中島義道『差別感情の哲学』
書評ブログからの転載です。
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◆中島義道『差別感情の哲学』
§中島義道、いまだかつてない駄作
あらかじめ述べておくが、ぼくはこれまで中島の著作を、二十数冊読んできた。現代日本の哲学者のなかで、永井均とならんでもっとも尊敬している人物のひとりである。中学生時代からずっと私淑していて、大きな影響を受け続けてきた。だから、こんな文章を書かなくてはならないことを、とても残念に思う。中島が差別をテーマにした著作をあらわすと伝えきいて、発売日を待つのももどかしく、購入してすぐに読み始め、数時間で読了した。なぜなら、ぼくは差別論にふかい関心があり、しかも、ぼくが自分で差別ということを考えてゆくに当たって、ずっと念頭に置き続けてきたのは、ほかでもない、中島の文章だったからである。ちくま文庫『哲学者とは何か』に収められてある、「差別感情と『好き・嫌い』」という小論は、常識によらない差別への見方を呈示していて、とても新鮮だった。中島の差別への言及はそう多くはなく、だからぼくは、今般中島が『差別感情の哲学』という著作を書きおろすということを知って、心待ちにしていたのである。だが本書ときたらどうだろう。
§差別論に御託はいらない
もしも中島が、この著作を、差別についてのものとしてでなく、日本人の心性について、あるいは人間感情をめぐるものとして、刊行していたとしたら、ぼくはここまで怒りにかられることはなかっただろう。だが中島は、本書を差別をめぐる議論として刊行している。そしてそうであるなら、あまりにも中島は「差別論を語るということ」に対して無自覚である。差別を論じるということは、差別を論じるその語り口のなかに包摂されてしまうということであり、よほど自覚的にそこから脱却しようとしなければ、ありきたりな「自意識語り」に落ちこんでしまうことを避けられない。そして現に、本書は出来合いの「差別論」といささかも異ならない、読んでいて吐き気がするような言説に埋め尽くされている。引用文献も、あれほど中島は「哲学は思想ではない」と言っていたにもかかわらず、社会学系のゴミみたいな論者のものばかりで、こんな本には哲学を名乗る資格はない。『差別感情の社会学』とでも改題したらどうだろう。
そうして、ケガレがどうたら、まなざしがこうたら、意味不明な御託がならべ立てられている(御託をやるにしたところで、中島でなく、現代思想系テクスト論者の面々だったら、もっとうまくやってくれるだろう)。差別論に御託はいらない。哲学はそんな言葉遊びではない。もちろんくだらない自意識語りでもない。第三章『差別感情と誠実性』では、みずからの言説(あるいはまなざし)が他人を傷つけるのではないか、あるいは他人の言説がみずからを侮蔑しているのではないか、などといった反省的意識の無限後退が描かれてゆく。そして、それをどこまでも誠実に、そして繊細に直視し続けてゆくことだけが、差別について可能な一切なのだというのである。やめてほしい。誠実に直視するのはけっこうだが、そんな誰の差別論をひらいても書いてあるようなウワゴトで、なにかを解決した気にならないでもらいたい。たのむから差別論をめぐる、この出口のない泥沼じみたあまりに醜悪な現状に、興味本位でちょっと立ちよって、またひとつ醜悪な言説をつけ加えてゆくことをやめてもらいたい。それはべつの場所でやってほしい。
§不快/嫌悪/軽蔑
本書の理路によれば、差別感情は不快→嫌悪→軽蔑という順に、どんどん観念的に発展してゆき、最終的に確固たる差別を形成するのだという。この議論はしかし、差別について語ったものなのだろうか。これはむしろ、差別撲滅運動について説明したものなのではないか? つまり中島は、差別観念がきわめて現代的なものであることを理解していない。江戸時代の穢多・非人にしろ、ナチスのユダヤ人迫害にしろ、そんなものは差別うんたらという問題ではない。前者なら社会的機能に還元できるし、後者ならただの煽動に還元できる。そうでなく、それらが差別として語り出されることによって、差別撲滅運動のなかで差別であるとして語られてきたことで、はじめてそれらは差別になったのである。だから、被差別部落の社会的形成を、差別感情の形成として分析するなどというのは、実在しない対象にむけて机上の空論をふりかざしているにひとしい。「差別感情」は、きわめて現代的な感情なのであり、それを分析するためには、歴史上の差別とされる事例を考察していてもはじまらない。むしろ「差別について語ったテクスト」=「差別論」の分析を通じてしか、「差別感情」は解体されないのである。このことの認識が、中島には決定的に欠落している(もちろん、ほとんどの差別論にも欠落しているのだが)。
まさに、これまでの差別論は、差別する者(差別者)を、不快なものとして、次に嫌悪すべきものとして、最終的には軽蔑すべきものとして、語り出してきたのではなかったか。そしてこのことこそが、差別をめぐる問題系を、唾棄すべき泥沼のなかに落としこんできたわけである。中島の「逆差別」論もあまりに静態的すぎる。現代における「差別」は、はじめから「逆差別」でしかありえず、「逆差別」者をさらに「逆差別」するという構造が、差別の観念的閉域を形作ってきた筈だ。
これから、さらに詳細な批判論文を準備するつもりである。
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