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2009年6月24日 (水)

文学的理性のこと

 このごろ考えたことをまとめてみる。

 このあいだ、新文学ustを拝見していて、ディスコミュニケーションがどうたらという内容の会話を聴きながら、本当のディスコミュニケーションをひしひしと感じさせられていた。それは、間‐理性的なコミュニケーション(ディア=ロゴス)がいかに不可能であるかという、その断絶のふかさを思い知らされたからである。批評するロゴスは、もちろん島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性なのであるが、このような理性は、ただに批評だけの所有するものではない。哲学もまたそうだし、じつは文学もそうであろうと思う(ぼくの「批評」批判の眼目は、文学もまたそのような理性であるという点に存する)。このことが、まったくと言ってよいほど理解されなかった。すなわち、批評は、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるような理性の可能性について、あまりにも想像力が欠如しているのである。ロゴスの異質性を超えた間‐理性的コミュニケーションの本当の難しさは、この点にあるのではないだろうか。
 批評に対する哲学の他者性というのは、島宇宙同士の他者性(多言をもちいるほどの他者性とも思えないのだが)などよりも、もっとずっと超越的な他者性である(しかし完全に超越的であるわけではない)。哲学と批評とのコミュニケーション不全は、島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性同士におけるメタ・レヴェルの対立、つまり複数の全体性のあいだにおけるメタ・コミュニケーション不全なのである(批評するロゴスは、すでに「複数の全体性」という表現を誤読しているだろう)。永井均のタームでは、哲学するロゴスとは省察的理性(真理の全体性を目がける理性)のことであり、批評するロゴスとは解釈的理性(価値の全体性を目がける理性)のことである。そして、解釈的理性にとっては、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるあらゆるロゴスは、もうひとつの解釈的理性であるとみなされがちである(だから「複数の全体性」という表現もまた「複数の“価値的”全体性」として誤読されてしまう)。この意味で、解釈的理性に対して省察的理性は超越的である。もっとも、「真‐善‐美」という組み合わせが伝統的に用いられてきていることからして、この三項の対立が理解できる以上は、完全に超越的である筈はないと思う。ここで、文学(藝術)的理性を「美の全体性を目がける理性」として位置づけたい。すると、こうなる。

【世界に対する理性のありかた】
○哲学するロゴス=省察的理性=真理の全体性(独我論的?)
○批評するロゴス=解釈的理性=価値の全体性(政治的?)
○表現するロゴス=文学的理性=美の全体性(A感覚的?)

【共通点】
○なんらかの全体性を目がけていること
○論理の言葉を用いること

 批評するロゴスに対して哲学するロゴスが超越的他者であるのと同様に、批評するロゴスにとっては表現するロゴスもまた、超越的他者なのではないか、というのが、ぼくの批判である。すなわち、批評は美を価値として誤読することによって成立する。たんに美の全体性を目がけるような理性のありかたを、批評は掬いとることができない(先述の通り、完全に超越的ではないので、ちょっとは掬いとれているかも)。
 哲学するロゴスと批評するロゴスとが対立しうるのは(つまりぼくがこんな文章を書かなくてはならなくなった理由は)、文学を媒介項として立てることができて、文学をめぐって両者が対立できるからではないだろうか。すなわち、真理と価値とは美(エロス)から全体性を補給しなくては存立できないのかもしれない。ここで真理を独我論的なものとして、価値を政治的なものとして考えると、瞬間性と歴史性とが美を媒介にして橋わたしされるというわけだから、稲垣足穂=オスカー・ベッカーの「美のはかなさ」論と同じ話になってくる。しかも、哲学と批評との両者に対して文学は他者なのである。文学的理性は実作によってしか、みずから表現者となることによってしか、掬いとられることはない(作者が死んでいたら小説は書けないのです、誰がなんと言おうと)。
 さてはて、間‐理性的な言説空間(ロゴスをコミュニケートするようなディア=ロゴス)は構築可能なのだろうか。そもそも、三種類の理性の出自を洗う作業が、ここまでないがしろにされてきた。これらロゴスの異質性は、いかなる基盤によって与えられるものなのか、そしてそれぞれのロゴスを特徴づけ、語りうるような言葉は成立できるか。「論理の言葉」がキー・ワードになりそうな気がしている。少なくとも、論理的瑕疵を駁論することによる間‐理性的コミュニケーションは常に可能であるからだ。このところ数年来、ぼくはいつでも「論理」というアポリアに立ちもどってしまう。それからもうひとつ。美の全体性とはなにか。それは「世界をデザインする」ということと、どんなかかわりがあるか。この点についても、おいおい考えてゆきたい。

