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2009年7月26日 (日)

京哲37#サブレジュメ

 第37回京都哲学道場「廣松渉 I」(発表者:深草君&ぼく)のサブレジュメです。内容は、実質的には崎山ワタル氏(哲学道場運営協力者、廣松主義者にして難攻不落のディベーター)に対するふたりがかりの批判ということになります。
 ぼくの発表は、チラシの裏に書き殴ったようなものなので、読まなくていいです。

【本発表の戦略】
(1)指針として、実用説の内的矛盾を示すことはせず、実用説がドグマに立脚していることのみを主張するに留めた。
(2)以上の指針に基き、通常実用説を批判するさいに論点となる「実用性の基準は立てられるのか」「実用説は実用的であるのかどうか」などというトピックは一切論じず、むしろ真なる前提として立てることにした。
(3)記号を多用し、あえて文章を難解にすることによって、崎山氏が発表内容を先読みし、先手を打って再反論を構築してくることを牽制した。

※以下、ヘブライ文字「アレフ」をギリシャ文字「ω」で代用しています。
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2009.7.26 Ph.D Kyoto-37 Sub-Resume / Tani R. Fra: I∴L∴P∴
◆実用説との永訣

      §0 崎山哲学と実用説

 崎山ワタル(廣松渉)の哲学は、(1)共同主観性論、(2)実用説、によって特徴づけられる。両者の関係は、(2)が(1)を基礎づけるものである。すなわち、(2)は崎山哲学全体の肯綮点である。そこで、本発表では専ら(2)を扱う。
 本発表の目的は、崎山哲学がなんらかのドグマを措定していることを示すことである。発表者は、崎山哲学の内的矛盾を示すことには興味がない。崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるためには、それがドグマに立脚しないことが必要である。換言すれば、崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるものではないことを示すことが、本発表の目的ということになる。

      §1 実用的実用説

 実用説には、(A)実用説自体も実用的であるとする≪実用的実用説≫、(B)実用説自体は真理だから実用的でなくともよいとする≪非‐実用的実用説≫、の二種類が考えられる。B説は実用性のドグマを措定するものだから、B説が主張されるのなら本発表の目的は達成される。以下、A説に的を絞って考察する。

      §2 理路

 A説の主張は次の通り。
  (α)真理とは実用的な理論のことである。
  (β)実用説は実用的である。
 ここで、以下の前提を仮設する。
  (前提1)真理である主張は真である。
  (前提2)実用性基準は有意味な基準である。
 さて、Aタイプ実用説Xが存在するとき、主張α及び
  (前提3)主張βは真である。
 を前提する場合、主張βにより「Xは実用的である」。すると主張αにより「Xは真理である」。前提1により「主張αは真である」ことが妥当に推論される。しかしながら、主張αを前提して主張αが真であると推論しているのだから、この推論は「主張αが真ならば主張αが真である」ことを主張しているにすぎない。この推論からは、Xが真理であることは導出できないのである。
                                (第1駁論Q.E.D.)

      §3 高階実用性空間Xn

 しかしA説論者はこう主張するだろう。「Xが真理であることは導出できないというが、ここで『真理』という言葉はわれわれの用法で用いられていない。われわれは『真理とは実用的な理論のことである』という意味で『真理』という言葉を使用する。したがって、いま主張βが真であることは前提されているのだから、自動的にXは真理であるということになる」と。主張αに二通りの意味があることに注意しよう。すなわち、主張αが単純定義である場合、提示主題「真理」は無内容であるから、主張α全体も無意味である(α1)。一方、主張αが前提1と複合的に主張される場合、「真である」という判断はなんらかの規定であるから、主張α全体も有意味な主張となる(α2)。無意味な主張はいつでも主張できるが、有意味な主張はその主張が真である場合においてのみ主張できる。すると、先のA説論者の主張は、常に主張可能な無意味な主張α1を前提して、そこから主張α2を利用して有意味な命題を帰結させるという詭弁である。α1がα2に変形されている以上、そこには隠された前提α0が働いているのでなくてはならない。前提α0は、「真(理)である」ということの意味を主張αの高階から密輸入する。
 かくして、実用性空間Xの背後に働く、高階実用性空間Xnが発見される。A説論者がA説の真理性を主張するためには、常に高階の真理空間から真理の意味を備給してこなくてはならない。したがって、無限に続く系列X1, X2, X3,…が構成される。

      §4 超準実用性空間Xω

 そして、A説はなにを主張しているのだろうか。実用性空間Xnは実用性基準Pnに対して相対的に、かつ一意に定まる。すなわち、実用性基準の集合Pから実用性空間の集合Xへの全単射fが存在する。ところで、A説が独立の理論として主張されうるために、系列X1, X2, X3,…の各項Xnが同一の実用性基準Pω0を共有していることが必要である。すると、fはPω0をXの同一の元Xω0に写すから、無限列の各項Xnは同一空間Xω0であって、等式X1=X2=X3=…が成立する。しかるに、A説の真理性が主張されているということは、Pω0自体において背後から作用し、真理の意味論をたえず供給するような、高階空間の実用性基準がそこに存在している筈なのである。
 これを超脱的実用性基準(超準)Pωと表現する。Pωの作用圏域は超準実用性空間Xωである。超準Pωは、無限列の各項に作用する実用性基準Pω0を可算無限空間Xnの外部から支える。超準Pωは、Pω0の主張αを媒介することによって、系列Xn全体を無限に駆動してゆく当の基準であるわけだ。そこで、超準PωこそがA説のドグマであるといえる。
 これで本発表の目的は達成された。すなわち、崎山哲学は超準Pωをドグマとして立てている。
                                (第2駁論Q.E.D.)

