中島義道『差別感情の哲学』
書評ブログからの転載です。
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◆中島義道『差別感情の哲学』
§中島義道、いまだかつてない駄作
あらかじめ述べておくが、ぼくはこれまで中島の著作を、二十数冊読んできた。現代日本の哲学者のなかで、永井均とならんでもっとも尊敬している人物のひとりである。中学生時代からずっと私淑していて、大きな影響を受け続けてきた。だから、こんな文章を書かなくてはならないことを、とても残念に思う。中島が差別をテーマにした著作をあらわすと伝えきいて、発売日を待つのももどかしく、購入してすぐに読み始め、数時間で読了した。なぜなら、ぼくは差別論にふかい関心があり、しかも、ぼくが自分で差別ということを考えてゆくに当たって、ずっと念頭に置き続けてきたのは、ほかでもない、中島の文章だったからである。ちくま文庫『哲学者とは何か』に収められてある、「差別感情と『好き・嫌い』」という小論は、常識によらない差別への見方を呈示していて、とても新鮮だった。中島の差別への言及はそう多くはなく、だからぼくは、今般中島が『差別感情の哲学』という著作を書きおろすということを知って、心待ちにしていたのである。だが本書ときたらどうだろう。
§差別論に御託はいらない
もしも中島が、この著作を、差別についてのものとしてでなく、日本人の心性について、あるいは人間感情をめぐるものとして、刊行していたとしたら、ぼくはここまで怒りにかられることはなかっただろう。だが中島は、本書を差別をめぐる議論として刊行している。そしてそうであるなら、あまりにも中島は「差別論を語るということ」に対して無自覚である。差別を論じるということは、差別を論じるその語り口のなかに包摂されてしまうということであり、よほど自覚的にそこから脱却しようとしなければ、ありきたりな「自意識語り」に落ちこんでしまうことを避けられない。そして現に、本書は出来合いの「差別論」といささかも異ならない、読んでいて吐き気がするような言説に埋め尽くされている。引用文献も、あれほど中島は「哲学は思想ではない」と言っていたにもかかわらず、社会学系のゴミみたいな論者のものばかりで、こんな本には哲学を名乗る資格はない。『差別感情の社会学』とでも改題したらどうだろう。
そうして、ケガレがどうたら、まなざしがこうたら、意味不明な御託がならべ立てられている(御託をやるにしたところで、中島でなく、現代思想系テクスト論者の面々だったら、もっとうまくやってくれるだろう)。差別論に御託はいらない。哲学はそんな言葉遊びではない。もちろんくだらない自意識語りでもない。第三章『差別感情と誠実性』では、みずからの言説(あるいはまなざし)が他人を傷つけるのではないか、あるいは他人の言説がみずからを侮蔑しているのではないか、などといった反省的意識の無限後退が描かれてゆく。そして、それをどこまでも誠実に、そして繊細に直視し続けてゆくことだけが、差別について可能な一切なのだというのである。やめてほしい。誠実に直視するのはけっこうだが、そんな誰の差別論をひらいても書いてあるようなウワゴトで、なにかを解決した気にならないでもらいたい。たのむから差別論をめぐる、この出口のない泥沼じみたあまりに醜悪な現状に、興味本位でちょっと立ちよって、またひとつ醜悪な言説をつけ加えてゆくことをやめてもらいたい。それはべつの場所でやってほしい。
§不快/嫌悪/軽蔑
本書の理路によれば、差別感情は不快→嫌悪→軽蔑という順に、どんどん観念的に発展してゆき、最終的に確固たる差別を形成するのだという。この議論はしかし、差別について語ったものなのだろうか。これはむしろ、差別撲滅運動について説明したものなのではないか? つまり中島は、差別観念がきわめて現代的なものであることを理解していない。江戸時代の穢多・非人にしろ、ナチスのユダヤ人迫害にしろ、そんなものは差別うんたらという問題ではない。前者なら社会的機能に還元できるし、後者ならただの煽動に還元できる。そうでなく、それらが差別として語り出されることによって、差別撲滅運動のなかで差別であるとして語られてきたことで、はじめてそれらは差別になったのである。だから、被差別部落の社会的形成を、差別感情の形成として分析するなどというのは、実在しない対象にむけて机上の空論をふりかざしているにひとしい。「差別感情」は、きわめて現代的な感情なのであり、それを分析するためには、歴史上の差別とされる事例を考察していてもはじまらない。むしろ「差別について語ったテクスト」=「差別論」の分析を通じてしか、「差別感情」は解体されないのである。このことの認識が、中島には決定的に欠落している(もちろん、ほとんどの差別論にも欠落しているのだが)。
まさに、これまでの差別論は、差別する者(差別者)を、不快なものとして、次に嫌悪すべきものとして、最終的には軽蔑すべきものとして、語り出してきたのではなかったか。そしてこのことこそが、差別をめぐる問題系を、唾棄すべき泥沼のなかに落としこんできたわけである。中島の「逆差別」論もあまりに静態的すぎる。現代における「差別」は、はじめから「逆差別」でしかありえず、「逆差別」者をさらに「逆差別」するという構造が、差別の観念的閉域を形作ってきた筈だ。
