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2009年5月14日 (木)

雑記 20090513

 図書館で借りて、アウグスティヌス著作集の第9巻『ペラギウス派駁論集(1)』を読んでいる。一体どうしてこんなものを読む羽目になっているんだか、自分でもよく分からない。
 『霊と文字』は、「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味を考えている。なかなかよくできた論考で、この「文字‐霊」という対立を、「旧約‐新約」という対立に重ね合わせて論じている。すなわち、ここで文字というのは律法のことなのだが、律法は聖霊を欠いては「殺す文字」である。罰の存在が律法を守らせる(行為の律法)というのではだめで、内なる聖霊の力による神への愛が律法を守らせる(信仰の法則)のでなくてはならない。前者が「旧約」に、後者が「新約」に対応する。この、文字と霊とのふしぎな一致には、「イエスがキリストである」という信仰告白に受肉の秘儀が現れているように、ひとつの秘蹟が介在していると言えるかもしれない。
 つまり、このぼくが神への愛(=憎悪)において行為することが、なぜだか文字(=ぼくという物語)に一致してしまうということである。この一致は偶然のたまもので、もちろん時に破られもする。しかし、どうして一致するのか。一致するように思えてしまうのか。
    ○
 定額給付金で春山行夫詩集(稀覯本、市場価格一万数千円ほど)でも購入しようかと思っていたのだが、売れてしまっていた。しかたがないので、エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』上下巻でも買い入れようかと考え中。春山行夫は、日本モダニズム詩の立役者のひとりなのに、なんでまともな詩集が出ていないのだか。
    ○
 ブログの方で人と話しているとき考えたのだが、また「真理と意味」の話だけれど、真理→意味という流れがいまひとつつかめないのは、ここでいう「真理」の本性がどうもよく分かっていないためらしい。
 つまり、「真理」には三種類の意味がある。「客観的事実」「客観的世界」「客観的構造」の三種類で、関係としては以下のようになるだろうか。

◆客観的事実=客観的世界+客観的構造(+物自体?)

 まず、名辞の意味は客観的事実を介して学ばれる。このことは明白で、ぼくは現在でも、あたらしい言葉を覚えるためには、常に客観的事実を介してその意味を覚える必要がある。
 次に、客観的事実が存立できるための客観的世界という概念があるが、この客観的世界という概念がなくとも言葉を覚えることが可能かどうかは、凄く難しいところである。他者と会話できるためには、それぞれの言明が同一の世界についてのものであることが理解できている必要がある。とはいえ、これはどういうことか、そして本当にそうなのか。
 それから客観的構造。これはつまり「主‐述」構造ということで、客観的事実にも客観的世界にも由来するものではないから、独立して出自を洗わなくてはならない。
 ……とまあ、このように「真理」には多義性があるわけなのだが、一体「意味から真理へ叛逆することができない」というときの「真理」とは、このどれのことを指していて、そしてどういう理窟で叛逆できないということが言われているのだろう。そもそもこれらの内、叛逆可能であるのは「客観的事実」しかないように思えるのだが、そうだとすると、権利上叛逆可能であるということは、先の日記で論じたことである。
    ○
 東方花映塚。暇をみつけて練習してる内に、ようやく霊夢でてゐを倒すことができました。これで念願のルナシューター……なわけないけど。えーきさんとか倒せないと、やっぱりだめなんだろうなー。足が遅いので、小町ぐらいなら倒せる気がする。また練習してみます。
 なお、操作デバイスは無論キーボード。

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