京哲34#レポート
◆第34回京都哲学道場(2009年4月4日)
◆参加者:itikun、コーゾー、さかた、深草周。
前半は、深草君が切り出した「ゾンビとビンゾの話」をめぐって、雑談、というかレジュメなしの議論がスタートした。深草君いわく、永井ワールドにぞくしている人しか来ていないということで、こういうなりゆきになったものだろう。
深草君の立脚している議論を、ぼくは知らないから、なんとも言えないが、ゾンビの逆としてのビンゾを考える場合、ぼくはゾンビもビンゾも現実性(アクチュアリティ)のレヴェルで考えている。つまり、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
という意味でのゾンビと、これに対する、
「私はビンゾであり、他人はビンゾではない」
という意味でのビンゾとを、考えている。もしここで、入不二的に「ビンゾ」と「ゾンビ」を置換してみるなら、「私はゾンビであり、他人はゾンビではない」ということになるだろう。
で、深草君は実在性(リアリティ)のレヴェルでゾンビの議論をやりたいということだったが、ごめんなさい、深草君の「ゾンビ」がどういう意味でのものなのか、ぼくにはちょっと分からなかった。他者の内に「心」なる存在を各人が立てることを承認する立場、というのは、どういうことになるのかな。それは機能主義のことなのかしら。そうではないの?
それはともかく、肉体(って、どこまでが肉体?)のないゾンビと、〈私〉のないビンゾとでは、違う気がするということをぼくは述べました。現実性のレヴェルでは、ゾンビとは「〈私〉ではない=〈私〉がない」という意味だけど、ゾンビに定義上許された私秘性は、そのまま残ってもよい筈だ、と思ったので。つまり肉体は存在せず、私秘性だけを有する、認識不可能な存在。というか、構成概念としての一般的な意味における「魂」って、そういうものではないかな。これに対して〈私〉のないビンゾには、なにも残らないと思う。深草君が言いたかった違いは、この違いではないのだと思うけどね。
そんなこんなで議論が紛糾し、三時前後の休憩を入れて、ようやくレジュメの発表ということになりました。ただでさえ内容が濃かったのに、急いだので、「客観的客観性の客観性が主観的客観性の主観性を間主観的に客観的客観化する!」などと機関銃みたいに喋ってしまった。参加者のみなさま、すみません。
このたびの発表で、ぼくが特に主張したかったのは、以下の二点。
○非科学的なものというのは、「主観的客観性の科学」という意味では科学的なのであり、競馬においてリアルな利益を生むために、それはなくてはならないものである。
○それら一切を凌駕する「超越的非科学」を考えることが可能であり、それこそがアクチュアルな利益を生みおとす当のものなのである。
超越的非科学の説明は、レジュメでは不充分だったので、咄嗟に以下の考え方を案出し、説明に利用した。
「いまここで、コップを手にとり、手をはなす。コップは落下するかもしれないし、落下しないかもしれない。あらゆる科学的説明を凌駕して、只今この瞬間、なぜだかコップが落下しないということは、どこまでも可能でなくてはならない。コップを手にとる。コップから手をはなす。コップは落下する。なぜだかコップが落下しないということがどこまでも可能だったにもかかわらず、只今この瞬間、〈なぜだか〉コップは落下した。いまここでコップが落下するかしないかは、実在的な内実からは全く束縛されていないことなので、コップが落下するということはひとつの〈奇蹟〉である。すなわち、ぼくに〈ツキ〉があったから、コップが落下したのだといえる。このような〈ツキ〉のことを、超越的非科学という。しかし、コップが落下したということは、いままさに実在的な事実となってしまったから、この実在的な事実を実在的に考えるかぎり、それは科学に回収されうることであり、科学的法則という物語によって、ならびたつ実験のなかのとある実験として、コップの落下という実験が行なわれたのだとみなされる」
しかしどうなんだ。ぼくはとんでもないことを言っていやしまいか。つまりアクチュアルな〈ツキ〉が、リアルな「科学」を現に生み出してゆく、とぼくは言っているのだ。永井にそくして言い換えるなら、アクチュアルな〈私〉が、リアルな「世界内的な存在者」に干与し、変化を生じさせてゆく、と言っているのだ。しかも、このレジュメでぼくが一番考えたかったのは、アクチュアルとリアルという二分法は本当に正しいのか、この二分法は錯覚なのではないかということだった(もちろん結論を出してはいない)。