      §5 超準真理空間

 超準Pωは超脱的であるから、これを主張の内部に取り出してくることはできない。Pω0≠Pωだから、ある意味でA説の主張は二種類の実用性基準を立てていることになるが、Pωはそもそも主張の内部にないので、Pω0≠Pωであるかどうかということすら論じることはできず、矛盾でもない。それだから、超準Pωなどもともと立てられておらず、A説にドグマはないと考えることもできる。もっとも、これはA説の内部にA説のドグマは存在しないと述べているだけにすぎず、ドグマPωはA説の外部からA説全体の存立を支えている。
 実用性空間は真理空間の真部分集合であるから、このことを真理空間に拡張して考えてみることができる。あらゆる真理空間は、その内部における「真(理)である」ということの源泉を、明示的主張として取り出してくることのできない超脱的真理基準Nωによって与えられている。このようなNωの全体が超準真理空間である。すなわち、超準Pωに対しては、常に系列Pω, Qω, Rω,…を立てることが可能である。
 実用説とは、自己を無限系列化し、Xnにおける「真(理)である」という主張を、Xn+1における「実用的である」という主張へ読み換えてゆくことによって、自己を完成するような真理空間である(読み換えの力はPωに由来する)。そこで、実用説に対して「実用的でない真理が存在する」ということを主張しようとしても、この主張はすぐさま「高階における実用性が存在する」という主張に読み換えられてしまう。実用説の内部から、ドグマPωを破って超準真理空間の存在に触れることはできない。このことはしかし、実用説が唯一無二の真理空間であることを全く意味しはしないのである。
                                (以上)

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2009年7月15日 (水)

雑記 20090715

 野口廣『トポロジー 基礎と方法』(ちくま学芸文庫)を読書中。こないだ数学の夢を見たのも、多分この本のせいだろう。ここのところ二週間、この本にかかずらっていて、ほかの本が読めないでいる。ようやく半分ほど読めたが、基礎から解説してくれている叮嚀な本なので、前準備にかなり紙幅を割いていて、いまだ「ドーナツの穴がいくつ」だとか「クラインの壺」とかの話は出てこない。とりあえず位相空間のお手軽クッキング法(開集合族を作るだけ)とか、ユークリッド空間はハウスドルフ空間であるとか、そういうことは分かった。
 これが終ったら、教科書らしきものに見当をつけてきたので、ちょっと数学基礎論の勉強をしてみてもいいかなと思っている。

 まあ、あれだね。こう、なんでもかんでも手をつけては抛っぽらかす性格だけは、どうにもならないんだけど。
 もういちど人生をやりなおせるのなら、数学者になりたかったな……、って、ときどきフッと思うのです。

    ○

 コンピュータの調子が悪い。スタンバイ状態から復帰しようとすると、すぐに再起動してしまう。ときどきオプションで、再起動もできなくなったり、一切の入力を受けつけなくなったり、変なエラー画面が出たりする。
 こないだは、いきなりディスプレイが四分割されてしまい、右上の部品が左下にスライド、左上の部品が右下にスライド(つまり上下と左右が入れ換わっている)という、まことに珍奇で意味不明な現象が発生した。カーソルも、右端から左端、上辺から下辺へとワープする。操作は平常通りに可能。あまりに意表をつく現象だったので、「うちのディスプレイはトーラス曲面だったのか!」とか言って、ひとりで爆笑していた。むろん再起動したら元にもどった。
 七年前には最新型だったコンピュータも、いまではすっかりガタガタである。