これから、さらに詳細な批判論文を準備するつもりである。
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コメント
貴方は差別に関して、こだわりというか、憎悪のようなものを持っているようですね。
それは差別する者への差別、或いは暴力的に表現の自由を奪う差別に対して向けられているのでしょうか。 一部当たってますか。 もしそうであれば、そんな気持ちを抱くきっかけってあったのかな。実は、私は差別や偏見がこの世にあったからこそ、結果的にこの世に生まれる事が出来きた人間です。皮肉ですね、だから差別や偏見を否定する事は私の生存を否定する事と繋がるんです。随分薄汚れた血だなと思うね。間接的な説明で何の事かさっぱり分からないと思うけど。何か貴方に伝わるかな。いえ、下らない感傷だと冷笑して頂いても構いませんが。ごめんなさい、変な話しになってしまいました。
「まなざし」読みました。貴方の持っ一面の世界に触れらたようです。だけど一瞬だけ深い孤独になりました。それはこの作品を一緒に読んで共有してくれる人がまわりにいない悲劇です。
投稿: あおい | 2009年5月17日 (日) 01時41分
まだ中島氏のこの本を読んでいないので、そのことについてはなんとも言えないのですが、差別が差別を叫ぶということにあるということは全くその通りだと思います。また現代の差別が逆差別であるということも当たっていると思いますね。
差別する人を差別するということから考えると、実は誰かが誰かを差別すると思えるということも、それ自体一つの差別である気がしますね。それは自意識と自己愛と他者の視線が異様に気になるということが綯い交ぜになっているということが言えると思います。
それからあおいさんのご指摘もなるほどと思います。差別のないところでは実は何も生まれないとも言える気もするからです。ですが差別に対する克服が何かを生むとも思えないですね。寧ろ差別するとかしないとかを忘れるというところで何かが自然と生まれているとは言えないですかね。
と言うことは相手からの差別だけを考えるのではなく、差別されていると感じるということの正体を考えることも重要だろうと思われますし、差別の眼差しを向けられると感じる自分が一番相手を差別したがっているということも考慮に入れなくてはならないと思いますね。
差別以外に、では同化とはどういうことか、あるいはそれは必要なのか、もしかしたらそれは幻想ではないか、あるいは異化と差別はどう違うのかということも考えるに価するのではないですかね。
投稿: 河口ミカル | 2009年5月17日 (日) 23時09分
河口ミカルさん、コメントありがとうございます。
今日は三本で50円の薔薇を買って、そのあまりの安さに有頂天に喜んでました。そんな小市民的な自分が真顔で差別について語るのは内心、滑稽にも思われます。しかしどんな人間であれ、ひと度社会に出れば差別に何らかの形で直面します。それは差別される側であったり、する側であったりと。また、その片方を経験したり、或いはその両方であったり。多分、後者の人間がほとんどかと思います。つまり全ての人間が平等に差別と関わっているんですね。
河口さんが仰るように、差別されたと考える側の相手への不審も逆に差別に繋がるのではないかと指摘されてましたが、なるほど理解できます。確かに受け止め方の問題もあるでしょう。最近では過剰な差別意識だけが脚光を浴びているように思えます。以上が私の次元から見た差別に関して思う事です。
さて、河口さんやitikunさんは、ご存知かどうか分かりませんが、北條民雄の作品を読んでどんな感想を持たれるか興味深いところです。まぁ、itikunさんに限っては北條なんて奴は全くの拒否反応かもしれませんね。私はそれはそれで面白いですけどね。
最後にまた下らない一日の続き、なまけものの動物について考えてみた。彼らは彼らなりに一生懸命生きているのにそれなのにあんなふざけた名前をつけるとは如何なもんか。
「なまけものなんて、そりゃなまけものに失礼だ!せめてのんびりさんと呼んでやれ。」では、退散致します。
投稿: あおい | 2009年5月20日 (水) 01時59分
>あおいさん
コメントありがとうございます。返信が遅くなって申しわけありません。
こだわり、憎悪……そうですね、たしかに憎悪と言ってもいいかもしれません。差別をめぐる言葉のありかた(つまり「差別論」のありかた)に対して、おそろしい怒りにかられてしまうことを、どうすることもできないのです。その理由は、難しいですね。第一に、ぼくは言葉に対して凄く執着があり、一語一語が生きているように受けとれてしまうので、言葉狩りということが、身を切られるように辛いということがあります。それから、神を背負って語ろうとするやり方に、激しい嫌悪を覚えるということもあります。神というのは、この場合「世間」とも言えますが、つまり自分の言葉でなく誰かの言葉で、みずからは傷つくことなく他者の存在を糾弾してゆくというやり方のことです。そして中島義道は、こういうやり方をずっと批判し続けてきた著者だったにもかかわらず、差別論の語り口に呑みこまれて差別語りの権力性にまったく無自覚だったので、そのことがとてもショックでした。
