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2009年4月28日 (火)

読書、言語障碍、夢。

 http://d.hatena.ne.jp/TaniR/
 深草君にすすめられて、書評のアフィリブログをはじめてみました。「はてダがアツい!」とこれまた深草君が言うもんだから、はてなダイアリーで。ブログタイトルの「反批評」はイコール「書評」という、ただそれだけ。あまり本気で文章を書いてないので、よほどおもしろい記事が書けたとき以外、こちらに転載するつもりはありません。

 五月二日の、永井均先生の京都講座に出席予定。

 いまは、ボヤーッと短篇小説を書きながら、倉橋由美子全作品の第一巻と、ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、それから森絵都『永遠の出口』を併読中。三年そこら、まともな小説を書いていないと、少しリハビリが要るようで、哲学や批評なんかの本は抑え気味にして、これからは物語の本を中心に読書してゆきたいと思います。

 書きたいものはいっぱいあるんだけどな。短篇、長篇、いろいろアイデアがあるし、評論も詩も短歌もあるし、このごろライトノベルの原案も思いついたのだけれど、まず文章のリハビリをしてゆかないと。
 人間どうして、こうもタイミングが合わないものなんでしょう。中学三年だったころの小説は、いまから読みかえしてみると殆んど言語障碍で、いかにも浅はかなことしか考えてなかった。どうにかこうにか、なんとか読める文章が書けるようになってきて、知識もちょっとは増えて、文学論みたいなことまで言い出せる現在になってみると、あの当時の狂おしいほどの熱情と妄執とが、涸渇しかけている。それを、だましだまし小説に充当しながら、書いてゆかなくてはならないようになってる。

 化物。

 人間は、大人になることで、自意識という化物を飼い出すのです。そんなもの、小説にとっては、不純物でしかないのに。ぼくが小説にあったらいいなと思うのは、殺意、それだけ。純粋な殺意は、個人に向けられるほど卑小なものではないので、神とか、世界とか、そういうものにしか向けられっこないのです。

 ところで、倉橋由美子を読んでいると、もちろん「反世界」とか、気になるテーマもあるのだけれど、なにより文章がうまいことには驚かされる。ぼくが、倉橋とおなじくらい文章のうまい作家として、思いつけるのは、内田百間ぐらいだろうか。
 初期の三島由紀夫、たとえば「花ざかりの森」における三島などは、殆んど言語障碍じみていると、ある先輩が言っていて、ぼくもその通りだと思う。私見では、初期の澁澤龍彦も、かなり言語障碍じみていると思う。もちろん、三島も澁澤も名文家である。
 「愛する」を「あいする」と平仮名にひらいたりする倉橋も、実はけっこう言語障碍っぽいところがある。じっさい言語障碍になりかけの文章を書いていたぼくが、どこか自分に近しい、言葉への苦しみを感じてしまうのである。書評ブログでも書いたが、現に言語障碍だったという高橋源一郎の文章からも、書き流されているようでいて、ものすごい言葉への執着が伝わってくるのである。
 バカと天才は紙一重というけれども、言語障碍と名文こそ紙一重のものなのかもしれない。少なくとも、そういう、いやがおうにも言葉に向き合わされ、吐いて、呑まされて、また吐いて、というような辛く苦しい経験をしたことがない人には、名文は書けないような気がするのです。

 夢。
 この門をくぐる者、一切の自伝を殺害せよ。

 あーあ。
 くだらない、おもしろくない、つまらない。思い入れが激しすぎるので、もうどんなことにも興味を向けないようにしようと、自分で予防線を張っていたら、世界はとてもとても灰色になってしまった。傷つくのはめんどうだし、関心のない人とつきあうのはうんざりだし、人から命令されるのはごめんだし、人の視線は気になるし(歌詞みたいだね)。
 失意しかない。
 初めての経験をして、あたらしい世界がぼくを迎え入れるということはない。あたらしいことをはじめても、人と出会っても、なにもかもが事前の予想通りで、予想通りに退屈で、思い出すのは小学生時分のことなんかで。
 ぼくは、間違って厨二病にかかってしまったりしたけど、本当は小二病患者なんだろうね。

 文体は常に二重性を孕んでいて、一方でそれは文体の構成要素へと分析されるとともに、他方、生存のリズムともいうべきものを刻んでもいる。

 存在の手触り?

 さあね。

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2009年4月14日 (火)

無意味の意味/意味の無意味

 この文章を書いていて、ひさしぶりに、なんだか本当の意味で「哲学したなあ」という気分になりました。

      ○〈高階の脳〉は変容できるか

 意識は脳の作り出したものである、と考えてみる。脳というのは物理的存在なので、時刻 t1 における脳と t2 における脳とでは、構成する物質も、脳状態も、まったく同一であるということはありえない。それなら、テセウスの舟ではないが、どうしてそれを同一の脳だと言えるのか。少なくとも、脳によって作り出された意識においては、過去と現在とを通じて、自分は常に同一の自分であるかのように思われている。自分は常にひとりだというこの感覚は、どこから出てくるものなのだろうか。

