2009年6月19日 (金)

雑記 20090619

 松平耕一氏の『新文学』2号のこと、再度告知しておきます。

 ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャの特集に対して、ぼくは哲学をテーマに「哲学と批評のディア=ロゴス」(6865文字)という文章を寄稿いたしております。まあ、あまり哲学的にどうこう、といった文章ではないです。発行は、コミケに間に合うか間に合わないかぐらいであるとか。

 で。明日土曜日(6月20日)14時ごろより、公開企画会議・座談会ustをおやりになるそうです。ぼくも、とりあえず拝見はさせていただこうと思っております。お暇な方は、視聴されてみてはいかがでしょうか。

【松平氏の日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1196729166&owner_id=4275826

    ○

 当分「β」の外されそうもない書評ブログ「反批評的考察」ですが。16冊分書評してみて、ようやく気がついた。とてもではないが、アフィリブログとしては役立ちそうにない。それというのは、ぼくの読んでいる本のヴァリエーションがひどいものであって、

『異体字の世界』小池和夫/『哲学がはじまるとき』斎藤慶典/『思想地図 vol.2』東浩紀ほか/『砂の女』安部公房/『ジョン・レノン対火星人』高橋源一郎/『永遠の出口』森絵都/『パルタイ』倉橋由美子/『世界制作の方法』ネルソン・グッドマン/『差別感情の哲学』中島義道/『〈魂〉に対する態度』永井均/『塚本邦雄歌集』塚本邦雄/『ペラギウス派駁論集(1)』アウグスティヌス/『二十歳の原点[新装版]』高野悦子/『射影幾何学入門』丹羽敏雄/『天族ただいま話し中』稲垣足穂/『超速!最新日本文化史の流れ』竹内睦泰

 なんというか、まずジャンルがバラバラで、ターゲットがまったく分からない。しかも、売れそうにない本が多い。どマイナー。断言できるが、アウグスティヌス著作集からやってきて、本を購入してゆくユーザーなんてひとりもいないだろう。なんというか、ぼくと似たような読書傾向の人というのが、想像つかない。これはひどい。誰得ブログである。
 まあ、やる気が続くだけ続けて、やる気がうせたら即座に削除しておしまいにすることになるだろう。幸か不幸か、書評すること自体は殆んど苦にならない。自分でも気づかなかったことに気づけたりするのが、やってゆくうえで唯一の利点である。
 そういや、一冊だけボロクソに批評してしまった中島義道『差別感情の哲学』であるが、あれが 2ch 中島スレにさらされていたようで、大量のアクセスを稼ぐことができた。なるほど、なんでもいいから新刊を購入してきて、人目を惹く批評をすりゃアいいのか。

    ○

 世界に対する唯一にして無二の〈正当〉な怒りとは、世界に自分が生まれてきたことそのことに対する怒りである。あらゆる怒りは、この水準において怒られるとき、またそのときにのみ、まったく〈正当〉な怒りでありうる。不当に対する怒りというものは、もしその不当が正当であったとしたならぼくは怒らなくて済むわけだから、しょせんたいした怒りではない。本当の怒りというのは、相手が不当でない場合、それどころか自分の方が不当である場合においてこそ、ふつふつとわきあがってくる感情である。自分の方が不当であるのだから、怒りの〈正当性〉をその水準(法律ないしは道徳の水準)で担保することはできない。あらゆる怒りを〈正当化〉する、唯一にして無二の〈不当〉とは、世界に自分が生まれてきたという〈不当〉、そして(中島義道風に表現すれば)生まれてきたその瞬間から死刑宣告を受けているという(自分もいつかは死ぬのだ)、この目も眩むほど絶大な〈不当〉なのである。この〈不当〉は、どのような怒りによってもあがなえないほど絶大であるので、あらゆる怒りは、この〈不当〉に対しては〈正当〉なものということになる。子供は、だから泣くのである。相手が悪くても、自分が悪くても、そんなことにはおかまいなしに、子供は泣くのである。
 こんな〈不当〉をまえに、あらゆる怒りが〈正当化〉されたところで、いったいどうすればいいというのだろうか。土浦の犯人のように、不当でしかありえないほど(それゆえ、このうえもなく〈正当〉な)犯罪でも犯すか、さもなくば、世界に対して、あまりにも無謀であまりにも滑稽な戦いを挑んでみるしかないだろう。ぼくは、〈正当〉にも、生きて、なにごとかを行為している。
(もちろん、土浦の犯人のやったことは、あらゆる意味で不当な行為でしかない。それがぼくにとって〈正当〉な行為でありうる状況は、どんな場合でも考えることができないから)

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2009年5月16日 (土)

中島義道『差別感情の哲学』

 書評ブログからの転載です。

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◆中島義道『差別感情の哲学』

      §中島義道、いまだかつてない駄作

 あらかじめ述べておくが、ぼくはこれまで中島の著作を、二十数冊読んできた。現代日本の哲学者のなかで、永井均とならんでもっとも尊敬している人物のひとりである。中学生時代からずっと私淑していて、大きな影響を受け続けてきた。だから、こんな文章を書かなくてはならないことを、とても残念に思う。中島が差別をテーマにした著作をあらわすと伝えきいて、発売日を待つのももどかしく、購入してすぐに読み始め、数時間で読了した。なぜなら、ぼくは差別論にふかい関心があり、しかも、ぼくが自分で差別ということを考えてゆくに当たって、ずっと念頭に置き続けてきたのは、ほかでもない、中島の文章だったからである。ちくま文庫『哲学者とは何か』に収められてある、「差別感情と『好き・嫌い』」という小論は、常識によらない差別への見方を呈示していて、とても新鮮だった。中島の差別への言及はそう多くはなく、だからぼくは、今般中島が『差別感情の哲学』という著作を書きおろすということを知って、心待ちにしていたのである。だが本書ときたらどうだろう。

      §差別論に御託はいらない

 もしも中島が、この著作を、差別についてのものとしてでなく、日本人の心性について、あるいは人間感情をめぐるものとして、刊行していたとしたら、ぼくはここまで怒りにかられることはなかっただろう。だが中島は、本書を差別をめぐる議論として刊行している。そしてそうであるなら、あまりにも中島は「差別論を語るということ」に対して無自覚である。差別を論じるということは、差別を論じるその語り口のなかに包摂されてしまうということであり、よほど自覚的にそこから脱却しようとしなければ、ありきたりな「自意識語り」に落ちこんでしまうことを避けられない。そして現に、本書は出来合いの「差別論」といささかも異ならない、読んでいて吐き気がするような言説に埋め尽くされている。引用文献も、あれほど中島は「哲学は思想ではない」と言っていたにもかかわらず、社会学系のゴミみたいな論者のものばかりで、こんな本には哲学を名乗る資格はない。『差別感情の社会学』とでも改題したらどうだろう。
 そうして、ケガレがどうたら、まなざしがこうたら、意味不明な御託がならべ立てられている(御託をやるにしたところで、中島でなく、現代思想系テクスト論者の面々だったら、もっとうまくやってくれるだろう)。差別論に御託はいらない。哲学はそんな言葉遊びではない。もちろんくだらない自意識語りでもない。第三章『差別感情と誠実性』では、みずからの言説(あるいはまなざし)が他人を傷つけるのではないか、あるいは他人の言説がみずからを侮蔑しているのではないか、などといった反省的意識の無限後退が描かれてゆく。そして、それをどこまでも誠実に、そして繊細に直視し続けてゆくことだけが、差別について可能な一切なのだというのである。やめてほしい。誠実に直視するのはけっこうだが、そんな誰の差別論をひらいても書いてあるようなウワゴトで、なにかを解決した気にならないでもらいたい。たのむから差別論をめぐる、この出口のない泥沼じみたあまりに醜悪な現状に、興味本位でちょっと立ちよって、またひとつ醜悪な言説をつけ加えてゆくことをやめてもらいたい。それはべつの場所でやってほしい。

      §不快/嫌悪/軽蔑

 本書の理路によれば、差別感情は不快→嫌悪→軽蔑という順に、どんどん観念的に発展してゆき、最終的に確固たる差別を形成するのだという。この議論はしかし、差別について語ったものなのだろうか。これはむしろ、差別撲滅運動について説明したものなのではないか? つまり中島は、差別観念がきわめて現代的なものであることを理解していない。江戸時代の穢多・非人にしろ、ナチスのユダヤ人迫害にしろ、そんなものは差別うんたらという問題ではない。前者なら社会的機能に還元できるし、後者ならただの煽動に還元できる。そうでなく、それらが差別として語り出されることによって、差別撲滅運動のなかで差別であるとして語られてきたことで、はじめてそれらは差別になったのである。だから、被差別部落の社会的形成を、差別感情の形成として分析するなどというのは、実在しない対象にむけて机上の空論をふりかざしているにひとしい。「差別感情」は、きわめて現代的な感情なのであり、それを分析するためには、歴史上の差別とされる事例を考察していてもはじまらない。むしろ「差別について語ったテクスト」=「差別論」の分析を通じてしか、「差別感情」は解体されないのである。このことの認識が、中島には決定的に欠落している(もちろん、ほとんどの差別論にも欠落しているのだが)。
 まさに、これまでの差別論は、差別する者(差別者)を、不快なものとして、次に嫌悪すべきものとして、最終的には軽蔑すべきものとして、語り出してきたのではなかったか。そしてこのことこそが、差別をめぐる問題系を、唾棄すべき泥沼のなかに落としこんできたわけである。中島の「逆差別」論もあまりに静態的すぎる。現代における「差別」は、はじめから「逆差別」でしかありえず、「逆差別」者をさらに「逆差別」するという構造が、差別の観念的閉域を形作ってきた筈だ。

 これから、さらに詳細な批判論文を準備するつもりである。

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2008年10月17日 (金)

梦幻文庫を分析してみた

「この部屋は埃のデパートと言うより埃の総合商社ですよ!」
    ~梦幻院 について、辻元清美

      ×      ×      ×

 2006年1月爾来、大掛かりな掃除をしたことがなく、もはや亜空間に垂んとしていたわが書齋「梦幻院」ですが、このたび大掃除をすることになり、二週間をかけて部屋全体を解体しました。現在は山場は過ぎて、再び物をつめこみなおす段になっています。
 そして、またとない機会でありますから、事の序でということで、ぼくの個人蔵書「梦幻文庫」のデータベース化を決意しました。いまやっておかないと、もうとうてい自分の蔵書を全体的に把握することは能わざるべしと思ったからです。ピックアップしたのはタイトル・著者・ステータス(未読/読書中/既読)の三項目。一般図書についてはジャンルの分類も加えました。これらの情報をエクセルで表にします。書痴なら誰もが夢み、挫折する、蔵書の完全把握という一大事業、ぼくはとうとうこれを成し遂げたのでありました。
 せっかくなので、蔵書の内わけを分析してみることにします。

    【梦幻文庫概観】

◆全蔵書:1444冊

 畳三畳分のスペースにつめこめる量としては、ほぼ限界値でしょう。

◆内わけ
  漫画部門:257冊
  文芸図書部門:716冊
  一般図書部門:471冊

 漫画が思っていたより多いです。文芸図書(小説・詩・エッセイ)が一般図書(その他の本)より多いのは、作家志望なので当たり前。

◆ステータス
  未読:297冊
  読書中:259冊
  既読:888冊
  既読率:61.50%

 事前予想としては、既読率は五割程度のものだろうと思っていたので、まあよかった。

    【漫画部門】

 適当に挙げてゆくと、原律子5冊。
 喜国雅彦6冊。
 つげ義春7冊。
 福島聡は10冊で、好きだと公言してる割には少ない。
 エロ系だと花見沢Q太郎で14冊。
 エヴァ関係(フィルムブックとか)が24冊。エヴァは一般図書部門にも7冊あるので、合計すると31冊ですね。
 そして、ダントツ一位が高橋葉介の43冊でした。
 他にも、多く蔵書のある作家はいるわけですが、たいてい一シリーズの漫画を集めているだけなので書きません。

