2009年5月16日 (土)

中島義道『差別感情の哲学』

 書評ブログからの転載です。

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◆中島義道『差別感情の哲学』

      §中島義道、いまだかつてない駄作

 あらかじめ述べておくが、ぼくはこれまで中島の著作を、二十数冊読んできた。現代日本の哲学者のなかで、永井均とならんでもっとも尊敬している人物のひとりである。中学生時代からずっと私淑していて、大きな影響を受け続けてきた。だから、こんな文章を書かなくてはならないことを、とても残念に思う。中島が差別をテーマにした著作をあらわすと伝えきいて、発売日を待つのももどかしく、購入してすぐに読み始め、数時間で読了した。なぜなら、ぼくは差別論にふかい関心があり、しかも、ぼくが自分で差別ということを考えてゆくに当たって、ずっと念頭に置き続けてきたのは、ほかでもない、中島の文章だったからである。ちくま文庫『哲学者とは何か』に収められてある、「差別感情と『好き・嫌い』」という小論は、常識によらない差別への見方を呈示していて、とても新鮮だった。中島の差別への言及はそう多くはなく、だからぼくは、今般中島が『差別感情の哲学』という著作を書きおろすということを知って、心待ちにしていたのである。だが本書ときたらどうだろう。

      §差別論に御託はいらない

 もしも中島が、この著作を、差別についてのものとしてでなく、日本人の心性について、あるいは人間感情をめぐるものとして、刊行していたとしたら、ぼくはここまで怒りにかられることはなかっただろう。だが中島は、本書を差別をめぐる議論として刊行している。そしてそうであるなら、あまりにも中島は「差別論を語るということ」に対して無自覚である。差別を論じるということは、差別を論じるその語り口のなかに包摂されてしまうということであり、よほど自覚的にそこから脱却しようとしなければ、ありきたりな「自意識語り」に落ちこんでしまうことを避けられない。そして現に、本書は出来合いの「差別論」といささかも異ならない、読んでいて吐き気がするような言説に埋め尽くされている。引用文献も、あれほど中島は「哲学は思想ではない」と言っていたにもかかわらず、社会学系のゴミみたいな論者のものばかりで、こんな本には哲学を名乗る資格はない。『差別感情の社会学』とでも改題したらどうだろう。
 そうして、ケガレがどうたら、まなざしがこうたら、意味不明な御託がならべ立てられている(御託をやるにしたところで、中島でなく、現代思想系テクスト論者の面々だったら、もっとうまくやってくれるだろう)。差別論に御託はいらない。哲学はそんな言葉遊びではない。もちろんくだらない自意識語りでもない。第三章『差別感情と誠実性』では、みずからの言説(あるいはまなざし)が他人を傷つけるのではないか、あるいは他人の言説がみずからを侮蔑しているのではないか、などといった反省的意識の無限後退が描かれてゆく。そして、それをどこまでも誠実に、そして繊細に直視し続けてゆくことだけが、差別について可能な一切なのだというのである。やめてほしい。誠実に直視するのはけっこうだが、そんな誰の差別論をひらいても書いてあるようなウワゴトで、なにかを解決した気にならないでもらいたい。たのむから差別論をめぐる、この出口のない泥沼じみたあまりに醜悪な現状に、興味本位でちょっと立ちよって、またひとつ醜悪な言説をつけ加えてゆくことをやめてもらいたい。それはべつの場所でやってほしい。

      §不快/嫌悪/軽蔑

 本書の理路によれば、差別感情は不快→嫌悪→軽蔑という順に、どんどん観念的に発展してゆき、最終的に確固たる差別を形成するのだという。この議論はしかし、差別について語ったものなのだろうか。これはむしろ、差別撲滅運動について説明したものなのではないか? つまり中島は、差別観念がきわめて現代的なものであることを理解していない。江戸時代の穢多・非人にしろ、ナチスのユダヤ人迫害にしろ、そんなものは差別うんたらという問題ではない。前者なら社会的機能に還元できるし、後者ならただの煽動に還元できる。そうでなく、それらが差別として語り出されることによって、差別撲滅運動のなかで差別であるとして語られてきたことで、はじめてそれらは差別になったのである。だから、被差別部落の社会的形成を、差別感情の形成として分析するなどというのは、実在しない対象にむけて机上の空論をふりかざしているにひとしい。「差別感情」は、きわめて現代的な感情なのであり、それを分析するためには、歴史上の差別とされる事例を考察していてもはじまらない。むしろ「差別について語ったテクスト」=「差別論」の分析を通じてしか、「差別感情」は解体されないのである。このことの認識が、中島には決定的に欠落している(もちろん、ほとんどの差別論にも欠落しているのだが)。
 まさに、これまでの差別論は、差別する者(差別者)を、不快なものとして、次に嫌悪すべきものとして、最終的には軽蔑すべきものとして、語り出してきたのではなかったか。そしてこのことこそが、差別をめぐる問題系を、唾棄すべき泥沼のなかに落としこんできたわけである。中島の「逆差別」論もあまりに静態的すぎる。現代における「差別」は、はじめから「逆差別」でしかありえず、「逆差別」者をさらに「逆差別」するという構造が、差別の観念的閉域を形作ってきた筈だ。

 これから、さらに詳細な批判論文を準備するつもりである。

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2008年5月 2日 (金)

雑記 20080501

 先輩から再びお話があり、こないだ紀行文を掲載してくださった東京某大の文芸誌に、こんどはルポルタージュを書かせていただくことになっていた。なんでも京都の遊廓について文章を書いて欲しいとのお話。その〆切が本日(五月一日)であり、ここ三、四日ずっと書きあぐねていたのだったが、数時間前にようやく脱稿することができた。タイトルは『高瀬川明暗』で、ペンネームはまたも冲月仄生、〆切に間に合ったという扱いになるなら掲載されると思います。
 それにしても、このたびの原稿は本当にたいへんだった。ルポというのは、基本知識を前提にして、そのうえに「取材源の証言」または「潜入取材」を組み合わせて成立するものだとぼくは思うが、さて自分をかえりみてみると、人脈なし、金脈なし、郷土史の知識さえもがわずかときている。これじゃあ原稿なんて書ける筈がないものを、調子がいいものだからほいほいと引き受けてしまって、あとから難儀したというわけ。ミノホドヲシレという教訓。
 今回の原稿は、転載予定はありません。明きらかに完成度が低いと思いますので。筆耕硯田の夢は、まだまだだなあ。

      ×

 ヤフオクのこと。友人と組んで(正確には、友人に売る物を提供してもらって)一ヶ月ほどいろいろ出品してみたが、とりあえず第一次販売計画は終了という見通し(まだ完全に取り引きが終わったわけではありませんが)。十五品出品して、四品捌けた。先行投資が大きく、結果的には赤字。別の友人から、二十年ぐらい前のポルノチラシ十数枚を提供してもらって、出品したりしてみたのだが、まあなかなか難しいもの。

