あ、BGMはチャットモンチー『東京ハチミツオーケストラ』で。
東京から帰ってきました。昨夕もネカフェから繋いでましたが、京都にもどったのは今朝です。まあ「面白いこと」にもなんにもなってませんが、とりあえず報告しておきましょう。
二十九日は神田古書街へ。東京古書会館で即売展があるという情報を先輩からいただいていたので、始まるまで喫茶店で暇をつぶしてから見てきました。京都でよくある「古本まつり」より、規模はだいぶ小さかったですが、周りが古書肆だらけですから、わざわざ集める意味があまりないんでしょう。そこでの収穫は柄谷行人『探求1』と井亀あおい『アルゴノオト~あおいの日記』の二冊。柄谷行人は読んだことがないので、一冊ぐらい読んでおいてもいいかな、という感じ。しかし形成史的研究をするつもりはないので、転回がどうたらこうたらという話を一々追う気はありません。『アルゴノオト』は前から探していた、若年自殺者の手記系の一冊。原口統三『二十歳のエチュード』も見かけたが、あまりに本が襤褸かったので購いませんでした。
ぼくが若年自殺者の手記を好むのは、おそらく死者が好きなんだろうと思う。そこには理解可能性を超えた他者の存在が開示されるから。宛て先のない「祈り」の彼方に、ぼくはきっと、もういちど自分自身をつかみたいのだ。あきれるほど遠くに離れていってしまった今でも。
あとは、虔十書林で寺山修司『地獄篇』と『臓器交換序説』を購入しました。
一日。午前九時に講談社へ。こんどの東京行きの理由はこれです。
『東浩紀のゼロアカ道場』
簡単に説明するなら、批評家版『TVチャンピオン』みたいなもんですね。深草某にそそのかされて応募してみたら書類選考を通過してしまったので、東京まで出かけることになりました。ゼロアカってなにかと思ったら「ゼロ年代アカデミズム・ブーム」の略なんだそうです。アカデミズム・ブーム? そんなのがゼロ年代にあったのか? それでもって、この東浩紀とかいう人がそれを牽引してたの?
批評なんて読んだこともなければ書いたこともないわけで、慌てて一ヶ月で、
『動物化するポストモダン』(東浩紀)
『動物化する世界の中で』(東浩紀・笠井潔)
『存在論的、郵便的』(東浩紀)
を読みました。感想としては、なかなか理知的な文章を書く人だなあ、という感じ。一番凄かったのは『存在論的、郵便的』で、ここまでアクロバティックな書を読んだのは久しぶりです(実は少し前の京都哲学道場でも扱ってるんですけどね、この本)。こないだ永井均『なぜ意識は実在しないのか』を精読していたので、それとの関係ですらすら読めました。ちなみに、のちの二・二六事件(註:二月二十六日午前二時、その東浩紀が2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨し、住人と交流を深め合ったという、日本哲学史上屈指の大事件)で永井均の話も出ていたので注目していたんですが、
>永井先生をご存知ですか?
知ってます。読んでます。
>永井均の独在性をめぐる議論に一言お願いします。
パス。難しいよこの質問。
とのことで、どうも「否定神学バッサリ」な一筋縄ではゆかないようです(もちろん“当然”ですけどね)。まあ『存在論的、郵便的』という素晴らしい本にも出会えたことですから、これから「永井均と東浩紀の関係を考える」とか、いろいろできそうです。
え? ゼロアカ道場どうなったかって?
……いや、第一関門試験で思いっきり落とされましたがね!
落選の理由? んなもん、ぼくに批評を書かせてる時点で、それがそのまま落選の理由ですよ、ええもう。尤も、ちょっと甘く見すぎていたということはありました。批評家選考道場なんてイロモノにマトモな奴なんてくるわけないから、第一関門試験ぐらい文章書けりゃ通って、第三関門試験あたりでレベルが高くなってきて落とされるものだとばっかり思ってました。すっかり忘れてましたが、東浩紀にはとりまき連中、じゃなかった優秀な読者のみなさんがいるわけですね。そりゃ落とされるって! 京都哲学道場組は、おひとりは応募を忘れ、おひとりは詳しいことは存じませんが会場では見かけず、ぼくが第一関門試験で落とされたので、全滅ということになります。京都哲学道場によるゼロアカ道場の乗っとり作戦、惜しくもなんともなくここに潰ゆ……。
ま、講談社のサイトにもうじき論文が上がると思いますので、ぼくの分はほとんど読む意味はないと思いますが、お暇な方は目を通してやってください。
さて、ここからは自分のことを書きます。しょうじき、ゼロアカ道場も落とされて、もういいや、という気がしてきました。文学を〈半分〉降りることにします。
結果発表後の交流会で、東浩紀がこんな話をしていたのですが、批評に必要なのは論理の言葉であって、それは小説が用いる煽情の言葉とはまた別のものなんだ、と。そういわれて考えてみると、ぼくは煽情の言葉しか使うことができず、論理の言葉とはおよそ無縁です。ぼくには神を信じない生き方はできない(「否定神学」という時の「神」ですが)。しかし大きな物語が崩壊した現代、イデオロギーによって生きるなんてことはどだい無理だ。そして動物もスノビズムも嫌だ。だから、ぼくは〈孤殖〉することにします。
芽殖孤虫 Sparganum proliferum という寄生虫がいます。芽殖孤虫は世界で十数例しか確認されていない珍しい寄生虫で、いまだ成虫が発見されていません。人間を中間宿主として使うわけですが、終宿主と出会うことができないので、寄生した人間の体内でとめどなく増殖し、宿主を喰い破ってしまいます。寄生された人間の致死率は百パーセント。
ぼくは、孤独に殖えることしかできない。芽殖孤虫は遺伝子の突然変異ではないかとも言われていますが、そうだとすると、終宿主なんてどこにもいないことになります。だからといって、無際限な増殖をとめることはできない。ぼくは、合一可能な世界(共生できる終宿主)を夢みつつ、この世界(中間宿主)を喰い破ってゆかざるをえない。そういう諦めがついてきました。だから、ぼくは文学を〈半分〉降ります。文学を〈半分〉降りて、それでも小説を殖やし続けてゆきたいと思います。
二日に、目黒寄生虫館で本物の芽殖孤虫標本を見ることができましたが、どうにもかわいそうでなりませんでした。
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