無意味の意味/意味の無意味
この文章を書いていて、ひさしぶりに、なんだか本当の意味で「哲学したなあ」という気分になりました。
○〈高階の脳〉は変容できるか
意識は脳の作り出したものである、と考えてみる。脳というのは物理的存在なので、時刻 t1 における脳と t2 における脳とでは、構成する物質も、脳状態も、まったく同一であるということはありえない。それなら、テセウスの舟ではないが、どうしてそれを同一の脳だと言えるのか。少なくとも、脳によって作り出された意識においては、過去と現在とを通じて、自分は常に同一の自分であるかのように思われている。自分は常にひとりだというこの感覚は、どこから出てくるものなのだろうか。
その答えは、「脳が世界のモノサシだから」ということになろう。すなわち、脳は世界を測り、自分を測る。このとき、過去の自分もまた、現在のモノサシによって測られることを免れない(現在には現在のモノサシしか存在しないのだから)。脳 t1 から脳 t2 への変容は、モノサシで測られる対象物の変容ではなく、モノサシそのものの変容なのである。そうすると、夏には伸び、冬には縮むモノサシだったとしても、そのモノサシしか与えられていないのならば、1cm は常に 1cm だということになる。モノサシを測れるモノサシが与えられていない以上、モノサシの自己同一が破られる可能性はない。
だが、この答えが本当だとしたら、おかしなことになる。こんなことがもし事実なのだとしたら、モノサシであるところの脳が常に変容しているということを、ぼくが知りうるわけがないからだ。脳 t1 と脳 t2 とが変容していることを知れるためには、ぼくは脳 t1 と脳 t2 との違いを計測できるようなモノサシを所有していなくてはならない。そのモノサシで、脳 t1 と脳 t2 とをともに計測してみることをもって、はじめて比較ということが可能になる筈だ。ところが、脳は「そのモノサシしか存在しないようなモノサシ」なのであってみれば、比較衡量用のモノサシなど存在できる余地はなく、つまり脳の変容を知ることは不可能な筈なのである。
いったい、脳が変容しているという事実を、ぼくはいかにして知るにいたったのか。よく考えてみると、変容する脳というのは、他者の脳のことではないのか。あるいは「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」ではなく、「ぼくの意識と対応するとみなされている、世界内の存在者としての脳」ではないのか。これら物体の変容なら、ぼくにも観察することができる。「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」は、もはや測定されうるものでなく、それゆえ無規定的な存在であり、ぼくはこんな脳(以後〈高階の脳〉と表記)が本当はどのようなものであるのか、知ることが原理的に不可能である(知るためには計測しなくてはならない)。ぼくに知りうるのは、限定的な存在、計測可能な存在としての、世界内に存在する「ぼくの脳という物体」にすぎない。そして、他者の脳やぼくの脳といった、これら物体の観察を通してぼくが知りうるのは、それら「存在者としての脳」が「存在者としての他者やぼく」のモノサシであるということだけである。ぼくの〈高階の脳〉が、〈この世界〉のモノサシをなしているかどうかは、いかにしても知ることができないのである。
そういうわけで、ぼくの無限定な〈高階の脳〉が変容しているかどうかは知りえない。だから、自分が同一であると思える理由もないかわりに、自分が同一であると思えては不都合な理由(脳の変容)もないことになる。というよりか、〈高階の脳〉が「変容」するということ自体が不可能なのである。世界内の存在者について、それが「変容」するということは言えても、そうでないものについては、「変容」するということ自体、意味をなさない。それでもなお、〈高階の脳〉が「変容」する可能性を、考えうるように思えてしまうのはどうしてか。それは世界内の存在者に発生する「変容」という事態を、あやまって〈この世界〉そのもの、あるいは〈この世界〉を作り出している〈高階の脳〉にまで適用してしまったというだけのことなのだろうか。
○〈世界全体性〉は思考できるか
どうしてこんな適用が成り立ってしまうのか。物事を考えるというとき、ぼくに考えうる物事は、世界内の存在者とそこに発生する事態だけである。そこで、たとえ世界内に存在しないものであっても、ひとたびぼくに考えられてしまった瞬間、それは世界内的な物事であるかのように考えられてしまうのではないか。ひとたび〈高階の脳〉を思考してしまった瞬間に、それが「変容する」という事態もまた可能であるかのように錯覚してしまうことになるのではないか。