◆ステータス
  未読:6冊
  読書中:1冊
  既読:250冊
  既読率:97.28%

    【文芸図書部門】

 また適当に挙げてゆきます。泉鏡花5冊。
 篠田節子と銀色夏生が6冊。
 長野まゆみ、エラリー・クイーン、有栖川有栖、小松左京が7冊。殆ど読んだ記憶もない小松左京が、どうして7冊もあるんだろう。
 稲垣足穂と笠井潔8冊。タルホはもっとあって欲しかった。
 太宰治と寺山修司9冊。そして屈辱の清涼院流水9冊。
 コナン・ドイルと麻耶雄嵩が10冊。
 平野啓一郎と島田荘司12冊。平野さん、こんなに本出してたっけか? 島荘は、どちらかというと嫌いな部類なのだが、なんとなく読んでしまっている。
 三島由紀夫と村上春樹が13冊。純文学のランクインはこの辺まで、あとは殆どをミステリが占める。
 京極夏彦14冊。読んだ文字の量ならきっと一番だ。
 星新一15冊。昔読んだなあ。
 竹本健治17冊。
 森博嗣19冊。なんだかんだでキライではナイ。
 芥川龍之介20冊。アレ? ……いえ、全集を所有しているだけです。そして綾辻行人20冊。あまり作家として評価はしないんだけど、新本格の成立にはたした役割はすなおに認めざるをえない。
 そして、ここから一挙に冊数が飛んで、文句なし、恩田陸が31冊。予想と違わず恩田陸一位で終了……と思ったのです。
 豈はからんや、大番狂わせがありました。筒井康隆32冊、なんと一位に躍り出た。え? 嘘でしょ? そんなに読んだ覚え、ないんだけどなあ。どっからわいてきたものやら、出るわ出るわ、筒井康隆が山ほど出てきました。ぼくは、筒井は主要長編をかなり飛ばしていて、おもに短篇集ばかり読んでいたのですが、それでも31冊。こりゃ魔法ですか。
 まあツツイならいいや。

 なお、文芸誌のたぐいは読まないため殆どありません。複数の作者が適当に書き散らした小説を連続して読んでゆくという作業が、苦痛で仕方ないのです。基本的に、作者依存でモノを読むタイプですので。

◆ステータス
  未読:181冊
  読書中:96冊
  既読:439冊
  既読率:61.31%

    【一般図書部門】

 一般図書はバラバラに読んでいるため、特徴的な著者が殆どいません。永井均の11冊と中島義道の21冊が群を抜いています。あとは、超自然現象の分野で、UFO^2シリーズとネオパラダイム・アスカシリーズをそれぞれ読んでいた飛鳥昭雄の12冊かな(なんとまあ)。
 ジャンル別に見てみると、「哲学」の125冊がまず多いです。「社会科学」の96冊も多いですが、こちらはサブジャンルに細分化されており内実がはっきりしたジャンル区分ではありません。「社会科学」のサブジャンルとしては、「少年問題」(学校問題や少年犯罪)の30冊、「差別論」の24冊が目につくぐらい(それにしたって、差別論を書くつもりなら、この冊数は少ないですね)。
 「歴史」36冊。
 「自然科学」35冊。
 「言語学」20冊。
 「芸術>文学」15冊。「芸術>画集」9冊。「芸術>写真集」5冊。
 なんにしても、たいした品揃えとは言えませんね。

◆ステータス
  未読:110冊
  読書中:162冊
  既読:199冊
  既読率:42.25%

 マジメに読んでないので、五割を大きく割りこんでしまいました。

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2008年9月 6日 (土)

いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』

 いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』(91年新潮社刊)を読んだ。先週末に三割ほど読み、残りを今日、昼食に入ったマクドナルドで五時間半居座って読了。終盤はかなり亢奮して、ページを繰るのももどかしい感じだった。本当に凄い小説、そして小説らしい小説。こんな小説がたいして評価されてない(のかどうか知らないが、少なくとも現在絶版である)日本の文学環境に殺意を覚えたぐらい。

      <あらすじ>
 物語の舞台は、デゼール(砂漠)、またはムスリム・トーキョーと呼ばれる小さな町。売れない芸術家やミュージシャンが集まり、フェイクとドラッグが氾濫する二年間だけの計画都市に、ひとりの記憶喪失者が出現するところから、物語は始まる。謎の男はみるみる内に予言者として教祖に祀りあげられ、町では不良集団らを巻きこんで、信者と反対派の抗争がしだいに激化してゆく。主人公;恭一は、町の計画者;章平や、解体屋(洗脳外しの専門家);立原らと共に事態の収束を図ろうとするも、謎の男からは救世主であるとの予言がくだされ、宗団にも深くかかわってゆくのだが……。

 物語は初め、一見無宗教的な猥雑と欲望の巷、爛熟した現代都市においても、人々は人生の目的・渇きをいやす「救い」を心のどこかで求めており、そこからいかにして現代における宗教が発生してゆくか、を描いたものと読める。宗教は人生に意味を与える。宗教は、本来は虚無・混沌である筈の人生に対して目的を与え、贋物の安定を保障してくれる。人は安定を求めるものだから、そこから必然的に宗教が発生する。
 だが、物語はそう単純ではない。謎の男は意味どころではなく、むしろ徹底した無意味そのものである。男は記憶を喪失しており、発する言葉も理解不能であり、起源がなく、神という装置を担うには非常に不安定な機構である。ここで顛倒が起きる。人々は男と繋がり、男をそれぞれの形で意味づけしてゆくことによって、男と繋がった自らの存在をも意味づけしようとする。男はあまりにも虚無であり混沌であることによって、虚無や混沌の意味づけを、すなわち世界の意味づけを、彼に対する者ひとりひとりに求めてゆくのである。章平らにとって男は詐欺師であり、信者にとって男は予言者である。男は詐欺師=予言者であり、またそのどちらでもないような、すべてを呑みこむ涯しのない虚無である。男の前に立つとき、人々は無意識に意味を捏造してゆかざるをえない。そのようなプログラムのもと、男の存在は町を翻弄してゆく。
 けれども、そこで宗団が成立しうるということ自体が、まだこの意味づけ装置が、なんらかの形で人々をとりまとめられているということを示している。すなわち、男は虚無であるが、虚無であるがゆえにこそ崇拝されるという、顛倒した「神という装置」が、そこではまだ動き続けている。よく分からないが、東浩紀(ラカン)いわゆる「対象a」、つまり否定神学ってやつかもしれない。
 主人公;恭一が、男と相互干渉し、やがて男と同一化してゆくところが、この小説のもっとも面白いところだ。男は「今日から私が恭一だった」と言い、「いや、恭一の父だった。それとも恭一、お前が私の父か?」と言う。父とはエディプスによって殺されるべき神のことであり、恭一は神=虚無によって意味づけされる存在であると同時に、神=虚無そのものでもある。物語の最後、男は父(=恭一)の言葉によってもはや虚無ではない、ひとつの意味として凝固し、そのまま死ぬことで恭一とすりかわることに成功する。恭一はそこで、父=神=虚無である自分を発見し、そのような自分を担ってゆかざるをえない。終章の副題は「私を語る者はすでにいない」とつけられており、男(神)はもともと存在していなかったことになる。代わりに自分自身が虚無であり神であり、何者でもない恭一が、なんの意味もない恭一が、ただ立ち尽くすところで物語は終わっている。男の最後の予言は「どしゃ降りだった。前も後ろもわからないどしゃ降りだった。その中で、私を見つけ出す旅を始めなさい」というものであり、ここで「私」は、直後に行方をくらます男のことでありながら、同時に自分自身のことをも意味している。神は行方をくらました(神は死んだ)。次に見出されなければならないのは、もはや神ではなく、虚無としての自分自身なのである。

 とにかく面白いし、精神分析的な枠組みも絶妙な小説だった。自らの父であり子でもあることによって解体=建設の分裂病(無限の脱構築)を生きる謎の男を触媒として、主人公自身が自己を解体=構築の無限背進として生きるようになるという構図は、現代思想の文脈でも語れるんじゃないかな? おそらく著者は、かなりテーマについて意識的だと思う。『ノーライフキング』(最近文庫化されたね!)によって「ぼくらの新しいリアル」とその「生みの苦しみ」を描きあげた著者が、さらにこんな素晴らしい小説を書いていたとは。二冊一緒に読めたら死んでたよマジで。

 それにしても、世紀末的発想かもしれないけど(そしてもう世紀末は過ぎてしまったけど)、このごろ、いま人類は人類でないものに進化してゆこうとしているんじゃないかな、と思える。あらゆる既存のシステム、特に人類が人類たりうるような源初的システム(たとえば言語)自体が、重要な変革を遂げようとしているんじゃないだろうか。種としての人類がどんな生物(バケモノ)に変化しようとしているのか、それはぼくの理解を超えているけども。
 ああ、また「我らは時代の突端に立てり」とか、未来派みたいなことを言っちゃって……。

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2008年8月25日 (月)

寝よ寝よ

 九月いっぱいで京都に帰ることに決めた。畢竟なんだったわけか、自分でもよく分からない。とりあえず疲れてみた、ってな感じかな。文学の岨路を行きあぐねている内、人生の行路を生きあぐねてしまった。どうしたらいいのかよく分かんない。去年から「分かんない分かんない」しか言ってない。朔太郎じゃないけど寝台がほしい。寝台は求められるためだけにあるものだから、ぼくはかりそめの布団でいいや、少し休もう。休んで考えよう。
 せっかく長崎にいるのだから、やはり軍艦島を訪れてから帰りたいと思う。ミクシィと 2ch の情報を綜合して、渡航方法はだいたい把握。しかし、工事の進行がとても気に懸かる(というより、状況としてもはや無理という可能性もあるしね)。

 土日で、腸の調子を崩しながらも『涼宮ハルヒの暴走』だけ読んで、いまは高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』にかかっている。こんな本が存在していたとは、ふしぎふしぎ。ぼくはニューアカブームの八十年代のことなんかなにも知らない。井亀あおいの生きた七十年代はもっと知らない。高野悦子の生きた六十年代はもっともっと知らない。そうして、泉鏡花や森有礼の生きた時代のことなんか、誰も知らない。彼らの使った言葉の意味ひとつとっても宙吊りにされている。宇宙の涯など見たくもない。
 でも、本当はもっともっともっと難しいことがある。それは、人が自己に対し、真に歴史家であろうとすることだ。明治時代のことをよく知っていると言ったら、誰かがちょっとは褒めてくれるかもしれないが、自分自身をよく知っているからといって、誰も褒めてはくれない。自己を学ぶことは世界史を学ぶことよりはるかに困難で、実りない努力。昔の CD-R を外づけ HDD にコピーしていて、小説のヴァリアントやらペイントで作ったらくがきやら、わんさと出てきた。なにを考えていたのか分からない、どうやったらこんな表現になるのか分からない、ファイル名の意味すら分からない。
 それでも繋いでゆくのだとしたら、ぼくはかなしい裁縫職人ですね。
 京都帰ったら胃腸科に行こっと。