      ×

 先日(四月二十七日)の京都哲学道場、テーマは永井均II。マイミクのARUKOBUさん(新らしい友人)と、おつれの女性の方が参加してくださった。参加者は多かったけれど、それほど活撥な議論でもなかったように思う(ぼくも話のタネがあまりなかったし)。
 で、まあ、哲学道場の話はどうでもよいとして、永井均。いまさらながら思うのだが、『なぜ意識は実在しないのか』は本当に面白い本である。非常に構図がすっきりしている。それは、ほとんど読者の<誤読>を許せるほどだ。例えば差別論に応用してみると、この本と併行的に「なぜ差別は実在しないのか」を立論することができるように思う。ちょっとやってみよう。

『ぼくにも君にも共通に理解できるとされる、差別っていったいなんだろう。そんなもの、本当に「ある」のか?
 差別なんて一般的なものは、じつは存在しない。それは、現にぼくが感じている「差別されている!」という端的な現実を、あたかも誰でもに対して妥当するような一般的事実として読みかえてしまった時に成立する、高度に抽象的な構成概念なのだ。このように公共化されてしまったあとでは、誰もが「自分は差別されている!」と主張することができる。こうなってしまえば、逆方向からふたつの主張を同時に立論することが可能になる。一方で「あらゆる行為(言葉)は差別(差別語)である」ということになり、他方で「そもそも差別(差別語)なんか実在しない」ということもできる。これは最上段における「差別でないこと‐差別であること」という対立が「差別でないことの内における『差別でないこと‐差別であること』」という対立へと読みかえられてしまった以上、必然的である。
 ひとたび差別が実体化されてしまえば、ぼくが現にいま差別ゾンビ(差別されているかのようだが実は差別されていない人)であることだって充分可能な事態となる。「あなたは経済状態がしかじかだから、実は差別されてないんですよ。あなたの感じているそれは、実は差別ではないのですよ」という社会学者の発言は、充分説得力を持ちうる。自分が差別ゾンビである可能性の成立こそが、自立的な「差別」概念の完成を意味するのだから。
 世間にいう差別語のアポリアなどというものは、「現に差別語である/ない」ということを実体化し、対象化し、実在化するところから生じる、架空の問題であるとぼくは考える。だから、すべての言葉が「差別語だ!」として糾弾の対象になりうることは避けられないのだ。そこで「なぜこの言葉は差別語なんだろう?」などと論じられたって、砂上の楼閣、空中戦、ぼくには問いの意味そのものがわからない。
 ああ、しかしぼくのこの議論は有意味でありえようか。ぼくが「ぼくは〈差別〉されている!」と述べる時、この言葉は必然的に「誰もが差別という社会関係のうえに生きている」という意味に頽落せざるをえない。ぼくが「そうじゃない、違うんだ。ぼくは現に〈差別〉されているんだ」と言ったところで、他人たちは「そうだね、誰もがみんな差別されながら生活しているんだね」と返すだろう。この読みかえは、構造上必然なのである。
 ……云々』

 多分、これが「差別を脱構築する」ということの意味なんだろうと思う(東浩紀的にはゲーデル的脱構築かな?)。まだ実験していないが、同じノリで「なぜ刑法は実在しないのか」「なぜ悪は実在しないのか」「なぜ魔術は実在しないのか」辺りはいけると思う。そういえば永井の「開闢の神‐普通の神」という対立だって「なぜ神は実在しないのか」という問題系であるわけだし。
 以上のような『なぜ意識は実在しないのか』の<誤読>を、ぼくが冗談でやっていると思っていただいては困る。この架空の本『なぜ差別は実在しないのか』の中で述べられていることは、すべて完全に正しい。この架空の本の序文にもまた「本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的」だと述べられているだろう。実際そうであるとしか言いようがない。ぼくの黒歴史である旧『差別論』だって、議論の道筋は幼稚ながらも本質的にはこういうことを考えていた(と思う。多分)。

 問題は、以上のような読みが<誤読>であるのかどうかだ。もちろん<誤読>であるには違いなかろうが、それがどういった意味での<誤読>なのか、それが重要なのである。それによって、これからの考え方も変わってくる。
 なんだか、永井均を援用して差別を存在論的脱構築したつもりが、そもそもの永井均自体を郵便的脱構築してしまったように思われなくもない(この、どこまでいってもついてくる東浩紀の影をどうにかしてくれ!)。

      ×

 いつまで生きてるんでしょうね。ぼくのような人は、たいがいぼくぐらいの年齢になったら自殺してるものですが。若年自殺者の手記を読むたびに、ああ、この人はぼくに似ているなあ、と、いつも思わずにはいられません。
 でも、本当は似てないんだ。ただ一点だけ、彼らはぼくとは違う。ぼくは汚い、そして彼らは美しい。それだけの違い。そうして、それがどれだけ大きな違いであることか!
(ついでながら言っておくと、ぼくが手記を書いたら、それを読んだ誰かはぼくのことを「美しい」と思うかもしれない。でも、ぼくは「現に」汚いんだ。この「現に」に傍点をふろうがゴシック体にしようが、どうしてもぼくの言いたいことは伝わらない、ということが、ウィトゲンシュタインの真に驚嘆すべき根本洞察なのでした。ほら、もう「美しく」なっちゃってるでしょう?)
 言いなおしましょう。「いつまで生きてるんでしょうね」ではなく「これからどうやって生きてゆくんでしょうね」だ。もうなにもかも終わった気がしてならない。

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2008年3月14日 (金)

整列アルゴリズム/ハードディスク/真空原理

 わけあって、四月二十日の基本情報技術者試験を受験することになりました。受かる見通しも落ちる見通しも立たないまま、つらつらと勉強中です。
 で、教科書に整列法というのが載っていて、これはコンピューターが 4,2,1,3 を 1,2,3,4 に並べ替える手順、といったようなものなんですが、アルゴリズムも載っていたので、暇つぶしに作ってみることにしました。ぼくの使えるプログラミング言語は JavaScript だけなので、作るとなったら JavaScript で作るしかないわけですが、まあついでにウェブで公開できることを考えれば、JavaScript でも悪くないですね。

 http://www.geocities.jp/itikun01/js_alignment.html

 ソースコードは、これでだいたい 400 行くらいです。基本情報技術者試験の受験者以外に、これを見て役に立つという人がいるとは思えませんが、ぼうっとながめてるとちょっと面白いかもね。