 その答えは、「脳が世界のモノサシだから」ということになろう。すなわち、脳は世界を測り、自分を測る。このとき、過去の自分もまた、現在のモノサシによって測られることを免れない(現在には現在のモノサシしか存在しないのだから)。脳 t1 から脳 t2 への変容は、モノサシで測られる対象物の変容ではなく、モノサシそのものの変容なのである。そうすると、夏には伸び、冬には縮むモノサシだったとしても、そのモノサシしか与えられていないのならば、1cm は常に 1cm だということになる。モノサシを測れるモノサシが与えられていない以上、モノサシの自己同一が破られる可能性はない。

 だが、この答えが本当だとしたら、おかしなことになる。こんなことがもし事実なのだとしたら、モノサシであるところの脳が常に変容しているということを、ぼくが知りうるわけがないからだ。脳 t1 と脳 t2 とが変容していることを知れるためには、ぼくは脳 t1 と脳 t2 との違いを計測できるようなモノサシを所有していなくてはならない。そのモノサシで、脳 t1 と脳 t2 とをともに計測してみることをもって、はじめて比較ということが可能になる筈だ。ところが、脳は「そのモノサシしか存在しないようなモノサシ」なのであってみれば、比較衡量用のモノサシなど存在できる余地はなく、つまり脳の変容を知ることは不可能な筈なのである。

 いったい、脳が変容しているという事実を、ぼくはいかにして知るにいたったのか。よく考えてみると、変容する脳というのは、他者の脳のことではないのか。あるいは「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」ではなく、「ぼくの意識と対応するとみなされている、世界内の存在者としての脳」ではないのか。これら物体の変容なら、ぼくにも観察することができる。「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」は、もはや測定されうるものでなく、それゆえ無規定的な存在であり、ぼくはこんな脳(以後〈高階の脳〉と表記)が本当はどのようなものであるのか、知ることが原理的に不可能である(知るためには計測しなくてはならない)。ぼくに知りうるのは、限定的な存在、計測可能な存在としての、世界内に存在する「ぼくの脳という物体」にすぎない。そして、他者の脳やぼくの脳といった、これら物体の観察を通してぼくが知りうるのは、それら「存在者としての脳」が「存在者としての他者やぼく」のモノサシであるということだけである。ぼくの〈高階の脳〉が、〈この世界〉のモノサシをなしているかどうかは、いかにしても知ることができないのである。

 そういうわけで、ぼくの無限定な〈高階の脳〉が変容しているかどうかは知りえない。だから、自分が同一であると思える理由もないかわりに、自分が同一であると思えては不都合な理由(脳の変容)もないことになる。というよりか、〈高階の脳〉が「変容」するということ自体が不可能なのである。世界内の存在者について、それが「変容」するということは言えても、そうでないものについては、「変容」するということ自体、意味をなさない。それでもなお、〈高階の脳〉が「変容」する可能性を、考えうるように思えてしまうのはどうしてか。それは世界内の存在者に発生する「変容」という事態を、あやまって〈この世界〉そのもの、あるいは〈この世界〉を作り出している〈高階の脳〉にまで適用してしまったというだけのことなのだろうか。

      ○〈世界全体性〉は思考できるか

 どうしてこんな適用が成り立ってしまうのか。物事を考えるというとき、ぼくに考えうる物事は、世界内の存在者とそこに発生する事態だけである。そこで、たとえ世界内に存在しないものであっても、ひとたびぼくに考えられてしまった瞬間、それは世界内的な物事であるかのように考えられてしまうのではないか。ひとたび〈高階の脳〉を思考してしまった瞬間に、それが「変容する」という事態もまた可能であるかのように錯覚してしまうことになるのではないか。

 しかしそれなら、無限定な〈高階の脳〉というものを、ぼくはどうして思考の舞台に登場させることができるのだろう。世界内に存在しないものを、ぼくはどうして考えることができるわけなのか。

 ふむ、それは「根拠」を、つまり世界内の物事であればどんな物事に対してでも考えることが可能な「根拠」を、〈この世界〉という世界内に存在しない物事(世界そのものは世界内には存在しない)に対してまで適用してしまうことによるのだろう。そこで、〈この世界〉の「根拠」として、ぼくの意識を作り出している〈高階の脳〉が措定されてしまうのではないか。……この答えには二点、不明瞭な点が残されている。まず、「根拠」とはなにか、ということをはっきりさせなくてはならない。それから、これはきわめて重大なポイントなのだが、ぼくはどうして〈この世界〉という、世界内に存在しない筈の物事を思考することができたのか。〈高階の脳〉が思考されてしまう理由は分かったが、では〈この世界〉が思考されてしまう理由はというと、依然として不明なままである。

 まずは「根拠」について、簡単に考えておこう。「根拠」を答えるとは、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)を、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)でもって答えるということである。意味の網目のなかで、「根拠」は常に飛躍したものでしかありえない。つまり「A の根拠は B である」なら、「B ならば A である根拠は?」と問いかけることができる。「B ならば A の根拠は C である」なら、「CB ならば A である根拠は?」と問える。以下「……EDCB ならば A である根拠は?」と、どこまでも問うてゆくことができる。だがしかし、これら無数の事柄が積分されて「根拠」になっていたわけではない。むしろ反対に、「根拠」を微分してゆくことによって、無数の事柄は事後的に発見されてゆくのではないのか。はじめにあったのは「B ならば A である」という根拠のみであって、A と B との連結は偶然的なもの、体で覚えていた経験的なものであるように思える。すなわち、B が観察されてのち A が観察されるという、先後関係が身体感覚として累積されていたにすぎない。そうだとすると、〈この世界〉という事例がひとつしかないものについては、なにかが観察されてのち〈この世界〉が観察されるという経験はありえないので、やはりその存立に「根拠」などないということになるだろう。