 小説の話でもしましょうか。ここ一年ぐらい、自分の小説の話をした覚えがない。自称作家なのに。これじゃ、ぼくがいつのまにか、ヴィオロン職人になるためにヨーロッパに渡ったり、犬を逆さにして壁にかんかん釘打ちする仕事をしていたりしても、誰も気がつかないじゃないか。それはいけない。モチベーション維持のために夢語りは大切です。
 いま構想している中で一番現実性が高いのは、京都を舞台にした芸術家群像的な長編。ふとしたことで謎の創作集団に関係することになった主人公の詩人は、京都のさまざまな場所で現代アート活動を展開してゆくが、やがてその活動の裏にネットを舞台にした魔術師らの暗躍が見え隠れしはじめ、主人公は現代白魔術と現代黒魔術の熾烈な抗争に巻きこまれてゆく……というお話を考えています。ファンタジーじゃないよ? もちろんテーマは、ぼくの大好きなふたりの魔術師、クロウリーと寺山修司。
 そんな小説が書けたらいいな。

 じゃおやすみ。

 追伸:ARUKOBU氏へ
 例の評論の書きなおしですけど、なんか書きあぐねてるのでもう少し待ってくださいね。モチベーション出たら頑張りますー。

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2008年8月22日 (金)

これはタイトルです的な

 長崎の物価は、たいして安いというわけではない。パーキングや路面電車など、交通機関については多少安いようなのだが、たとえば古書にかんしては、どうにも京都の方が安かったように思われてならない。
 近所の漫画メインの古書店。とりあえずメディアワークスのコーナーに行って、鳴子ハナハル『かみちゅ!』の値段を見てみる(いや、読んではないんだけど、最近なんとなく値段の基準にしてるのね)。……350円。うん、妥当だ。400円なら高いし、300円なら安い。漫画にはあまり興味がないので、文字メインの本コーナーに移動。で、ぱらぱらページをめくってみるんだけど、これがまた微妙な値段をつけてくる。岩波文庫で350円~550円が平均。普通の出版社の新書だって、400円以上は当たり前。欲しいと思った単行本には、たいてい定価の六割以上がついている。法政大学出版局には2500円以上がデフォだし、講談社選書メチエでも1000円内外がつけられている。どれだけ書きこみがあろうとも、みすず書房ならそれなりの値段を吹っかける。R.D.レインの本なんか、値段を見る気も起こらない。……いや、妥当だとは思うんだよ? 妥当だとは思うんだけど、なんか釈然としないんだな。
 古本屋の愉しみというのは、やはり掘り出し物を見つけるところにあると思う。特に、BOOKOFFに代表されるチェーンの古本業者なんて、あれは肛門むきだして手招きしてるも同んなじなんだよ、要するに掘れと。もうね、アボガド、バナナかと。なんでこの本が100円なんだよと。新潮社純文学書下し特別作品とかね。「これだからモノの価値の分からん奴は……」などと呟きながら、五冊も十冊もうはうは積みあげるのがうれしいのだ。むしろ策略に乗ってる気がしないでもないが、そこがまさにWin-Winの関係という奴でさ。そこら辺がどうにも。妥当な値段ばっかりつけてくるのも困りものです。
 もうひとつ言うなら、古本屋の愉しみというのは、やはり「出会いモノ」にあるわけで。そりゃやっぱり安いからだよ。定価では手を出す気にならない本でも、あまりにも安いからつい買ってみる。そこから、新らしい出会いというものが現前してくるわけです。ところが、妥当な値段をつけられたんじゃあ、買ってみようという気になるのは、どうせ古本屋で買わずともいずれ買っていただろう作品、ぼくが以前から悉知していて安心して購入することのできる作家、に限定されちゃうわけだよね。そこには出会いの愉しみがない。冒険性がない。郵便的誤配がない。生成についての存在の無垢がない(いやしらんけど)。
 だから、ぼくは声を大にして言いたい。要は高いんだよ。

 最近読了した本は以下。
◇寺山修司『競馬への望郷』(角川文庫クラシックス)
◇清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社)
→参考書じゃなくてユーモア小説。ぼくの好きな漫画『受験の帝王』(志名坂高次、講談社)の下敷きにもなっている作品です。
◇永井均『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』(NHK出版)
◇東浩紀『郵便的不安たち#』(朝日文庫)
→現在絶版につき捜しまわっていた本。やっと見つけて一気に読了。
 現在は筒井康隆・編『'60年代日本SFベスト集成』(徳間文庫)、及びジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)を読書中。ドゥルーズは、とうてい日本語とは思えない。おそらく、原文で読んでもフランス語には思えないんだろね。むしろ恐ろしいのは、ぼくがだらだらこの本を読んでいて、それでいて六割ぐらいは意味が通ってしまうこと。なんか「近ごろ毒されてるなあ」感がありありです。
 そういえば、岩波文庫から『明六雑誌』の中巻が出てましたね。岩波書房に「さっさと中巻出して」的なメールを送った手前、これは買わずばなるまいなあ。平野さんの『決壊』も、上巻を読んだまま放り出してるけど、そろそろ下巻を買わないと記憶が無限の彼方に……。
 人間は読書するために生きている。これでいいのだ!

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2008年5月10日 (土)

雑記 20080509

 昨夜、思い立って、藤島康介『ああっ 女神さまっ』1~20巻のセットを、近所の古本屋で千円で買ってきた。ぼうっと読み続けた。布団に入ってもなかなか寝つけず、もいちど起き出して続きを読んだり、YUKI『COMMUNE』をなつかしい気分で聴いたり、なんとなく切ない感情にとらわれて、短歌をふっと呟き出したりしていた。

 天井のパレイドリアの浜辺にて
     少女らはならび耳をすませり

 誰となくなんでもなくてわれなりけり
     あすの言葉を学ばぬものかは

 意味も通りにくいし、まあ駄作だね。
 いったん睡眠をはさんで、さらに読み続け、数時間前に20巻までをすべて読了した。とりあえず、いまはスクルドに萌えている。

 このところ、社会的にはちょっと曖昧な立場に立たされていて、あまりすることがない。実際には、やるべきことなんか山のようにあるのだが、なんだか気もそぞろである。泥濘的な不安定さ。六月に入ったら、たぶんきっとおそらくけだし、ものすごく忙しくなると思うので、いまは嵐の前の静けさみたいなものである。

 他にこのごろ読んでいる本といえば、東浩紀・北田暁大 編『思想地図 vol.1』と、サリンジャー 作・村上春樹 訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などである。すでに読了してしまった本には、谷川流『涼宮ハルヒの消失』や伊藤潤二『うずまき』などがある。
 『うずまき』は渦巻く話だった。ホラーマンガとしての特徴を考えるため、ぼくの好きな高橋葉介と比較してみると、高橋は日本怪異譚やゴシックホラーの正統な継承者であり、物語には土着的な世界観が残されており、そこに少女趣味・懐古趣味などの要素がふんだんに鏤められている。なにより怨念の形成からその解体にいたる一連の力動的な解釈がある。それは古典的な物語の形式をそっくり踏襲したものであり、役割分担もハッキリしている。これに対し、伊藤のホラーにはより現代的で不可解な怖ろしさがある。ストーリーは不安を中心に構成されており、それはいかなる解釈をもはねつける実存的強度を有する。分裂病的な、とでも評しようか。そこで物語は、たんに不安を構成するための要素でしかない。高橋における「狂人」は、狂っているという役割を割りふられた駒でしかなく、その形式の箍に閉じこめられているのに対し、伊藤はむしろ「狂人」の内側に入りこんで、その中から世界を構成しようとしているように見える……。
 最近購入して、まだ読んでいない本は、吉村萬壱『クチュクチュバーン』、坂下夕里『Perl/CGI辞典』など。これから購入する予定の本は、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』、ジャック・デリダ『声と現象』、井亀あおい『もと居た所』、原口統三『二十歳のエチュード』などです(予定変更の可能性は常にあり)。

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2007年12月25日 (火)

読書記録 20071225

 11月22日以降に読了した本は計8冊です。やけに長文になってしまっているので、インデックスつけときます。興味のある本のところだけ適当にながめてください。

中島義道『ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白』(角川文庫)
寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫クラシックス)
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)
株式会社アンク『スタイルシート辞典 第4版』(翔泳社)
株式会社アンク『HTMLタグ辞典 第6版』(翔泳社)
京極夏彦『文庫版 百器徒然袋―風』(講談社文庫)
西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社)
河野道代『spira mirabilis』(書肆山田)

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◆中島義道『ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白』(角川文庫)
 中島大先生の著書は、既読書がそろそろ20冊にもなるのに、未読書もあと20冊くらいはある。このはやさで著述活動ができるというのも、なみたいていのことではないが、それにつけても、大先生の執念が日々肥大化し、彼の神経をいためつける塵寰の事情が日々堆積してゆくのであろうことよなあ、と、心中お察しもうしあげる次第である。本作は新刊ではないから、それはよいとして。
 本作は、しょうじきなところあまり面白くなかった。彼のナルシシズム概念が、ぼくのいわゆる「自己喪失型ナルシシズム」概念とあまりにも違っていたため、どうにも共感のしようがなかった。愛されることが恐ろしい、という感覚がぼくにはなく、その意味ではぼくはマジョリティである。論述も厳密ではないし、文章のアラも目立つ。あまり中島大先生らしくない……というのも、とどのつまり、この本が「復讐」のために書かれた本だからなのだろう。この本において、読者はむしろ外野なのだ。別にそういったことを、ぼくは悪い傾向だとは思わない。ただ、ぼくとしても、ファン心理だけで読んでいるわけではもちろんないということだ。
(なお、いらないことを書きつけておけば、ぼくが中島義道を「大先生」号で呼んでいるのには、それなりの理由がある。まさか、ぼくが中島義道を尊敬しているがために「大先生」号を用いている、などと誤解なさっている方もあるまいと思うけれど。要するに、ぼくが中島義道に必ず「大先生」をくっつけるのは、中島義道がそう呼ばれることを物凄く嫌うだろうからなのである。ぼくは「大先生」号を用いることによって、中島義道が好もうと好まざるとにかかわらずあなたの著書・理論・意見を自分に都合のよいように換骨奪胎させてもらう、あなたの意嚮とは関係なくぼくはあなたを愛し・憎み・ぼくの中で再び生み変えさせてもらう、ということを自戒し宣言しているわけなのだ。つまり、これは屈折した愛の形ということ。ああ、またつまらないことを書いてしまった……)

◆寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫クラシックス)
 執拗なまでに〈イエ〉というテーマに拘泥した寺山が、親の愛情はいかにして子を飼い殺しにするかを剔抉し、故郷を捨て東京に家出することを具体的に論じ奨める、青年の自立について述べた軽快なエッセー(ちなみに、こういう文章の書き方は「褒め殺し」という)。親の愛情がいかにして子を喰べつくし、残酷なまでに生きる力を奪い去ろうとするかについては、中島義道に『カイン』というすぐれた著述があり、もっとあっけらかんとしたレヴェルでは五味太郎『大人問題』などもぼくは好きだが、寺山の、警句を利かせアイロニーをちりばめた独特の文体は、深刻な事態をあざやかに戯画化する、きわめて突出した文学的才能を物語っている。もっとも、こういう才能のない奴(たとえばぼく)には脚本なんぞ書けまい。
 一読して、彼がけっこう「理論家の領分」ということについて自覚的であることを意外に思った。ぼくなんかも自覚的な方なのだが、理論家は、自分ができもしないことを述べてよろしい。やるのは実践家の役割であって、あくまで仕事上の領分は守らねばならないし、そうでなければ理論家なんてやっていられない(いくつタマがあってもたりないということになる)。寺山は、根っからの演出家だ。彼は若者を集め、鼓舞し采配を揮う。いつぞやのNHKの番組が、彼を「東京を見世物小屋に作り変えようとした、偉大なる興行師」だと評していたが、言いえて妙だ。「見世物小屋の思想」はニーチェと、そしてぼくの差別論の思想とも通じるものがある(ぼくの差別論が思想と呼べるならの話だ)。
 寺山修司は、現代においてもっとも読まれるべき作家のひとりだとぼくは思う。新しい言葉を作るのがめんどうくさいので、あまりに薄汚れた言葉をあえて用いて楽するが、彼はポストモダニストだ。ぼくのくくりだと、中島義道、京極夏彦、そしてぼく自身などもポストモダニストということになる(中島義道においてもっとも顕著なポストモダニズム的用語は〈対話〉である)。寺山が「われわれは倫理を自分で創出しなければならない」という時、その言葉は非常にポストモダニスティックにひびく。
 尤も、寺山の演劇は観客参加型の演劇だと思うから(先輩H氏はそう思わないと仰っていた)、観客があまりにも役に立たなくなってしまった現代、ひと工夫欲しいところではあるなあ。