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コメント

 あなたのこの叙述を通して考えたことは、それらは全て日本語によって書かれたものを通してであるということである。
 しかし私たちが例えば哲学を語る時日本人の永井均とか中島義道といった存在以外なら、デカルトとかカントとは日本語ではない人たちがかなりウエイトを占める。
 例えば意識についての本を原書(英語)で買ったんだけれど、そこでは例のチャーマーズとかと大勢(その他にもスーザン・グリーンフィールド<脳科学>、フランシス・クリック<分子生物学+脳科学>、ジョン・サール<哲学>、パット&ポール・チャーチランド<認知科学>)といった人たちとスーザン・ブラックモアとの奴なんだけれど、そこで扱われている問題は英語であるとか日本語であるとかいうこととは明らかに違う。
 しかし対談である「涙の理由」では重松清と茂木健一郎は確かに文学には壁を造るとことがあると言っている。つまり日本語の世界が翻訳不能である部分が残るという意味でだ。
 しかし村上春樹の小説世界はそもそも原文である日本語の世界からして、そんな日本人現実にはいそうもないからこそ、世界的レヴェルで翻訳可能だと2人は考えている。
 するとそこのところ、君にとって文学は一体、日本語の世界には拘るが、それは翻訳しやすいグローバルな人間像としてのものなのか、それともやはり京都で君が生まれたように、何らかの日本という土地の風土に拘ったものなのか、勿論君が作り物に拘っているということとそこら辺はどう関係するかということにおいての質問になるんだけれど。
 僕は日本人というよりも、もっと僕の知る人ということに拘るし、僕の見た世界ということに拘る。それがたまたま日本の例えば東京で、秩父で、川越で、横浜で、京都で遭ったこと、会ったことなのだ。だから 日本的にということに拘っているのも少し違う。しかしそれはロンドンでもソウルでもニューヨークでも同じように起こり得ることなのか、と問われればそれもやはり違うという風には答えられない。行ったことがないからね。どこにもね。
 例えばそれは文学や哲学ではなくて、批評だとどうなるのか?やはり日本には日本語による、日本に固有の批評状況とか風土とかもある気がする。
 しかしこの中では明らかに哲学は最初に日本からのものではないから、やはり日本語による色々な概念は、最初は西周によって翻訳されたわけだけれど、今僕の河口の方のブログの最新の更新内容から翻訳と英語と日本語の意識の問題に拘りだしたので、読んで貰えると有り難いのだけれどね。つまり哲学の場合明らかに文学や批評で日本語に拘るのとは違う何か、それをグローバリティと呼んでいいものかどうかそれはそれで難しいんだけれどね、それがある気がするけれど、そこら辺はどうなのかな?

投稿: 河口ミカル | 2009年6月24日 (水) 15時49分

>河口ミカルさん

 コメントありがとうございます。ブログの方も読ませていただいておりますよ。つまるところ、みずからの限定性をいかに担ってゆくかという態度についてのお話ですね。

 上の記事は、本当はもっとこまかく論じてゆく予定だったものですが、長くなりそうなので、とりあえずざっくり切ってまとめたものです。そういうわけで、哲学と批評と文学という区分のやりかたが、いくぶん恣意的なものに思われてしまうことはやむをえないところです。その点、ご承知いただきたいと存じます。
 それで、とにかく上掲の区分を前提することにしますと、哲学=省察的理性というのは瞬間性つまり非歴史性の相のもとに捉えられていますから、日本語で考えるということは問題にはならない。中島義道は日本語で考えるということを強調しますが、それは中島氏の非哲学的(むしろ批評的)な部分であるとしか、ぼくには思えません。哲学することに、日本語はなんの関係もありません。一方で、批評=解釈的理性というのは歴史解釈をめぐって展開するものですから、批評にとって、日本語で批評するということは、かなり重要な側面であろうと思います。現に『思想地図』第一号の特集は「日本」であり、公募論文のテーマは「日本語で思考すること」ですね。
 それでは文学においてはどうかというと、これはかなり難しい問題です。文学というのは、瞬間性と歴史性とから同時に参照されるアンビバレンツなものであって、だからある意味では日本性(あるいは京都性、あるいは現代性)を大きく担うものであるだろうと思います。もっとも、日本語の歴史性というよりは日本語のエロスを担っている気がしますけど。こういう意味での、変な表現をすると「日本語のエロさ」ということになりますが、この点については、ぼくも非常に興味があります。