 それはそうとして、外づけハードディスクを購入しました。うちのパソコンはそろそろ六年も使っていることになり、過去、プリンターを修理に出したことを除くと、ハード面での不具合はほとんどなかったのですが、さすがにちゃんとバックアップをとっておいた方がいいなと思ったわけです。容量 700MB の CD-R じゃラチがあきませんが、かといってうちのディスクドライブは DVD の書きこみに対応していないので、これはハードディスクを買った方が早いだろうという結論になりました。で、近くのパソコン専門店で適当なのを見つくろってきたわけですが。
 ……容量 320GB だとさ。内臓ハードディスクの容量が 70GB もないんだから、どう頑張ってバックアップしたところで余りまくります。これには、さすがに時代の流れを感じざるをえない。六年前には、こんな大容量のハードディスクなんて高くて誰も買えなかったに違いない。それが、いまや 70GB なんて普通の店には置いてないんですからねえ。
 ファイルを転送しつつ、つれづれに思ってみるわけですが、マイコンピューターに新しいディスクを確認した瞬間、ぼくは少し奇妙な感覚を味わった。それは、自分の家が急に広くなったような感覚、まっさらな遊び場を与えられた子供のような感覚です。それは、これまで 70GB という狭い部屋で生きてきた人間が、320GB という大広間に移された時の「とまどい」みたいなものでした。ぼくはパソコンの中で生活しているのだと、よく分かった。
 ときどき、人から「ウェブはもうひとつの世界なんかじゃない。世界はいつも一つしかなくて、それは〈こっちがわ〉のことなんだ」だの、「パソコンがないと生きられないっていうのは、なんだか情けないね」だのと言われ、ふしぎな気分になることがあります。後者の発言の人は喫煙者なのですが、煙草がないと生きられないことは情けなくはないらしく、あるいは、自動車がなかったり近代医学がなかったりすると生きられないことも、べつだん情けないとは思っていないらしい。「パソコンとは空気である」ということが、どうしても実感できないゆえの発言でした。もちろん、ぼくにとってパソコンとは空気ですし、空気がなくて生きられるという人がいるならお目にかかりたいものです。真空の人間を主張するということは、実は「言語が存在しない世界を理解することができる」という主張を述べているにも等しい。それは端的に不可能です。
 前者の発言の人は「ウェブで飯が喰えるか」ということを言っていました。これはそのまんまの意味でして、ウェブの中で茶碗をもち、箸を使って、飯を口に運ぶことができるか、ということなんですが……。「できる」としか言いようがないですね。この発言は、最初からウェブ(仮想現実)と現実との区別があって、その内で飯を喰えるのは現実の方なんだ、ということを述べているように見えて、その実、先に飯を口に運んでしまってから「飯を口に運んだ方が現実なんだ」と定義しているに過ぎない。同じように「飯を口に運んだ方がウェブなんだ」と定義することもできて、そうすれば「ウェブで飯を喰う」ことだって充分に可能です。そうして、このような発言をする人々には理解できないくらい、ぼくらはウェブを生きている。ウェブの中で生活し、泣き、笑い、生を営んでいる。
 真空人間原理主義は、ほかにもいろいろなところで見出すことができます。例えば「健康ファシズム」しかり、例えば「動物愛護主義」しかり、要するにヒューマニズム一般がそうです。それらは煙草や不健康な生活が空気である人々を、捕鯨や犬の殺処分が空気である人々を、攻撃することで成り立っている。しかしながら、彼らが妄想するような真空人間なんてどこにもいないということは分からない。彼らは、「空気なんて存在しない」という妄想を空気化してしまったがために、もはやそれが空気であるということを理解できない。だからこそ、ますます「空気なんて存在しない」という妄想が強化されてゆく。この話は、差別論なんかにも応用できますね。ここで「真空原理=真空という空気」を、ポストモダニズムっぽく「大きな物語」と呼びかえてもいい。そして、それは崩壊せざるをえないものなのです。

 いったいパソコンの話から、どうしてここまで話が飛んでしまったものやら……。そろそろ打ち切りますね。

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2007年12月20日 (木)

ただいま

 東京旅行から帰って参りました。

 池袋でストリップを鑑賞し、恵比寿の東京都写真美術館で『文学の触覚』展を観て、東京学芸大学で文学の演習授業にもぐりこませてもらい、神田の古書街で文士の直筆原稿などながめて参りました。

 或同人の先輩に案内していただいたのですが、本当に出かけてよかったです。ストリップは小説に役立つこともちろんですし、文学の演習授業もとても参考になりました。哲学道場などとはまったく違う言葉の使い方、まったく違う議論の進行方法があって、それだけでも参考になったのですが、なにより「テクストの分析」ということの意味が凍解氷釈しました。レジュメの発表とその批判という形で授業が進行したのですが、そこでテクストが分析されてゆく過程をつぶさにながめることができて、なるほどこういうわけだったか、というような感じです。「作者の死」の意味なんかも、どんな解説書を読むよりすんなりと理解することができました。ぼくは差別論とのかかわりの内にテクストの分析の話を捉えており、かなりその点にてこずっていたのでしたが、これで心おきなくテクスト論者の差別論客を批判することができます。

 夜は、かなり酔っ払いつつ先輩とわけのわからない議論をしました。おもに「ウェブ時代」と「差別論」についてでしたが。このごろ、いろんな人とウェブについて解説したり、議論したりしています。それだけウェブというのが大きなものであると共に、自分にとっても重要なものだということでしょう。時代と文化ということがますますハッキリと自覚されてくるようになっており、六十年代から照らし返して現代を解読する作業にもとりくめるようになってきました。
 ついでに、ぼくの和歌なんかも具体的に批評していただきました。

 このごろは、ぼくはCSSとXHTMLの復習を終え、フォトレタッチの勉強も始めようかというところです。あとはジャバスクリプトとCGI、PHPあたりまで学べたらいいなと思っております。来年以降、独自ドメインを取得して本格的にサイト運営を始めるつもりです。
 ぼくは生きることで暇をつぶしているだけなんでしょうか。一歩々々進んではおりますし、物事の輪郭も次第にハッキリと見えるようになってきました。でも、それがなんなんだろう。ぼくは、人間が進歩するものだという考え方をさいしょから否定していた筈です。ぼくの興味は常に過去にむけられており、具体的には小学生時代から中学生時代の自分にしか興味がありません。端的に言って、それが自己喪失型ナルシシズムの意味です。ものを学べば学ぶだけ、ぼくは過去の自分から遠去かってゆくのではないかと思われてしかたがありません。

日を啖(く)らひ吐きくだしては再た啖らひ
    文士
(ふみつかさ)かな文士かな
(とぶら)ひの言葉なるべしわが詩文(ふみ)
    たゞ昔日
(せきじつ)てふものを葬(おく)らん
〔……『夢むるナルシス』より〕

