『檸檬』と「神聖なるもの」
反批評的な方のブログで『檸檬』の書評を綴りながら考えた。かつて『檸檬』の一篇を十全に評しうるだけの言葉が組織されたことはあっただろうか、と。かつて批評の言葉は『檸檬』一篇にさえ届いたことはなかったのではないだろうか。
斯くも『檸檬』は難しい小説である。とても美しい小説であるが、とても難しい小説である。こころみに、『檸檬』の難しさを(「批評」でなく)「哲学」してみよう。
『檸檬』という一篇の小説は、見事な「イメージの反転」にむけて進められてゆく。それはつまり「この檸檬が爆弾だったら!」という「!」のことである。この、一瞬間にパッとひらめく凄ざまじいイメージを、あざやかな言葉で焼きつけたものが『檸檬』という小説なのだと言ってよい。
だが、単純に「イメージの反転」があざやかだというだけの話なのか? 『檸檬』は、もっと何か、何か言葉にならない感情に触れてはいまいか?
かりに、『檸檬』のラストで「私」がダガーナイフをふりまわし、通行人を無差別に刺し殺していたとしたら、どうだろうか。ストーリーの流れから言って、それほど不自然な展開というわけでもない。
出口のない不安の堂々めぐり・感情のからまわり
→憂鬱の爆発としての感情的行動
という流れだから、なにをしても充実できないという非‐行為遂行的な状況から、劇的な事件を惹きおこす行為遂行的な状況への、見事な「イメージの反転」が描き出されている。どうしてこうであっていけないか。
どうだろう。この小説が、『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことはできるだろうか。「不可能ではない」というのが、ぼくの出した答えである。しかし、そのためには、まだ何かたりない。この「イメージの反転」には、まだ『檸檬』のそれのような「神聖さ」がたりていないのだ。逆に言って、もし「私」の殺人行為を『檸檬』における「神聖さ」に比肩する「神聖なる行為」として描き出すことができるなら、そのときその小説が『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことも不可能ではないだろうと考える。
では、『檸檬』における「神聖さ」とは何か。それは「神的なるものに触れること」である。どういうことか。つまり「檸檬」は美しいが、「殺人」はあまり美しくない。そういうことだ。「殺人」では(普通の描き方では)「美」に触れることができないのである。
「美」に触れることは、すなわち「レジスタンス」である。もちろん、通常の意味で「美」に触れることは、なんら「レジスタンス」ではなく、むしろ共同体においては推進されてさえいる行為であるが、そうではあっても、いや、そうでしかないとしても、にもかかわらず、〈美〉に触れることは〈レジスタンス〉であると言いうるのである[1]。〈レジスタンス〉であるとは、共同体性が超越されるまさにその地点に立つということを通じて、共同体に対しての全面的で決定的な悪が働かれうるということである。通常の「レジスタンス」がなんらかの体制への反抗であるとするなら、〈レジスタンス〉はもはやいかなる体制への反抗でもなく、共同体性そのものに対する超越的な反抗である。
ここで注意しなければいけないことは、〈美〉に触れているならそれは〈レジスタンス〉であるが、「レジスタンス」であるからといって〈美〉に触れているとはかぎらない、ということである[2]。すなわち、「檸檬」の〈美〉は結果的に〈レジスタンス=共同体への爆弾〉であらざるをえないが、「殺人」という「レジスタンス=体制への爆弾」は、それが「レジスタンス」であることをもって、かならずしも〈美〉であるとはかぎらない(というか、普通は美しくない)ということだ。原因と結果を履き違えてはいけない。「檸檬」はもともと〈美しかった〉ゆえに〈レジスタンス〉であらざるをえないが、「殺人」はただの「レジスタンス」であって、そのことをもってして〈美〉に触れることはできないのである。もっと分かりやすく言えば、「殺人」は超越しない。〈美〉は超越である[3]。
だが、『檸檬』という小説自体において、この原因と結果とが混同される。そのことは「見すぼらしくて美しいもの」につよく惹きつけられる、というくだりに表われている。もちろんそうではない。なにかに惹きつけられてみると、惹きつけられたものが偶然「見すぼらし」かったわけではない。事実はまったく逆で、「私」は自分が惹きつけられる〈美しいもの〉のことを「見すぼらしいもの」と呼んでいるのである。なぜなら、ここで「見すぼらしさ」とは〈レジスタンス〉=「レジスタンス」だからだ。「見すぼらしいもの」とは、共同体の価値観において価値がないもののことであり、それに惹きつけられるということ自体がれっきとした反抗であるからだ。梶井はこの論理を逆転させて、たまたま自分が惹きつけられたものが見すぼらしかったのだと、自己の本質的な反‐共同体性を擬装する。
梶井の「憂鬱」とは何だろうか。それは存在論的不安だったのでなくてはならない。〈美〉に癒されるということは、彼には〈美〉が、すなわち〈存在〉が見失われていたと推論できる。