>実は、私は差別や偏見がこの世にあったからこそ、結果的にこの世に生まれる事が出来きた人間です。
分かるような気もしますが、きっと分かってはいないでしょうね。それが分かったと言えるのは、本当はあおいさんだけの筈なんですから。中島も、悪意や攻撃心こそが文化を作り、人間を駆動しているということを、一面の真理として認めてはいました。このことはぼくも認めます。そしてもちろん、他者からの悪意や攻撃を、だまって受け入れる必要なんかないわけです。そうだとしても、それをもはや「差別」と名づけることはよして、自分の言葉で自分のために語り出してゆくべきじゃないだろうか、というのが、ぼくにできる唯一の提案なのですね。
北條民雄は、名前は存じていますが、まだ読んだことはありません。拒否反応、ということになりそうなのでしょうか。障害や病気といった、自己の立場に忠実に語り出してゆこうとする試みは、ぼくとしては否定するつもりはないですけれども(もっとも、それらを売りにしているようなのには、吐気がしますし、それらを売りにしている人が多いため、そういう著作が総体的にレベルが低めだとは思うのですが)。
「まなざし」をお読みいただけたということ、ありがとうございます。あの作品は、もちろん修行中の身ですから偉そうなことは言えませんが、分かる人と分からない人とに二分されるだろうと思います。そして、世の中のほとんどの人は、多分「分からない」だろうと思いますね。こういう、世間にとっての無用の長物を、書き続けてゆかざるをえないということは、呪いみたいなもので、もう呪われてしまったからには続けてゆくことしかできません。でも、本当にときどき、「分かる」という方もたしかにいらっしゃって、そういう(あおいさんのような)方と出会えたときには、泣きたいくらい嬉しくなります。
投稿: itikun | 2009年5月20日 (水) 05時53分
>河口ミカルさん
書きこみありがとうございます。
>差別する人を差別するということから考えると、実は誰かが誰かを差別すると思えるということも、それ自体一つの差別である気がしますね。
このことを、ぼくの差別論の体系では「認識の差別構造形」と名づけています。つまり、「差別者‐被差別者」という対立で世界を構造化してしまうということです。このような認識構造を批判することを、ぼくは「無構化」と表現します(意味は「脱構築」とあまり変わりませんが、人の言葉を借りるのは嫌いなので、自分でタームを作りました)。認識の差別構造形を共有しているという意味で、「差別者」も「被差別者」も、「差別」の制作に対して構成的干与する共犯関係を結んでいると言えると思います。
>寧ろ差別するとかしないとかを忘れるというところで何かが自然と生まれているとは言えないですかね。
ニーチェの言う「子供」というのが、これに対応すると思います。でも、もはや原罪(世界を差別構造形のもとに構造化する価値体系を了解してしまうこと)を背負ってしまった人間は、「子供」になることはできないと思います。ぼくにしたところで、構造形批判という自分のテーマを頭では理解していますが、それでも「自意識と自己愛と他者の視線」によって形成される「差別するまなざし」に、苦しめられることが多くあります。やはり「超人」の出現を待つしかないのかな、というところです。
本当のところ、ぼくの差別論なんていうものは、既存の差別論の対立項としてしかありえず、だから相補的にしか成立しえないのかなとも思っています。とはいえ、ぼくは差別論を哲学だとは思っていないので、その事実に誠実でありたいとは思いません。相補的に成立するものだとしても、現状、「われわれの側」の主張をしている論者がほぼ皆無ですから、バランスをとるためにも、戦略的・政治的に主張してゆきたいと思っています。そこまでして主張したい理由は、なによりも、「差別」をめぐる言説がぼくの神経にさわるからであり、その感受性に忠実に(このことこそ、ぼくが中島義道という師から学んだことです)、あくまで自分のために、自分の神経の平静のために、主張してゆきたいと考えています。
投稿: itikun | 2009年5月20日 (水) 06時15分
コメント、ありがとうございました。貴方の誠実な言葉に胸を打たれました。なかでも、「自分の言葉で自分のために語り出してゆくべきじゃないだろうか」という貴方の提案は感銘を受けました。そうですね、自分の内から湧き起こる言葉を凝視していくことが、生きていく上でもまた創作に於いても大切なことですね。
北條民雄の作品に貴方が拒否反応を起こすのではと申したのは、私が貴方にどこか北條に似た匂いを感じたからです。それ故に彼に反発したり、また共感するところもあったりと、強い感情を抱くのではないかと感じたからです。まぁ、これは私の想像なので、全く的外れでしたらごめんなさい。