    ○

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を、こないだ哲学道場の帰りに観てきた。手近なところに深草君が転がっていたので、彼と一緒に。
 なんというか、とにかく凄い。凄かった。なにかしら異常な映像を見せられている感じで、息を飲んで見入ることしかできなかった。これは間違いなく観るべきである。
 作画のことや技術的なことは全く分からないので、凄かったとしか評しようがない。基本的には、あらゆる作品をベタに鑑賞することにしているぼくとしては、もちろんテレヴィ版を再びやりなおすかのように作りこまれたストーリーに、一番興味を惹かれた。
 個人的に気になった点としては、使途の襲来の通過儀礼(イニシエーション)性が強調されていたこと。使途の襲来は死海文書に書かれているわけだから、当然予定されていることではあるのだが、本作では、使途を倒すごとに虹が出る(虹は、死海文書の預言が成就したことを意味するのだろう。使途の配色がレインボー・カラーになっていたりするのも、その意味を強調しているのだと思われる)とか、シンジの手の聖痕(スティグマ)を第8使途がつける(旧映画版では第26話『まごころを、君に』でつけられたもの)とかの変更が、使途の襲来をいっそう通過儀礼的に演出しているように思われる。
 あと、真希波・マリ・イラストリアスね。あのキャラクターの役割は、ストーリー補正用の形代人形なんじゃないか、と、ちょっと感じた。ただ、そうであるなら、3号機に乗るべきだったのは彼女だった筈だしねえ。
 テレヴィ版‐旧映画版のストーリーは、ゲンドウの補完計画→ゼーレの補完計画→シンジの(?)補完計画と進行するわけだけども、こうやってながめてくると、今作ではカヲルの(?)補完計画が達成されるのではなかろうか、と期待してみる。

 そんなことを言ってる内に、『涼宮ハルヒの憂鬱』あらためて放送版(実質は新作を織りまぜての再放送)が、えらいことになっている。なんと四週連続『エンドレスエイト』でループ、しかもまだ終らない。ちょっと、コレ、アニメ史に残るんじゃないの? 来週終るのかどうか知らないけど、五週連続で殆んど全く変わらないストーリーをえんえん放送し続けるって、京アニ、なに考えてるんだ。しかも『エンドレスエイト』って原作なら短篇じゃないですか……。

 京 ア ニ は じ ま っ た な w

 とか書くべきなんだろうか。それにしても、みんなループ物がお好きですねえ。

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2009年7月12日 (日)

本日の夢 20090712

 こんな夢を見た。

 アマチュア数学者、S.T. が発見したという L 群についての解説書を読んでいる。
 ページには、ペアノ曲線みたいな巡回曲線が x-y 平面を充たしている図版がいくつも掲載されており、しかも y が大きくなるにつれてだんだんと角がとれ、10<y ぐらいになってくると、角は全然なくなって、平面を小円の集まりに近い曲線が埋め尽くしていたりする。L 群は、少なくとも三種類のパラメータ(x, y, z)から構成される函数によって表現され、これらの図版は L 群のふるまいを、特定の x-y 平面に対して射影したものであるようだ。z=7 や z=15 など、z が自然数の場合についての図版が掲載されている。
 L 群の発見は、数学界に激震をもたらした。L 群のふるまいは、これまで知られていたどんな函数のふるまいとも似ても似つかず、その奇怪な性質が解明されてゆくにつれ、ますます L 群は謎めいた存在となっていった。発見者である S.T. は、専門的な数学教育を受けたことのないアマチュアであって、彼は自作のヴィデオ・レターを日本数学会に送りつけ、L 群の存在を発表したのだった。ヴィデオ・レターは彼が撮影した星空の映像から始まっており、終り近くでは「小学生だったころの将来の夢」なども熱く語られていて、およそ数学の研究を発表するヴィデオだとはとても思えない作りになっていた。
 第一のヴィデオが送られてきた6月23日の時点において、S.T. はすでに、のちのち数学界をさらなる衝撃の渦に叩きこむことになる彼独自の解析手法「ヲサゴト(修事)」を開発していたと思われる。「ヲサゴト」による L 群の解析は、殆んど畏怖といってもよいほどの戦慄を世界中の数学者たちに与え、ただならぬ事件が数学界に出来したことを全世界の人々に知らしめた。その手法は、明らかに異常な、途轍もないものであって、その破壊力は計り知れなかった。S.T. は、9月13日と11月7日にも第二、第三のヴィデオ・レターを送りつけており、そこでも L 群についての追加研究を発表していたが、「ヲサゴト」については、依然として秘められたままであった。S.T. のなかに、その想像を絶する解析手法を公表することで、世間に招来される恐怖と混乱との甚大さに対する躊躇が、あったのかどうか、分からない。いずれにしても、この年、ついに S.T. が「ヲサゴト」の存在を公表することはなかったのである……。
 第四のヴィデオ・レターが送られてきたのは、年が明けてからのことだった。

      ×      ×      ×

 S.T. には、夢のなかでは、高木曲線などで有名な数学者の高木貞治(たかぎ・ていじ)の名前が当てはめられていた。名前を誤って「さだはる」だと思っていたので、イニシャルは S になる。しかも、「治」の字が、夢のなかでは「春」になっていた。
 根本的な話として、「群」なのに「函数」扱いになっている理由が分からない。まあ「群」そのものをよく知らないんだけど。
 おそらく、L 群というのは無限個の変数をとる無限次元空間の函数かなにかで、射影する平面の取り方によって、いろんなフラクタル曲線が現れたりするんだと思うよ。でもって、夢のオチとしては、その「ヲサゴト」とかいう解析手法で解析してやると、その結果にテトラグラマトン(神名 I‐H‐V‐H)とかの刻印が現れたりするんだと思う。

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