 日本語で考えるということのスタンスについて、ぼくなりの意見を述べますと、その意味は「他者(外国語による思考)を理解する」という点にあるのではなく、「他者への理解を拒絶する」という点にあるのだと思います。すなわち、日本語でしか考えることのできない事柄、あるいは日本語話者には決して理解することのできない事柄が、あると思う。こういうところは中島的かもしれません。もっとも、ぼくは中島氏ほど勤勉ではないので、どこまでも〈対話〉に縋りついてゆこうとするよりは、むしろキッパリ拒絶してしまっていいと思う。「差別」についても同じことですが、相手が「差別されている」と思おうがなんだろうが、完全に無視してしまってかまわないと思う。どちらにしろ、〈対話〉は哲学的というよりは批評的モチベーションだろうと思いますね。

 そんなところです。

投稿: itikun | 2009年6月25日 (木) 01時05分

更にあなたの返答に対するコメント
「哲学=省察的理性というのは瞬間性つまり非歴史性の相のもとに捉えられていますから、日本語で考えるということは問題にはならない。中島義道は日本語で考えるということを強調しますが、それは中島氏の非哲学的(むしろ批評的)な部分であるとしか、ぼくには思えません。哲学することに、日本語はなんの関係もありません。」とは全くその通りですね。
 だから私が日本人であって、日本語で考えているという事実はそれ自体一つの「たまたま」性なのであって、それはあくまで哲学的には事実内容よりも事実様相として重要ですね。
 中島義道はしかし日本語で考えるということに関して自分がたまたま日本人だからその立場を例えば欧米人の日本人に対する傲慢などに対して理性論的に、正義論的に、モラル論的に主張するだけであって、資質論的でも文化伝統意識からでもない。つまり彼は哲学真理的に対話とか欧米人の傲慢とか言っているのではなく、あくまで哲学者として状況を生きる時での批評性と、哲学倫理実践性(彼自身の戦略的出版ゲーム性)においてそういうことを主張する。だからあなたの言うように対話に拘るのはそう言うことが絶対必要な時以外は無視した方がいい。だってそんなことにかかずらわっていたら時間が幾らあっても足りないから。そのような実践と哲学自体の省察とは全く別物ですね。
 その点「考えてみたいこと」でも触れたけれど、吉本隆明は日本文化をただ事実として氏が受動しているということからだけではなく固有の美として捉えている。これは国語学者(金田一京助‐春彦‐秀穂のようなタイプの)たちが考えている日本語国語性とも少し違う。それは国語学者たちが日本語言語を固有のコードとして捉えているのに対して吉本は主観的に、ある意味では作家的立場からあるいは哲学者的立場から「その固有性を生きる」という視点が導入されているからです。
 一方日本人の言語学者(例えば時枝誠記とか有坂秀世)は国語を一般普遍言語的に捉える。ここが少し国語学者たちとも違う。国語学者たちの方がより国語の固有性に拘り、言語学者たちの方が一般性に拘るということは言えると思う。
 しかし「一方で、批評=解釈的理性というのは歴史解釈をめぐって展開するものですから、批評にとって、日本語で批評するということは、かなり重要な側面であろうと思います。」も全くその通りだと思います。要するに例えば2009年現在ある批評家がたまたま「ある批評家が紀要にYKなことを書いていた」とした場合、五十年後の読者は確かに当時そんな言い回しが流行っていたと解析するだろうが、それは批評が常にその時代毎の状況と密接だからですね。状況と密接であることは現在の日本民族的言語状況を「生きる」必要がありますしね。
 しかし確かに「文学においてはどうかというと、これはかなり難しい問題です。」
 文学者は作品世界を創造するわけだから、当然あなたは今まで横浜にも東京にも住んだことがないから京都のことがあなたにとっての都市も、地方も念頭に入れられている。しかし同時にそれはかなり無名的な都市空間であり、地方でもある。
 何故なら中島義道が「醜い日本の私」で都市景観に関して美観がないと苦情を言っているような京都の鴨川沿いの景色を眺める店自体に向けられる視点において京都地元人にとってあまりにも整備されていて、景観に拘っていなさ自体が、つまりさりげなさが住みやすいということであり、私の住む川越でも同じだが、観光客にとって美しい町なだけではなく、地元住民にとって親しみが持てるということが大事だから、必然的に京都を主題にした趣味的文化伝統主題的小説世界とあなたが書く小説に自然と滲み出るあなたの知る京都は対立していく運命にある。あなたにとっての京都は、私にとっての横浜や東京、川越と同じで、極めて固有の土地でありがなら、同時に毎日見て過ごす平凡で無名的な土地でもある。
 だから文学者が固有の都市や地方、文物とか風俗や文化に拘る時にも、それは学者たち(歴史学者とか文化人類学者とか民俗学者)とは違ってその固有の文化を「生きる」視点で書かなければならず、学者たちが神の視点を設ける必要があるのとは逆ですね。
 しかもあなたの仰るように「文学というのは、瞬間性と歴史性とから同時に参照されるアンビバレンツなものであって、だからある意味では日本性(あるいは京都性、あるいは現代性)を大きく担うものであるだろうと思います。もっとも、日本語の歴史性というよりは日本語のエロスを担っている気がしますけど。こういう意味での、変な表現をすると「日本語のエロさ」ということになりますが、この点については、ぼくも非常に興味があります。」なのであったなら、端的にエロスはあなたにとってのエロスなのであり、普遍性(歴史性をも含む)ということは作品世界を完成させる時にのみあなたの作家としての力量から紡ぎ出されるに過ぎないのであって、要するに作品世界をあなたに書かせた誘引されるべきモティヴェーションとは極めて個人的でありかつ無名的でもある。永井の言う<私>から引き出されているっていうわけですね。それがあなたの言う瞬間性によって体現されている。歴史性もそれは作家にとっては自覚論的であっても歴史家とか文化人類学者、言語学者のように客観性に基づいたものではない。極めて主観的であるからこそ小説の体をなすわけですね。
 しかし案外学者たちは学者たちでそのことに対して自嘲的であり、作家性を導入したりするし、哲学者も中島的戦略をとったりするので、その境界が曖昧化していくということも言える。そこが難しいところですね。一個の人間をそう簡単に作家とか哲学者とか批評家とか学者と区別出来なさもありますからね。