「まなざし」を読んで思ったのですが、もしかするとこの世に存在するのは、自分の自意識だけではないだろうかと。そうなると自分以外の人間は自分が創り出した妄想なのかも。怖いですね。結局、自分が見ている世界は自意識のフィルターを透して見ているものですもんね。他人が向けている自分への視線はもしかすると自分が自分に向けている視線なのだろうか。アナタは本当に存在しているの?なんか頭がおかしい人の会話になってきましたね。でも時々子供の頃からこんなこと考えてました。貴方のこの作品を読んで胸の内を打ち明けられました。
それではまた。
投稿: あおい | 2009年5月23日 (土) 18時35分
私はこの本を読んでいないのですが、他のホムペを参照してもまあ多分大丈夫だろうと思いましたので、コメントさせてもらおうかなと思います(違ってたら、本当にすいません)
中島がこの本で言ってることは、「差別は解決不能である。それを直視して、あたかも差別が解決できるかのように信じて、例えば差別撲滅運動とかに没頭するのはやめろ」みたいな内容だと思います
ところで、中島はこういうことも言っています「死は解決不能である。それを直視して、あたかも死が存在しないかのようにとか来世があるとかいう風に生きるのをやめよ」
さらにこういうことも言っています「負い目は解決不能である。それを直視して、あたかも負い目が存在しないかのように・・・」
中島は哲学というのはこういうどうしようもない状況を直視し「なぜだ」と問うことだと考えているのだと私は思うのですが、そう考えればこの差別論もいつも通りの中島です
あなたは中島の哲学がどういうものだと思っており、差別問題について彼に何を期待しているのでしょうか?
投稿: 通りすがり | 2009年11月28日 (土) 21時41分
>通りすがりさん
おっしゃる通り、いつも通りの中島だと思います。
しかし、差別も死も負い目も、それぞれ違うものです。ぼくは「死は解決不能である」という中島の議論には深く同意しますが、「差別は解決不能である」という意見には同意しません。今回の中島の差別論は、死は解決不能であるという議論のフレームワークをそのまま差別論にも敷衍しただけのもので、差別論固有の論点が全く見えてこないと考えます。つまり、中島は差別を直視できていないのだと思います。ちょっと差別について、ぼくの思い入れが激しすぎるのかも知れませんが、氏が差別に対してまじめに「なぜだ」と問いを発し、直視しようと努力しているようには、とても思えませんでした。むしろ中島義道というキャラクターを演じる、そのダシに差別を利用して、「いつもの中島さんだなあ」と思われたがっている、そんなふうに読めました。
それを、ほかのテーマでやっているのであれば、ぼくは何も思わなかったでしょうが、差別という個人的に非常に注意を払っている分野でやっていたので、腹が立ったという、それだけのことです。
なにか個別の内容にかんしてご意見があるようでしたら、またお書き込みください。
投稿: itikun | 2009年12月 2日 (水) 00時56分
>むしろ中島義道というキャラクターを演じる、そのダシに差別を利用して、「いつもの中島さんだなあ」と思われたがっている、そんなふうに読めました。
>それを、ほかのテーマでやっているのであれば、ぼくは何も思わなかったでしょうが、差別という個人的に非常に注意を払っている分野でやっていたので、腹が立ったという、それだけのことです。
全然、上の記事と言ってることが違うと思うのですけど
自分の思い入れのある分野に安易に首を突っ込んできたと言っても、中島は別に差別論の専門家ではないことはあらかじめ分かっているのですから、最初から期待しなければいいのに、と私は上の記事を見て思ったのです
また、差別は解決可能とお思いならば、その持論を展開すれば、中島の論の意味もなくなるし(だからいちいち批判する労もなくなる)、世界に蔓延る差別はなくなるしでいいことづくめですね
また、差別と死と負い目とがそれぞれ違うということなのですが、もちろん違うに違っているのですが、それらを哲学へと意識を向けるようにする状況だと一括りに考えるというのは、別に(中島や)私の独特の頼りなげな発想ではなく、例えばヤスパース等もそうです(差別の場合、彼の限界状況の「争い」の中に入れてしまえばいい)(ただ、あなたは差別は解決可能とお考えですから、賛成しなくていいのですが)
ところで、そもそもあなたは対話的態度がないような気がしますね
対中島としてもそうだし、対私にしてもそうです
対私にというのは、私の問いに対応した答えをしないということです
対話的態度というのは中島曰く、哲学に必要不可欠なものらしいのですが・・・、無いものは無いのだから仕方がありません、私も期待しないことにします
投稿: 通りすがり | 2009年12月 2日 (水) 16時52分
>通りすがりさん
>全然、上の記事と言ってることが違うと思うのですけど
そうですか。カーッとなって書いたので、何書いたか自分でも忘れちゃいましたけど。どこか、ぼくの発言に上の記事と矛盾しているところがありますか? どこですか?
