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2009年6月10日 (水)

雑記 20090609

 先だって深草君も日記に書いていたが、マイミクの大学生、ARUKOBU君が自殺した。先月のこと、硫化水素自殺だった。日記で自殺をほのめかしていて、深草君はジョークかどうか分からず反応にこまると言っていたけども、まあこんなことになるだろうなとは思っていた。マンガ学きわめるんじゃなかったんか、東京に出るんじゃなかったんかい、おい、と思いこそすれ、いまさら言っても詮ない話である。彼が亡くなった夜、ぼくは彼にスカイプを架けていて、しかも出たと思ったら切られてしまった。音声デバイスの不都合があったのかもしれない、少し残念である。死んだのだから、もはやどうでもいいけどね。
 彼はもともと、ぼくの差別論がきっかけになって、ぼくにアクションをかけてきてくれて、哲学道場にも二度くらい参加してくれた。浅田彰『構造と力』でぼくが発表したとき、居合わせた。あの『構造と力』発表は、哲学道場史に残るほどの名発表だったと自分で思っているので、往時の感動を伝えてくれる人がひとり減ったのは、つくづく残念である。彼が死んだころ、ぼくは短歌を作っていたわけで、せめてぼくの短歌を読んで批評してから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、なんとも残念である。彼と通話で表現について話し合ったとき、彼はぼくに何冊か海外小説をすすめてくれて、いまやタイトルを失念してしまったので、教えてから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、いかんせん残念である。彼がなにも返答してくれないということが、とにかく残念である。彼のミニコミ誌のために執筆し、彼の要望を容れて大きく書きなおしたりもしたチャットモンチー論だけが、ミニコミ誌はとうとう刊行されず、ぼくの手許に残された。
 興味がないのでお通夜には行かなかった。ただ、作っていた短歌三十首中に一首、彼への挽歌が急遽入れられることになった。ぼくにできる「喪の作業」といったら、このくらい。

    ○

 購入した本。
 三島由紀夫『美しい星』、廣松渉『もの・こと・ことば』、原口統三『二十歳のエチュード』、寺山修司『寺山修司全歌論集』、稲垣足穂『天族ただいま話し中』、中城ふみ子『中城ふみ子歌集』、田島邦彦『これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語』、丹羽敏雄『射影幾何学入門』、ベンゼ『情報美学入門』、など。読了したものから書評ブログで報告してゆく予定。
 なんか情報美学おもしろそうだけど、これでレジュメ切ろうかな>深草君

※書評ブログ:http://d.hatena.ne.jp/TaniR/

    ○

 コミュニケーションとは、コミュニケーションの手順を習得することそのことであり、現実に対してなんらかの期待をいだき、その期待が現実によってたえず応答されるということである。これは現実に対して賭博的関係をとりむすぶということに相当する。中島義道的〈対話〉は、むろん現実に対する賭博でなくてはならない。
 ゼロアカ界隈では、象徴界S(ロゴス)の紐帯がゆるんだのちに、いかなるコミュニケーションの形がありうるかなどとかまびすしいけれども、事は単純だろう。現実に対するインターフェースのスタイルがどれほど変化したとしても、現実に対して「期待‐応答」というルーチンが反復されるかぎり、常にすでにコミュニケーションは生起していると言える。
 迷路とは、制作者と解答者とのダイアローグではないか、とこのごろ考えている。ぼくには迷路を作る趣味があって、最近はピクシブで発表したりしているのだけれど、イメレスで解答をもらえたりして、とてもうれしい。どうしてうれしいかというと、そこでコミュニケーションが成立しているからにほかならない。「迷路とは、世界で一番小さな賭博である」と、ぼくは思う。迷路というのは、分岐のひとつひとつに賭けてゆくゲームのことだからだ。手順を習得し、径路に期待をいだき、その期待が裏切られ、さらに制作者の心理を裏読みし、その裏読みが径路によって応答され……と、どこまでも〈対話〉に駈り立てられてゆく。それというのは、迷路が自己韜晦のスタイルでもあるからだ。迷路がどこか崇高に思えるのは、そこには神話が、すなわち「作者神話」が存在しているからではないだろうか。迷路は解答者のまえに「謎」として立ち現れてくる必要がある。そこで表現者とは「謎」を演出する者でなくてはならない。
 あるいは、東方花映塚(弾幕シューティング・ゲーム)をやりながら、弾幕がコミュニケーションであるとはどういう意味かを考えている。それはやはり、弾幕シューティング・ゲームをプレイするということが、手順を習得し、現実と〈対話〉することであるからなのでないか。この場合、弾幕シューティングにおける「弾幕の美」が「謎」に相当するかもしれない。ニコニコ動画に「東方紅魔郷Ultraモード」(sm6091554)なんていう動画が存在するが、この動画は弾幕をめちゃくちゃ濃くしておいて、それを実行速度50%でプレイするというしろものである。なんでこんな動画で感動できるのだろう。それは、なにか過剰なまでのコミュニケーションが視聴者の夢をなぞるように追体験できるからなのではないか。この動画をみていて、どこか渇望みたいなものを感じてしまうのは、ぼくだけなんだろうか……。
(ちなみに、賭けるということと、手順を習得するということにかんして、花映塚体験版についてくる「上海アリス通信 vol.5」で、神主の見解が述べられていて、参考になる)