 では、〈この世界〉が思考されてしまう理由に移ろう。〈この世界〉あるいは〈世界全体性〉を、ぼくはどうして考えることができるか。逆に、〈この世界〉を考えられない筈だとする理由は、なんだったろうか。それは、〈この世界〉が、世界内に存在する物事ではないということによるのだった。しかし、世界内に存在する物事だけが考えうるとする、その根拠は? それは、「世界内に存在する物事である」ための必要充分条件が、「意味的な物事である」ということによる。世界内の存在者はおしなべて意味的なのである。われわれの考えるやりかたは意味的だから(しかし、考えるやりかたが意味的であるということ自体、どうやって知れるのだ?)、意味的でない〈この世界〉、あらゆる意味の冪乗としての〈世界全体性〉=〈意味全体性〉を、われわれは考えることができない筈なのだ。逆に言えば、意味的に捉えられた〈この世界〉や、意味的に捉えられた〈意味全体性〉は、充分思考されてかまわないということになるだろう。もちろん、〈この世界〉や〈意味全体性〉は意味的には捉えられない筈なので、意味的に捉えられた瞬間それは意味の内部へと頽落してしまうことになる。

 だが、だがだ、だがしかし、〈なにを〉意味的に捉えるというのか。この世界内の、意味的でしかありえぬ存在者についてなら、ある意味をある意味で捉える(解釈する)ということは可能だろう。しかし、無意味を意味的に捉えるということ、無意味をある意味で捉える(解釈する)ということは、「無意味を」という目的語が機能しないため、不可能なのではないのか。

      ○〈無意味の意味〉あるいは〈意味の無意味〉

 ……なぜ無意味が、意味の領野に登場できるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。……

 なんなのだこのトートロジーは!

 ……なぜ世界全体性が、世界内に登場できるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。……

 ああ。

 ここまで、ぼくは自分の議論を前提に結論を出し、その結論を前提に結論を出し、というふうにして、書き進んできた。だが、もはやここから先に、ぼくの思考は進むことができない。上記のトートロジーは、これまでの議論を承けて、完全に妥当にみちびかれたものだ。けれども、このトートロジーは、いかなる分析のメスをも受けつけないように思われる。もうどうすることもできない。深淵を前に、ほとんど放心することしかできない。

 なんとか、それでもなんとか、考えられるだけのことを考えてみよう。このトートロジーをどこまで遡行しても、意味的に捉えられた無意味しか出てはこず、本当の無意味など登場してくる余地はない。もちろん「本当の無意味」というこの言葉も、意味的に捉えられた無意味しか指示しないわけだ。そうだとして、では無意味を〈意味的に〉捉えるという場合、それは〈どんな〉意味として捉えられているのだろうか。つまり、無意味の意味とはなにか。「無意味の意味」という意味が、〈意味世界〉に登場してくる意味はなんなのか。

 それは、われわれが「有‐無」という対立で世界を把握するから、「意味=有意味」ということが把握された途端、その対立概念として「無意味」もまた把握されざるをえない、ということではない! なぜなら、「意味」ということもまた無意味だからだ。意味的に捉えられた「意味」には意味があるが、意味的に捉えられていない、「意味」そのものは無意味である。だから、「意味」そのものも、意味として捉えられていなければ〈意味世界〉には登場してこられないのである。いや、あらゆる概念について、その概念は意味的に捉えられたとき意味があるが、概念そのものは無意味である、と考えることができる。だがこれは、〈なにを〉考えていることになるのか。「概念そのものは無意味である」と考えられるということは、ここでは「概念」も「無意味」も意味的に捉えられているのであり、この説明には意味しかなく、ここまでの論述全体にも意味しかなく、そもそも〈この世界〉には意味以外のものはひとかけらとてなく、にもかかわらず「無意味」を考えることには意味があるように思われ、しかり、意味はあるのだが、それはもちろん意味はあるのだが、それが〈どんな〉意味なのかを考えることは無意味であり、しかもそれが無意味であるということを考えることには意味がある!

 すなわち、こういうことだ。「意味」を考えることは「無意味」であり、「無意味」を考えることには「意味」がある。そう、「無意味」を考えること〈だけ〉に「意味」がある。ぼくは、ぼくに許された正当な権利として、「無意味」を存分に考えることができる。だが、ぼくに「意味」を考える権利はない。ぼくに考えることが許されているのは「無意味」だけである。だから、常識とは正反対に、ぼくに考えることが許されているのは〈無意味世界〉内の物事なのであり、〈意味世界〉内の物事については、ぼくは〈絶対に〉考えることはできない。

      ○結論

 この文章は、ぼくにはなにも考えることができないということ、つまりぼくが考えていることはみんな無意味なことだということを、〈有意味に〉示した論証だといえる。(Q.E.D.)