◆永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)
 ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』のむこうを張ったということだが、読んでいてあまりそんな感じはしなかった。中島大先生やらにもくそみそにけなされている『ソフィーの世界』であるが、少なくとも哲学書とは言えないんだろうなあ。というか、みなさん読む物を間違えている。ヨースタイン・ゴルデルは、まず『カードミステリー 失われた魔法の島』を読むべきなんだよな(どっちにしろ哲学書ではないけれどさ)。
 さて、この『翔太と猫のインサイトの夏休み』であるが、本作は凄い。どう凄いといって、ぼくは「哲学書」を日常言語で書くことなどできる筈ないと思っていたからである。永井均には『子どものための哲学対話』という面白い本もあるが、あの本にしたところで議論に一貫性はなく散発気味で、とにかくふしぎなことを集めたというような感がある(もちろん、それがあの本の意図なのだから、別に否定されるべき理由にはならないが)。それに比べ、本作の議論のなんと体系だっていて深いことか。もちろん、読者には理解力と思考力とが要請される。日常言語で哲学書を書くことはできても、理解力と思考力を必要としない哲学書を書くことは不可能だ。
 それにしても、やはり〈私〉だ……。ぼくには永井の議論が慎重すぎるように思えてならない。というのも、ぼくにしてみれば〈私〉という概念(正確には比喩)は物凄く単純なことを言っていると感じられるからなのだが、逆にぼくの周りには「〈私〉とはなんなのかサッパリ分からない」という人もたくさんいるようだ。しかし、こういうのはどうだろう? お母さんが子供に「あなたがわたしの子供として生まれてきてくれたことは、凄いことなんだよ。もしかしたら、あなたはとおい昔の、とおい国の王子さまとして生まれてくるのかもしれなかったんだからね」と言う。このような場合、このお母さんは〈私〉というコトの意味を正確に捉えている筈だし、子供もすんなりと理解するだろう。なぜなら、この場合に言及されているコトは当人としての私ではありえないからだ。当人としての子供が当人としてその子供以外でありうる筈はないのだから……と、ああ、だめなのか。頽落している。いや、頽落してないのかな? でも、永井均いわく言語ゲームのレヴェルで〈私〉を「語る」ことは不可能だった筈なんだけど……『なぜ意識は実在しないのか』を読み返そうっと。
 死をテーマに出してきたあたりから、永井ニーチェの「読み」が始まる。あの難解で有名な『これがニーチェだ』の中心的主張に繋がってゆく。ぼくは分かったような分からないような気分になる。ぼくはニーチェの運命愛を中島義道的に読み替えている。運命を愛し「かつ」憎みつつ、生きることに苦しみ「かつ」生きることをやめない、こういう自己撞着した往生際の悪い中島大先生的な生き方、これを運命愛だと考えている。ぼくは、いまでは残念ながら体感しにくいのだが、いちど永劫回帰を体感したことがあり、その体験から「存在」を愛するという意味がよく分かるのだ。確かに、それは無意味を承認することかもしれない。けれど、ぼくを意味として創出しない文学に、いったいどんな必要性があるというのか。まあ、このあたりは課題ということにしておこう。ニーチェは、けっこう好い加減にしか読んでいないしね。

◆株式会社アンク『スタイルシート辞典 第4版』(翔泳社)
◆株式会社アンク『HTMLタグ辞典 第6版』(翔泳社)

 スタイルシート辞典を読んだ時点で、XHTML の意味は殆ど理解したので、HTML タグ辞典を買ったのは、まあ復習といった体だ。なにより、にわか勉強の HTML をまともな構造を持つ HTML が書けるように勉強しなおしたかった。知らないタグがわんさとあったものね、cite タグだの dfn タグだの address タグだの。CSS も、かなり使えるようになってきた。あとは、きたるサイト再構築の日のために、ゆっくりデザインを練りつつ JavaScript の勉強でもするくらい。PHP ないし Perl は、新サイトを見切り発車させる日には間に合わせなくともよいでしょう。なお、仮設梦幻院からサイトのタイトルも変えるつもりです(すでに決定済み)。
 一応読書記録なので、本についての評言を附しておけば、両書共にかなり良質な方だと思う。誤字脱字はあるが、理系の書籍なんてこんなもんだろう(文系の書籍なら許さない)。解説が不十分だったり誤解を招きそうな表現をしている部分もあったが、読者が標準的な理性を具備しており、的確にググる(ないしヤフるかゲイツに訊く)能力を持っていれば、問題はない。ただ、タグ辞典の方にくっついている『Web用語辞典』の日本語の馬鹿さ加減にはあきれたね。ぼくは「正しい日本語」という考え方を認めないが、それは「言葉の意味は一定ではない」ということを承認しているだけであって、美しくない文章を、まして意味が通らない文章を褒めるわけにはとてもゆかない。はっきり言ってこんなものは基礎の基礎だと思うが、主語に対する述語が正しくなかったり、複数の主語に対して片方にのみ対応する述語をくっつけたり、というような間違いが目立ちすぎる。長い一文を書いている内に主語を忘れてしまうなんていうのは、自分の書いた文章を読み返していない証拠だ。査読もなってない。このレヴェルのミスは、ちょっと度しがたいミスである。もっとも、このレヴェルすらクリアできていない小説家が日本になん人いることか。
 そういえば、中島大先生にしてもそうだけどさ、哲学者って文章うまいよね。やはりたくさん本を読むからかな。筒井康隆の言う通り、少しは古典を読みなさい古典を。なんで、まだ小説家で「すら」ないぼくが叱らなきゃなんないんだろね。

◆京極夏彦『文庫版 百器徒然袋―風』(講談社文庫)
 で、ちょっと仰ぎたくなるくらい「まとも」な日本語の典型がここにあります。京極夏彦、こいつぁガチだ。
 百器徒然袋シリーズは、『姑獲鳥の夏』から『邪魅の雫』にいたる京極堂(妖怪)シリーズのサイドストーリーの内、特に探偵;榎木津礼二郎を主役に据えたシリーズものであり、現在『百器徒然袋―雨』と本作との二作が公刊されている。まあ、くだくだと解説することもないのだろうが、榎木津礼二郎は超能力探偵である。それだけなら「ああ、その超能力を使って事件を解決するのね」というのが普通人の反応だろうが、その超能力を使って事件を解決する「わけではない」から凄いのだ。このさい、彼の超能力なんざあってもなくても同じなのである。榎木津礼二郎は、超能力ではなく彼の常軌を逸した「性格」によって、事件を解決するのではなく「ひっかきまわす」のである。けっきょく、まいどながら中禅寺御大が重役出勤することになるしねえ……。
 さて、本作を一読して、ぼくは非常に演劇的な構成をしていると感じた。京極夏彦は脚本も書いているし、日本古来の演劇に造詣が深いようだから、きっとそういうクセが出てしまうのだろう。本作において、役まわりというのはとてもハッキリしている。主人公は誰か、どこでどの役者がどういうを役割を担って登場してくるか、そういうことがかなり意識的に構造化されていると思うのだ。筒井康隆も言っていたが、文学の基礎は演劇にあるのだなとしみじみ感じる。ぼくにはそういう素養が殆どない。
 但し、そのことによる弊害も見てとれる。この小説、どうにも「活劇風」すぎるのである。エンタテイメントにはすぐれているが、リアリティはあまりない。『姑獲鳥の夏』から、多分『狂骨の夢』あたりまでは保持されていただろう独特の「おどろおどろしさ」を一片も感じることができない。ご都合主義の勧善懲悪モノ、という気がしないでもない。そこはやはり京極夏彦、体調や気分やネタ切れなんかに左右されることなく、常に完全な文体とほれぼれする構成を保っているが、しかしなにか足りない気はする。逆に、その足りなさをこれだけ技術的に隠そうとしているのが凄いことなのかもしれない。でもぼくにとって、京極夏彦の最高傑作は『魍魎の匣』であり、それが超えられることは多分ない。もっとも、京極夏彦の天才ぶりが存分に発揮されているという点では『絡新婦の理』が一番だろうけれど。
 あ、そうそう、魍魎が映画化されるそうで。全然知らなかったんですが、もう公開されているそうじゃないですか。これは見ずばなりませんな。

◆西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社)
 本月の読書会の課題図書……だった筈が、諸事情によりまだ読書会は行われておらず、詳細未定。いまから参加したいという方は参加可能です。詳しくは、ぼくの管理する『Skype で読書会!』コミュニティを参照してください(mixi 限定)。
 とりあえず帯を見て、頭痛がしてきた。清涼院……流水……? ハァ……。なんか御大に惹句を書かれるだけで、ガクーッと士気がさがるのはどうしてだろう……。『西尾氏、イチ押し』って言われてもねえ……。ハァ……。
▼註:ご存知ない方のために一応言っておくと、清涼院流水は「壁本」=「読んだら壁に投げつけたくなる本」で有名なミステリ「大」説家です。読んだらあきれること請け合いですが、どうも嫌いになれないのはふしぎ▼
 疲れたのでさっさと感想に移る。本作はメフィスト賞受賞作ということで、おそらく処女作なのだろう。それにしては、かなりうまいという感触を持った。確かな才能があるようだし、日本語もひどくない(少なくとも清涼院流水とは雲泥万里だなア)。というか、これはうまいと言ってしまってもいいのかもしれない。程度の差ではなく方向性の差であるが、ライトノベル的なモノをやる気ならこの文章は物凄くうまいという気もする。まあ初見での印象はそんなところ。
 読んでいて、とても面白かった。スイスイ読めた。しかし、ここでまた清涼院流水が登場するわけだが、裏帯の惹句『オーソドックスな本格ミステリのようで、様式美(パターン)を信仰して疑わない作家ロボットにはゼッタイ創れない物語』……と、あるんだけれど……創れないんだろうか? 普通に創れると思ったんだがなあ。この惹句に、ぼくはちょっと過剰な期待を寄せていたのかもしれない。メフィスト賞を受賞しているということも、この期待に拍車を掛けた。しかし実際のところ、それほど驚天動地なことがなされているとは思えないのである。
 本作には、綾辻行人や法月綸太郎ほどにどんでん返しがあるわけでもなければ、京極夏彦のトリックを過剰な解説が凌駕する超絶技巧(もちろん『姑獲鳥』のことを言っているんですよ)のようなインパクトもない。ラストに登場する探偵は、類型としては麻耶雄嵩のメルカトル鮎がすでにいるし、麻耶と違って後期クイーン問題に係らい合っているような感触もない。竹本健治・笠井潔・島田荘司あたりのはたした先駆的役割を、なにか担って登場したのでもない。「要するに面白かった」のではないのか? 旧式の作家には書けないぐらいの「新しさ」が少しでもあったのだろうか。綜合点が高いことはすなおに認めるが、清涼院流水の惹句はおおげさだ。というか、なにもかも清涼院流水が悪い。
 他の作家との比較なんてぶしつけなことをするのは辞めて、本作を単独でながめてみると、ひとつだけ言っておかなくてはならない難がある。単刀直入に書くが、トリックが簡単すぎるのだ。ふたつの密室が登場するが、さいしょの密室は状況説明を聴いた時点ですでにトリックが分かっていた。誰かが「ところでこういう考えはどうでしょう?」と言い出して、みなが「ああ! そんなアイデアがありえたのか!」などと驚嘆して実況検分を始めるが、そこでさらなる不可解な現象が発見されてそのトリックも間違っていたことが分かり、五里霧中になる……という流れを期待して読んでいたのだが、まさかそのままトリックで通ってしまうとは思わなかった。ひっぱるほどのトリックじゃないんだよなあ。ふたつめの密室にしろ、その後に持ちあがったあまりにも不条理な現象のせいで、トリックが推理できてしまう。不条理すぎるというのは、裏を返せば選択肢がほとんどなくなるということだ。確かに、トリックの細部でよく分からないところはあったが、「こんなのどうにかなるレヴェルだよなあ」と思いつつ読んでいたら、本当にどうにかなってしまった。そんな感じ。
 もしかしたら、ラストにどんでん返しがあるわけで、そこまで読者をミスリードしたつもりかもしれない。こういうミスリードであざやかに決まったものといえば、岡嶋二人『クラインの壺』が想い浮かぶが、本作はやはりあざやかとはいえない。このタイプのどんでん返しは、とってつけるから面白いのであって、読者をひっぱってゆくようなたぐいのものではない。だって推理できるわけがないんだから。こういう苦言を呈しはしたが、むろんぼくにはこれほどのミステリなど書けはしない。ミステリのトリックを作るのが恐ろしく難しいことは、実際にやってみた経験からもよく分かる。つまるところ、たんなる下馬評である。
 あと、玖渚友かわいいよね。