投稿: 河口ミカル | 2009年6月25日 (木) 10時47分

 ご返信どうもです。

>何故なら中島義道が「醜い日本の私」で都市景観に関して美観がないと苦情を言っているような京都の鴨川沿いの景色を眺める店自体に向けられる視点において京都地元人にとってあまりにも整備されていて、景観に拘っていなさ自体が、つまりさりげなさが住みやすいということであり、私の住む川越でも同じだが、観光客にとって美しい町なだけではなく、地元住民にとって親しみが持てるということが大事だから、必然的に京都を主題にした趣味的文化伝統主題的小説世界とあなたが書く小説に自然と滲み出るあなたの知る京都は対立していく運命にある。

 そうですね。ちょっと思うのですが、中島氏の「美」や「醜さ」についての観方は一面的に過ぎる気がします。中島氏の分析では、「醜いことが美しい」あるいは「美しさが醜い」というような、美をめぐるアンビバレンツが出てこない。だから、どうしても押しつけがましくなってしまう。氏の場合、やはり究極的には美醜ではなく価値なんですね。
 京都というのは、稲垣足穂も言っていましたが、常に最新のものを採り入れてこようとする、新しもの好きの町なんですね。それが千年経ったから、古いものが多いように思えてしまうのですが、本当はどの時代においても、常に時代の最前線だった(現在の東京に近いですね)。だから京都の本当の魅力というのは、その「なんでもあり」な雑食性にあるのであって、ビル街のなかにポツンと石碑が建っていたり、寺が取り残されたりしている、そのアンバランスさ(醜さ)が魅力(美)だと思うのですね。外から見ているだけの中島氏には、そのことが分からない。現代人が平安情緒なんかに浸る必要はないのです。

>端的にエロスはあなたにとってのエロスなのであり、普遍性(歴史性をも含む)ということは作品世界を完成させる時にのみあなたの作家としての力量から紡ぎ出されるに過ぎないのであって、要するに作品世界をあなたに書かせた誘引されるべきモティヴェーションとは極めて個人的でありかつ無名的でもある。永井の言う<私>から引き出されているっていうわけですね。

 基本的には、そういう方向性で「文学」というものを考えてゆきたいと思っております。つまり〈私〉が言語から逃れ去るのと同じやりかたで、文学は批評から逃れ去るのではないか、ということです。

>一個の人間をそう簡単に作家とか哲学者とか批評家とか学者と区別出来なさもありますからね。

 まったく、おっしゃる通りだと思います。「真‐善‐美」という三つ巴が理解できる以上は、誰でも多少なりとは作家であり、同時に哲学者、批評家でもあると思います。ぼく自身、省察欲と同じくらい解釈欲の強い人間ですので、批評したいという欲望はよく分かるのです。問題は、どう選択し、どんな戦略をとってゆくかという点に尽きるでしょうね。

投稿: itikun | 2009年6月25日 (木) 20時56分

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