雑記 20090322
報告。「新現代詩の会」を脱会いたしました。
とりあえず、破壊できるものからみんな破壊していって、残されたものだけを自分の呪いとして背負ってゆきたい、というのが現在の心境です。
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第1回哲学書ランキングの結果発表をしました。
ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
http://tetsugakudojo.web.fc2.com/rk0804_0809.html
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そのときどきに考えている内容が自律的にくっつきあって、変なことばかり思いついてしまうのは、どうにかならないものか。
稲垣足穂は「A感覚とV感覚」において、V(ヴァギナ)感覚とはA(アナル)感覚から派生したものにほかならず、P(ペニス)感覚とはV感覚がさらに反転したものにすぎないという、澁澤龍彦いわゆる「エロスの絶対的一元論」を打ち樹てた。すなわち、P感覚‐V感覚という常識的対立は、A感覚の一元論に解銷されるわけである。ここでA感覚こそ、あらゆる性感の基礎をなすのであり、それはP感覚とV感覚とをつなぐ「夢の懸橋」であると同時に、「宇宙的郷愁」から「精神性」への媒介をはたすことともなる。
「A感覚とV感覚」は、美学論「美のはかなさ」を下敷きにして書かれたものである。「美のはかなさ」はオスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』をタルホが読み、自己流にまとめた文章で、ハイデガー現象学を前提に、「歴史」と「人間的自然」との対立を、「美のはかなさ=超存在論的基礎緊張」が橋わたしするという構図になっている。つまり純粋持続的で尖端的な「美のはかなさ」が、「絶対なる矛盾を解決」(シェリング)するものであるというわけ。
ところで茂木健一郎が「プラトンの時代と現代とでは、実在するものが反対になっている。プラトンの時代はイデアこそ真の実在だったのに、現代ではイデアは仮象とみなされる」という意味のことを述べていたと、関東のエヌ氏よりうかがったのだが、奇遇にも、同様のことが「美のはかなさ」に書かれてあった。いわく「プラトーンにあってはイデーは本質的に真実なものであり、生成界は単なる見せかけである。現時の哲学者らにあっては反対に、『規範』が単にイデー的なのであり、流動の生のみが現実である」云々。まあもちろん、これはたんに時宜にかなった話というだけのことであるけども。
で、「美のはかなさ」が「A感覚」と等置される。タルホがそう主張したことがあるかどうか、ぼくには分からないが、そう読むのは順当だと思われる。ここで、浅田彰『構造と力』における、構造‐力の二元論の、力の一元論への脱構築を思い出してもよいのだが(そして多分、こちらの方が正しい読み方だろうが)、話を辿るとハイデガーなわけで、あえて永井均を導入してみるのもよい。つまり「言語的世界」と〈私〉との対立を、美がとりもつと考えるのである。というか、そう考えてみないことには、ぼくには自分が文章を書く理由が分からなくなってしまう。絶対的矛盾を解決するものとして芸術(変性感覚?)がある、という方向でこれから考えてみることも無益じゃないだろう。
ところで再び脱線しますが、ぼくは永井先生の日記で「変性感覚」という言葉を目にして、勝手に「分裂病的感覚」と読み換えていた。というのは、分裂病者は世界に二重定位(複式簿記)するといわれている。つまり、一方ではわれわれの住む言語的世界にぞくしていながら、他方、われわれの理解のまったく及ばない世界(言語ゲームの外)にも生きているということ。われわれが分裂病者を理解する場合は、一方的に、われわれの世界の側からしか、理解することができない。このさい、分裂病は「不安」として立ち現れてくるわけである。……でも、そうだとすると、分裂病的感覚を小説が描けないというのはおかしな話で、ぼくが小説に期待するのは、まさにそういった分裂病的感覚であるわけだし、内田百間の茫洋たる夢幻空間にも、稲垣足穂のコスモロジーにも、それは見出せると思う。これは、言語に乗らない筈の〈私〉をどうして言葉で論じることが可能なのか、という話でもあるのだろう。
本筋にもどるとして。そういうわけで、「美のはかなさ」が対立をより高次に統一する、という論旨になっているのだけれど、これはさすがに牽強付会といわれても仕方ないが、ユダヤ教神秘主義のカッバーラ体系と、おもしろい符合をみつけることができた。カッバーラ体系では「セフィロト=生命の樹」が独自の理論的展開を遂げたのであるが、アイン・ソフ(無限)からの六番目の流出であるセフィラ、ティファレトは、日本語では「美」ないし「崇高」などと訳出される。このティファレトは、四番目の流出であるケセド(慈悲)と、五番目の流出であるゲブラー(力)との対立を統一する役割を担っている。のみならず、ティファレトは「生命の樹」の中心となるセフィラでもあり、その右半分(陽)と左半分(陰)とを中央において調和させる役割すら担っているのである。このセフィラが「美」と呼ばれていることは、なかなか興味ぶかい話ではないだろうか。占星術的には「月」の象徴になるのだが、アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、ティファレトにはタロット・カード(小アルカナ)の四枚の六が対応すると述べており、それは「太陽」を象徴すると同時に、テトラグラマトンの体系ではイエス・キリストの表現だとも言っている。月であると共に太陽でもあり、陰と陽とを併せもつ。なおさらに、マルクトの女性原理に対し、ティファレトは男性原理を意味するともいう。すると、タルホが主張するA感覚とは、アナルセックス、つまり少年愛(ベエデフィリアエロティカ)をも意味しているわけだから、男性にはじまり男性に終わる少年愛=A感覚が、ティファレト=美に対応するという、見事な図式ができあがるではないか!
さすがに穿ちすぎだろうか……。
まあこんなように、しっちゃかめっちゃかなことが次々思いつかれて困っているのです。
(追記)
ごめんなさい、ちょっと勘違いしてました。
ティファレトが「月」の象徴になると書いてましたが、そういう事実はなかったです。正しくは、ケテル‐ティファレト間のパス(ギメル)が、タロット・カード(大アルカナ)で女教皇に相当するので、こちらが月ですね。あとはネツァク‐マルクト間のパス(クォフ)が大アルカナ「月」に相当するのと、十番目のセフィラ、マルクトが、月の象徴になっているらしいです。
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