>最初から期待しなければいいのに
そうですね。でも、かなり長い間、中島義道から影響を受けてきた人間として、そしていまでも中島義道という人物を(かなりひねくれた形ではあっても)非常に深く尊敬している人間として、どうしても期待してしまうのは自然なことではないでしょうか。
>また、差別は解決可能とお思いならば、その持論を展開すれば、中島の論の意味もなくなるし(だからいちいち批判する労もなくなる)、世界に蔓延る差別はなくなるしでいいことづくめですね
展開するつもりですよ。まあちょっと待ってくださいよ。ぼくは民間人なんですからね。あなたが雑誌に枠を提供してくれるというのなら、今月から「差別論」の連載を開始したっていいですよ。
もちろん、上の記事はただの批判です。批判はネガティブなものなので、ポジティブなぼくの意見が見えてこないとおっしゃるのなら、それはそうです。でも足がかりとして、あるいはこちらのモチベーションを維持するためにも、批判にはそれなりの意味があります。意味があると思ったから記事にしているのです。
>ただ、あなたは差別は解決可能とお考えですから、賛成しなくていいのですが
別に、ぼくをとんだ夜郎自大だと思ってもらって結構ですが、ぼくは過去のどんな差別論にも差別を「直視」できたものはないと思っています。これまでの差別論はゴミの山でしかなかった。そして、今回中島が差別の本を出すと知って、少しは期待していたのですが、やはりゴミの山の上に一冊が追加されただけだった。
だから別に、中島の本が特にどうだと思っているわけでもないです。中島が本書でよく引用している好井裕明『差別原論』だって、やる気があったら中島の本より手ひどく批判したと思います。
>ところで、そもそもあなたは対話的態度がないような気がしますね
なんの話ですか? いわゆる「勝利宣言」とか、それに類する行為ですか? それとも返信が遅れて怒ってます? 「気がする」とか曖昧なことを言われて批判されても、なんのことだか分かりません。そういう批判の仕方が、中島的な意味での「対話」であるとも思いません。批判するなら、論点を明確にして批判してください。
ちなみに、「対話」という概念は、ぼくも中島哲学において一番重要視している概念です(でも、別に中島の一言一句を真に受けて、信仰じみた「対話」をしようとも思いませんけど)。ぼくが中島の対話実践に何を見るかということについては、『新文学』2号に寄稿しました。
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html
ご興味がありましたら(多分ないだろうけど)ご購入ください(ただの宣伝です)。
投稿: itikun | 2009年12月 3日 (木) 00時31分
>どこか、ぼくの発言に上の記事と矛盾しているところがありますか?
あなたは上の記事では、中島の「いまだかつてない駄作」と言っていますが、私への返信では『むしろ中島義道というキャラクターを演じる、そのダシに差別を利用して、「いつもの中島さんだなあ」と思われたがっている、そんなふうに読めました』と言っています
矛盾した態度と思います
>そうですね。でも、かなり長い間、中島義道から影響を受けてきた人間として、そしていまでも中島義道という人物を(かなりひねくれた形ではあっても)非常に深く尊敬している人間として、どうしても期待してしまうのは自然なことではないでしょうか。
「おそらく中島を尊敬し影響を受けるというのがあるとするれば哲学においてであろうと思います、哲学者ですから。しかし、中島は差別論の専門家ではないので、差別各論においていきなり誰も今まで見出していないような視点を持ってくるだろうと期待するのは不自然です(だから、最初から期待しなければよい)」という内容を私は書いたつもりです
返答としては、何においてあなたが中島を尊敬しているのか、ということを明確にしなければ私と話が噛み合いません
> 展開するつもりですよ。まあちょっと待ってくださいよ。ぼくは民間人なんですからね。あなたが雑誌に枠を提供してくれるというのなら、今月から「差別論」の連載を開始したっていいですよ。
私に雑誌連載の枠を作る力はありませんし、別に持論展開急かそうとしたわけではありません
> もちろん、上の記事はただの批判です。批判はネガティブなものなので、ポジティブなぼくの意見が見えてこないとおっしゃるのなら、それはそうです。でも足がかりとして、あるいはこちらのモチベーションを維持するためにも、批判にはそれなりの意味があります。意味があると思ったから記事にしているのです
なるほど、あなたのモチベーションのためなら、私には迂遠に見えることでも意味がありますね
>なんの話ですか? いわゆる「勝利宣言」とか、それに類する行為ですか? それとも返信が遅れて怒ってます? 「気がする」とか曖昧なことを言われて批判されても、なんのことだか分かりません。そういう批判の仕方が、中島的な意味での「対話」であるとも思いません。批判するなら、論点を明確にして批判してください。