 ぼくは、欠けたところのない人間が嫌いです。人はみんな、心のどこかが欠けていなくてはならないと思う。そこで理性的になるということは、よくないことなんだと思います。
 社会から奪いとれるだけのものを搾取し、日々人を不幸にしながら、ぼくはもう少し生きています。「自分がいま引き受けるべき価値」(永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』)が創出されるまで。

(ぼくは日記作家になるわけじゃないんだから、少し日記にものを書くことを自重しようかなあ。ミクシィやブログだけで自己充足してしまうというのは、あまりよろしい傾向じゃない)

 古書街などで購入した本は以下。

◆佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』
 絶版ですが、けっこう有名な本。平野啓一郎『日蝕』が、自分の小説『鏡の影』のパクリであると、この作家さんは主張されているようで、前からちょっと興味を持っていました。

◆中島義道『カントの時間構成の理論』
 中島大先生の一番古い作品ですね。

◆宮本忠雄『精神分裂病の世界』
 けっこう見かける本なんですが、有名なんでしょうか?

◆マンディアルグ『狼の太陽』
 この作家はまったく知りませんが、生田耕作が訳しているということで購入。生田耕作の訳というだけでわくわくするじゃないですか。

◆デュヴェール『幻想の風景』
◆アレクサンダー・ドルナー『[美術]を超えて』
 この二冊は適当に。『狼の太陽』を買った古書肆があまりにも安かった(というか値札がなく、その場でアバウトに値段をつけてくれた)ものですから。

◆春日井建『春日井建歌集』
 先輩からいただきました。和歌は詠む割に不勉強なので、もっとがんばらないとね。

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2007年12月15日 (土)

差別表現と名誉毀損

◆仏語侮辱 都知事への請求棄却
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=362927&media_id=4

 いわゆる「差別表現」というものにもいろいろあって、特にこの事例では、対象を明示しない一般的な差別表現の合法性が認定された形である。しかし、おもしろい。なにがおもしろいと言って、このようなタイプの差別表現が合法であると認められた判例が前にもあり、しかもその判例も被告が石原都知事だったということ。彼もこりない人だねえという気がしないでもないが、少なくとも裁判所の判断は正しい。
 前の事例というのは、石原都知事の「ババアは有害」発言事件である。ご存知の方も多いだろうからディティールははぶくけれども、この事例では地裁判決、高裁判決共に名誉毀損の成立を認めなかった。2005年2月24日の東京地裁の判決文では、名誉毀損が成立しない理由を次のように述べている。

「なぜならば、不法行為の被侵害利益としての名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉を指すものであって、名誉穀損とは、この客観的な社会的評価を低下させる行為のことにほかならない。そうすると、被告の第一発言は、「生殖能力を失った女性」ないし「女性」という一般的、抽象的な存在についての被告の個人的な見解ないし意見の表明であって、特に原告ら個々人を対象として言及したものとは認められないから、被告によってこのような個人的な見解ないし意見の表明があったからといって、それにより「生殖能力を失った女性」ないし「女性」についてはもとより、原告ら個々人についての社会的評価が低下するという道理もないし、現にそのような事実があったと認めるべき証拠も存しないからである」

 石原都知事の発言が妥当かどうかはともかく、法律の現場において、この判断は明らかに妥当であったと思う。
 名誉毀損の構成要件を確認してみよう。刑法230条には次のようにある。

「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する」

 ババア発言事件も今回の事件も民事訴訟であるが、基本的に不法行為が成立していることを前提として、謝罪と賠償を求めているわけであって、拠って立つところの大部分は刑法における名誉毀損罪である。法文にいうところの「人」には、法人や権利能力なき社団なども含まれるらしいが、ババア発言事件における石原都知事側の主張にもあったように、東京都民や九州人というのは漠然とした集団であって、とうてい構成要件が充たされているとは言いがたい。逆に、もしこういう対象に対しても名誉毀損罪がなりたつのであったら、どんな混乱が起こるかを考えてみれば、一目瞭然の話である。
 民事訴訟において勝つためには、不法行為によって保護法益が侵害された、ということが立証されなくてはならない。保護法益が侵害されていても、その行為が不法でなかったらだめだということ(もっとも、保護法益すら侵害されてないけどね)。こういう意味で、違法化というのはおそろしいことなのである。人権擁護法案がもし通ってしまったりしたら、かりに罰則がなかったり微々たるものであったとしても、民事訴訟のための足がかりを与えることになる。これは非常によろしくない(何度でも言うけど、人権擁護法案いうところの人権は決して人権なんかじゃない!)。
 そもそも日本国憲法第14条、法の下の平等が不法行為の成立根拠になるのではないかとお思いかもしれない。もちろんだめである。憲法は生半可に私人間に適用することはできない。憲法とは、本来、国民の生活を保障するために国家を規制するものであって、あそこで述べられていることは国家‐国民間の契約事項なのである。もう言いたくないが、逆に考えて、もし適用できるとしてみるといかなる混乱を惹起することになるか……ああ、いやだいやだ。

 まあこういったわけで、むろん請求は棄却されることになったが、一歩間違っていたらたいへんな事態を招きかねない判決だったのである。現代日本では、常にこういった危機意識を持っていなくてはならない。いたずらに政治的立場にくみするつもりはないが、表現の自由を守るために言ってゆくべきことは言ってゆかねばならない。いくら某団体の勢力が弱まっているからといって、しょせんこの国で表現の自由なんてものは風前のともし火にすぎない。

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2007年9月12日 (水)

つぇるふぁーれん

 人間、生きるか死ぬかでしょ。私には生きようとする意志がないのよ。だけどそれにもまして自殺する勇気はないの。だから仕方なく生きているのよ。(高野悦子『二十歳の原点序章』)

    ×    ×    ×

 個人は国家によって生かされているのであり、個人的事情は国家のためなら無視して国家に奉仕しなければならない……こう言うと、大抵の人はこう返すだろう。
「自分の方が大切だ、国家なんてどれほどのものだ」と。
 しかし、ならば「自分」なんてどれほどのものなんだろう。国家がどうでもよいのと同じように、よく考えてみたら自分だってどうでもよいとは言えないか。そもそも、ぼくが国家でなくて自分であるとどうして分かる? この肉体を作る細胞の内のひとつではなくて自分であるとどうして分かる? <私> があるからだろうか、やはり。
 目的として酒をのむ人に比べ、手段として酒をのむ人はアル中になり易いと、中島らもの本に書いてあったが、目的として酒をのむというのはどうすることなのか? あらゆる行為には目的がある以上、あらゆる行為は手段でしかない。目的をめがけて意志が行う表象の操作のことを行為という。
 ああ! しかし慾求はどうして充たされなくてはならないんだ。慾求が充たされるべきだから、というトートロジーの他に答えがあるとは思われない。そうだとしたら、人間に自由意志があるなどというのは捏造以外のなにものでもないんじゃないか。
 慾求が実現することになんの意味がある? 時間はどうして進まなくてはならない?

