読書、言語障碍、夢。
http://d.hatena.ne.jp/TaniR/
深草君にすすめられて、書評のアフィリブログをはじめてみました。「はてダがアツい!」とこれまた深草君が言うもんだから、はてなダイアリーで。ブログタイトルの「反批評」はイコール「書評」という、ただそれだけ。あまり本気で文章を書いてないので、よほどおもしろい記事が書けたとき以外、こちらに転載するつもりはありません。
五月二日の、永井均先生の京都講座に出席予定。
いまは、ボヤーッと短篇小説を書きながら、倉橋由美子全作品の第一巻と、ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、それから森絵都『永遠の出口』を併読中。三年そこら、まともな小説を書いていないと、少しリハビリが要るようで、哲学や批評なんかの本は抑え気味にして、これからは物語の本を中心に読書してゆきたいと思います。
書きたいものはいっぱいあるんだけどな。短篇、長篇、いろいろアイデアがあるし、評論も詩も短歌もあるし、このごろライトノベルの原案も思いついたのだけれど、まず文章のリハビリをしてゆかないと。
人間どうして、こうもタイミングが合わないものなんでしょう。中学三年だったころの小説は、いまから読みかえしてみると殆んど言語障碍で、いかにも浅はかなことしか考えてなかった。どうにかこうにか、なんとか読める文章が書けるようになってきて、知識もちょっとは増えて、文学論みたいなことまで言い出せる現在になってみると、あの当時の狂おしいほどの熱情と妄執とが、涸渇しかけている。それを、だましだまし小説に充当しながら、書いてゆかなくてはならないようになってる。
化物。
人間は、大人になることで、自意識という化物を飼い出すのです。そんなもの、小説にとっては、不純物でしかないのに。ぼくが小説にあったらいいなと思うのは、殺意、それだけ。純粋な殺意は、個人に向けられるほど卑小なものではないので、神とか、世界とか、そういうものにしか向けられっこないのです。
ところで、倉橋由美子を読んでいると、もちろん「反世界」とか、気になるテーマもあるのだけれど、なにより文章がうまいことには驚かされる。ぼくが、倉橋とおなじくらい文章のうまい作家として、思いつけるのは、内田百間ぐらいだろうか。
初期の三島由紀夫、たとえば「花ざかりの森」における三島などは、殆んど言語障碍じみていると、ある先輩が言っていて、ぼくもその通りだと思う。私見では、初期の澁澤龍彦も、かなり言語障碍じみていると思う。もちろん、三島も澁澤も名文家である。
「愛する」を「あいする」と平仮名にひらいたりする倉橋も、実はけっこう言語障碍っぽいところがある。じっさい言語障碍になりかけの文章を書いていたぼくが、どこか自分に近しい、言葉への苦しみを感じてしまうのである。書評ブログでも書いたが、現に言語障碍だったという高橋源一郎の文章からも、書き流されているようでいて、ものすごい言葉への執着が伝わってくるのである。
バカと天才は紙一重というけれども、言語障碍と名文こそ紙一重のものなのかもしれない。少なくとも、そういう、いやがおうにも言葉に向き合わされ、吐いて、呑まされて、また吐いて、というような辛く苦しい経験をしたことがない人には、名文は書けないような気がするのです。
夢。
この門をくぐる者、一切の自伝を殺害せよ。
あーあ。
くだらない、おもしろくない、つまらない。思い入れが激しすぎるので、もうどんなことにも興味を向けないようにしようと、自分で予防線を張っていたら、世界はとてもとても灰色になってしまった。傷つくのはめんどうだし、関心のない人とつきあうのはうんざりだし、人から命令されるのはごめんだし、人の視線は気になるし(歌詞みたいだね)。
失意しかない。
初めての経験をして、あたらしい世界がぼくを迎え入れるということはない。あたらしいことをはじめても、人と出会っても、なにもかもが事前の予想通りで、予想通りに退屈で、思い出すのは小学生時分のことなんかで。
ぼくは、間違って厨二病にかかってしまったりしたけど、本当は小二病患者なんだろうね。
文体は常に二重性を孕んでいて、一方でそれは文体の構成要素へと分析されるとともに、他方、生存のリズムともいうべきものを刻んでもいる。
存在の手触り?
さあね。
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コメント
お久しぶりです。いつもブログは拝見してます。小説に必要なものは殺意だとは凄いね。貴方は何か壮大な標的を持って創作をされてるようですね。私なんぞ及ぶ世界じゃありません。昔、倉橋のパルタイを読んで逃げ出したっけ。最近、亡くなった友人の小説を原作にして芝居の脚本など書いてます。あまりの下手さに友人に呪われるかも。貴方の小説、読める機会があったら読んでみたいな。まぁ、気の利いた感想は言えないけどね。
投稿: あおい | 2009年5月 7日 (木) 00時54分
>あおいさん
おひさしぶりです。まだぼくの駄文なんかをチェックしてくださっていたとは、ちょっと驚きでしたし、嬉しく存じます。
「壮大な目標」なんてものは、ありませんね……。むしろ目標がなんだか分かっていたら、創作でも、人生でも、こんなに苦労はしないのかなあと思います。哲学では、問題を正しく立てることが、答えを出すこととほとんど同義であることがありますが、創作にしても、おなじことかもしれませんね。倉橋でも、井亀さんでもそうですが、ひとりの作者と読書を通じて対話し、その人の問題を理解しようとすることは、面白いというか、とても尊いことに思えます。
あおいさんは、脚本を書かれたりするのですね。試みたことはないですが、面白そうですね。ぼくの小説で、二年前の短いものですが、こんなのはネット上に置いております。
http://www.geocities.jp/itikun01/manazashi.html
またいつでも、お暇なときにご笑覧ください。
それでは。
投稿: itikun | 2009年5月 8日 (金) 18時40分
言語障碍ということで言えばそんな感じを初めて私に感じさせたのは宮沢賢治だった気がする。あと丸谷才一もそうだったし、中上健二もそうだった気がする。
方丈記を最初に読んだ時も実はそれに似た感じを私は汲み取りました。というよりも、もともと日本文学の系譜にはそういう傾向があるのかも知れないですね。そういえば芥川龍之介も島崎藤村もそういう風なところがありますね。大江健三郎もまさにそうですね。いや川端康成も小林秀雄もそうかも知れない。
私は幼い頃仮病をよくしたけれど、「夢。
この門をくぐる者、一切の自伝を殺害せよ。」というのは、気持ち的によく分かる気がいたします。つまりそのように自伝を殺害して掻い潜ることから見いだされる自己像がどこかで文体を構成していくのかも知れないですが、「人間は、大人になることで、自意識という化物を飼い出す」としたら、自意識をどこかで大人になった自分の中で明確に峻別して、それを意志的に克服していく必要があるのかも知れないですね。
投稿: 障田公 | 2009年5月12日 (火) 21時52分