「気がする」と書いたのは、「対話的態度が無いなんて言葉は結構激しい批判だから、もし私に分からないだけであなたがきちんと対話しているのかもしれないし、そうだとしたら極めて失礼だ」と自分でも思ったので、言葉を濁したのです。私が言う対話的態度は勝利宣言の類でもないし、返信が遅い(怒ってません)という話ではないです。要するに私の言ってることとあなたの返答が噛み合ってないということを非難しているのです。私は前々回に「あなたは中島の哲学がどういうものだと思っており、差別問題について彼に何を期待しているのでしょうか?」と書いておきましたが、あなたは全く返答する気が無い(対話の最も基本的なことは、問いと回答の形式が一致することです)。私はあなたの差別論に実は何の興味も無いのです。私が興味があるのは、中島の本をたくさん読み、尊敬し、影響を受けたと言っていながら、いつもの中島の本に対して憤慨していることです。そこで、私はこの人は中島の哲学を一体なんだと思っているのだろう、中島に何を期待しているのだろうと思い、聞いてみたわけです。あなたの答えがこれに関して全く見当違いなので、私はもう別にいいやと思い気味です。
> ちなみに、「対話」という概念は、ぼくも中島哲学において一番重要視している概念です(でも、別に中島の一言一句を真に受けて、信仰じみた「対話」をしようとも思いませんけど)。ぼくが中島の対話実践に何を見るかということについては、『新文学』2号に寄稿しました。
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html
ご興味がありましたら(多分ないだろうけど)ご購入ください(ただの宣伝です)。
中島の言ってることを真に受けることが対話だと誰が思うでしょう?あなたが中島の対話実践に何を見るか、ということには、やはり興味がありません。対話概念がどうこうというのは今はどうでもいいです、あなたが問いと回答の形式が一致することが対話の必要条件だと認めさえするならば。そこで、さすがにそれを認めてくれることはしてくれるだろうと思いますので、もしいまだに返事をしてやるお心遣いをお持ちでしたら、前々回した質問に答えてください。
投稿: 通りすがり | 2009年12月 4日 (金) 01時06分
通りすがりさんによると、確かにそうです、中島氏は別に差別の専門家ではないですね。つまり氏は端的にカント研究から入った専門的哲学領域者ですよ。ですから中島氏が批判している哲学研究者こそ彼ですよ。ですから彼が小浜氏との往復書簡形式の「やっぱり、人はわかりあえない」では哲学に対して求め過ぎる大衆に対する衆愚性を中島は言っている。これは氏のどの本でも共通したスタンスです。しかし小浜氏はそれを違うと考えてもいいというところに哲学専門家ではないのに、哲学にかかわる可能性を考えている。
ですから私は未だこの本を読んでいないのですが、読んだとしても恐らくいつもの通りの中島氏のスタンスを感じるだけでしょう。つまり中島氏は自身死後の世界とか神を信じていたとしてもそれを言うつもりなど毛頭ない。何故なら彼は意識論者だからです。そういう意味では中島義道という論客は意外とリチャード・ドーキンスに近い。
しかし私は最近南直哉の本とか玄侑宗久とか熱読しているのですが、要するに私は五十を過ぎてから死を受け入れる体勢を作るようにしてきているので、中島的意識主義、対話主義はそれはそれで価値だけれど、別にそれだけでなくてもいいと思えだしたのです。寧ろあっさりしているようでいてそうではないのが永井均であり、ねちっこいようだけれどあっさりしているのが中島氏ですよ。つまり彼の哲学専門家としてのダンディズムですよ。そういう意味では永井氏の方が哲学者としては文献学的では少なくともない。第一氏の最大啓発者であるところのウィトゲンシュタインがそうではないからね。彼は完全に強迫神経症患者でもあるけれど、やはり永井氏の言うように独我論病者なのですね。
カントは今度原文で読むことにしたのだけれど、やはり感性が世界を作るということに拘った人ですね。そういう意味で中島氏は自らの幼児以来の特殊体験とそれを結びつけたということです。しかしやはりカントはカントで屈折しているけれど、それをモラル論としているところが凄い。しかしそれはやはり倫理学的ではないんだな。つまりそれが永井氏がカントを自己に対する啓発書ではないものにしている。モラル論という意味ではヘーゲルもそうなんだけれど、ヘーゲルの方が寧ろ神を私は感じるな。
谷口さんによる差別に対する一つの思い入れ自体は中島批判からは少し読み取り難いということはやはり言えると思いますね。しかしそのある種の拘りというか、合理的に説明し得なさ自体は書く人のモティヴェーションとして大切であるとは思いますね。私にも何故かそう言うことがありますからね。例えば性とかもそうですね。ところで中島氏に最も性を感じさせるテクストは「愛という試練」ですね。セクシーさということで女性から持てるのは永井氏ではなく中島氏という気が私はしますね。