 私は未来を<見ている>。未来はそこに、道路の上におかれていて、現在よりもほんのわずか色が淡いだけだ。なんの必要があって、未来が実現されるのか? 実現されてなにをうるのだろうか?(サルトル『嘔吐』)

    ×    ×    ×

 自己決定権などという言葉は幻想(社会的了解)に過ぎない。あるのは、唯その人がいつ自己決定したかという事実だけである。
(それにしても、中学生だった時分のぼくは「社会的了解」という言葉が大好きだった。みんなみんな嘘なんだ! というわけ)

    ×    ×    ×

 露悪趣味というのは、一般論を言わせてもらえば、自分とつきあう人間には自分の存在を同意してもらわなくともよい、だがせめて許容してほしい、という感情がはじめにあって、しかし相手が自分の本当のすがた、その特に悪い点をすべて知っているわけではないゆえの、自分の存在を相手が許容してくれるかという不安がなさしめるものである。
(しかし中島大先生の文章からはそんな感じもしないのだが、あの人もけっこうごまかしてるところがあるからな。分かんない)

    ×    ×    ×

 A、B、Cの三氏が無人島に流れついた。B氏とC氏は結託しており、A氏の意見をまったく容れようとしない。このような状況において、民主々義とは以下どっち?

1.多数決の原理をつらぬいて、B(C)氏の意見がすべて通る(だからA氏は虐げられたまま)。

2.綜人数三人に対する一人という割合から、三回の合議中に一回はA氏の意見を通す。(しかし、三回中どの一回にA氏の意見を通す? もしA氏の意見を通す回が予め決まっているのなら、A氏がその回にどんな無茶苦茶な意見を言っても通さなくてはならなくなる)。

 2のように思われがちだけれども、民主々義というからには1でしかありえない、とぼくには思われる。A氏は、ちょうど盲が睛眼になることがないように、虐げられなくなることはない。そういう生まれつきだったのだ。
 民主々義とは、とどのつまり力の原理でしかない。国家とは、そして圧倒的な力によって法とかいうものを無理矢理おしつけてくる征服者でしかない。
 A氏に残された手段は <対話> しかないのだ。

    ×    ×    ×

 空気を読むとは、どういうことなのだろうか? 空気というのは、そもそもどこにある? ぼくの中にあるのか、君の中にあるのか、ぼくと君の間に幽霊みたいに浮かんでいるのか。ぼくと君が別の空気を読んでいたらどうするんだ?

    ×    ×    ×

 いろいろ書くことはあるが、疲れたので、続きは明日。

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2007年9月 6日 (木)

神・仁侠・善良な市民

■高校生殴打の警官に支持の声
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=289888&media_id=2

 警官に共感をいだくのもほめそやすのも一向にかまわないけれど、逮捕や処分は当たり前でしょう、違法行為なんだったら。むしろ、逮捕や処分されることを覚悟で、それでも高校生を殴ることを決意した警官の仁侠に拍手を送るべきであって、だからこそ警官の名誉のためにも処分は厳正でなくてはならない。武士が切腹するというのに、どうして止め立てすることができようか。
 だいたい、殴る以外に方法がなかったわけではないよね。注意して、この高校生がどうせ不遜な態度をとったんだろうから、うまいこと暴言を吐くとか、胸ぐらを掴むとかするまで待って、そこで現行犯逮捕するのが普通でしょう。警官ならそれくらいの機転はほしいところ。それでもあえて殴ったというのが、まあカッコ好いわけなんだけど。

 ぼくにとって「責任ある態度」というのは、無責任な行動をとらないことではナイ。ある行動をとったことに対し、その帰結として生じてくる状況を、自分がみずから選んだものとして甘受しまた抵抗してゆく「覚悟」のことなのである。あらゆる事態を、自分のものとして貪欲に呑みこみ、みずから苦しめるだけを苦しまなくてはならないのだ。ただし、ここに「神の概念」が入ってくる場合だけ、また話がややこしくなってくるのだが、文学論じゃないから措いておこう。
 近代的法治主義というのは、実に「責任」をとり易いシステムになっていて、行動に対し生じてくる状況とは、罪に対する罰である。むろん、罪を犯したうえ、さらに罰から逃れようとしても、「責任ある態度」をとることはできる。ぼくのいう「責任」とは、「覚悟」というイデオロギーを奉ずるということであって、行為に対する羈絆ではいっさいありえない。
 これは(また中島術語が入るけれど)<マイノリティ>が<対話>を遂行するにあたり欠くべからざる条件であり、自由という言葉の意味である。ぼくの理解が正しければポストモダニズムの条件でもある。
 話が随分それてきたようだけれども、昨今の状況、特にインターネットという言論空間においては、誰をも排除しないまったくの自由がなりたっているように見えて、じつは<マジョリティ>による<マイノリティ>の排除はいっそう苛烈になっているのではないか。匿名性によって顔の見えない圧倒的多数の<善良な市民>は、決して自己の正しいことをうたがわない。そうして、社会道徳や秩序という旗印の下に、正義という神の言葉を背負って<マイノリティ>に石を投げるのである。神と戦うためには、内的倫理、すなわち「仁義と仁侠」による自己貫徹が必要になる。ところが、責任のよりどころたる「罪に対する罰」すら、<善良な市民>はその数の論理によって否定し、<マイノリティ>が<対話>を遂行することを不可能にしているのである。そういった「法を超えた論理」をふりまわす人々が、このごろとみに増えてきて、その一端がこのどうってことないようなニュースの中にも現れているんじゃないか。
 たとえば「2ちゃんねる」で見受けられる「祭り」という状況などには、なんだか空恐ろしいものが感じられる。ひとりひとりの市民がインターネットによって力を持ったかのように誤解されがちであるが、権力の所有者は市民ではなく大衆であり、それゆえ常に<マジョリティ>なのだということを忘れてはならない。たとえ、社会正義だの、悪を許さないだの、どんな建前があるにしろ、現状では「2ちゃんねる」に睨まれた個人が「2ちゃんねる」に戦いをいどみ、そして勝利することはまず不可能であり、大衆の(合法、違法をとわない)権力によって個人の言論が封殺されるということになってきている。「祭り」に参加する<マジョリティ>たちは、殆どゲーム感覚で<マイノリティ>を排外しようとする。
 その「善良な市民の冷酷な視線」にあなたは気づけるだろうか? <マイノリティ>は常に戦うことをもってしか自己を「存在させる」ことができないのだ。

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2007年8月27日 (月)