◆河野道代『spira mirabilis』(書肆山田)
 帯の文句によると『本書は、著者私家版25部と刊行者版225部とが上梓された』とのことである。ブックオフで見掛け、造本が気に入ったこと、詩も悪い感じではなかったこと、などを理由に購入。高原耕治『虚神』ほどの大当たりではなかったが、損はしない買いものであった。
 現代詩のようだが、あまり生ぐささがない。澄明で硬質な詩的言語を用いるが、稲垣足穂の文章ほどに薫り高くはない。とても書きなれた感じはするのだが、どこかに覚束なさが残る。どちらかというとこぢんまりしていて、枠を破壊するような言葉の使い方はしない。どこか少女の面影すら残るようで、もしかするとこのあたりが魅力なのかもしれない。閉ざされた淡い祈りの中で、言語の限界を超えた存在をただながめている、といった体である。こんな書き方をして分かるものなのだろうか? どうも詩の批評というのは慣れない。
 現在、復刊ドットコムで復刊リクエスト受けつけ中のよう。貴重な本なのだとしたら、それはそれで書痴として、うれしいことである。もしこの本に資料的価値があるというのであれば、少しくらいの協力はしますが、……まあ多分そんな方はいらっしゃらないかな。

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2007年11月22日 (木)

読書記録と雑記 20071122

 19日に9冊、本日1冊、本を買い込んだ。内分けは下記の通り。

◆19日、ブックオフにて。
 三島由紀夫『音楽』(新潮文庫、100円)
 寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫、100円)
 中島義道『ひとを愛することができない』(角川文庫、100円)
 『高橋和巳コレクション2 森の王様』(河出文庫、100円)
 高原耕治『虚神』(沖積舎、500円)

◆19日、新本屋にて(すべて定価)。
 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)
 京極夏彦『百器徒然袋 風』(講談社文庫)
 西尾維新『クビキリサイクル』(講談社ノベルス)
 三谷直之・米田聡『パソコン・ネットワークの仕組み』(サイエンス・アイ新書)

◆本日、新本屋にて(定価)。
 『スタイルシート辞典』(翔泳社)

 上掲書中『虚神』と『パソコン・ネットワークの仕組み』はすでに読了。以下の読書記録でまとめて扱う。
 購買理由を以下。
 三島の『音楽』は、三島由紀夫ならなんでもよかった。文学全集や三島由紀夫短篇全集で、未読の三島は何冊かあるのだが、文庫本はやはり読み易い。寺山修司と中島義道は、未読書をブックオフで見つけたらなんでも買うことにしている。高橋和巳コレクションも、そもそも我が家に『全小説』があるわけだが、文庫本の扱い易さゆえに購入。高原耕治という人の(多分自由律)句集『虚神』は、造本が非常に立派なこと、沖積舎刊であること、ぺらぺらめくってみると怪しい匂いが芬々と漂ってくること、などの綜合理由で購入。大当たり。
 京極夏彦は一日千秋の思いで文庫化を待っていた。『邪魅』も早く文庫化して欲しいのだが、当分先だろうね。永井先生の本は、まさか文庫化されるとは思ってもみなかったから、話を知ってびっくりした。無論すかさず購入。西尾維新は来月の読書会の課題図書。『パソコン・ネットワークの仕組み』は、IPアドレスの仕組みや自宅サーバーなどに興味があるので。
 本日購入した『スタイルシート辞典』は、ウェブサイトの再構築計画があるため、お勉強。正しい文法で書かれたXHTMLとCSSを使って、一からサイトを作りなおしたい。いつのことになるやら分からないが。

 現在(おもに)読書中の本は以下の数冊。
 『スタイルシート辞典』(上記)
 奥浩平『青春の墓標』(文藝春秋)
 井上清『日本の歴史 中』(岩波新書)
 E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書)
 ルソー『孤独な散歩者の夢想』(新潮文庫)
 まだ読んでるんですよ、ルソー。たしか半年前ぐらいにも読書中と書いたように記憶してるけど。

 以下、読書記録。読了は全6冊。

◆井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)
 そんなに時間を掛けずに読める日本通史の中では有名な本で、高野悦子も読んでいたよう。上巻は、原始時代から鎖国までを扱う。マルクス主義史観(共産党的史観?)一色。つまりは、日本史を、権力が支配者の手中から人民の下へ移ってゆく過程として読解し、生産力の発展がいかに生産関係を変革してきたかということの、ひとつの事例として提示するわけ。
 正直、意想外に面白かった。理由は、史観が確立されているからだ。教科書的歴史、つまり一定の史観が存在しない受験的事実の列挙としての歴史に慣れていた者にとっては、たとえマルクス主義史観だろうとも、史観のある歴史というものが目新しく映る。史観があるから、歴史をダイナミックに解釈することが許されているし、実際それに成功した通史だと思う。それゆえ頭にも入り易い。

◆福永武彦『海市』(新潮社純文学書下ろし特別作品)
 スランプの中にある画家が旅先で知り合った女性と関係を持ち、そこから泥沼の不倫に入りこんでゆく話。文庫版は500ページくらいということで、原稿用紙換算で何枚になるのやら知れないが、やや長め。しかし著者の力量ゆえか、あまり長いとか退屈とかは感じなかった。今も昔も不倫ものは沢山あり、言っちゃ悪いがストーリーそのものの中には新しい要素がひとかけらも加わっているわけではない。プロットには妙があり、著者が平均率クラヴィア曲集に倣ったと言っている通り、いくつもの恋愛が過去と現在を飛びまわりながら多重的に奏でられている。
 文学的主題は「現代において恋愛は可能なりや?」である。この「現代」が戦後という意味での現代であることには注意すべきで、少なくともわれわれの生きる「現代」ではない。現代の恋愛を描ききったという意味で、文学的に価値があるんだろう。しかし、ぼくはそんな理由でこの本を読んだのではない。ぼくはただ、久しぶりに純文学を読んで「ああ、やっぱり純文学っていいものですね」ということを確認したかっただけなのだ。まこと、純文学は滋味があって「いいもの」であった。

◆永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)
 シリーズ哲学塾の一冊。永井先生の最新刊ということで、当然購入。「はじめに」を読んだ時点でびっくりした。「本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的である」と、誰あろうこの人がおっしゃるわけだから。しかもシリーズ哲学塾で、なおかつこの薄さで。たしかに、そろそろ「侵しがたく決定的な真理」をつかんでもおかしくない時期にある日本唯一の哲学者だとは思っていたけれど。『論考』のウィトゲンシュタインであることはあとから分かった。どこかで見たことのある言いまわしだなとは思っていたのだが……。
 というわけで、相当の期待を持って叮嚀に読んでみたが、やはり「第三日」あたりは難しい。感覚としては、永井哲学の現時点までの展開の総決算といったもので、新しい切り口を導入しつつ、体系的な記述がなされている。正直、永井均の哲学書はかなり難解なので、テーマが同じでも切り口を換えてもらえると、いろんな方面から理解できてとてもありがたい。『メタフィジックス』や『比類なさ』よりは平易な記述になっていたと思うが、しかしこの本から入門していたらやはり理解しにくかったろうと思う。流れをつかむということも、やはり重要。
 読後に「自我論終わったな」と思った。もしかしたら「心の哲学終わったな」の方が正確かもしれない。「はじめに」にあったURLから講演も聴いてみて、時間との対比が時間論固有の領域を拓くわけではないということをおっしゃっていて、驚いた。言語的側面以外の、時間論固有の領域というのはどんなものなんだろう。同じことは自我論固有の領域についても言えるわけだけれど、自我論は終わったんだろうか、ここから始まるんだろうか。
 とりあえず『翔太と猫のインサイトの夏休み』を挟んで再読してみたいと思う。この本はきわめて重要なことを言っており、十全な理解のために努力する価値のある本だと思うからだ。しかし、哲学の領域であるにもかかわらず、この「正しさ」はなんなんだろう。どうしてこの本はこんなにも真理だとしか思われないんだろうか。中島マジックならぬ永井マジックなのかなあ……。

◆竹本健治『腐蝕』(角川ホラー文庫)
 前まえから名作だとの噂高い、竹本健治のホラー長編。『闇に用いる力学 赤気篇』と共に、長いこと積ん読にしていたが、さいきん古典や評論ばかりで、現代小説分(糖分とかの「分」です)が不足している気がして、にわかに読んでみる気になった。竹本健治はなにを書かせても抜群に面白いから(というより抜群に感覚が合うので。恩田陸などもこの理由だが、恩田陸の場合は当たり外れがある)安心して読めた。
 ストーリーは、詳しくは述べないが「よくある」パターンであり、よくあるパターンの小説を読者を飽きさせずに読ませるためには、技量が要求される。竹本健治にはこの技量が充分にそなわっていて、恩田陸もよくある超能力少女モノを見事に描いたりしている。そして竹本健治は、ミステリ界に「文体」の概念を確立したんじゃないかというくらい、文章が巧い。現代において、もはや明治の文豪のような文体を使うことができないとなると、求められる新しい文体として、ぼくの場合は竹本健治か京極夏彦かということになる。そもそもぼくの文体は京極夏彦を基礎にしているわけだし。まあ他にも、いくらでもいるけどね、筒井康隆とか村上春樹とか、文章の巧い現代作家。でもベストセラー作家の文章のほとんどはゴミであるというのも事実。平野啓一郎も、このごろは森鴎外の憑依霊を除霊して、現代作家の文体として見るべきものを作りあげたようだ。
 話が飛びまくっているが、倉橋由美子の文章の巧さは異常。パルタイなど、数篇の短篇しかまだ読んでいないが、なんというか、小説ではなく文体を読んでいる思いがする。玉石には瑕疵があってはならないし、小説は一行たりとも腐っていてはならないのだ(何度でも言うよ)。村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭は「完全な文章というものは存在しない、完全な音楽が存在しないのと同じようにね」(ソースが記憶なので曖昧)であるが、これはぼくの一番嫌いな言葉だ。にもかかわらず村上春樹は好きである……。
 ちなみに、こんなことを書いては竹本先生に悪いかもしれないが、この『腐蝕』、面白かったが、あんまり怖くはなかった。ちなみに、過去読んだ中でもっとも怖かったホラー小説は、恩田陸『MAZE』である。