しかしそれなら、無限定な〈高階の脳〉というものを、ぼくはどうして思考の舞台に登場させることができるのだろう。世界内に存在しないものを、ぼくはどうして考えることができるわけなのか。
ふむ、それは「根拠」を、つまり世界内の物事であればどんな物事に対してでも考えることが可能な「根拠」を、〈この世界〉という世界内に存在しない物事(世界そのものは世界内には存在しない)に対してまで適用してしまうことによるのだろう。そこで、〈この世界〉の「根拠」として、ぼくの意識を作り出している〈高階の脳〉が措定されてしまうのではないか。……この答えには二点、不明瞭な点が残されている。まず、「根拠」とはなにか、ということをはっきりさせなくてはならない。それから、これはきわめて重大なポイントなのだが、ぼくはどうして〈この世界〉という、世界内に存在しない筈の物事を思考することができたのか。〈高階の脳〉が思考されてしまう理由は分かったが、では〈この世界〉が思考されてしまう理由はというと、依然として不明なままである。
まずは「根拠」について、簡単に考えておこう。「根拠」を答えるとは、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)を、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)でもって答えるということである。意味の網目のなかで、「根拠」は常に飛躍したものでしかありえない。つまり「A の根拠は B である」なら、「B ならば A である根拠は?」と問いかけることができる。「B ならば A の根拠は C である」なら、「CB ならば A である根拠は?」と問える。以下「……EDCB ならば A である根拠は?」と、どこまでも問うてゆくことができる。だがしかし、これら無数の事柄が積分されて「根拠」になっていたわけではない。むしろ反対に、「根拠」を微分してゆくことによって、無数の事柄は事後的に発見されてゆくのではないのか。はじめにあったのは「B ならば A である」という根拠のみであって、A と B との連結は偶然的なもの、体で覚えていた経験的なものであるように思える。すなわち、B が観察されてのち A が観察されるという、先後関係が身体感覚として累積されていたにすぎない。そうだとすると、〈この世界〉という事例がひとつしかないものについては、なにかが観察されてのち〈この世界〉が観察されるという経験はありえないので、やはりその存立に「根拠」などないということになるだろう。
では、〈この世界〉が思考されてしまう理由に移ろう。〈この世界〉あるいは〈世界全体性〉を、ぼくはどうして考えることができるか。逆に、〈この世界〉を考えられない筈だとする理由は、なんだったろうか。それは、〈この世界〉が、世界内に存在する物事ではないということによるのだった。しかし、世界内に存在する物事だけが考えうるとする、その根拠は? それは、「世界内に存在する物事である」ための必要充分条件が、「意味的な物事である」ということによる。世界内の存在者はおしなべて意味的なのである。われわれの考えるやりかたは意味的だから(しかし、考えるやりかたが意味的であるということ自体、どうやって知れるのだ?)、意味的でない〈この世界〉、あらゆる意味の冪乗としての〈世界全体性〉=〈意味全体性〉を、われわれは考えることができない筈なのだ。逆に言えば、意味的に捉えられた〈この世界〉や、意味的に捉えられた〈意味全体性〉は、充分思考されてかまわないということになるだろう。もちろん、〈この世界〉や〈意味全体性〉は意味的には捉えられない筈なので、意味的に捉えられた瞬間それは意味の内部へと頽落してしまうことになる。
だが、だがだ、だがしかし、〈なにを〉意味的に捉えるというのか。この世界内の、意味的でしかありえぬ存在者についてなら、ある意味をある意味で捉える(解釈する)ということは可能だろう。しかし、無意味を意味的に捉えるということ、無意味をある意味で捉える(解釈する)ということは、「無意味を」という目的語が機能しないため、不可能なのではないのか。
○〈無意味の意味〉あるいは〈意味の無意味〉
……なぜ無意味が、意味の領野に登場できるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。……
なんなのだこのトートロジーは!
