ゲーデルの不完全性定理
第39回京都哲学道場(10月25日)のレジュメをアップしておきます。
◆第39回京都哲学道場「ゲーデルの不完全性定理」レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39.pdf
◆イラスト:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39i.pdf
イラストの解説は本文にないので、簡単な説明だけしておきます。
【図1】
形式的体系の文命題は、最初の記号(主演算子)が「~」(否定)であるものの集合(否定文集合)とないものの集合(肯定文集合)との、かならずどちらかに含まれる。どちらの集合も可算無限集合なので、まず肯定文集合の文命題に A1, A2, A3, …と番号をふることができて、これらおのおのを否定することで、~A1, ~A2, ~A3, …と否定文集合の文命題にも番号をふれる。図では、上平面に肯定文集合の文命題を、下平面に否定文集合の文命題を整列させている。
対応する文命題同士に青線を引いている。ある文命題に対する証明図が存在する場合、その文命題のところに青いダイヤ記号を置くことにする。このとき、形式的体系が不完全であるとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれていないような青線が存在することであり、形式的体系が矛盾するとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれているような青線が存在することである。このように、不完全性と矛盾性とは対照的な概念である。
【図2】
図中の「数学」は「形式的体系」と同義。数学(小円)に対する超数学的分析が、再び数学(中円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第1不完全性定理。第1不完全性定理の超数学的分析が、みたび数学(大円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第2不完全性定理。超数学の審級は、どんな場合でも数学の背後から働いて意味の領野を支えている。
実は、上でアップしたレジュメは「数学篇」で、第II部として「哲学篇」も執筆するつもりだったのですが、ちょうどゲーデルの原論文に I と書いてありながら II が存在しないのと同様、力尽きて哲学篇を書くことはできませんでした。書いたところで解説するのは無理だったと思うけど。あまりにも内容が豊富なので、議論するまえに理解を共有すべき点が多すぎるのです。結果、宣告通り「討論」というより「講義」という感じになってしまい、それが成功だったか失敗だったかというと、……少なくとも成功ではなかったと思うな。
以下、不完全性定理についての覚え書。
○ゲーデルの不完全性定理は、人間理性の限界を示したものなどでは全然ない。こういう誤解はただのミスリーディングなのであって、数学の術語であるところの「不完全性」を、日常言語における「不完全性」と混同しているだけである。このことを、次の事実が端的に示している。
「矛盾している体系は完全である」
「自己の無矛盾性証明が可能な体系はかならず矛盾している」
つまり、数学は完全である必要もないし、自己の無矛盾性証明が可能である必要もない。だから、数学が不完全であり、無矛盾性証明ができなかったとしても、それは数学の限界などでは全然ないのである。
○では、ゲーデルの不完全性定理にはどんな哲学的価値もないか。そんなことはない。ぼくが考えるに、ゲーデルの不完全性定理というのは、「意味を言葉(形式)にするとはどういうことか」という、言語哲学の全域にわたる、このうえないアポリアそのものなのである。「自然言語における数学」の構造が「形式的言語における数学」の構造に投射されるとは、どういうことなのか、ぼくには全く意味が分からない。なにしろ、自然言語における数学とは、形式化されざる数学なのだから、形式化されざるものに構造などある筈がないではないか。そもそも自然言語の数学と形式的言語の数学とは比較不可能な筈であり、比較不可能なもの同士が同一の構造を有しているとか、ある構造を反映しているとか言われても、それがどういうことなのかぼくには理解できない。
自然言語と形式的言語の関係は、意味と言葉の関係である。自然言語における数学的意味が、形式的言語の内部で言葉として形式化される。ところが、形式的言語は自然言語を完全に表現することはできなかった。このことが不完全性定理の示したことである。
意味→言葉=意味→言葉=意味→言葉=意味→……
この無限背進(超越論的階梯)は、事柄の本質を隠蔽している。すなわち、この系列のどの項にも本当の〈意味〉は登場してこない、ということをである。〈超数学〉は、常に背後から働き、意味の領野の全体を支配している。このような〈超数学〉が、その一端すら形式化されることは遂になかった。そういうことなのだろう。つまり、あらゆる数学はもともと形式的だった。自然言語と形式的言語の関係は、ある形式とある形式とのかかわり合いにすぎなかった。〈意味〉は、常にすでに背景に退いてしまっている。だからこそ、比較が可能になっていたのだ。
〈数学〉とは絶対的な壺である。その壺は、二人の人間が向き合ったものとして眺められることは「決して」ない、そのような「壺でしかありえない」壺が〈数学〉である。
○ところで、記号列のゲーデル数化とは、記号列を自然数に単射する操作のことだった。また、ゲーデルの対角化定理は、対角線論法という自然数論の技術を使っている(対角線論法がどの程度「自然数論」的なのかはちょっと謎だが)。そして、自然数論を含む体系は自然数論を利用して、自己を表現することが可能となる。いったい自然数とは何なのだろう。
ぼくにはかなり驚きだったのだが、形式的体系の論理式は可算個しかないのだという(ゲーデル数化が可能なのだから)。ちなみに、一般帰納函数の個数も可算個しかなく、チャーチ‐チューリングの提唱によると、それは計算可能函数と一致する。また、表現可能性とも一致するそうな(「この論理式は証明可能である」という自然言語の文は、原始帰納的にプログラミングすることができなかったので、表現可能ではなかった)。
この可算無限の空恐ろしさ。
関係ないですが、去る10月12日に開催された、第3回京都数学研究会のレジュメも、折角なので張るだけ張っておきます。
http://www.ilp-project.net/storage/kms003.pdf
以上。
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