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2009年4月 5日 (日)

京哲34#レポート

◆第34回京都哲学道場(2009年4月4日)
◆参加者:itikun、コーゾー、さかた、深草周。

 前半は、深草君が切り出した「ゾンビとビンゾの話」をめぐって、雑談、というかレジュメなしの議論がスタートした。深草君いわく、永井ワールドにぞくしている人しか来ていないということで、こういうなりゆきになったものだろう。

 深草君の立脚している議論を、ぼくは知らないから、なんとも言えないが、ゾンビの逆としてのビンゾを考える場合、ぼくはゾンビもビンゾも現実性(アクチュアリティ)のレヴェルで考えている。つまり、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
 という意味でのゾンビと、これに対する、
「私はビンゾであり、他人はビンゾではない」
 という意味でのビンゾとを、考えている。もしここで、入不二的に「ビンゾ」と「ゾンビ」を置換してみるなら、「私はゾンビであり、他人はゾンビではない」ということになるだろう。
 で、深草君は実在性(リアリティ)のレヴェルでゾンビの議論をやりたいということだったが、ごめんなさい、深草君の「ゾンビ」がどういう意味でのものなのか、ぼくにはちょっと分からなかった。他者の内に「心」なる存在を各人が立てることを承認する立場、というのは、どういうことになるのかな。それは機能主義のことなのかしら。そうではないの?
 それはともかく、肉体(って、どこまでが肉体?)のないゾンビと、〈私〉のないビンゾとでは、違う気がするということをぼくは述べました。現実性のレヴェルでは、ゾンビとは「〈私〉ではない=〈私〉がない」という意味だけど、ゾンビに定義上許された私秘性は、そのまま残ってもよい筈だ、と思ったので。つまり肉体は存在せず、私秘性だけを有する、認識不可能な存在。というか、構成概念としての一般的な意味における「魂」って、そういうものではないかな。これに対して〈私〉のないビンゾには、なにも残らないと思う。深草君が言いたかった違いは、この違いではないのだと思うけどね。

 そんなこんなで議論が紛糾し、三時前後の休憩を入れて、ようやくレジュメの発表ということになりました。ただでさえ内容が濃かったのに、急いだので、「客観的客観性の客観性が主観的客観性の主観性を間主観的に客観的客観化する!」などと機関銃みたいに喋ってしまった。参加者のみなさま、すみません。

 このたびの発表で、ぼくが特に主張したかったのは、以下の二点。

○非科学的なものというのは、「主観的客観性の科学」という意味では科学的なのであり、競馬においてリアルな利益を生むために、それはなくてはならないものである。

○それら一切を凌駕する「超越的非科学」を考えることが可能であり、それこそがアクチュアルな利益を生みおとす当のものなのである。

 超越的非科学の説明は、レジュメでは不充分だったので、咄嗟に以下の考え方を案出し、説明に利用した。

「いまここで、コップを手にとり、手をはなす。コップは落下するかもしれないし、落下しないかもしれない。あらゆる科学的説明を凌駕して、只今この瞬間、なぜだかコップが落下しないということは、どこまでも可能でなくてはならない。コップを手にとる。コップから手をはなす。コップは落下する。なぜだかコップが落下しないということがどこまでも可能だったにもかかわらず、只今この瞬間、〈なぜだか〉コップは落下した。いまここでコップが落下するかしないかは、実在的な内実からは全く束縛されていないことなので、コップが落下するということはひとつの〈奇蹟〉である。すなわち、ぼくに〈ツキ〉があったから、コップが落下したのだといえる。このような〈ツキ〉のことを、超越的非科学という。しかし、コップが落下したということは、いままさに実在的な事実となってしまったから、この実在的な事実を実在的に考えるかぎり、それは科学に回収されうることであり、科学的法則という物語によって、ならびたつ実験のなかのとある実験として、コップの落下という実験が行なわれたのだとみなされる」

