2009年9月 2日 (水)

数学研究会

 数学研究会やります。

 当方主催で、京都市内で週一ぐらいで集まって、数学の勉強会をやります。前知識は簡単な高校数学程度を要求、基本的に学部レベル以上のテーマを扱います。勉強会ですので、読み切り形式ではありません。なお、当方含め、いまのところ参加者に数学を専門的にやったことのある人が来る予定はありません。テキストを解読しながら互助的に進めてゆくことになります。

 http://gyafun.jp/ln/largenumber.pdf
 初めのテーマは「巨大数論」です。こちらのPDFをお借りして、テキストとして利用させていただこうと考えております(作者様とはなんの関係もございません、念のため)。

 第一回京都数学研究会は、9月12日(土)午前9時半より、烏丸五条のマクドでやる予定にしています。当方のマイミクの深草君が参加してくれることになっており、ほかに参加者を募集中です。どなたでも。

 参加ご希望の方は、このブログのコメント欄からなり、右カラムのリンクから飛べる当方のmixiからなり、ご連絡くださいませ。専門の方も歓迎。

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2009年3月22日 (日)

雑記 20090322

 報告。「新現代詩の会」を脱会いたしました。

 とりあえず、破壊できるものからみんな破壊していって、残されたものだけを自分の呪いとして背負ってゆきたい、というのが現在の心境です。

    ○

 第1回哲学書ランキングの結果発表をしました。
 ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/rk0804_0809.html

    ○

 そのときどきに考えている内容が自律的にくっつきあって、変なことばかり思いついてしまうのは、どうにかならないものか。

 稲垣足穂は「A感覚とV感覚」において、V(ヴァギナ)感覚とはA(アナル)感覚から派生したものにほかならず、P(ペニス)感覚とはV感覚がさらに反転したものにすぎないという、澁澤龍彦いわゆる「エロスの絶対的一元論」を打ち樹てた。すなわち、P感覚‐V感覚という常識的対立は、A感覚の一元論に解銷されるわけである。ここでA感覚こそ、あらゆる性感の基礎をなすのであり、それはP感覚とV感覚とをつなぐ「夢の懸橋」であると同時に、「宇宙的郷愁」から「精神性」への媒介をはたすことともなる。
 「A感覚とV感覚」は、美学論「美のはかなさ」を下敷きにして書かれたものである。「美のはかなさ」はオスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』をタルホが読み、自己流にまとめた文章で、ハイデガー現象学を前提に、「歴史」と「人間的自然」との対立を、「美のはかなさ=超存在論的基礎緊張」が橋わたしするという構図になっている。つまり純粋持続的で尖端的な「美のはかなさ」が、「絶対なる矛盾を解決」(シェリング)するものであるというわけ。
 ところで茂木健一郎が「プラトンの時代と現代とでは、実在するものが反対になっている。プラトンの時代はイデアこそ真の実在だったのに、現代ではイデアは仮象とみなされる」という意味のことを述べていたと、関東のエヌ氏よりうかがったのだが、奇遇にも、同様のことが「美のはかなさ」に書かれてあった。いわく「プラトーンにあってはイデーは本質的に真実なものであり、生成界は単なる見せかけである。現時の哲学者らにあっては反対に、『規範』が単にイデー的なのであり、流動の生のみが現実である」云々。まあもちろん、これはたんに時宜にかなった話というだけのことであるけども。
 で、「美のはかなさ」が「A感覚」と等置される。タルホがそう主張したことがあるかどうか、ぼくには分からないが、そう読むのは順当だと思われる。ここで、浅田彰『構造と力』における、構造‐力の二元論の、力の一元論への脱構築を思い出してもよいのだが(そして多分、こちらの方が正しい読み方だろうが)、話を辿るとハイデガーなわけで、あえて永井均を導入してみるのもよい。つまり「言語的世界」と〈私〉との対立を、美がとりもつと考えるのである。というか、そう考えてみないことには、ぼくには自分が文章を書く理由が分からなくなってしまう。絶対的矛盾を解決するものとして芸術(変性感覚?)がある、という方向でこれから考えてみることも無益じゃないだろう。
 ところで再び脱線しますが、ぼくは永井先生の日記で「変性感覚」という言葉を目にして、勝手に「分裂病的感覚」と読み換えていた。というのは、分裂病者は世界に二重定位(複式簿記)するといわれている。つまり、一方ではわれわれの住む言語的世界にぞくしていながら、他方、われわれの理解のまったく及ばない世界(言語ゲームの外)にも生きているということ。われわれが分裂病者を理解する場合は、一方的に、われわれの世界の側からしか、理解することができない。このさい、分裂病は「不安」として立ち現れてくるわけである。……でも、そうだとすると、分裂病的感覚を小説が描けないというのはおかしな話で、ぼくが小説に期待するのは、まさにそういった分裂病的感覚であるわけだし、内田百間の茫洋たる夢幻空間にも、稲垣足穂のコスモロジーにも、それは見出せると思う。これは、言語に乗らない筈の〈私〉をどうして言葉で論じることが可能なのか、という話でもあるのだろう。
 本筋にもどるとして。そういうわけで、「美のはかなさ」が対立をより高次に統一する、という論旨になっているのだけれど、これはさすがに牽強付会といわれても仕方ないが、ユダヤ教神秘主義のカッバーラ体系と、おもしろい符合をみつけることができた。カッバーラ体系では「セフィロト=生命の樹」が独自の理論的展開を遂げたのであるが、アイン・ソフ(無限)からの六番目の流出であるセフィラ、ティファレトは、日本語では「美」ないし「崇高」などと訳出される。このティファレトは、四番目の流出であるケセド(慈悲)と、五番目の流出であるゲブラー(力)との対立を統一する役割を担っている。のみならず、ティファレトは「生命の樹」の中心となるセフィラでもあり、その右半分(陽)と左半分(陰)とを中央において調和させる役割すら担っているのである。このセフィラが「美」と呼ばれていることは、なかなか興味ぶかい話ではないだろうか。占星術的には「月」の象徴になるのだが、アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、ティファレトにはタロット・カード(小アルカナ)の四枚の六が対応すると述べており、それは「太陽」を象徴すると同時に、テトラグラマトンの体系ではイエス・キリストの表現だとも言っている。月であると共に太陽でもあり、陰と陽とを併せもつ。なおさらに、マルクトの女性原理に対し、ティファレトは男性原理を意味するともいう。すると、タルホが主張するA感覚とは、アナルセックス、つまり少年愛(ベエデフィリアエロティカ)をも意味しているわけだから、男性にはじまり男性に終わる少年愛=A感覚が、ティファレト=美に対応するという、見事な図式ができあがるではないか!
 さすがに穿ちすぎだろうか……。