◆『パソコンネットワークの仕組み』(上記)
 この本、綜評としては、役に立った。しかしながら、少々誤植が目立った点を差し措くとしても、やはり分かりにくいね。帯に「これ以上やさしく書けない」とあるが、もし本当にこれ以上やさしく書けないのであれば、ぼくは一生掛かってもパソコンネットワークなんて理解できそうにない。あるいは、帯の文句に憑拠して、こう言ってもよい。「やさしく書くことと、たやすく理解できることとは違う」と。
 分かりやすすぎることは、時に理解の邪魔になる。たくさん例を挙げてくれるのはよいが、その例がどこまで比喩になっているのか、よく分からない。厳密を求める人間としては、図解はいらないから定義を列挙して欲しいと思う。そもそも紙幅が足りていないんじゃないか。分かりやすくすればするだけ長い文章になるのは自明の理で、この薄さで「分かりやすく」なんて、ほとんど「割愛だらけですよ」と言っているようなもんじゃないか。
 以上のような不満にかかわらず、この本は役に立った。なぜなら、ぼくはまったく詳しい理解を求めておらず、大筋さえ理解できれば要が足りたからである。「なるほど、IPアドレスは全世界の共通財産という位置づけにあり、JPNICが各ISPに割り当てているので、個人はISPからそれを借りて使わないといけないんですね」これで充分。

◆高原耕治『虚神』(上記)
 購入理由は上記した。家に帰ってから、またも著者贈呈本であることに気がつく。しかも、著者直筆で贈呈の文句があり、贈られた相手を検索してみると、差しさわりがあるといけないので名前は書かないが、こちらもどうも斯界の有名人のよう。書痴としては貴重な一冊が手に入ったということでほくほくものだが、ブックオフに売られた事情が気になるところでもある。
 さて、この自由律句集『虚神』であるが、もしかしたら一部では有名な本なのかも知れない。ただ、定価もISBNも表示がないので、私家版の可能性あり。なんだか分からないが凄まじい本。この凄まじさを分かっていただくには、数句引用してみれば簡単だろう。

「されど 眞晝の
 大花火
 脊椎 を
 カンブリア紀がわたる」

「眞空の
 あばらをば組まむ
 泥蜩の
 泥の朝」

「わたしを濡らし
 母
 熟れゆけり
 干潟の燕」

 俳句の歴史についてはとんと無学だし、自由律運動の現代的意義もよく分からないのだが、とりあえずこの一冊には鬼気迫るものがある。雰囲気としては吉田一穂の詩に似てもいるが、ぼくにとって彼の詩は無意味な単語の羅列にすぎない。それに比べて、この句集はすなおに面白い。

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2007年11月 3日 (土)

読書記録と雑記 20071103

 ここのところ、あまり大した読書はしていないが、一応こないだからの間に読んだ本を、感想と共に書きとめておく。

◆中島義道『たまたま地上にぼくは生まれた』
 中島大先生の講演集。
 これはどんな作家にもいえることかも分からないが、大先生の書く本というのは、つまり唯一のテーマに対するぐるぐるとしたまわりくどい解説である。このテーマには「中島義道」というタイトルがつけられており、このテーマを語り始めることは可能でもあっても、語り終えることはできない。いかにしてもこのテーマを全体として伝達することができないのは、ご本人がよくお分かりだと思う。だからこそ「書く」のだ。ぼくも、自分の書くつたない小説をそういう思いでものしている。
 ぼくは、大先生が多様な言葉を用いて同じテーマを語るのを読み、より「中島義道」というテーマに対する理解が深まったと思うし、だからそれで満足なのだが、一般論としては「マンネリ」ということにでもなるのだろう。宮台真司氏との対談中に「中島マジック」のウラに言及しているところがあり、これまで中島義道を歴読してきた者にとっては、おもしろく読むことができた。

◆谷川流『閉鎖系 閉じられた世界』
 言うまでもなく、涼宮ハルヒシリーズの著者ね。某氏から「谷川流に実験小説があるらしい」ということを耳にして、実験小説が大好きなぼくはさっそく買ってきた。
 ……正直、おもしろくなかった。前半などひとカケラも興味を惹かなかった。しかし、こんなことはあまり言いたくない。『涼宮ハルヒの憂鬱』の中に文学を読みとったぼくにとって、また文士とかワケのわからないことをホザいているぼくにとって、この小説が失敗していることは、なにより残念であり、痛くもあるのだ。これが、ライトノベル作家と純文学作家の間に横たわる壁なのだ。もちろん純文学作家の方が「高い」というつもりはなく、この表現には事実を述べる以外の他意はない。ライトノベルであるということは、こういうことなのだ。「この」小説が、ライトノベルの範囲内で文学たりえたかと考えると、おそらく無理だったろうと思われる(「この」小説でなければ話は別だ)。そうして、「この」小説を書きたいという気持は、非常によく分かる。ぼくだって「こんなふうな」小説を書きたいのだから。
 内容とは別の次元で「痛ましい」一冊だった。

◆講談社火の鳥伝記文庫『足利尊氏』
 小学生むけの伝記シリーズの一冊。家にあったので暇つぶしに。やっぱり歴史って大切だよね。

◆萩原健次郎『k市民』
 思潮社刊の連作詩集。造本と惹句に惹かれて、ブックオフで百円で購入。家に帰って検分してみると、なんと謹呈の栞がはさまっていた。『国語学概説』に続き、ブックオフで著者贈呈本を引き当てるのは二度め。
 ぼくは、詩を書くクセに、詩という文学形態についてまともに勉強したことがなく、だから批評は全然できない。ただ、ぼくが決め手にした惹句はこんなのだった。
『(非)在都市、k市をめぐる連作待望の刊行』
 非在の都市を舞台にした連作詩を書こうと思いついた時点で、すでに著者の「勝ち」だと思う。現代詩というのはまさにこういうものだという、代名詞的で見事な着想だ。正直、「非在の都市を舞台にした連作詩」と耳にしたら、ぼくだって「あっ、ちくしょう。いいなあ。そのテーマ欲しいなあ」と思っちゃうもんね。

◆車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』
 十月の読書会の課題図書……のハズが、ぼくが下記するような事情によってサボっていたため(というより日づけの感覚も時間の感覚もいっさい喪失していたため)、読み切れず、今月に持ちこしになっちゃった本。深草先生、すみませんでした。
 うまいと思う。前半は多少冗長だが、読ませると思う。文章にはクセがあり、ぼくの好みとは違う。それでもって、私小説的である。主人公の「目」としての機能が、文学とはなにかを語っている。それはぼく個人の中島義道解釈と照らし合わせて述べるなら、まなざすところの「眼」である。読後感が悪いのは当たり前で、車谷長吉はそんな甘っちょろい人間ではないということだ。彼の孤独の深さが知れる。

 このごろ買いこんだ本としては、ブックオフで『k市民』と共に小林よしのり×田原総一朗『戦争論争戦』を百円で。また暇があったら読む、という感じの本。
 及び、本日、古書肆にて奥浩平『青春の墓標』と宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』を、それぞれ五百円と七百円で、購入した。二冊共、市場平均は知らないので、高かったのかどうかは分からない。寺山修司や稲垣足穂、それに東大紛争の本など、欲しい本が山ほどあったが、帰りの電車賃にも困るかという、財布事情の哀れなるかな。
 前者『青春の墓標』は、高野悦子研究の基本必読書であると思われるから、どっちみち買わないわけにはゆかない。また「若年自殺者の手記」が一冊増えた。宮台真司は、以前けろりんさんが言及しておられたような、という記憶で購入。ぼくが「青春の人」を三人挙げろと言われたら、アレイスター・クロウリーと中島義道と酒鬼薔薇聖斗を挙げる。まさに「どんだけぇ~」な、真暗な青春を送ってきたという感じね。
 現在読書中なのは福永武彦『海市』。新潮社純文学書下ろし特別作品。「純文学書下ろし~」は、店さえ吟味すれば、ブックオフで百円で手に入るからうれしい。「ああ、これだっ。純文学ってこれだよっ」とか感動して、ほくほくしながら読んでます。

 このごろはニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/)にハマりっ放しで、ニコ中の二乗という感じになっております。殆ど廃人ですね。調子に乗って替え歌組曲まで作ってしまった。先に言っていた「下記するような事情」というのはこれで、丸々一週間、寝食以外はすべて忘れて作詞・録音・編集の作業に当たっていたため、時間感覚がまったくなくなり、完成してコンビニに出掛けた時「うわっ、コンビニって眩しいなあ」と思ったくらいでした。この集中力で読書できたら、週十冊だって夢じゃなかったろうに……。

 このごろ思うこと。イデオロギッシュに生きるということは辛いなあと感じる。どうも自分がニュースに神経過敏なまでに反応し過ぎている気がするのだが、なにしろ一言居士だから仕方ない。「これって党派性?」などと思えてくる。差別について考え出したころから、自分は一気にイデオロギーの塊になってしまったんじゃないだろうか。だから、自分にとって「反動的」と思われる相手を許せない(反革命分子という意味ではないから念のため)。党派が自分の中で組織化されてしまえば、残された方途は血・血・血でしかない。そんなことは分かっている。中島大先生の流麗なまでの「頓着なさ」を見習いたいが、そのためにどれくらい傷つかねばならぬというのか、暗澹たる思いがする。イデオロギーに足を踏み入れかけた人間には常に自殺の危険がつきまとうということは、高野悦子の例が雄弁に物語っている。

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2007年10月 4日 (木)

読書記録;2007/10/4

 とりあえず、読書記録だけあげときます。八月三十日以降読了の計七冊。それにしても、なんかしっくりこないなあ、ミクシィの新デザイン。

→村上春樹『スプートニクの恋人』

 九月読書会の課題図書でした。評価が完全に割れ、過去に読んだ全作品中でも筒井康隆『虚航船団』に僅差で勝り、一位というかなりの高評価をぼくはつけたのですが、氏は意味不明だとのことで、酷評。ぼくはちょうど、筒井康隆『着想の技術』を読んでいるところだったので、多少影響もうけて、深層心理において設定される問題が深層心理の領域で答えられることによる、言語化できないカタルシスということを述べ、氏と激論になりました。

→谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』
→谷川流『涼宮ハルヒの溜息』

 涼宮ハルヒシリーズの第一作と第二作ね。正直『憂鬱』はかなり文学的にもすぐれていると思う、ちょっと感動した(まさに「文学」という作業が「現代」を解こうとするものであるのなら)。しかしながら、この小説に続きがあるということが、よく分からなかった。どうやって続けるつもりだろう、確かにこれだけ便利なキャラクターを設定しておけば、充分ドタバタは可能だろうけれども……と思って『溜息』を読んでみたら、やっぱりドタバタになっていた。二作目からは文学性が欠けおちたせいでぼくの興味は半減、もっとも暇つぶしとしては充分機能する面白さだし、がんらいラノベってそういうものなんだろうけど。

→森博嗣『臨機応答・変問自在』

 ん、暇つぶしで読んでみただけのことで、やはり暇つぶしにはなった。森博嗣はSMシリーズを全部読んで、『黒猫の三角』あたりで飽きてきて、それからは食指が動かないのだが、たまに『工学部・水柿助教授の逡巡』とかを読んでみると物凄く面白かったりして、さすが量作型・現代的エンタテイメント作家としての実力だなあと唸らされたりもしました。で、この本は、その森博嗣が某N大助教授だった当時(某なんてつける必要ないよね)、毎回学生に質問を提出させ、それに回答してゆくという形で授業を行っていたらしく、その質問と回答を集めたものである。学生の質問を金儲けに利用するなと言いたくもなるが、なかなかの名答もある。しかし、こういうタイプの人ってホントなんか、言ってることは正しいのに違和感があるんだよね。そこでぼくなどは、捻くれているものだから、リバタリアニズムとかでなしに中島義道に流れてしまう。きっと、心の傷とかコンプレクスとか憎悪とか、そういう計算不能な反社会性が好きなんでしょう。