タンタンのコンゴ探検

■タンタンに抗議 各国で広がる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=282494&media_id=4

 日本版の発売はこないだでしたが、この時期に騒ぎになっているということは、各国版の翻訳も最近になってからだった、ということでしょうか。日本版の刊行スピードはだいぶん遅れてるって思ってたんだけど。
 タンタンの冒険シリーズは、日本版の刊行最初期から家族がファンで、当然わが家にも全巻揃っており、子供のころから何度となく読みかえしてきたものです。
 さて『コンゴ探検』ですが、動物虐待などという意味不明な妄言はどうでもよいとして、人種差別的な表現……ねえ。何度かエルジェ本人による大改訂もあったようですし、少なくとも現行版ではたいして感じられなかった。『現地住民を怠け者で劣った人種として描いている』というのは言い過ぎで、たんにコミカルな描写をしているだけに思われるんですが。個人的に『コンゴ探検』はかなりおもしろかったんですけどね。
 なんにせよ、本当の問題は人種差別的な表現があるかどうかではない。「たとえひとかけらでも人種差別的な表現があることは許されない」という人権ファシズムの大虚誕ですね。「差別的な表現をすること」と「お正月に子供におトソをのませること」と、どちらがより悪いかといったら後者に決まってる。前者は合法で後者は違法なんだから。差別なんてのは、それほどくだらない話なんですね。

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2007年8月17日 (金)

差別語但し書き(出版社別資料および考察)

【凡例】

◆出版社

著者『書籍タイトル』(叢書名、初版年月日、筆者所有版年月日)
「その書籍に加えられている、差別語にかんすることわり書き。かかわりのない文章は省略した」

→筆者による考察。

      ×      ×      ×

◆太田出版

山田花子『自殺直前日記』(初版1996/6/3、三版1996/7/4)
「著者の日記中に誤字や不適切な表現がございましたが、原文を尊重してそのままとしました」

→いきなりではあるが、筆者はこのことわり書きについて、非常に好ましく感じた。というのも、この本の中にはかなりの量の、いわゆる「差別語」が出てきており(カタワ、キチガイなど頻出)、また「物乞い、障害者を見ることによって優越感に浸ることができる」というような内容の自己省察が行われていたりして、一般的な出版社側の基準からすると、おそらく危険ラインすれすれの中味なのである。にもかかわらず、このことわり書きの簡潔なことといったらどうだろう。扱いとしては『誤字』と同じ程度、しかも表現に手を加えなかった理由は『原文を尊重し』たからというだけなのだ。著者は自殺しており故人である。「著者が故人であることをかんがみ」など、なんとでも書けた筈だ。ところが、編集部は死者の誇りに瑕をつけるようなまねに甘んじなかった。彼らは、もはや反論さえできない死者の「表現」をまもりぬき、そのことを通じて編集者としての矜持をもまもりぬいたに違いないのだ。拍手を送りたい。

◆角川書店

三島由紀夫『不道徳教育講座』(角川文庫、初版1967/1/20、改版再版1999/8/15)
「本書のなかには、一般に差別用語もしくは差別用語ととられかねない箇所がありますが、作者の意図は、決して差別を助長するものではありません。編集部としては、本書のもつ文学性及び芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、表現の削除、変更はあえて行わず、底本どおりの表記としました。読者各位のご賢察をお願い致します」

→差別語にかんする但し書きの典型例であり、豊富な研究素材を提供してくれる。はじめに、ことわっている対象が「差別用語」であるという点に注意しよう。「差別的表現」ではなく「差別用語」なのだから、表現の中味ではなく用いられた言葉だけをとりあげて但し書きを書いているということになる。さて、ところが、筆者はこの本をのろのろと読んでいたため、あまり「差別用語」が用いられていたという記憶がない。むしろ「差別的表現」が頻繁に登場していた。とすると、次の、作者の意図にかんして書かれたくだり『決して差別を助長するものではありません』はおかしいことになる。『女には暴力を用いるべし』(小節タイトル)が、一般に差別を助長するものとしてとられてしまうことは想像に難くない。だいたい、文学者である著者の『意図』なるものを、そこらの編集者が簡単に「こうだ、こうでない」などと言いきれるものだろうか。そんなことが許されるのだろうか。続く『表現の削除、変更』を行わなかった理由は「文学性」「芸術性」「著者が故人であること」の三点。まるで「本当ならこんなものは出版されるべきではなかったが、文学性、芸術性があるからまあなんとか許してやろう」とでも言いたいかのような、高慢な調子である。もし「文学性」「芸術性」がなかったら、たとえエンタテイメントとしておもしろかろうとも、決して出版はしてくれないのであろう。著者を文学性でふりわける差別的意志が見えかくれする。さらに「著者が故人であること」などとつけ加えるということは、著者が故人でないのなら編集部の要請で書きなおさせるが、著者が故人であるから書きなおしてもらうわけにゆかず、しかたなくそのままの表記にしたということか。馬鹿にするにも程がある。表現の自由など、差別撤廃の前では塵芥にもひとしい些細なものだと考えているに違いない。きわめつけは『表現の削除、変更はあえて行わず』だ。「あえて」と言うからには、表現を削除したり変更したりすることも可能だったということだ。死者の表現を。誰にそんな権利があるのだろうか。それを、まあ慈悲を垂れて、削除も変更もしないでおいてやった、というのだからおそれ入る。表現というものに対する、一抹の敬意も感ぜられない。こういう編集者に、出版の世界にかかわり合ってもらいたくない。

◆講談社

久坂葉子『幾度目かの最期』(講談社文芸文庫、初版2005/12/10)
「底本にある表現で、今日からみれば不適切と思われる表現がありますが、作品の時代背景および著者が故人であることなどを考慮し、底本のままとしました。よろしくご理解のほどお願い申し上げます」

→「不適切」と言いきってしまわず、『今日からみれば不適切と思われる』という表現にしたのは、まあそれこそ「適切」だろう。「不適切」と言いきってしまえば価値判断になるが、『今日からみれば不適切と思われる』と書けば事実の呈示であり、少なくとも、編集者が作品に対して、当の出版物上で価値判断を行うなどという大それた(著者と読者に対して不躾かつ失礼な)まねはしていない。この点は評価されるべきだろう。しかしながら、時代背景がなければこの表現は認められない、著者が故人でなければこの表現は認められない、などという考え方が、あまり気分のよいものでないことは、言うまでもない。

◆新潮社

内田百閒[間]『百鬼園随筆』(新潮文庫、初版2002/5/1、十二版2006/11/20)
室生犀星『杏っ子』(新潮文庫、初版1962/6/10、改版四十八版2004/11/15)
「なお本作品集中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所が散見しますが、著者自身に差別的意図はなく、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました」