※pixiv(迷路):http://www.pixiv.net/member.php?id=389792

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コメント

 辛い友人との別離というものはありますね。私は二十歳の頃、最もこれからいい意味でライヴァルになっていくだろうとお互いに思っていた同年で一回生だけ先輩のある友人をオートバイの事故でなくしました。彼の葬式が名古屋の実家でだったので、私たちの属するゼミから私よりも五年年長の留年していた先輩が皆を代表して出向きました。
 その彼が好きだったのが中原中也でした。もし彼が生きていたのなら、彼が別の意味で中也コンプレックスを乗り越えていただろうとも今は思います。私自身は中也的詩や短歌の世界もいいと思いますが、重要なことは自分の世界を切り開くということだからです。つまりその過程ではかつて愛してきたものでも疑問符に付す必要性もあると思うからです。

 私はつい一年前にも私の自宅に泊まったこともあるある知人を彼自身が五十一歳で失いました。時々本音を言い合う知人だったのでとてもショックだったのを思い出します。
 人との出会いも別れも試練ですし、「 コミュニケーションとは、コミュニケーションの手順を習得することそのことであり、現実に対してなんらかの期待をいだき、その期待が現実によってたえず応答されるということである。これは現実に対して賭博的関係をとりむすぶということに相当する。中島義道的〈対話〉は、むろん現実に対する賭博でなくてはならない」ということとか、「迷路とは、制作者と解答者とのダイアローグではないか、とこのごろ考えている」という辺り私にも何故かよく理解出来る気がしますね。
 先日寺山修司の生前のしかも死ぬ年になされたテレビのインタビューが「あの人に会いたい」(NHK)で放映されましたが、現実と虚構が錯綜しているような心理についてインタビュワーの三浦雅士に述べていたことが印象的ですが、迷路として意思疎通を考えることも創造について考えることも出来ますね。それは否定的意味合いからだけではないのですね。
 つまり本来否定的に捉えられてきたことを肯定的に捉え直すということもまた創造的な行為だと私も思います。そのことを寺山は言いたかったのではないでしょうかね?つまり虚構ということは今までは現実に対してネガティヴに捉えられてきたということですね。しかしそれは違うんじゃないか、想像が価値があるように、それが虚構だからこそ意味が有るということは、昨今では村上春樹が言っていたことでもありますね。
 いつの時代でもそういう考えが繰り返し再考されるということはいいことだと私は思います。

投稿: 河口ミカル | 2009年6月11日 (木) 10時32分

 コメントありがとうございます。

>私にも何故かよく理解出来る気がしますね。

 それはどういたしまして。コミュニケーションということについて、このごろ考えているのですが、やはりコミュニケーションをどうぶった切るか、どうコミュニケーションしてどこで突き放すかという点にアートの真髄がある気がしますね(思いつきです)。

>寺山修司の生前のしかも死ぬ年になされたテレビのインタビュー

 途中からですが、ぼくも視ました。三浦雅士は、寺山の生前から彼のよき理解者であったようですね。三浦の寺山論(鏡がどうたらというタイトル)はなかなか参考になりました。
 寺山の虚構観にはとても深いものがあって、現実に対する虚構の関係を根底から作りなおしてしまったような感があります。あれは色褪せませんし、いろんな表現者とのかかわりで論じてみたいものです。

投稿: itikun | 2009年6月12日 (金) 19時47分

たいへん、不躾な質問なのですが、ARUKOBUという方は実際に自殺されたのでしょうか?
私はその方と以前ミクシー上でお話したことがあるのですが、たまたました検索でこちらにたどり着き、どうもミクシーの名前も素性もその人のようなので驚愕しているんですが。

投稿: すいません | 2009年8月 7日 (金) 22時55分

>すいませんさん

 はい。あなたのおっしゃるARUKOBU氏が、ぼくの知っているARUKOBU君と同一人物でしたら、残念ながら、自殺されました。亡くなられたのは、5月21日の深夜であったと思います。
 具体的には、このブログの右のリンクからぼくのmixiに飛んでいただいて、ぼくのマイミクになっているARUKOBU君がその方なのでしたら、お気の毒ながらというところです。

 自殺するほどの理由がなにかあったのかどうか、ぼくには分かりません。でも、人間が自殺するのに、きっとそれほど重大な理由なんか必要ないのだろうな、というのがぼくの感想です。

投稿: itikun | 2009年8月 8日 (土) 00時43分

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