだが、文章推敲というものは三次元的な行為であって、平面的な文章推敲をしていたのではよい文章は書けないと思う。ここで三次元というのは、垂直展開→斜方展開→平行展開という、一連の繰りかえしのことである。

 まず原文がある。はじめに、原文を垂直展開する必要がある。垂直展開とは、文章中で使われているすべての単語を吟味し、それぞれの単語について言い換えの可能性を列挙してゆくこと。つまり、名詞「針」に対して「銀針」「絹針」「細釘」「五寸釘」「錐」などと、あるいは助詞「も」に対して「は」「が」「の」などと、ならべたてるのである。これは、謂わば「量の展開」であり、語彙力がためされることになるだろう。このようにして、まず原文から垂直に可能性をひらいてゆく。

 次に、垂直展開された文章を斜方展開してやる必要がある。おそらく、文章推敲が下手な人というのは、垂直展開→平行展開と飛んでいて、斜方展開することを忘れているのだろう。斜方展開は、よい文章を完成させるためにもっとも重要な段階である。
 斜方展開とは、あらたな言葉同士のむすびつきを発見すること。つまり、垂直展開された文章は、それぞれの単語について「A1、A2、A3……」「B1、B2、B3……」と、いくつかの可能性がひらかれているわけであるが、そこで「A については A2 が最上、B については B1 が最上」などと選択してよしとするのではなく、「A3 と B2 とはむすびつく可能性があるんじゃないか」と直観してゆくことが必要なのだ。もちろん、原文に A3 と B2 とを、そのまま埋めこんだのでは変な文章になってしまうかもしれない。しかし、原文を超えて、A3 と B2 とが幸福な結婚をはたせるような、あたらしい文章の可能性もひらかれているのである。
 ここで、言葉を介して文章の前提をなすイメージ(詩における詩想や、散文における場景そのもの)自体が自己発展してゆくことになる。つまり、A3 と B2 との幸福な結婚のために、詩想・場景の方が改変を迫られる。文体が、言葉を介してストーリーを改変するのである。この点にこそ、文章推敲の真の怖ろしさが存する。
 斜方展開において重要なのは、単語と単語をあらたなイメージを通してとらえる自由な発想、文体にいかに身を任せられるかという柔軟性だろう。

 さて、斜方展開を終えて、ようやく平行展開をする段になる。つまり、A3 と B2 とが組み合わさって、うまく生きてくるような文章を構文するのである。全体を再編成しつつ、完全な文章が読みおろされる。原文の構造は大胆に編みなおす必要がある。単語についても、A3 と B2 をつなぐにふさわしいあらたな単語が要請される。このようにして、原文と平行なもうひとつの文章が制作される。ここで必要になってくるのは、原文を完膚なきまでに破壊しても、いささかもたじろがない精神力、そしてなによりもやはり構文力というに尽きるだろう。

 以上、垂直展開→斜方展開→平行展開という段階を経て、原文はあたらしい完全な文へと推敲された。ただし、一回の推敲で、満足できる文章ができあがるとはかぎらない。状況に応じて、この三次元的文章推敲を、何度でも繰りかえすべきである。いくら推敲しても充分な文章にならないのなら、その文章はあきらめるべきだろう。短歌において、いくら推敲しても五・七・五・七・七の定形にぴったりこず、どうもこの詩想は短歌にふさわしくなかったのだろうという場合など、これに該当する。

 いったい短歌において、定形にぴったりくる詩想なんか、自然界に完全な円が存在しないのと同じように、そんなものあるわけがないのだ。それでも完全としか思われない短歌を詠むことができるのは、詩想がぴったりきているのではない、文体がぴったりきているわけである。ここで文体は詩想を凌駕する。
 文章推敲という文体的行為において、ストーリー自体が自己発展してゆくという構造、ぼくの関心はこの点にある。

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