→同文を、二冊の本から見つけることができた。『杏っ子』は長編小説であり、『作品集』ではないのだが、いろいろとつかいまわしできるように、包括的な表現にしているのだろう。さておおよそは、すでに見てきた「典型」の範囲内であり、たいした差異は認められない。『著者自身に差別的意図はなく』という紋きり型の表現に、編集者の慢心と事勿れ主義とが芬々とにおい、胸が悪くなってくる。同文をつかいまわせるとは、随分差別意識のない、善良な作家のものばかり御出版なさっておられるのですねえ、という感想。

◆筑摩書房

稲垣足穂『稲垣足穂コレクション1 一千一秒物語』(ちくま文庫、初版2005/1/10)
「本書に収録した文章のなかには、今日の人権意識に照らして不当・不適切な語句や表現を含むものもあります。これらのことについては、著者が故人であること、また作品の時代的背景にかんがみ、そのままとしました」

→『白いニグロからの手紙』『ちんば靴』あたりが、タイトルからして抵触したものと思われる。『不当・不適切』とは言いきっているが、条件として『今日の人権意識に照らして』がくっついているから、まあ微妙な表現。「著者には差別心などなかった」とかの、馬鹿げた主張をしていないあたりは、えらいといえばえらい。

◆早川書房

小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(ハヤカワ・ミステリ、初版1956/2/15、五版2004/7/15)
「本書には今日の人権意識に照らして不適切と思われる表現がありますが、時代背景と作品の価値とにかんがみ、発表時のままとしました」

→なんだろう、もういちど読みかえす気力はないものの、いろいろ差別語じみた言葉が用いられていたような記憶はある。それにしても、内容にはたいした差別的表現はなかったように思うから、差し障りがあったのは言葉単体であろう。『不適切と思われる』とは、編集者が「不適切だと思っている」という意味。なにを思うも自由だろうが、失礼であることにはかわりない。

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2007年8月12日 (日)

読書記録など;2007/08/12

◆読書記録

 七月四日以降に読了したもの、計六冊。「Psi って誰?」とか、気にしないでください。

『差別原論』好井裕明

 開口一番、Psi の言うには「君、やられたな」と。
「は? なんのお話ですか?」
 ききかえすぼくに対し、彼はだまって朝日新聞の切り抜きを突きつけた。
「なになに? ……『差別原論』……『差別はいけない』の落とし穴、だとォ?」
「ほら、君の差別論のコンセプトに似てるだろ。これは先をこされたかもしれんぞ」
「の、ようですねえ」
 さっそく買って読んでみましたが、そんなわけはありませんでした。正直なところ、ぼくにとって殆どの差別論は読むに堪えないのですが、読むに堪えない本リストに一冊が追加されただけでしたね。
 後日、Psi との会話。
「だめですね、これは。くだらなかったです」
「ふうん、たしかに。このくらいで『落とし穴』だのなんだの、語って欲しくはないわなあ」
「ぼくの理論が抜けがけされるなんて、ありそうもない話でしたね」
「それは君、君の理論が間違っとるからやないのん?」

『百鬼園随筆』内田百閒(間)

 百鬼園先生って、なんだか不気味な人ですよね。こういうタイプの芸術家って、あまりいないのではないでしょうか。随筆を読んで、あらためてこの作家の特異性を感じずにはいられませんでした。世間では、ひょうひょうとした作風に定評があるようですが、一読して、ぼくはつかみどころのない神経症的不安に襲われてしまいました。

『二十歳の原点』高野悦子

 生涯の一冊という話をしていて、Psi がこの本を挙げたので、読んだのでした。感想はあえて申しません。あと三年くらい、この本とつきあってゆかなくてはならない予定ですので。詳しいことは申せませんが、オマージュの計画があるということです。『原点序章』と『原点ノート』も近いうちに届く予定。

『わが解体』高橋和巳

 上記の本と、六十年代つながり。梅原猛『高橋和巳小論』で予備知識あり。母が全集を持っているので、高橋和巳には困りません。なんなんだよ母さん。とはいえこの本は、ぼくが別口で金百円也で購入した品なんですが。彼女の本の方が美品。

『中庭の出来事』恩田陸

 今月の読書会の課題図書。見事に外しました。お陰で、深草先生を恩田陸嫌いにさせてしまいました。ぼくがディープな恩田陸ファンなのは、みなさんご存知の通り。

『卒業式まで死にません』南条あや

 くだんの本と、若年自殺者の手記つながり。コミュニティは http://mixi.jp/view_community.pl?id=491871 です。あと、久坂葉子『幾度目かの最期』と山田花子『自殺直前日記』も積まれております。読むのはかまわないんですけどね……乗り憑られるのです。精神状態が一気におかしくなってきます。そのうえ、若年自殺者の手記を読むわけですから、必ずラストで主人公は死ぬのです、現実に。精神的にきついものがありますね。で、どろどろした気分になって、次の手記に手を出す、と。無限ループの悪循環にはならないで欲しいものです。

◆自主休養

 現在、自主休養中。人間が一個の実存である限り、わたしというものはカテゴリでは捉えきれない一個の現存在なわけです。すなわち一個の意志です。Do what thou wilt です。だから、病気かどうか、疲れているかどうか、自分を甘やかしてよいかどうかなんて、そんなことは自分で決めること。医者によって病気というカテゴリにカテゴライズされる必要はないんです。気が晴れました。しばらく自主休養します。

◆攣る

 指が攣ります。指が攣るのはよいのですが、このごろ股間が攣るようになってきました。用を足そうとすると、急になります。「わたたたたッ!」という感じです。いわゆる「蟻の門渡り」の部分だと思うのですが。なんだこりゃ。

◆素数

 Psi が素数を書きならべています。「百までの素数ならだいたい覚えてるから」とのこと。となりで見つめるぼくを無視して、彼はぐちゃぐちゃ数字をいじり始めます。
「なにしてんですか?」
「いや……ほら、どの数が素数かということに、なにか規則性がないのかなァ、と、思って」
 絶句。素数の規則性についての研究が現代数学の数論の最重要課題であるということを、なんと Psi は知りませんでした。
「あのォ……無理だと思います」
 とはいえ、家に帰ってから、ぼくも素数について考え始めます。素数というのは、自然数の中で約数の数がふたつである数字のことに過ぎない。素数でない数と一口に言っても、約数の数はそれぞれ違う。ある数字が素数でないということは分かっても、それなら約数の数はみっつなのか? よっつなのか? これまでとは違う観点から考えてみると、思わぬ規則性が見つかったりして……。はい、バカがひとり増えました。ミイラとりがミイラになる。

◆発見

 And who was it that scattered the cards away?
(訳:カードを吹き飛ばしたんは誰かなー?)