「イメージの反転」は、まさにこの地点で描き出される。梶井の「檸檬」は一瞬にして世界を超越し、その〈美〉が〈レジスタンス〉に転化する。それは共同体性に対する爆弾であり、その爆弾を見る者は、同時に「檸檬」が〈美〉であるさまを、文学が「神聖なるもの」に触れるさまを目撃することになるだろう。「檸檬」は音もなく爆発する。どうして音がありえようか、この「檸檬」が爆破しようとしているのは、もはや丸善ではない、体制ですらない、それらを超越したもの、眼に見えず耳にも聴こえぬ〈敵〉であるのだから。
浄らかな静寂、そのうちに捉えられた一瞬の激情。この激情は、丸善を超え、体制を超え、世界全体への火の手となって炎上する。「檸檬」は小さく見すぼらしいものでなくてはならない。「神聖なるもの」は、世界が点火される地点は、常にもっとも小さなもの、もっとも無価値なもの、もっとも馬鹿げたもの、そしてもっとも美しいものであるだろう。
……と、このように書いてきて、やはり『檸檬』一篇を十全に評しうるだけの言葉を組織することはできなかったな、と思う。そんな言葉はない。〈美〉が「言葉」を超越する以上、定義上ありえないのである。文中、ぼくは〈美〉の内容について一切触れなかった。「檸檬」が具体的にどう〈美しい〉のか、なにも語ることができなかった。それを批評することはできないからだ。それを批評することは、まさに『檸檬』を評すための言葉を破棄するということにほかならないからだ[4]。
しかし梶井基次郎は『檸檬』を書いた。
それでも梶井基次郎は『檸檬』の一篇を書いたのだ。
このことこそ、真に奇蹟の名にあたいする。
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[1] もちろん永井均の山括弧記法を踏襲したもの。
[2] 「レジスタンス」が〈美〉に触れられないのは無論としても、〈レジスタンス〉が〈美〉に触れられるか(この命題の逆〈美〉⇒〈レ〉はかならず成立する)というのは、もっとずっと難しい問題である。一方、「レ」⇒「美」や「美」⇒「レ」が成立するかどうかは、ぼくにとってはどうでもいい。
[3] [2]で書いた問題を言い換えれば、〈美〉は超越性の真部分集合であるのかどうか、ということになる。
[4] このことは、しかし批評するロゴスの本性にかかわっている。もしかすると、哲学するロゴスにはそれは可能かもしれない。そして少なくとも文学するロゴスにはそれが可能であるということが、哲学するロゴスによって示される。文学は示さない。文学はそれそのものとして〈美〉であるだけだ。
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コメント
ここで注意しなければいけないことは、〈美〉に触れているならそれは〈レジスタンス〉であるが、「レジスタンス」であるからといって〈美〉に触れているとはかぎらない、ということである
これはよく理解出来ますね。
「檸檬」はもともと〈美しかった〉ゆえに〈レジスタンス〉であらざるをえないが、「殺人」はただの「レジスタンス」であって、そのことをもってして〈美〉に触れることはできないのである。もっと分かりやすく言えば、「殺人」は超越しない。〈美〉は超越である
これもよく理解出来ます。
梶井の「憂鬱」とは何だろうか。それは存在論的不安だったのでなくてはならない。〈美〉に癒されるということは、彼には〈美〉が、すなわち〈存在〉が見失われていたと推論できる。/少なくとも文学するロゴスにはそれが可能であるということが、哲学するロゴスによって示される。文学は示さない。文学はそれそのものとして〈美〉であるだけだ
これも凄くよく突いていると思いますね。批評言語として完成されたものを感じますね。そう、もうあなたは恐らく批評スタンスと哲学論理性ということから言えば完全に自立している。
問題はやはり文学、そして小説世界とかそちらですね。
私はと言えば、ある時期から文学的創造ということを考える時一切のロジック的正当性とか、レトリカルな天才性ということに拘ることそのものを放棄しましたね。それはやはり論理的思考力とも違う気がしますね。日常的は発見とでも言えますかね。でもそれが意外と批評とか哲学とか論理にもいい影響を与えると思うんですよね。そこを踏襲した作業を次はあなたに期待致します。
投稿: 河口ミカル | 2009年9月 6日 (日) 11時37分
追コメント
数学研究会を発足おめでとう御座います。ご成功をお祈りしております。
投稿: 河口ミカル | 2009年9月 6日 (日) 12時08分
……いえ、スタンスとして自立するのは、比較的たやすいことです。それにしたところで、ぼくがそれほど自立できているとは思えませんが……。難しいのは、答えを出すことですね。同じところでぐるぐる回っているだけの人は一杯いますから。
数学研究会ですが、おかげさまです。まあ、勉強会スタイルでやってゆこうと思っております。続くかどうか分かりませんが、人と学ぶのはよいことです。
投稿: itikun | 2009年9月 6日 (日) 16時47分