 しかしどうなんだ。ぼくはとんでもないことを言っていやしまいか。つまりアクチュアルな〈ツキ〉が、リアルな「科学」を現に生み出してゆく、とぼくは言っているのだ。永井にそくして言い換えるなら、アクチュアルな〈私〉が、リアルな「世界内的な存在者」に干与し、変化を生じさせてゆく、と言っているのだ。しかも、このレジュメでぼくが一番考えたかったのは、アクチュアルとリアルという二分法は本当に正しいのか、この二分法は錯覚なのではないかということだった(もちろん結論を出してはいない)。
 しかしこれはヤバい。科学の産出運動における生成力こそがアクチュアリティであるとぼくは論じたが、めちゃくちゃ危ないことをぼくは言っている。深草君の指摘の通り、科学が存在する可能世界(アクチュアルでない世界)を考えることができるし、その世界の住人も、科学の生成力とはアクチュアリティである、と主張することができるからだ。じっさいには、その世界はアクチュアルでないにもかかわらず! アクチュアリティを内実にからめてしまうと、アクチュアリティとリアリティとを分離した議論ができなくなってしまう。そのうえ時間的にも、科学とは有史以来、営々と織りなされてきたものである。それを、独今論的なアクチュアリティにおいて主張してしまおうとは。それは(語りうるかどうかは措いておくとして)可能な立論なのか? それともなにか別の構造に、永井哲学自体を頽落させてしまっているのか? よく分からない。
 〈ツキ〉が〈私〉と違う点は、〈私〉とはただの現実性であるのに対し、〈ツキ〉とは予測的態度における現実性であり、それだからまさに現実性を物語に賭けわたすものでもあるということ。つまり自由意志の問題圏にかかわっている。自由と不自由との両面性が、あるポイントにおいて統一されなくてはならない。その統一はどうやって可能になるのか。
 深草君は、これを「超越論的神と、存在者としてのキリストとの、統一というアポリア」に定式化してみせてくれた。この定式化は正しいと思った。しかしここで、別口の難点が登場してくる。つまり「神」と〈開闢の神〉とは違う(そしてぼくが問題にしたい統一は後者である)にもかかわらず、それがキリスト教の宗旨論争と同一の構図になっているというのは、どういうことなのか。というか、これを同一の構図だと考えてしまってよいのか。
 少なくともどちらも超越論的である。そして、超越論的であるということが、同一の構図をみちびいてきているようにも思える。しかし、ぼくは超越論性を統一したいわけではない! ぼくはアクチュアリティとリアリティとを統一したいのだ。
 ……逆に考えて、そもそも超越論性というのは、そんなどこにでもかしこにでも登場してくるものなのか、という疑いがおこる。超越論性が問題になるのは、それがなんらかの意味で〈私〉と関係している場合にかぎるのであって、〈私〉と無関係にキリスト教だの物自体だのという場面で超越論性が出てくるのは、たんなる錯覚、気のせいなのではないか、というふうにも思える。つまり永井哲学以外での超越論性の全否定。うっひゃー。

 もう全然、哲学道場とは関係のない話をしますが、このごろぼくは、超越論的文学は可能か? ということを考えている。
 マンガの主人公は死なない。すなわち、主人公以外の登場人物については、生と死との対立を考えることができるが、主人公についてはこの対立は存在しない。つまり、主人公は超越論的「生」を所有している。ぼくが大好きなマンガ『修羅の門』は、このことが作品内でも追究されている。つまり、主人公である陸奥九十九にとって、「戦い」とは常に生死を賭けて行なわれるものである。ここでは「生‐死」「強い‐弱い」「勝つ‐負ける」という通常では独立の対立軸が、すべて重ね合わされている。「勝ったのなら強くないことはありえず、強いのなら勝たないことはありえない」というわけだ。九十九は超越論的に「強い」。だがそれは、九十九が〈死〉を賭けているからこそである。
 ところで、ぼくをマンガの主人公だと考えてみよう。ぼくが登場するマンガは、文学をテーマにしたマンガである。ぼく以外の登場人物にとっては「文学である‐文学でない」という対立を考えることができるが、ぼくは超越論的に文学者なので、ぼくについてはこの対立は存在しない。ぼくは超越論的「文学」を所有している。すなわち「ぼくがなしたことなら文学でないことはありえず、文学でないのならぼくがなしたことではありえない」というわけ。
 こんなことは本当に可能なことなのだろうか。少なくともこれまで、ぼくはそのようにして生きてきた。あらゆる認識が可能になる条件として、ア・プリオリにぼくは文学者だったし、たとえ小説を書いていようがいまいが、ぼくは「文学している」のだった。
 このような文学を〈文学〉と表記するとして、話は〈ツキ〉の場合とまったくおなじ帰結をもたらす。すなわち、〈文学〉は〈私〉とは違っている。〈私〉がたんなる現実性であるのに対し、〈文学〉とは態度的現実性であり、それは現に、ぼくに小説を書かしめるものであり、あるいは小説を書くという予測的態度にぼくを置こうとするものである。すなわち、〈文学〉はアクチュアルである一方、リアルな世界内的事実に変化を与えるものである。ここでもまた、アクチュアリティとリアリティとの統一が問題になってくる。
 いったい、ぼくが超越論的文学者であることは可能なのか。そして〈文学〉を「小説」へと賭けわたす〈オッズ〉とは何か。これからじっくり考えてゆきたい。

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2009年4月 4日 (土)

京哲34#馬券科学の哲学的基礎づけ

図式化

 2009年4月4日の第34回京都哲学道場は、なりゆきでぼくが発表することになりました。というわけで競馬論(というよりは、競馬を素材にした科学論)です。時間があまりなく、レジュメは大急ぎで作ったものですが、テーマ自体は以前から温めていたもので、それほど苦労なく書き切ることができました。いやはや……もう少し、自分なりに一歩を踏み出してゆく立論ができたらよいのですがね。
 気分しだいで、またレポートもアップするかもしれません。

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2009.4.4 Ph.D Kyoto-34 Resume
◆馬券科学の哲学的基礎づけ