 まあこんなように、しっちゃかめっちゃかなことが次々思いつかれて困っているのです。

 (追記)
 ごめんなさい、ちょっと勘違いしてました。
 ティファレトが「月」の象徴になると書いてましたが、そういう事実はなかったです。正しくは、ケテル‐ティファレト間のパス(ギメル)が、タロット・カード(大アルカナ)で女教皇に相当するので、こちらが月ですね。あとはネツァク‐マルクト間のパス(クォフ)が大アルカナ「月」に相当するのと、十番目のセフィラ、マルクトが、月の象徴になっているらしいです。

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2008年3月 3日 (月)

文学を〈半分〉降りる

 あ、BGMはチャットモンチー『東京ハチミツオーケストラ』で。

 東京から帰ってきました。昨夕もネカフェから繋いでましたが、京都にもどったのは今朝です。まあ「面白いこと」にもなんにもなってませんが、とりあえず報告しておきましょう。

 二十九日は神田古書街へ。東京古書会館で即売展があるという情報を先輩からいただいていたので、始まるまで喫茶店で暇をつぶしてから見てきました。京都でよくある「古本まつり」より、規模はだいぶ小さかったですが、周りが古書肆だらけですから、わざわざ集める意味があまりないんでしょう。そこでの収穫は柄谷行人『探求1』と井亀あおい『アルゴノオト~あおいの日記』の二冊。柄谷行人は読んだことがないので、一冊ぐらい読んでおいてもいいかな、という感じ。しかし形成史的研究をするつもりはないので、転回がどうたらこうたらという話を一々追う気はありません。『アルゴノオト』は前から探していた、若年自殺者の手記系の一冊。原口統三『二十歳のエチュード』も見かけたが、あまりに本が襤褸かったので購いませんでした。
 ぼくが若年自殺者の手記を好むのは、おそらく死者が好きなんだろうと思う。そこには理解可能性を超えた他者の存在が開示されるから。宛て先のない「祈り」の彼方に、ぼくはきっと、もういちど自分自身をつかみたいのだ。あきれるほど遠くに離れていってしまった今でも。
 あとは、虔十書林で寺山修司『地獄篇』と『臓器交換序説』を購入しました。