……なぜ世界全体性が、世界内に登場できるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。……
ああ。
ここまで、ぼくは自分の議論を前提に結論を出し、その結論を前提に結論を出し、というふうにして、書き進んできた。だが、もはやここから先に、ぼくの思考は進むことができない。上記のトートロジーは、これまでの議論を承けて、完全に妥当にみちびかれたものだ。けれども、このトートロジーは、いかなる分析のメスをも受けつけないように思われる。もうどうすることもできない。深淵を前に、ほとんど放心することしかできない。
なんとか、それでもなんとか、考えられるだけのことを考えてみよう。このトートロジーをどこまで遡行しても、意味的に捉えられた無意味しか出てはこず、本当の無意味など登場してくる余地はない。もちろん「本当の無意味」というこの言葉も、意味的に捉えられた無意味しか指示しないわけだ。そうだとして、では無意味を〈意味的に〉捉えるという場合、それは〈どんな〉意味として捉えられているのだろうか。つまり、無意味の意味とはなにか。「無意味の意味」という意味が、〈意味世界〉に登場してくる意味はなんなのか。
それは、われわれが「有‐無」という対立で世界を把握するから、「意味=有意味」ということが把握された途端、その対立概念として「無意味」もまた把握されざるをえない、ということではない! なぜなら、「意味」ということもまた無意味だからだ。意味的に捉えられた「意味」には意味があるが、意味的に捉えられていない、「意味」そのものは無意味である。だから、「意味」そのものも、意味として捉えられていなければ〈意味世界〉には登場してこられないのである。いや、あらゆる概念について、その概念は意味的に捉えられたとき意味があるが、概念そのものは無意味である、と考えることができる。だがこれは、〈なにを〉考えていることになるのか。「概念そのものは無意味である」と考えられるということは、ここでは「概念」も「無意味」も意味的に捉えられているのであり、この説明には意味しかなく、ここまでの論述全体にも意味しかなく、そもそも〈この世界〉には意味以外のものはひとかけらとてなく、にもかかわらず「無意味」を考えることには意味があるように思われ、しかり、意味はあるのだが、それはもちろん意味はあるのだが、それが〈どんな〉意味なのかを考えることは無意味であり、しかもそれが無意味であるということを考えることには意味がある!
すなわち、こういうことだ。「意味」を考えることは「無意味」であり、「無意味」を考えることには「意味」がある。そう、「無意味」を考えること〈だけ〉に「意味」がある。ぼくは、ぼくに許された正当な権利として、「無意味」を存分に考えることができる。だが、ぼくに「意味」を考える権利はない。ぼくに考えることが許されているのは「無意味」だけである。だから、常識とは正反対に、ぼくに考えることが許されているのは〈無意味世界〉内の物事なのであり、〈意味世界〉内の物事については、ぼくは〈絶対に〉考えることはできない。
○結論
この文章は、ぼくにはなにも考えることができないということ、つまりぼくが考えていることはみんな無意味なことだということを、〈有意味に〉示した論証だといえる。(Q.E.D.)
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コメント
哲学には疎いので論理力や知識は乏しい気がしますが無意味の意味ということについて思っていることがあるので気になり、私の考えに意見して頂きたいなぁ~と思いました。
無意味の意味を芸術の問題として考えているのですが、これは岡本太郎の書籍をいくつかよんでからのことです。
無意味というのはただ意味がないとか虚無ということではなくただ存在しているということとしてとらえています。
そしてそれがもっとも人間としての自由なセンセーションを与えると。
太郎さんの本に書いてあったんですが、たとえば縄文土器、縄文時代に縄文土器を作った人はあの非機能的なデコレーションを意味のあるものとして、美学的なポイント、機能的なポイントとして考えていなかった。
美意識というのも問題なんですが、はたして縄文人にそんなのがあったのか?