 あッ、強調構文だ! 理由はよく分かりませんが、発見してちょっとうれしい。発話者は、カードを吹き飛ばしたのが「誰」なのかよく承知していて、皮肉として疑問文にしているわけですね。「お前が吹き飛ばしたのだから、責任とれ」と。だから強調構文になっているわけなんですが、へえ、直訳なのに日本語のニュアンスの再現度高いなあ。冒頭の「And」も効いてますし。
 え? なにを見てたのかって? いや、ちょっとニコニコ動画で『カードキャプターさくら』を……。発話者はもちろんケロちゃん。

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2007年7月 8日 (日)

「差別」と「いじめ」の同形性

(註:ぼくの差別論をご存知ない方で、おおまかにお知りになりたいという人がもしあれば、この雑記をお読みいただけると、いちおう軽いまとめにもなっているので、あるいは有用かもしれません)

 こういうタイトルをつけると、排除の理論がどうしたこうしたという話だと、多くの人に誤解させてしまうことになるかもしれない。無論、ぼくが書くのだから、そういった話ではない。ここでは、通常と逆の視点をとって、差別(いじめ)を差別(いじめ)として認識する認識の構造を、すなわち被差別(被虐)者の認識の分析としての同形性の発見を、とりあげてみたい。

 差別とはなにかということに対し、ぼくはみっつの視点を提示する。

1.ひとつは、原義である法的不平等、つまり撤廃される「べき」である差別。

2.もうひとつは、撤廃される「べき」であるが、それを差別というカテゴリに含ませることにはいかなるアクティブな意味もない、人権侵害であるところの差別。

3.そして、撤廃される「べき」ではない(must not でなく do not have to)魔法としての差別。あらゆる事態は(「行為」である必要すらないのだ!)ひとしなみに3の意味での差別たりうる。

 以上、いつものぼくの立論。

 さて、いじめということについても、このみっつの視点がそれぞれなりたつのではないか、と、ぼくは思うのだ。
 まず1。これはちょっと考えにくいが、クラスのルール(ローカル法律)の内に、あるカテゴリに含まれる人間を別扱いするようなものがあるなら、まあこちらは原義というわけではないが撤廃される「べき」であるいじめ。「あるカテゴリに含まれる人間に不利益を与えるようなもの」ではないことに注意。別扱いはしていないが不利益を与えているという場合は、3番に入る。なぜなら「不利益」は主観的概念だから。
 続いて2だが、その行為が違法行為(ないしは人権侵害)であるなら、それはもちろん撤廃される「べき」である。わざわざいじめと呼ぶまでもないことは明きらかだろう(呼ぼうと呼ぶまいと許されないのは同じなのだから)。人権侵害であることは違法行為であるための十分条件であるから、違法行為でないのなら人権侵害ではない。

 そもそもが、いじめであろうがなんであろうが、大人社会のルールと別のルールを設ける理由など(少なくとも裁く側である大人の側には)ありはしない。殴る・けるが許されないのは、それがいじめだからではなく、それが違法行為だからである。子供の喧嘩が多少大目に見られるのは社会常識の範囲内だからであり、一方的であったり度を過ぎたりするのなら許されはしない。逆に、ハブる(ハミる)という行為は、殴られたりけられたりするのと同程度の精神的ダメージを与えるにしても、常に撤廃される「べき」だということはない(1、2の議論の範囲内においては、いっさいの精神的事情はしんしゃくされないのだ)。これは、子供が学校という閉鎖的状況に置かれているから話がややこしくなるのであって、一般社会に出た大人についてなら、その人を多くの者がよってたかって無視しようとも、別に違法行為ではない。ある個人に、別の個人を無視してはいけないという義務はまったくないからである。ただ、子供にとっては学校という場が社会全体にひとしいわけだから、精神的指導をもその本領とする学校教育においては、まああまり褒められた行為ではないから指導を入れてもよい、というだけのこと。

 3が要点なのである。現実を差別として規定する、被差別者の認識の、内なる差別的構造。これは、ぼくが常に批判している認識の構造である。現実を差別として規定することが、どうして批判されなくてはならないのかというと、それは動機が不純だからである。そのうえ態度が不遜ということもある。現実を差別として規定するだけで、その規定と双生的に規定された「被差別者」は、この瞬間から、「わたし」ではなく「神」の言葉を使いはじめる。すなわち、彼の発する言葉は、彼という個人の責任において他者と対峙する <対話> の言葉ではなく、誰でもよかったがたまたま彼を霊媒にしたところの <神託> の言葉と化す。この芸当によって「被差別者」は、いっさいの批判・反論を、自分で受け止めるのではなく、神にむかって受け流すことができるようになる。<対話> は <圧殺> されるのだ(中島義道『<対話>のない社会』をぜひ読みましょう!)。「差別」という言葉は、この黒魔術を発動させるためだけの符牒。続けると長いのでこのぐらいで切りあげるが、そういうわけで、動機(自分の言葉に責任を持ちたくない)は不純だし、態度(神の言葉をいまから下達する)は不遜である。
 じつは「差別」の場合に比べて、なお「いじめ」の方が危険なのかもしれない。というのは、差別という言葉の原義は1であるが、いじめという言葉の原義は2から3にまたがっているからだ。「ハミる(ハブる)」というのが現代のいじめの典型例であるとすると、この「いじめ」という言葉が流行り出した裏に、なんだかキナくさいものを感じずにはいられない。「分からないことは、とりあえず『いじめ』と呼んでおこう」という、いわゆる大人の事情もあるにしろ、だ。「いじめた方がどう思っていても、いじめられた方が『いじめだ』と思ったらいじめ」という迷言に、このことは如実に示されている。この迷言がどれだけ危険思想であるのか、もはや感覚のマヒしてしまった現代人には分からないのかもしれない。この迷言は、ほとんどおぞましい生理的嫌悪をぼくに与える(年端もゆかない十五才だったころから、いっかんして、ぼくはこれを危険思想だと確信していた)。
 1、2の「いじめ」を撤廃することと、3の「いじめ」を撤廃することとは違う。ぼくは予言するものであるが、もし現状のようなヒステリックな「いじめ」連呼が続くのなら(どうして素直に「少年犯罪」と言えない?)、近い将来、子供たちは「いじめ」を魔法の符牒として用いるようになるだろう。いじめという言葉を発するだけで、神(大人社会全体)が彼の味方についてくれるのだから。そして、差別という言葉が「あーっ、そういう言い方って差別じゃなーい?」などという狂気のような使い方をされはじめたように、いじめという言葉も「あーっ、そういう言い方っていじめじゃなーい?」などと、楽しげに子供たちの間で使われるようになるだろう。……

「ほんまのことゆうて、いっぺん死んだらええねん!」

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