→ひろゆき『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』

 元ちゃねらーですが、数年来飽きてきてあまり行かない(目的のためにだけ顔を出す某板は除く)。逆にニコニコ動画にははまってますけども。それはよいとして、知人に、完全に携帯メール以外のインターネットから隔絶されたアナログ人間がいて、その人とたまに社会問題を議論するわけですが、相手がネット文化をまったく知らないのでこの方面の話がうまくできない、そこでぼくが教えつつ議論するということになるわけです。ありきたりですが、インターネットが社会に及ぼす影響ということについて、目下かなり興味があり、その知人へ教えるための勉強ということも相俟って、ネット文化をどうやったらうまく整理しまとめることができるかということを考えております。その参考に買った本。読んでみて、ひろゆきってこんなに理知的な人だったのかとびっくりしました。もっとも、先述の「こういうタイプの人」に含まれるようですが。なれるものならなってみたいよプログラマー。

→いとうせいこう『ノーライフキング』

 古書肆で『少年の心と90年代の現実を描くサイバーリアリズム小説誕生!』という惹句を見て手にとり、『世界は「破滅」に向かっているのに、大人は誰も気がつかない――『ノーライフキング』、呪われたゲーム・ソフトの謎を追って、少年たちの新しい戦いが始まる』という惹句を読んで即買い。いとうせいこうという作家について、むろんなにも知りません。「世界の破滅」「少年たちの戦い」などという言葉に脊髄反射してしまいました。だって、ぼくの夢は「世界の破滅にかかわる少年たちの戦い」の小説を書くことですよ? 殆ど固定観念的に、少年は戦わねばならぬ、そして戦いは世界の破滅にかかわっていなければならぬ、という図式ができあがってしまっているわけです。さて、この作家の場合はどう料理したか、お手なみ拝見、という感じですね。
 まあよくできた小説だと思いました。ちょっとぼくの求めていたイメージとは違う、しかしそれにしてもうまい。重ね描き(現実と虚構の二重化)は、小説の基本技法だと思っていますが、決まると見事なんですよね。恩田陸なんかも得意そうです。話が重なれば重なるだけよろこぶというのは、ミステリを通過してきた人に共通するところでしょうか(「見立て殺人」はその典型ですから)。いちおう難を述べておくと、やや話が分かりにくい。ストーリーの流れは分かるんですが、ゲームシステムとか用語とか、個々のものにいまいちイメージがわきにくい。あと、90年代の現実もなにも、この小説、80年代に書かれてるじゃないかよ。

→いとうせいこう『難解な絵本』

 で、その時に衝動買いしたいとうせいこうは、一冊ではなくて三冊です。著者によると、この絵本は『パスティーシュへの悪意によって書かれた』そうです。『パスティーシュの解体。しかも、その行為自体もパスティーシュにならぬこと。いわば着地点を否定し続けることを、私は意図した』そうです。この後書き自体がパスティーシュでないのだとすれば。ふむ、なんかそんな感じの本。しかし主眼は、パスティーシュという行為そのものにあるのでなく、現代自体がパスティーシュだというところにあるものと思われます。『絵本は難解だ』ということをこの著者が言う時、それは「少年たちは戦わなくてはならない」という『ノーライフキング』の考え方と基本的に違わない。絵本が、とりわけこの絵本が難解であるのは、もちろん大人たちにとってです。もっとも、その叙述法は大人の書式に従わざるをえないため、結果的に、この絵本は子供にとっても難解なものになってはいますが。

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2007年8月30日 (木)

雑記;2007/08/30

◆喫茶店

 河原町通りに面した某パン屋の二階が、とにかく穴場である。知る人ぞ知る。穴場というレベルではないかもしれない、もはや誰もいないのだから。下の店で買ったパンを、持ってあがって喰べることができるわけだが、午後八時にきてみたら、54席すべて空席であった。九時半まで読書したが、誰ひとりこなかった。店員すら殆どこなかった。パン代と紙パックのジュース代を足しても200円かそこら。水はセルフサービス、喫煙は可、冷房は弱冷。何時間いようと文句を言われない。もはや放置の域に達している。なんというありがたい、神さまのような店であることか。少々殺風景すぎるきらいはあるけども。

◆ヌガー

 ヌガーが急に喰べたくなった。理由は分からない。ヌガーなんて言葉を思い出したのすら久しぶり。みなさんご存知? こんなようなマイナー菓子ですけど(→http://www.la-fontaine.co.jp/shopping_amandonuga.html)。
 捜しまわったが、マイナーだけあってなかなか見つからない。輸入品店で、ようやく細切れを見つけ購入。おいしい。おいしいけど、なんでヌガーが喰べたくなったのやら、サッパリ分かんない。

◆夢

 祇園祭をうろうろしている。確か、二ヶ月前くらいに祇園祭があったように思うのに、また祇園祭とはどういうことだろう、と混乱する。二ヶ月が一年なのか、時の経つのはおそろしいスピードだなあ、と無常感に打ちひしがれる。
 家に帰ってくると、H先輩がいて、オレンジジュースのこびりついた茶碗を洗っている。なかなか黄色がとれず、模様みたいに染みついている。H先輩は、この模様が高倉天皇の幼名を意味しており、それは××チャマなのだという。
(起床。高倉天皇っていつの時代の人?)

◆読書記録

 ×冊分たまるまで……、などとやっていると、すぐに忘れちゃうので、こまめにつけることにしましょう。八月十二日以降に読了した三冊。

→山田花子『自殺直前日記』

 読んでいて非常に痛々しい日記。自殺にいたった直接の要因は分裂病とのことだが、分裂病というと、病因の解明は進んでおらず器質性なのかどうかは不明の筈。何年分かの日記がいろいろ前後して収録されており、筆者が、中島義道いわゆる <マイノリティ> を体現したような人物だったことが分かる。はてさて、分裂病だから生きにくいのか、生きにくいから分裂病になったのか、それとも生きにくいことがすなわち分裂病なのか……。分裂病を力動的に説明しようがしまいが、実は同じなんじゃないかという話。「生きる」かつ「生かされる」というのは、人間を理解する上で共に否定されるべきではない二面性だと思う。

→長野まゆみ『螺子式少年(レプリカ・キット)』

 稲垣足穂の系譜につらなる人ということで、ぼくは長野まゆみが好きである。文学的にどうこうというよりも、ぼくにとっては、単純に楽しめるという感じ。とても快い幻想空間。世界から、ぼくの嫌いなものが全部消え失せ、好きなものが全部集められたら、こんな感じになるだろう。もっとも、長野まゆみは長野まゆみでも、『鳩の栖』とかの少年愛風味の効いたものには違和感がある。恩田陸の『ネバーランド』とかにも言えるけど。やはり男の視点からして、女性の描く少年愛は稲垣足穂の描くそれには及ばないな、といったところ。

→寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

 寺山修司の代表作につき解説不要。角川クラシックス版なのだが、編集部註によると、差別語うんぬんによって一部改変があるそうなので、版同士の異同を調査中。

 ちなみに、読んだマンガも読書の一部として記録しておく。

 高橋葉介『仮面少年』夢幻外伝『死者の宴』『夜の劇場』『目隠し鬼』/大島永遠『女子高生 Girls-High』1~3巻/喜国雅彦『天国の悪戯』/花見沢Q太郎『ももいろさんご 8』『Honey Blue』/高橋留美子『うる星やつら』コンビニ版で3冊/以上、いずれも古書で購入。

 高橋葉介の、朝日ソノラマ文庫『ヨウスケの奇妙な世界』シリーズが、四冊も手に入り、無上のよろこび。

◆電磁双六

 あれから、もっと本格的に磁性を再現したゲームを作ろうと思い立ち、ホームセンターに行ってプラスチック板を購入。一辺1.9cmの透明な正方形を40枚製作した。この正方形は、ゲームのコマの上に重ねていって、コマの動きの演算を分かり易くする役割をはたす。研究に研究をかさねたルールであり、ぼくの構想は完璧であるかに思われた。
 今回のルールを簡単に説明すると、各軍にひとつ、起電力を有する特殊コマが与えられており、その縦、横、斜めにある自軍のコマが電磁化する。電磁化されたコマは位置を固定され、その縦、横、斜めにあるコマに対し磁力を発揮。同色のコマには斥力、違う色のコマには引力を働かせる……、というものである。変化した盤面に対し、繰りかえし状況判定が行われるため、結果的に磁性シミュレーションゲーム的な様相を呈する。お陰でたいへんな演算をこなさねばならず、そのための補助具として透明な正方形が必要なのであった。各マスに対する磁性の判定を、この正方形を用いて目視化するわけである。
 自分でプレイしてみて、ルールが完璧であったにもかかわらず、ゲームとして成立しないことが判明。理由は単純で、演算に時間がかかり過ぎるのである。本来シミュレートはCPUで行うべきもので、このデジタル化時代にわざわざ人間の手でやるようなもんじゃない。一ターンあたり、不慣れな内は演算に三十分を要した。カードゲームでたとえてみるなら、あるプレイヤーが魔法カードを場に出した時、その魔法カードがモンスターやフィールドに及ぼす影響を計算するのに、三十分もかかるということだ。……こんなんゲームじゃない!
 ついでに方向指定ありの双六ゲームも製作してみたが、こちらもルートに不備がありいっこうに進めない。ぼくにはゲームを作る才能がないんじゃなかろうか。
 前作『泥沼双六』のころから、ぼくのコンセプトは一貫しており、それは「コマで相手のコマの動きを邪魔することができるような、戦略的双六ゲーム」である。双六をする時、相手のコマが行く手にあっても、軽々と飛びこえることができることに、ぼくは不満を持っていた。コマで相手のコマの通る道を塞ぐことができたなら! しかし、塞がれ過ぎて相手のコマが動けなくなってしまうようでは、ゲームとして成立しない。相手のコマに乗られて動けなくなるのはよいが、全部のコマがロックされてしまってはゲームにならない。そこで、シンプルさから遠ざからない程度に、絶妙な塩梅でルールを微調整することが必要となり、ぼくの悩みの種は絶えないのであった。
 とりあえず、電磁双六に関しては、たいへんな思い違いをしていたことに気がつかされた。このルールは、双六用のルールなんかではない。敵陣に自軍のコマを入れるという勝利条件自体、ゲームの流れと合っていなかったのだ。電磁双六のルールは、おそらく戦闘用のルールである。相手のコマを取れるような形で、あらためてゲームを作りなおすことにする。電磁シールドを導入して演算の範囲を限定すれば、計算の煩雑さからも免れることができそうだ!