それを意識してあのような装飾を施したのか?ということです。
確か魚を大量にとか獲物を大量にとか、精霊にお願いする意味合いを込めての呪術的な意味があったようです。
しかしその意味は現代人からしてみると解消してしまっている、でも模様、形の造形性はものすごいものがあり、組織的に部品化してしまった現代人の眼に激しく迫ってくると。
それが人間存在の意味?だったかな、を回復するなんてことを言ってました。
確かに意味なんていうのは意識や認識の問題でありそれゆえあいまいで、自由とはいえないですよね。
太郎さんはかなり広く大きなことを言ってるので私の説明だけでは不十分なんですが、これが本当なら芸術の問題として私としてはかなりの飛躍ができるのですが。
投稿: てんぐ | 2009年4月28日 (火) 13時02分
呪術は縄文人にとって機能のうちに入りますね、論理破綻です。
投稿: てんぐ | 2009年4月28日 (火) 13時04分
>てんぐさん
書きこみありがとうございます。
美学は全然詳しくないので、適当に思いついたことをコメントさせていただきますが……。
意味するというのは、記号が機能しているということですね。つまり、ある記号がある内容を指示しているということです。絵画の場合なら、色遣いや絵具の盛りあがりなどの有する記号作用が、木や人物といった内容を指示しているということになりますね。こういう考え方だと、無意味な芸術、なにも指示しない芸術には、存在価値はなくなります。
こういう考え方は、世界を「意味するもの:記号」と「意味されるもの:内容」に分断してしまいます。多分、これが近代的な見方ということになるのでしょうが、これに対して、20世紀の芸術の動向は、記号そのものを内容とする方向に走ったらしいです。つまり、絵画なら、それがなにかを描く(意味する)ものとして考えるのではなく、その色遣いや絵具の盛りあがりそのものに注目して、それ自体を表現の目的として捉えるというふうにです。詩や小説などにおける言語実験も、言葉そのものを表現対象にしたものとして、考えることができますね。
ここで、ぼくが上で書いたことにもどりますが、無意味が意味的に捉えられざるをえないということは、記号(意味)が指示する内容(無意味)も、やはり記号(意味的なもの)でしかありえないということです。つまり、記号→内容という対立ではなく、記号→記号→記号→……と、どこまでも遡行してゆくということですね。内容(無意味)に支えられなくなった記号(意味)はそれ自体として無意味なので、意味しか存在しないということは、逆説的に無意味しか存在しないことと同義になります。
ですから、芸術を無意味なものとして捉えるという考え方は、近代的芸術観に対するアンチテーゼとしてある程度共有されてきたものだと思いますし、ぼくが考えたこともそれを否定するものではないですね。
無意味な芸術が存在を立ちあがらせるというのも、その通りだと思います。世界内に存在する個々の存在者は、意味によって規定された束縛的なものなので、無規定的な「存在」は無意味によってしか立ち現れてこないと思いますねー。
結局、無意味な芸術といったところで、鑑賞者はその中に意味を見てとるわけで、その意味と無意味との微妙なバランスを手綱さばきして、どういう戦略をとるかということが、これからの実作の上では重要になってくるのだと思います(ぼく自身、詩や小説を書きますので)。
投稿: itikun | 2009年4月28日 (火) 16時30分
すばらしい解釈ですね。
>結局、無意味な芸術といったところで、鑑賞者はその中に意味を見てとるわけで
それでは意味というのはやはり絶望的なものなのでしょうかね?
否定を契機にしての意味、近代の芸術はいくらぶっちこわしにしても意味というものがどうしてもたち現れてくるというところに虚無があるようです。
そこでひとつの解答として現代のように物質に規定されないような原始芸術ということになった、原始芸術といっても意味として取り上げたのは現代人であって原始人は意味とかそんなこと気にはとめなかった。
正直まだこのあたりまとまってないんでここ微妙なところです。┐(´-`)┌
投稿: てんぐ | 2009年4月29日 (水) 08時53分
>それでは意味というのはやはり絶望的なものなのでしょうかね?
>否定を契機にしての意味、近代の芸術はいくらぶっちこわしにしても意味というものがどうしてもたち現れてくるというところに虚無があるようです。
絶望的とは言わないまでも、やはりなんらかの諦念が孕まれざるをえない、というところはあるのでしょうね。意味=無意味の氾濫は、虚無とも豊穣とも取れますが、なにかそれだけでは物足りなさを感じてしまうことも、また事実ですね。
>そこでひとつの解答として現代のように物質に規定されないような原始芸術ということになった、原始芸術といっても意味として取り上げたのは現代人であって原始人は意味とかそんなこと気にはとめなかった。
解答としての意味は分かりますが、そこまで「無意味」を推し進めるようになったら、最後は完全なる無意味として、自然の造形美を求めるとか、そういう方向に行き着いてしまわないでしょうか?