 
      §0 馬券は科学なのか

 競馬は科学できるか。科学における競馬の位相を考えてゆくことは、ひるがえって、競馬から投光される科学の位相、とりもなおさずその限界を、はるかに見晴らすことにも等しい。このような思考のために、競馬はうってつけの材料である。それというのも競馬には、科学なるものと科学ならぬものとのダイナミクスがすぐれて看取されるのだから。
 丁半博打や五目ならべにはない魅力が、競馬には存している。すなわち、競馬は必然的であり、かつまた偶然的でもある。そもそもが競馬は不合理な賭博であり、偶然に左右されやすく、JRAの控除率(約25%)を考えれば、ゼロ‐サムどころかマイナス‐サムである。詩人、寺山修司は賭博の魅力を一点豪華主義(庶民が大金を手にしうること)に求めているが、なるほど、宝くじでは金もち気分すら味わえぬのだし、競馬はなかなか手軽であるのだろう。一点豪華主義とは、市場原理からの逸脱にほかならない。すなわち、競馬とは不合理への愛である(寺山は反近代主義者なのだから、当然の立論だ)。
 だが、競馬は本当に不合理なのだろうか。競馬理論の参照項は多岐にわたり、血統、馬体、戦績の衡量による各馬の脚質と力量とを軸に、騎手や出走馬の構成、賞の傾向、馬場、天気、ジンクスなどを考え併せ、これら諸前提の連言的結合から、着順命題が妥当に推論されるとみなす。このことは、科学的世界観においても基本的には承認される(ラプラスの悪魔)。そうだとすると、競馬理論がいくぶんは実証的でないにしろ、自然淘汰というものがあるのだから、競馬は合理性に回収されることになってしまう。いったい必然(不自由)と偶然(自由)との関係はどうなっているのか。
 寺山は、「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」などと詩的な言い分を口にしながらも、「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」(「私の競馬ノート」『馬敗れて草原あり』角川文庫クラシックス)と、尤もなことを述べている。彼によれば、科学の「原則的現実」は「エロス的現実」によって乗りこえられるべきなのであり、ファンひとりひとりが幻想の物語を読みこんでゆくことで、競馬には魂の交響性が見出されるという。
 どういうことか。以下、競馬における科学の位置づけを、利益産出の現場に遡行して考えてゆくことにしよう。

      §I オッズ、この霊妙なるもの

 オッズとは何か。われわれには、名状しがたい「あるもの」として、オッズを考えてゆくことしか許されない。この意味で、それは逆説的に示されてゆくしかないのであって、オッズとは何でないかを問うことだけが、方途として残されてある。
 だいいちに、確率的予測の特殊な数値表現がオッズなのでは勿論ない。このことは自明である。丁半博打でピンゾロの出る確率ならばいざ知らず、着順の確率などいかにしても求めようがないからだ。オッズ上の人気と現実の着順とでは、かなりの相関がみとめられるということであるが、相関があったところでそれは統計学的関係にすぎない。オッズを確率とみなして不便があるかどうかは個々人が判断すればよいことだ。哲学的に、オッズは確率に還元されはしない(専門家集団の調査をもとに、オッズが決定されるというのなら、話は違ってくる。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用しているが、イギリスなどのブックメーカー方式は、これに近いかもしれない。その場合でさえ、馬券購入者の思惑は、ブックメーカーのオッズ設定を左右し、このことが決定的に重要な点なのである)。
 それから、馬券購入者の予想の統計的表現がオッズである、という考え方もなりたたない。着順の確率をかっきり求め、割り当てられた比率をもとに、全通りの馬券を購入してゆく律儀者などいない。第一候補の馬が、同時に一番人気でもあり、どうも旨味が少ないようなら、第二候補をくりあげて、こちらに資金を投入することだろう。あるいは、ダービーで十万円の単勝を購入した者と、千円購入した者とで、後者の百倍の確率を前者が与えているのだとも思われない。
 すると、市場原理という、よく分からないものに行き着く。市場なる形而上学的実体が、確率を与え、払いもどしを決めているのだという、陰謀論じみたことになる。だが、いったい市場はどこにあるのか。それは、誰が、いつ、認識できるものなのか。認識可能性が一切ないというのであれば、わざわざそんなものを立てる理由が、哲学的にはなくなってしまう。しかし、誰もそんなものを認識することはできない。まず空間的に、そのレースにかかわる厖大な貨幣の流れを、全て把握している人間などどこにもいない。それから時間的にも、いまこの瞬間のオッズというものは、誰にも求めることができない。JRAの電子計算機にも部分々々においてタイムラグがあるだろうし、それが画面に表示され、そこから光が人間の網膜にいたり、認識が完了するまでに、やはりタイムラグを排除することはできない。すなわち、いまこの瞬間の市場というものは、存在しない。だから、いかなる瞬間についてでも、市場という静的構造体は存在することができない(デリダ的差延によって共時性は破られる)。
 こうして、オッズという「ありてあるもの」は、どんな実体にも還元できず、どんな規定に対してもずれを孕むような存在であることが分かった。オッズはどこまでも無根拠であり、ただそのように購入されたという事実だけを示し、それがなにかを表現することはない。だがしかし、オッズは払いもどしを現実化せしめる。それは無根拠であると同時に、まさに利益の根拠となる存在でもある。この点において、オッズの自己差異化運動は、競馬における科学をどこまでも駆動してゆくことになる。