 一日。午前九時に講談社へ。こんどの東京行きの理由はこれです。

 『東浩紀のゼロアカ道場

 簡単に説明するなら、批評家版『TVチャンピオン』みたいなもんですね。深草某にそそのかされて応募してみたら書類選考を通過してしまったので、東京まで出かけることになりました。ゼロアカってなにかと思ったら「ゼロ年代アカデミズム・ブーム」の略なんだそうです。アカデミズム・ブーム? そんなのがゼロ年代にあったのか? それでもって、この東浩紀とかいう人がそれを牽引してたの?
 批評なんて読んだこともなければ書いたこともないわけで、慌てて一ヶ月で、

『動物化するポストモダン』(東浩紀)
『動物化する世界の中で』(東浩紀・笠井潔)
『存在論的、郵便的』(東浩紀)

 を読みました。感想としては、なかなか理知的な文章を書く人だなあ、という感じ。一番凄かったのは『存在論的、郵便的』で、ここまでアクロバティックな書を読んだのは久しぶりです(実は少し前の京都哲学道場でも扱ってるんですけどね、この本)。こないだ永井均『なぜ意識は実在しないのか』を精読していたので、それとの関係ですらすら読めました。ちなみに、のちの二・二六事件(註:二月二十六日午前二時、その東浩紀が2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨し、住人と交流を深め合ったという、日本哲学史上屈指の大事件)で永井均の話も出ていたので注目していたんですが、

>永井先生をご存知ですか?
知ってます。読んでます。

>永井均の独在性をめぐる議論に一言お願いします。
パス。難しいよこの質問。

 とのことで、どうも「否定神学バッサリ」な一筋縄ではゆかないようです(もちろん“当然”ですけどね)。まあ『存在論的、郵便的』という素晴らしい本にも出会えたことですから、これから「永井均と東浩紀の関係を考える」とか、いろいろできそうです。

 え? ゼロアカ道場どうなったかって?

 ……いや、第一関門試験で思いっきり落とされましたがね!

 落選の理由? んなもん、ぼくに批評を書かせてる時点で、それがそのまま落選の理由ですよ、ええもう。尤も、ちょっと甘く見すぎていたということはありました。批評家選考道場なんてイロモノにマトモな奴なんてくるわけないから、第一関門試験ぐらい文章書けりゃ通って、第三関門試験あたりでレベルが高くなってきて落とされるものだとばっかり思ってました。すっかり忘れてましたが、東浩紀にはとりまき連中、じゃなかった優秀な読者のみなさんがいるわけですね。そりゃ落とされるって! 京都哲学道場組は、おひとりは応募を忘れ、おひとりは詳しいことは存じませんが会場では見かけず、ぼくが第一関門試験で落とされたので、全滅ということになります。京都哲学道場によるゼロアカ道場の乗っとり作戦、惜しくもなんともなくここに潰ゆ……。
 ま、講談社のサイトにもうじき論文が上がると思いますので、ぼくの分はほとんど読む意味はないと思いますが、お暇な方は目を通してやってください。

 さて、ここからは自分のことを書きます。しょうじき、ゼロアカ道場も落とされて、もういいや、という気がしてきました。文学を〈半分〉降りることにします。
 結果発表後の交流会で、東浩紀がこんな話をしていたのですが、批評に必要なのは論理の言葉であって、それは小説が用いる煽情の言葉とはまた別のものなんだ、と。そういわれて考えてみると、ぼくは煽情の言葉しか使うことができず、論理の言葉とはおよそ無縁です。ぼくには神を信じない生き方はできない(「否定神学」という時の「神」ですが)。しかし大きな物語が崩壊した現代、イデオロギーによって生きるなんてことはどだい無理だ。そして動物もスノビズムも嫌だ。だから、ぼくは〈孤殖〉することにします。
 芽殖孤虫 Sparganum proliferum という寄生虫がいます。芽殖孤虫は世界で十数例しか確認されていない珍しい寄生虫で、いまだ成虫が発見されていません。人間を中間宿主として使うわけですが、終宿主と出会うことができないので、寄生した人間の体内でとめどなく増殖し、宿主を喰い破ってしまいます。寄生された人間の致死率は百パーセント。
 ぼくは、孤独に殖えることしかできない。芽殖孤虫は遺伝子の突然変異ではないかとも言われていますが、そうだとすると、終宿主なんてどこにもいないことになります。だからといって、無際限な増殖をとめることはできない。ぼくは、合一可能な世界(共生できる終宿主)を夢みつつ、この世界(中間宿主)を喰い破ってゆかざるをえない。そういう諦めがついてきました。だから、ぼくは文学を〈半分〉降ります。文学を〈半分〉降りて、それでも小説を殖やし続けてゆきたいと思います。