そして、原始芸術だったり、自然美だったりしても、それが現代人に「美」として承認されるかぎり、それはわれわれの意味世界とコミュニケートできるものとして、意味の文脈のなかに取りこまれてしまわざるをえない気がしますね。
本当の無意味は、生まれる前とか、死の向こう側とか、そういう不可能な領域にしか発見できないのかも……。
投稿: itikun | 2009年4月29日 (水) 20時08分
>絶望的とは言わないまでも、やはりなんらかの諦念が孕まれざるをえない、というところはあるのでしょうね。意味=無意味の氾濫は、虚無とも豊穣とも取れますが、なにかそれだけでは物足りなさを感じてしまうことも、また事実ですね。
実は芸術といっても単に美学的な問題ではなく現代の空虚を超えて人間としての絶対生命の根源的な感動を打ち出すというようなことをやりたいんですが、これがどうもひどく頭を悩ませています。
そもそもが人間の絶対生命の根源的な感動がなんなのかっていう…。
おぉコレだよっていうような新鮮な感動なのか…。
どんなに美しい作品でも所詮は画家とか音楽家とか職業の枠の中のことでしかない、そんなものは人間の本当の感動ではないはずで…何かしら効果はありますが、本当に自由なセンセーションにはならないんじゃないかと。
枠の中でぶち壊すだの壊さないだのそれは社会的にみて大衆からしたら、へぇ~に思うくらいの狭くムナシイ行為には変わらないでしょう。
>「美」として承認されるかぎり、それはわれわれの意味世界とコミュニケートできるものとして、意味の文脈のなかに取りこまれてしまわざるをえない気がしますね。
では「美」として取り上げられなかったら?
なんなのかワカラナイ、見当もつかない、無意味な「もの」、物体としての存在。
これが現代に一体どういう意味をもたらすのか…美の問題だけでなく…。
分裂した現代人の空虚を全人間として脱するヒントをえて実践したらしい人がいるんです。
岡本太郎は喜劇役者みたいに見えますが、実はものすごく頭もキレる、直観や洞察、論理においてもとても優れた人間です。
単純ですが物凄く複雑なことをいってるんです、難しい…。
投稿: てんぐ | 2009年4月29日 (水) 23時04分
意味と無意味への問いかけには、常に不毛な堂々巡りがつきまとう気がします。それが論理的な真偽性からのものであるなら、恐らく意味と無意味を内的な思念からのものであると決め込んでいるからだと思います。そうではなく私は意味と無意味への言及はそれ自体価値的なこと、倫理的な言及であると思うからです。最初は私たちが脳内で勝手にでっちあげた倫理や価値に従ってあることを意味があると言い、別のあることを無意味であると決めるつける用になっていったのだろうと思います。
「~をすることには意味がある」とか「~をすることには意味がない(無意味だ)」という叙述には価値規範的な問いかけがあり、無意味には意味があり、意味は無意味だと感じるのも恐らく私は自分の存在や行動に意味があるのかないのかという迷いや不安が生み出すように思います。
また全体ということは、全体自体が部分化してしまうので、全体ということが即ちその都度の恣意的な決定であることになりますが、世界ということを考えた時最初は私たちは世界を枠で捉えていたのではないのではないかと私は思うのです。しかし「世界の全体」というような言い方が成立してしまってから、私たちは世界をも枠の中で考えるようになったのではないか?
すると例えばハイデッガーが世界内存在と私たちのことを述べたのも、そのように世界そのものには最初は枠はなかったものの、一旦全体と部分という観念を持ち出してしまうと、世界の内側と外側という考えが発生してしまいます。そこで世界は私たちが造っているということをカントが考えたことを受けてハイデッガーは恐らくその自分たちで考え出した観念の内側に存在してしまうという風に私たちを「世界内存在」という風に規定したのだと思います。
すると世界内にある存在者である私たちが作る世界の中に私立ちはいるという入れ子構造が見出されることになります。しかしそう考えることが出来るという前提というか条件を生み出したことを命運としてはやはり世界が我々によって造られるということそのものを強いるように世界が存在すると規定したかったのではないでしょうか?
そう規定することを意味あることであると考えることを取り敢えず回避することしかこの場合世界内存在を作る私たちと言う世界内存在は世界が存在することによって可能であったとは考えられないことになるように私には思えるのです。つまりどこで問いをストップさせるかが後はそれが前提であると言い得ると思うからです。
それは恐らく各哲学者による主観でしかないのでしょうけれど。
投稿: 河口ミカル | 2009年5月12日 (火) 19時40分