      §II 第1審級:客観的客観性の科学

 競馬において、利益はどこから生まれてくるのか。先述の通り、競馬はマイナス‐サムの賭博であり、オッズと確率とは相関的であるから、なにも考えずに賭けつづければ、一回賭けるごとに25%ずつ資金が目減りしてゆくことになる。とはいえ、競馬上手と競馬下手とがいるのだから、やはり戦略はあるだろう。賭け方にも当て方にも、戦略はある。たとえば、武豊が騎乗する全レースについて、武の乗る馬ばかりを購入してゆけば、資金の目減りはさらに早まる。武の乗る馬はたいてい人気馬であるし、騎手の人気がそれに拍車をかけるので、払いもどしが妥当な金額より少なくなるだろうからだ(ただの投資として競馬を考える場合、本命党より穴党の方が効率的である。これは、払いもどしのふれ幅が、穴であればあるほど幾何級数的に増大することによる)。あるいは、マーチンゲール法や、その競馬版であるココモ法なども、賭け方戦略のひとつであろう。
 ここで「妥当」とはどういうことかを考えてみたい。ハルウララやユキチャンの場合には、払いもどしが不当に少なく感じられるし(戦績に見合わない)、逆にある競馬場、ある距離において好成績を残している穴馬が、まさにその競馬場、その距離であるのに全く注目されておらず、払いもどしが不当に多くなることもある。ここでは妥当とは、科学的に正当な確率が、その馬のオッズに反映されていることである。オッズが科学的妥当性からずれているとき、われわれは利益を手にできる。
 科学的理論の客観性とは、いつ実験しても(通時性)、誰が実験しても(間主観性)、理論の正しさが検証されることをいう。このような科学を、後述する「主観的客観性の科学」に対して、「客観的客観性の科学」とよぶことにする。すなわち、客観的客観性の科学とは、客観的(間主観的)に客観性が示されるような科学のことだ。コンセンサスとして科学的常識にとりこまれていない私的理論は、客観的客観性をそなえていないため、この意味での科学とはいえない。だが、それでもオッズには、妥当なものとそうでないものとがあるように思える。オッズとは基本的に多数決のようなものだから、多数の人間の科学的常識がそこには反映されている筈である(たとえば「速い馬ほど勝ちやすい」ということには、客観的客観性があるだろう)。そうであれば、客観的客観性の科学に照らして、オッズが妥当でないことはありえない。もしオッズが妥当でないと考えられるとすれば、そこでは客観的客観性の科学ではなく、第二の意味での科学がひそかに供給されていたのである。
 客観的客観性の科学は、利益を生むことはできない。オッズと妥当性とのあいだに介在するずれこそ、利益を生み出す当のものである筈だ。

      §III 第2審級:主観的客観性の科学

 それでは、客観的客観性の科学からはなれて、なおも妥当性を担保することのできる、第二の意味での科学とはなにか。これを主観的客観性の科学とよぶことにしよう。この場合の「客観性」は、通時的ではあるが、間主観的ではない(つまり主観的である)。競馬理論とは、まさに主観的客観性の科学であるだろう。それは一部の人間、またはたったひとりの人間だけが共有し、客観的客観性からの差異を孕むことで、オッズの妥当性を意味づけし、ずれを測量することで利益を生みおとす。血統理論、相馬眼(パドック見)、サイン理論など、みなこれである。寺山は、競馬場でときたま見かける中年男を「死神」だと述べ、この男と出くわすとかならずツキがおちると力説しているが、これもまた主観的客観性の科学である。科学である理由は単純で、間主観性はないものの、通時的に検証可能であることによる。すなわち、寺山は、この男と出くわすという実験のたび、いつもツキがおちることを検証済みであるわけだ。だから、「幸運の女神」と出会ったときには大博打を打ち、「死神」と出会ったときには賭け金を減らす、という戦略は、きわめて科学的な馬券理論である。競馬において利益を生むためには、主観的な科学、他者にみとめられていない科学に立脚することが、ぜひとも必要である。
 主観的客観性の科学は、オッズの無根拠性によって、無限に産出されゆく運命にある。すなわち、オッズは無根拠に利益を現前させる。このことで、主観的客観性の科学は反証され、あらたな馬券科学へのパラダイム・シフトがはじまる。法則性が発見され、反証され、それにともなって新法則がたゆみなく産出されてゆく。これこそ競馬のダイナミクスである。
 主観的客観性の科学は、客観的客観性の科学から、どこまでも自己を差異化してゆく一方、客観的客観性の科学のがわから、どこまでも回収されてゆく運命にある。これは客観的客観性の科学がイデオロギーとして、原理的にあらゆる事況を回収できるということを掲げているためだ。先の寺山理論でさえ、かりに「死神」が八百長競馬の立役者なのであり、八百長のせいでいつも大負けしていたのだと判明したなら、理論は客観的客観性に帰着することになるだろう。逆に、あるとき「死神」と出くわしても、大勝ちすることができたのなら、そこで寺山理論は反証される。このように、客観的客観性の科学は隙あらば主観性を回収しようと目論む。競馬理論のがわも、合理性を掲げているなら、客観的客観性の科学に歩みよることは避けられない。尤も、「霊感」を主張するなど、あくまで科学からの回収を拒否してゆくことも可能であり、そしてそのことは定義的に回収不能であるという以上の意味をもたない。