差別と言えば勝間和代氏はかつて学生時代に一番一般企業で差別されないものとして、しかも実践的にすぐに食えるということで公認会計士を選んだということですが、子持ちであるということで日本企業が採用してくれなかったので、外資系を渡り歩いたということがあるらしいけれど、そういう下らない差別がこの国では多過ぎる気がする。そしてそのことでも中島氏は常に口を噤む。それは自分の専門ではないし、自分の関心事ではないからということ。確かに仮に哲学者にしても経済学者にしても、脳科学者にしてもそういう差別に対する発言をしても高が知れているという部分がある。そういう意味では中島氏はクールな客観主義者ですね。養老氏ともまた違う意味でね。
私はおかしいことが社会であれば、それも言いたいということがある。それを「価値のメカニズム」で言っている。http://mechanismofvalue.blogspot.com/要するに私には何も領域を外してはいけない専門等ないという意味で社会に対して言いたいことは言うつもり。でもアートに関してはそうも行かないですけれどね。そこら辺は「トラフィック・モメント」http://trafficmoment.blogspot.com/に少し前に書きました。ご関心があれがお読み下さい。
投稿: 河口ミカル | 2009年12月 4日 (金) 22時35分
http://trafficmoment.blogspot.com/
投稿: 河口ミカル | 2009年12月 4日 (金) 22時41分
>河口ミカルさん
とりあえずコメント拝読いたしました。
投稿: itikun | 2009年12月 4日 (金) 23時27分
>通りすがりさん
現状、残念ながら話が噛み合っていないようです。このまま枝葉末節を議論していても、生産的な会話にはなりそうにないと思えます。このことは、おたがい特に悪意があったわけでもないですし、どちらの責任とも言えないでしょう。そういうわけで、とりあえず一旦リセットするつもりで書き込みます。
正直なところ、あなたが何をぼくに尋ねたいのか、ぼくに対してどんな返答を求めているのか、ぼくには伝わっていません。これは、ぼくの読解力が低かったのかも知れませんし、もう少しあなたの意図を汲む努力をすべきだったかも知れませんが、一方で、あなたの質問が漠然としすぎていて、具体的に何を答えてよいのか分からないということもあります。
>あなたは中島の哲学がどういうものだと思っており、差別問題について彼に何を期待しているのでしょうか?
あなたの前々回のご質問とはこちらでしたね。勿論、ぼくは「質問に対して返答する」という意味での対話を行なっているつもりでしたし、実際答えたと思っていました。
最初の投稿で、あなたは、
>中島がこの本で言ってることは、「差別は解決不能である。それを直視して、あたかも差別が解決できるかのように信じて、例えば差別撲滅運動とかに没頭するのはやめろ」みたいな内容だと思います
と書きました。これに対して、ぼくは「おっしゃる通り、いつも通りの中島だと思います」と答えました。これが「中島哲学をどういうものだと思うか」に対する返答です。つまり、ぼくの中島に対する認識はあなたのおっしゃる通りで、中島哲学について、特にあなたと違った見解を持っているわけではない、ということです。「差別問題について彼に何を期待するのか」に対しては、上の記事でいろいろ書きました。「差別論を語ることに対してもっと自覚的であってほしい」「差別観念がきわめて現代的なものであることを理解してほしい」「差別と逆差別の繊細な関係にもっと注意してもらいたい」などです。そして全般的に、差別論固有の論点に対する無自覚があると思ったので、あなたへの返信にそのことを書きました。
これらの返答が、あなたの求める返答でなかったことは分かりました。では具体的に、どの部分をどう掘り下げて返答すればよいのでしょうか。「ぼくの考える中島哲学」全てをあなたに対してコメントするのは、分量的に不可能です。ぼくが中島に期待するのは、勿論「ぼくの考える意味での正しい差別論」であり、それは、ぼくが差別に対して何らかの主張を持っているかぎり当然のことだと思います。
ですから、例えば「本書で中島はこう述べているが、あなたはどう反論するんだ」とか、「あなたは上の記事で××××と批判しているが、これは見当違いではないか」とか、もっと具体的に質問していただければ、お答えできます。しかし、漠然とした質問には漠然とした返答しかできません(少なくとも、あえて返答を漠然とさせる意図がなかったことだけは、ご理解いただきたいと思います)。
投稿: itikun | 2009年12月 5日 (土) 00時55分
>通りすがりさん
コメントを分けます。
>あなたは上の記事では、中島の「いまだかつてない駄作」と言っていますが、私への返信では『むしろ中島義道というキャラクターを演じる、そのダシに差別を利用して、「いつもの中島さんだなあ」と思われたがっている、そんなふうに読めました』と言っています
>矛盾した態度と思います
特に矛盾しているとは思いません。「中島義道というキャラクター」が通用する分野では名著になるものでも、通用しない分野でやってしまったら駄作になります。そして、差別という分野では、氏の著書は浅はかだった、駄作だったと考えます。
>「おそらく中島を尊敬し影響を受けるというのがあるとするれば哲学においてであろうと思います、哲学者ですから。しかし、中島は差別論の専門家ではないので、差別各論においていきなり誰も今まで見出していないような視点を持ってくるだろうと期待するのは不自然です(だから、最初から期待しなければよい)」という内容を私は書いたつもりです