 二日に、目黒寄生虫館で本物の芽殖孤虫標本を見ることができましたが、どうにもかわいそうでなりませんでした。

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2008年2月28日 (木)

東京行きます

 本日より数日間、諸事情で東京に行って参ります。つきましては、三月三日の朝までインターネット環境にありませんので、コメント・メッセージ・メールなど返信できませんがご諒承ください。帰ってきて、なにか面白い状況になっていたらご報告するかもしれません。
 ウェブサイトの再構築を三月までには仕上げると予告していた筈ですが、やはり無理でした。つくづく残念です。進行としては、トップページの構築が終わり、各ページの基本となるデザインを作っている最中です。具体的なコンテンツというよりは、デザインでいろいろ悩んでおります。もうレンタルサーバは借りてあるので、見切り発車で公開もできますが、まあ三月中旬までずれこむ可能性が高いですね。
 それでは。

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2007年12月17日 (月)

お知らせ

 本日夜9時ぐらいから、20日の朝にかけて、東京に行ってきます。つきましてはその間、メールや書き込みの返信などできませんので、よろしくお願いいたします。

 東京は昨年の今ごろ以来ですね……あまり旅行をしない割には、けっこう東京には行っていたりするんですけどね。

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2007年11月30日 (金)

『新現代詩』第三号

 本日『新現代詩』第三号(2008年1月冬号)が手許に届きました。書店に並べられるのはいつごろになるのか、よく分かりませんが、大手の書店に行けば置いてあるかもしれません。ぼくは斐青映士(ひせいえいじ)のペンネームで『歴史を学ぶ』『青ぞら』の二作を掲載していただきました。
 余部が五冊ありますので、おっしゃってくださったら差し上げます。なんでしたら発送もいたしますよ、送料こちら負担で。とりあえず、はけないよりは、いろんな人の手に渡ってくれる方がうれしいわけです。
          ◆
<なお、こちらの責任ですが、誤植が一ヶ所あります。『青ぞら』一行目の末尾に「今、」とありますが、これは間違いですので、無視してお読みください>

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2007年10月 7日 (日)

或同人寫眞集『からだまんだら』遂に発刊!

Karaman

 『本年拾月伍日。おそるべき野望、発兌さる』



以下、本月五日発行の或同人通告二号より引用します。

■十月五日、おそるべき寫眞集『からだまんだら』堂堂刊行!!
 本年十月五日、半年以上前よりひそかに企てられ、綿密に計画のすすめられてきた同人三氏の寫眞集『からだまんだら』が、いよいよそのヴェールを脱ぎ捨て、刊行されるはこびとなった。ヱブサイト上での先行告知より、一日千秋の思いで発刊を跂望なさっていた読者諸氏に、まずは謹んでご報告もうしあげるものである。このたびの刊行は、頃日活動の鈍っていた同人にとってもひとしおのよろこび、これを機としていっそうの努力奮励、『或』の名を文学同人界に高聳せしめんがため、今後とも充実した行動的文学を現出させてゆきたい。さて、本寫眞集はむろん、われらの自恃に適いうるだけの仕上がりとなっている。A5版18頁、寫眞という不得手な分野ながら、駭嘆さるべき肉体の挑発を見事に写し出し、さらに東大寺修二会や乳押満子氏によるロシア写真紀行、三氏の詩などを惜しみなく収めた、愛蔵版の冊子である。再版予定なし、この機会をのがせばもう二度と手に入らない! 値段は時価、ご註文は編輯長までメールを。

 と、いうことです。現在ぼくの手許の分でさえ、販売用は四冊しかありません。ご註文くださると、とてもうれしい。値段は時価となっておりますが、ぼくの分は二百円でお頒けしようと思っております。
 なおなお、或同人の不定期発行ビラ『或同人通告二号』は、PDFでも配布いたしております。お読みになりたい方は、その旨メールください。
 なお、本寫眞集の刊行にともない、或サイトをいろいろといじりました。具体的には、以下の通り。