      §IV 第3審級:主観的主観性の超越的非科学

 主観的客観性の科学のがわから「霊感」が主張された場合、それは原理的に間主観的ではありえぬものとして提示されているので、客観的客観性の科学は回収することはできない。というよりも、それは非科学的な理論として回収されないことで、逆説的に回収されることだろう。このような非科学に対して、主観的主観性の超越的非科学を主張することができる。すなわち〈ツキ〉ないし〈運〉とよばれているものがそれだ。このような超越的非科学は、どこまでも科学から遁れ去ってゆくものであって、科学のがわからそれへと到達する手段がないために、回収されないことで回収されるという逆説的回収すら不可能な何かである。超越的非科学は、通時性をもたず(独今論的)、間主観性ももたない(独我論的)。賭博の一回性において、まさにそこで利益が現実化するということ、これこそが〈ツキ〉の意味である。だから、馬券科学が「当てようとするもの」であるのに対して、超越的非科学としての〈ツキ〉は「原理的に当たってしまうしかないもの」であるといえる。〈ツキ〉はオッズの無根拠性に立脚し、無根拠でありながらも科学を実証してゆくものとして、科学の根拠となるものだ。〈ツキ〉は、科学に回収されてゆくものの余剰として、どこまでも科学からの逃走を図るとともに、科学を根拠づけることで、まさに利益を現前させる。利益は、超越的非科学=〈神の思慮〉にこそ淵源している。
 客観的客観性の科学のがわから、「霊感」と〈ツキ〉を区別することはできない。超越的非科学として〈ツキ〉を主張したくとも、それはすぐさま非科学的なるもの、「霊感」として、読み換えられてしまう。言葉に乗せられたとき、〈ツキ〉は各人の内に実体化されたものとして語られざるをえない。そこで〈ツキ〉の主観的主観性たるゆえんは、すでにして喪われていることだろう。

      §V オッズに対する態度

 大森荘蔵は次のように述べている。「人生に賭ける、ということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活を賭けることなのである。単に未来を傍観者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである」(「確率と人生」『流れとよどみ』産業図書)。大森の考えを承認するのなら、人生とはひとつの賭博である。〈ツキ〉とは、それが現在を未来へ投げかけることによって、自己を自己自身と同一ならしめるものであるだろう。
 競馬で一番おもしろいのは、原理的に看取される筈のない、超越的実体としての〈ツキ〉が、他者の内にたしかに「ある」ことがまざまざと知られる点である。馬券師に〈神〉がおりる瞬間は、芸術家に〈神〉がおりる瞬間に等しい。それがどうして〈神〉なのかといえば、〈神〉とは自己自身者(Ipsissimus)であるからだ。「これ」ではない、もうひとつの開闢の原点として、芸術家がまさに自己自身と同一であるそのさまが、芸術家をいまや〈神〉の高みにおく。このような事態が、しかし競馬においては日常的に目撃される。この意味で、競馬はもっとも〈神〉に愛された賭博なのかもしれない。
 客観的客観性の科学にとって、主観的客観性の科学とは非科学にすぎない。それは客観的客観性の科学に回収されることで、はじめて科学となりうる、科学以前の物語であるとみなされる。このような非科学は、しかし主観的客観性の科学という、れっきとした科学であるのである。科学からたえず非科学はずれてゆき、非科学はたえず科学に回収されてゆく。物語は科学に反抗し、科学は物語を簒奪する。このような産出過程の全体が、科学が産出されてゆく過程そのものなのである。そうして、この自己産出運動の外部に、超越的非科学=〈ツキ〉の審級が存在する。
 寺山の言葉を再掲してみよう。「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」。それでは、ここで「偶然」と名指されているものは、主観的客観性の科学なのだろうか、それとも超越的非科学なのだろうか。
 答えは「主観的客観性の科学=競馬予想という幻想の物語」である。超越的非科学においては「不運」と「幸運」の対立など存在しない。あるのは〈運〉だけである。このことを補強するものとして、寺山の同書から、べつの部分を引用してみよう。「常に存在が本質に先行している時代にあって、その存在の真理を知りたいという願望は、誰にでもある。(……)私は運命からの自由が、世界を支配できる日のためには賭けない。私は言葉の占星学、思念の十二支の中で、ただひたすら『幸運の誘惑』に遊蕩することが願いである」。存在=運命からの自由=超越的非科学のためではなく、幸運=物語=主観的客観性の科学のために賭けること。自由を求めながら、不自由をむしろ舐め尽くすこと。これはいくぶん、浅田彰的な結論であるようにも思えるが、それなりに得心のゆく回答ではある。
 科学からの自由、偶然性を夢みつつ、どこまでも科学=必然に回収されてゆかざるをえない、物語としての人生。競馬とは、科学なるものと科学ならぬものとの哀しいダイナミクスなのである。そしてその彼岸には、非物語としての超越的非科学が発見される。オッズ、この霊妙なるものは、非物語をひとつの物語へと懸け(賭け)わたす。
 オッズとは何か。全てはここに集約される。自由と不自由とが一致する、その地点はいったいどこにあるのか。
                                   (了)

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