しかしこれはヤバい。科学の産出運動における生成力こそがアクチュアリティであるとぼくは論じたが、めちゃくちゃ危ないことをぼくは言っている。深草君の指摘の通り、科学が存在する可能世界(アクチュアルでない世界)を考えることができるし、その世界の住人も、科学の生成力とはアクチュアリティである、と主張することができるからだ。じっさいには、その世界はアクチュアルでないにもかかわらず! アクチュアリティを内実にからめてしまうと、アクチュアリティとリアリティとを分離した議論ができなくなってしまう。そのうえ時間的にも、科学とは有史以来、営々と織りなされてきたものである。それを、独今論的なアクチュアリティにおいて主張してしまおうとは。それは(語りうるかどうかは措いておくとして)可能な立論なのか? それともなにか別の構造に、永井哲学自体を頽落させてしまっているのか? よく分からない。
〈ツキ〉が〈私〉と違う点は、〈私〉とはただの現実性であるのに対し、〈ツキ〉とは予測的態度における現実性であり、それだからまさに現実性を物語に賭けわたすものでもあるということ。つまり自由意志の問題圏にかかわっている。自由と不自由との両面性が、あるポイントにおいて統一されなくてはならない。その統一はどうやって可能になるのか。
深草君は、これを「超越論的神と、存在者としてのキリストとの、統一というアポリア」に定式化してみせてくれた。この定式化は正しいと思った。しかしここで、別口の難点が登場してくる。つまり「神」と〈開闢の神〉とは違う(そしてぼくが問題にしたい統一は後者である)にもかかわらず、それがキリスト教の宗旨論争と同一の構図になっているというのは、どういうことなのか。というか、これを同一の構図だと考えてしまってよいのか。
少なくともどちらも超越論的である。そして、超越論的であるということが、同一の構図をみちびいてきているようにも思える。しかし、ぼくは超越論性を統一したいわけではない! ぼくはアクチュアリティとリアリティとを統一したいのだ。
……逆に考えて、そもそも超越論性というのは、そんなどこにでもかしこにでも登場してくるものなのか、という疑いがおこる。超越論性が問題になるのは、それがなんらかの意味で〈私〉と関係している場合にかぎるのであって、〈私〉と無関係にキリスト教だの物自体だのという場面で超越論性が出てくるのは、たんなる錯覚、気のせいなのではないか、というふうにも思える。つまり永井哲学以外での超越論性の全否定。うっひゃー。
もう全然、哲学道場とは関係のない話をしますが、このごろぼくは、超越論的文学は可能か? ということを考えている。
マンガの主人公は死なない。すなわち、主人公以外の登場人物については、生と死との対立を考えることができるが、主人公についてはこの対立は存在しない。つまり、主人公は超越論的「生」を所有している。ぼくが大好きなマンガ『修羅の門』は、このことが作品内でも追究されている。つまり、主人公である陸奥九十九にとって、「戦い」とは常に生死を賭けて行なわれるものである。ここでは「生‐死」「強い‐弱い」「勝つ‐負ける」という通常では独立の対立軸が、すべて重ね合わされている。「勝ったのなら強くないことはありえず、強いのなら勝たないことはありえない」というわけだ。九十九は超越論的に「強い」。だがそれは、九十九が〈死〉を賭けているからこそである。
ところで、ぼくをマンガの主人公だと考えてみよう。ぼくが登場するマンガは、文学をテーマにしたマンガである。ぼく以外の登場人物にとっては「文学である‐文学でない」という対立を考えることができるが、ぼくは超越論的に文学者なので、ぼくについてはこの対立は存在しない。ぼくは超越論的「文学」を所有している。すなわち「ぼくがなしたことなら文学でないことはありえず、文学でないのならぼくがなしたことではありえない」というわけ。
こんなことは本当に可能なことなのだろうか。少なくともこれまで、ぼくはそのようにして生きてきた。あらゆる認識が可能になる条件として、ア・プリオリにぼくは文学者だったし、たとえ小説を書いていようがいまいが、ぼくは「文学している」のだった。
このような文学を〈文学〉と表記するとして、話は〈ツキ〉の場合とまったくおなじ帰結をもたらす。すなわち、〈文学〉は〈私〉とは違っている。〈私〉がたんなる現実性であるのに対し、〈文学〉とは態度的現実性であり、それは現に、ぼくに小説を書かしめるものであり、あるいは小説を書くという予測的態度にぼくを置こうとするものである。すなわち、〈文学〉はアクチュアルである一方、リアルな世界内的事実に変化を与えるものである。ここでもまた、アクチュアリティとリアリティとの統一が問題になってくる。
いったい、ぼくが超越論的文学者であることは可能なのか。そして〈文学〉を「小説」へと賭けわたす〈オッズ〉とは何か。これからじっくり考えてゆきたい。
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