『バックナンバーの情報』ページに『からだまんだら』追加。
『出だしを見る』ページの本文を画像データに差し換え。
『イラスト美術館』ページに写真一点追加。
『書きおろし作品』ページから数作品を削除。
『通告』ページ更新。その他、こまかい手なおしは無数。
http://www.geocities.jp/itikun01/waque/

 ではでは。まんまん。

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2007年9月18日 (火)

お好み焼き『なるせ』

http://www.geocities.jp/okonomi_naruse/index.html

 京都は嵯峨嵐山にて営業中、美味しいお好み焼きのお店『なるせ』のウェブサイト。みなさんお近くにおいでの際は、ぜひお寄りくださいませ。
 どうして宣伝しているかというと、実はめるろ~さん(ミクシィの友人)の関係で、サイトの製作(加えて、ホームページスペースの確保など諸事)を請け負わせていただいたから。この程度の腕でサイト製作を請け負うなどとは笑止かもしれませんが……。みなさん、よろしければちょっと覗いてみてください。そして、機会がおありならぜひお店にいらっしゃってください。よろしくお願いしますね~。

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2007年9月13日 (木)

つぇるふぁーれん 2

 光速より速く移動することは、原理的に可能だろうか? こうたずねたら、××氏は可能だとのお答えだし、もちろんぼくも可能だと思う。すなわち、哲学で「原理的に」という言葉を用いる時、そこでいう「原理」は少なくともアインシュタインの相対性原理ではないのだ。だったらいったい、この「原理」という奴はなにものなのだろうか?
 原理的、という言葉、いろいろな用い方をされていて、用い方によっては光速より速く移動することは不可能になったりもする。この言葉の内実はややこしく、それゆえ、よく注意して使わないといけないと思う。
 ひとつに、想像可能性という解釈がある。想像が可能な状況は原理的に可能な状況とするのだ。これは思考実験むきの「原理的」性の解釈であって、この解釈の上でなら、われわれは原理的に光速より速く移動することができる。ここでいう原理とは、われわれが世界を表象として作り出す方法のことだろう。しかし、どのあたりから想像不可能になるのかは諸説ありそう。ウィトゲンシュタインだったら、ナンセンスかナンセンスでないかという話になるんだろう。
 もうひとつに、物理的可能性という解釈があり、たとえば「人工知能を作ることは原理的に可能だ」とぼくが言う時、もちろんぼくは「人工知能が存在することは想像できる」ということが言いたいわけじゃない。

前提1:他者は客体として存在する。
前提2:客体として存在するものは物理的に再構成できる。
結論:他者は物理的に再構成できる。

 という、単なる三段論法なのである。この「物理的再構成」は、原理的には可能だが現実的には不可能に近い。時間が掛かりすぎるし、技術も必要だ。たいてい「原理的」なんて言葉を持ち出す場合、現実的には不可能であることが多い。
 マジックにもいろいろあるよね。箱の中から物体が消失する、などというのは、物理的可能性という意味の「原理的」性において不可能なマジック。これに対して、未来予知やカード当てなんかは、偶然が重なれば誰だってできるものだから、原理的に可能なマジック。あれあれ、しかしマジックが現実に行われたということは、物体消失は現実的に可能だったということだ。それなのに原理的には不可能。逆転してるね。
 他にもいろいろ発展させられそうな話だが、今思いつくことはこのくらい。

    ×    ×    ×

 前からちょっと読みたかった『涼宮ハルヒの憂鬱』を読了。過去に読んだラノベとしては二冊め。もっとも、清涼院流水がラノベに含まれるのであれば、十冊はこえていることになるけれども。感想はとりあえず措いておくとして、ウィキでこの本の項目を読んでいると、ジャンルのところに「セカイ系」という説明があった。はてな。
 過去に何度かこの言葉を目にした覚えがあったが、とんだ勘違いもあったもので、ぼくは「きっと『世界の中心で、愛をさけぶ』と雰囲気の似ている感動モノという意味だろう」と思いこんで読み流していた(『世界の~』はもちろん未読。売れた本は基本的に読まない)。
 このぼくの憶測は、どうも『涼宮ハルヒの憂鬱』に当てはまりそうになかったので、なんだろう「セカイ系」って? と興味を持った。ページをひらいてみて、ちょっとびっくりした。

 セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB 2007/9/13版)

 小さな関係性? 具体的な中間項を挟むことなく? この世の終わりに直結する? こ、これはぼくの書く小説を解説しているのか?
 ……似ている、自分の書くものと。特に、小説を書きはじめた頃のものは、その殆どがテーマを「世界」に、もっとくわしくいうなら「世界からの逸脱」すなわち「世界の終わり」に据えていた。え? ぼくってセカイ系?
 微妙に違う点はいろいろあって、たとえば、あまり「関係性の問題」というものを「世界の終わり」と符合させたりはしない。というか、ぼくの(あえて漢字で)「世界系」小説には、基本的にヒロインは登場しない。但し、ふたりの少年を登場させることが多いから、やはり関係性といえなくもないか。
 ぼくが語り手の相手役として少年を登場させる理由はいたって単純だ。『新世紀エヴァンゲリオン』(カヲル君)と恩田陸『麦の海に沈む果実』(ヨハン)とヘッセ『デミアン』(デミアン)から相乗効果の影響を受けているわけである。

 多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れたと見ているが(同上)

 ああ、なるほど、やはりそうなのか。じつは、あまり言ったことはないが、ぼくにとってもエヴァの影響は非常に色濃い。毒気に中てられたというわけだ。バッドエンドとはなにかをずっと考えていた。エヴァのラスト(映画版)はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。もっとバッドエンドをつきつめることはできないか。究極のバッドエンドとはいったいなにか。
 ふーん。ま、なんにせよ、サブカルチャーによけい興味を持ってきた。勉強不足でもあるし。やはり東浩紀は読まなくちゃなんないのかなあ。……

    ×    ×    ×

 先行告知!
 異端文學研究【或】寫眞集『からだまんだら』鋭意編輯中! 部数限定販売、再版なしの予定。価格未定。同人三人の美しい肉体(別に脱がんよ)に魅了されたい方は、ぜひ御予約あれ(予約なくても売りきれになることはまずないけど)。

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2007年8月18日 (土)

『新現代詩』第二号

 広告。同人『新現代詩の会』に参加させていただくことになりました。つきましては、九月発行の、雑誌『新現代詩』第二号に、ぼくの詩が掲載されます。ペンネームは詩作用の斐青映士(ひせいえいじ)で、載せていただいた詩は『虫』というタイトル。いつごろ書店に出まわるのかはよく分かりませんが、大型書店には置いてあるだろうと思いますので、機会がおありでしたら立ち読みください。ついでに、サイフに余裕がおありでしたらご購入くださるとうれしい。
 なお、この雑誌に五冊の余分がありますので、オフでぼくとおつきあいのある方は、おっしゃってくださったら差しあげます。しかしながら、お幾らでもかまいませんので、お布施のつもりでお買いあげくださるとなおうれしいです。別にロハでもまったくオッケーですけど……。

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2007年2月 6日 (火)

BLOGをはじめます

 TANI_Rohei です。「たにろーへい」と訓んでください。ほんとうは谷口一平です。詩作時には斐青映士のペンネームも用います。こちらは「ひせいえいじ」と訓みます。ハンドルネームとしては itikun もあります。それぞれ、場合によって。

 管理サイトは、現在のところ次の通りです。

http://www.geocities.jp/itikun01/
【仮設梦幻院】
http://www.geocities.jp/itikun01/sabetugo/
【差別語肯定キャンペーン】
http://www.geocities.jp/itikun01/waque/
【異端文學研究『或』オフイシアルヱブサイト】

 異端文學研究『或』という、小さい雑誌の編輯長をやっている、文士です。たぶん。

 BLOGをはじめます。理由としては、雑記を書く時にいちいち html を打ちたくないこと。ミクシィの日記は、サイトに転載するのが輪をかけてめんどうくさいこと。それでも雑記は書きたいこと、などです。

 タイトル『火星の城砦』の意味ですが、かりに、ぼくの書くものがすべてひとつの城砦を形作っているのだとすると、おそらくその城はこの土地にはありません。近くはないが、はなれすぎてもいない、だいたい火星ぐらいのところに建っているのではなかろうか、と、おもったわけです。好い気分でくだらないことを書かせていただくのにちょうど悪くないディスタンス、多分ぼくの場合なら、それが火星なのですね。

 そんなところです。

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