>返答としては、何においてあなたが中島を尊敬しているのか、ということを明確にしなければ私と話が噛み合いません
まず正直なところ、ぼくが尊敬する人間に対して何を期待するのも勝手ですから、「最初から期待しなければよい」という意見は不毛だと思います。中島は差別論の専門家ではないと言いますが、好悪感情や社会問題に対する言及は随所に見られますから、氏の差別論にも期待してしまうことは、そう不自然なことではないと思います。少なくとも、ぼくは中島を『カントの時間構成の理論』『カントの自我論』『時間と自由』などといった、純哲学的な著書からだけ尊敬しているわけではありません。
もう少し個人的な事情を述べますと、上の記事にも書きましたが、ぼくは『哲学者とは何か』所収の「差別感情と『好き・嫌い』」という小論から、非常に影響を受けました。つまり、この小論を基本的視座として、自分でも差別について考え始めたのです。つまり、ぼくの差別に対する考え方は、中島の考え方を土台にして築かれた。そして自分でも、差別について一定の結論をえることができた。だから中島の今回の著書にも期待したのです。当然、中島が本書で出す結論は、ぼくが自分で出した結論と同じでなくてはならなかった。そういう期待を込めて本書を読んだのに、見事に裏切られてしまった。だから怒りに任せて上の記事を書いたのです(勿論、こんなのは個人的怨恨にすぎませんが、ぼくは個人的感情に拘る方です)。
では、中島の考え方が、例の小論と本書とのあいだで変化したかというと、そんなこともないと思います。中島は中島で、自分の差別に対する考えを推し進めたのでしょうし、ぼくもぼくで推し進めたのです。その結果が、たまたま一致しなかっただけです。
ここからは微妙なニュアンスのことを書きます。中島の見解も、ぼくの見解も、その相違も、簡単にまとめることはできないので。端的に言って、中島の結論とぼくの結論がどう一致しなかったかというと、ただ一点、中島は「全ては差別である」と考えており、ぼくは「全ては差別でない」と考えているのです。そして、全てが差別であるのと全てが差別でないのとは、実は同じことです。だからある意味では、中島の見解とぼくの見解とは、完全に一致しているとも言える。でも相容れないのです。まあ近親憎悪、というか「自己嫌悪」みたいなものだと思ってもらえればよいです。
とりあえず以上です。あとは、もっと具体的に質問なり批判なりをしていただけないと、こちらとしても、具体的にお答えすることができません。
投稿: itikun | 2009年12月 5日 (土) 00時56分
丁寧な返答ありがとうございます
大体どう食い違ったのかが理解できました
あなたは中島を単なる哲学者としてではなく、好悪感情や社会問題に対する論者としても評価しているということが、私に分からなかったのでした
それに対して、私は中島は好悪感情や社会問題それ自体を論じること等ありえないと確信しているのです
というのも、どうせ私が死ぬことに比べれば好悪感情はどうでもいいことですし、どうせ人類は滅亡するのだから社会問題は放っておけばいいのです
それにも関わらず、なぜに中島が好悪感情や社会問題に口出しするのかと言えば、「どうせ死んでしまう、それだけで絶望的なのに、生きている間は人間関係の好悪感情に振り回され、社会問題は解決されず人類生きている間だけでも皆が幸せになることはない。残酷、ああなんと残酷なんだろう、人生は!」という様に、唯人生が理不尽であることを強調するためだけだと思うのです
このように解して、初めて一本の筋を通すことができるのだと私は思います
どうせ死んでしまう・・・けれども、好悪感情や社会問題は解決されれば幸福だし、解決されるように色々考えてよう、なんていう態度は二枚舌です
私があなたに、「中島の哲学とは何か?彼に差別問題に関して何を期待するか?」と言ったのは、こういうことが念頭にありました
そこをあっさり哲学と差別は別だというような回答をもらったので、私は訳分からなくなってしまったのです
あなたは上の記事で「あらかじめ述べておくが、ぼくはこれまで中島の著作を、二十数冊読んできた。現代日本の哲学者のなかで、永井均とならんでもっとも尊敬している人物のひとりである。」と書いているので、すっかり中島の哲学観にあなたはどっぷりと漬かって共感していると、私は思い込んでしまったのです(しかし、あなたは唯「尊敬する」と書いただけでした)
私は、中島を専ら彼の哲学観と、それに付随する対話を貫徹しようとする態度ばかりに着目して尊敬していますから、こんな誤解をしたのでした
「ぼくが尊敬する人間に対して何を期待するのも勝手」というのは全くその通りです
そして、あなたが中島をどのように尊敬するのかも勝手でよいのでした
結局この食い違いは、あなたを中島の哲学観に共感しその哲学観を背負う自負を持っている人なのだと、勝手に私が勘違いしたことが原因でした
私の勘違いで、お手間をとらせて申し訳ありませんでした
投稿: 通りすがり | 2009年12月 5日 (土) 02時01分