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2007年8月12日 (日)

読書記録など;2007/08/12

◆読書記録

 七月四日以降に読了したもの、計六冊。「Psi って誰?」とか、気にしないでください。

『差別原論』好井裕明

 開口一番、Psi の言うには「君、やられたな」と。
「は? なんのお話ですか?」
 ききかえすぼくに対し、彼はだまって朝日新聞の切り抜きを突きつけた。
「なになに? ……『差別原論』……『差別はいけない』の落とし穴、だとォ?」
「ほら、君の差別論のコンセプトに似てるだろ。これは先をこされたかもしれんぞ」
「の、ようですねえ」
 さっそく買って読んでみましたが、そんなわけはありませんでした。正直なところ、ぼくにとって殆どの差別論は読むに堪えないのですが、読むに堪えない本リストに一冊が追加されただけでしたね。
 後日、Psi との会話。
「だめですね、これは。くだらなかったです」
「ふうん、たしかに。このくらいで『落とし穴』だのなんだの、語って欲しくはないわなあ」
「ぼくの理論が抜けがけされるなんて、ありそうもない話でしたね」
「それは君、君の理論が間違っとるからやないのん?」

『百鬼園随筆』内田百閒(間)

 百鬼園先生って、なんだか不気味な人ですよね。こういうタイプの芸術家って、あまりいないのではないでしょうか。随筆を読んで、あらためてこの作家の特異性を感じずにはいられませんでした。世間では、ひょうひょうとした作風に定評があるようですが、一読して、ぼくはつかみどころのない神経症的不安に襲われてしまいました。

『二十歳の原点』高野悦子

 生涯の一冊という話をしていて、Psi がこの本を挙げたので、読んだのでした。感想はあえて申しません。あと三年くらい、この本とつきあってゆかなくてはならない予定ですので。詳しいことは申せませんが、オマージュの計画があるということです。『原点序章』と『原点ノート』も近いうちに届く予定。

『わが解体』高橋和巳

 上記の本と、六十年代つながり。梅原猛『高橋和巳小論』で予備知識あり。母が全集を持っているので、高橋和巳には困りません。なんなんだよ母さん。とはいえこの本は、ぼくが別口で金百円也で購入した品なんですが。彼女の本の方が美品。

『中庭の出来事』恩田陸

 今月の読書会の課題図書。見事に外しました。お陰で、深草先生を恩田陸嫌いにさせてしまいました。ぼくがディープな恩田陸ファンなのは、みなさんご存知の通り。

『卒業式まで死にません』南条あや

 くだんの本と、若年自殺者の手記つながり。コミュニティは http://mixi.jp/view_community.pl?id=491871 です。あと、久坂葉子『幾度目かの最期』と山田花子『自殺直前日記』も積まれております。読むのはかまわないんですけどね……乗り憑られるのです。精神状態が一気におかしくなってきます。そのうえ、若年自殺者の手記を読むわけですから、必ずラストで主人公は死ぬのです、現実に。精神的にきついものがありますね。で、どろどろした気分になって、次の手記に手を出す、と。無限ループの悪循環にはならないで欲しいものです。

◆自主休養

 現在、自主休養中。人間が一個の実存である限り、わたしというものはカテゴリでは捉えきれない一個の現存在なわけです。すなわち一個の意志です。Do what thou wilt です。だから、病気かどうか、疲れているかどうか、自分を甘やかしてよいかどうかなんて、そんなことは自分で決めること。医者によって病気というカテゴリにカテゴライズされる必要はないんです。気が晴れました。しばらく自主休養します。

◆攣る

 指が攣ります。指が攣るのはよいのですが、このごろ股間が攣るようになってきました。用を足そうとすると、急になります。「わたたたたッ!」という感じです。いわゆる「蟻の門渡り」の部分だと思うのですが。なんだこりゃ。

◆素数

 Psi が素数を書きならべています。「百までの素数ならだいたい覚えてるから」とのこと。となりで見つめるぼくを無視して、彼はぐちゃぐちゃ数字をいじり始めます。
「なにしてんですか?」
「いや……ほら、どの数が素数かということに、なにか規則性がないのかなァ、と、思って」
 絶句。素数の規則性についての研究が現代数学の数論の最重要課題であるということを、なんと Psi は知りませんでした。
「あのォ……無理だと思います」
 とはいえ、家に帰ってから、ぼくも素数について考え始めます。素数というのは、自然数の中で約数の数がふたつである数字のことに過ぎない。素数でない数と一口に言っても、約数の数はそれぞれ違う。ある数字が素数でないということは分かっても、それなら約数の数はみっつなのか? よっつなのか? これまでとは違う観点から考えてみると、思わぬ規則性が見つかったりして……。はい、バカがひとり増えました。ミイラとりがミイラになる。

◆発見

 And who was it that scattered the cards away?
(訳:カードを吹き飛ばしたんは誰かなー?)

 あッ、強調構文だ! 理由はよく分かりませんが、発見してちょっとうれしい。発話者は、カードを吹き飛ばしたのが「誰」なのかよく承知していて、皮肉として疑問文にしているわけですね。「お前が吹き飛ばしたのだから、責任とれ」と。だから強調構文になっているわけなんですが、へえ、直訳なのに日本語のニュアンスの再現度高いなあ。冒頭の「And」も効いてますし。
 え? なにを見てたのかって? いや、ちょっとニコニコ動画で『カードキャプターさくら』を……。発話者はもちろんケロちゃん。

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2007年7月 4日 (水)

読書記録;2007/07/04

 五月二十日以降に読了したもの。計八冊。

『明六雑誌(上)』明六社
 ようやっと読了しました。暇つぶしにはもってこいの本でしたね、ぼくにとっては。中、下巻はまだ刊行されていないもよう。売れ行きが悪かったんでしょうか、上巻刊行から八年も経っているのに。岩波書店に要望メールをしておきました。

『読書について 他二篇』ショウペンハウエル
 ますます馬鹿っぽいショウペンハウエル。言っていることがどうこううんぬんよりも、頭が悪そうです。友人にいたらおもしろそうですが、師匠にはしたくない。『意志と表象としての世界』は積読のままなんですが、あとから買って先に読んじゃいました。同一の作家につき、積読は二冊までが目標です。

『大いなる助走』筒井康隆
 読みやすく、とてもおもしろい。イーブックオフで註文したんですが、栞のかわりに、ご叮嚀にも作中の作家と現実の作家の対応表が挟まれておりました。

『虚航船団』筒井康隆
 ……これが文学でなく、文学はどこにある? 筒井康隆のあとで文学を書くことは野蛮なのかもしれない。おそろしい神話の誕生だ。ここにおいて文学は生みおとされ、ここにおいて殺された。あるいは、筒井康隆のあとでは××××することすら野蛮なのかもしれない。(中略)野蛮だ。あらたな神話が与えられたのなら、旧時代を示すいっさいは野蛮だ。ぼくは野蛮だ。バイブルの前にあらゆる偶像崇拝は野蛮だ。……
 以上、読了後に感動して書き殴った日記からの転載。人類の歴史と現代文学との全的パロディを企図した新時代の聖書。先月の読書会の課題図書。

『孤独の世界』島崎敏樹
 心理学的に「孤独」を分析した本。実例が豊富でおもしろい。

『物理法則はいかにして発見されたか』ファインマン
 ファインマン先生の、初心者にむけた物理学の講義、およびノーベル賞受賞講演。語りくちはやさしく、話は興味深い。

『日本文化史』家永三郎
 読んだだけでは頭に入りません。歴史の教養書というものは、軽く読み流すと書かれていた内容すべてを忘れてしまうので、能率が悪いです。

『現象学』木田元
 なんとなく、分かったような分からないような話。哲学を新書で入門しようなどとは、どだい無理なことなんでしょうが。とりあえず、苦手な現代哲学を克服するために、フッサール『デカルト的省察』あたりから原典に触れてみたいと思います。

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2007年5月20日 (日)

雑記;2007/05/20

Azami ◆読書記録

 このごろ読んだ本は、次の通り。
『劫尽童女』恩田陸/『永すぎた春』三島由紀夫/『蒲生邸事件』宮部みゆき/『村野四郎詩集』白鳳社/『吉田一穂詩集』岩波文庫/など
 現在読みかけている本の内、読む頻度の高い本(積読が多すぎて、頻度でしか事態を語れません)は次の通り。
『マルテの手記』リルケ/『日本文化史』家永三郎/『寺山修司幻想劇集』平凡社/『天才の心理学』クレッチュマー/『孤独な散歩者の夢想』ルソー/『孤独の世界』島崎敏樹/『あなたが、いなかった、あなた』平野啓一郎/など
 ペースが大幅にダウンしております。事情があって、いろいろ忙しいのです。

◆音楽

 このところ YUKI にはまっており、『joy』『WAVE』『PRISMIC』と、アルバムをあいついで購入しました。もとはと言うと、何年か前にエフエム802で『長い夢』がよく流されており、当時は暇つぶしにラジオをかけていただけだったので、なんとも思わなかったのですが、数ヶ月前、急に『長い夢』が聴きたくなってきたわけです。爾来、朝のコーヒーと YUKI なしでは生きていけなくなりました。
 クラシック方面では、リストの『超絶技巧練習曲集』CDを購入。クラシックは右も左も分からないのですが、たまにCDを買ってみることにしています。超絶技巧はイマイチだったかな……。

◆雑感(上からの続き)

 それにしても、音楽ってふしぎなものですね。音楽家が自由に旋律を楽しめるように、小説家も自由に文体を楽しめるようになったらよいのですが。音楽家が旋律で遊ぶことを認めてくれても、世間はなかなか小説家が文体で遊ぶことを認めようとはしないものです。文体を楽しまずして、いったいどうやって小説を楽しむというんでしょうかね。みなさん、芥川龍之介の小説を現代若者言葉に翻訳してあったら、読みたいと思われますか? それはそれで、ネタ的な意味で読みたい気はしないでもないですが。
 あと、情報媒体(CDとかね)を主軸とする現代的な音楽文化は「聴き込み」という作業を不可分な一部として鑑賞行為の中に組みこんでいるのが、おもしろいですね。同じ音楽を、二度、三度、くりかえして味わう。J-POP だったら、十回目ぐらいが、なんというか脂が乗ってくる感じで、もっとも大きな感動を与えてくれます。これ、小説だとありえないでしょ。小説って、鑑賞者がたいへんな労力を浪費してしまいますから、同じ小説はせいぜい二回、多くても三回ぐらいしか読まれません。ぼくが十回でも読みたいような小説なんて、まあ『デミアン』ぐらいかな。なにしろ手軽なんですね、音楽は。明治・大正時代の小説を苦労して読んで、どうにかこうにかいざなわれる「ああ、これが文学だ!」ってな感動を、バッハは再生ボタンひとつで与えてくれます(いわゆるゴージャスな気分?)。

◆日記

 本年二月二十一日から日記をつけだしました。かなり長続きしております。過去のことは、すぐに忘れていってしまいますから。過去をもてあそぶのが好きなぼくにとって、将来、なによりのオモチャになってくれそうです。ただ、悪いけど死後出版だけはされたくないなあ。ぼくの書くものはなんでも作品だからといって、そんなにうまく日記なんて書けないよ。

◆アザミ文字(上からの続き)

 で、たまに暗号で日記を書いてみたりしています。アルファベットを置き換えただけの暗号文字で『アザミ文字』という名前をつけているんですが、現物は写真をごらんください。ローマ字方式で綴るわけですね。大文字と小文字があり、自分で作っときながら小文字は自分でも覚えられません。
 どうして『アザミ文字』という名前なのかというと、その昔、ぼくが政治結社;アザミクラブを自分で勝手に名乗っていたころ、秘密通信をするための暗号が必要だということで、ぼくが開発したものだからです。ところが、アザミクラブは、現在ではほとんど潰れたも同然で、この暗号も機密情報でもなんでもなくなってしまったので、こうやってインターネットに写真を載せたりできるわけなのです。これでも、同じ文字が二つあったり、ジャミング記号がまざっていたりと、けっこう解読者を攪乱するような仕様になっているんですよ。
 現在、アザミ文字を使う利点はほとんどありません。唯一、人前で恥ずかしいメモをとることができる、これだけ。誰も通信する人がいなくて、おもしろくありません。誰か、アザミ文字を覚えてくださる人はいませんかー。

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2007年3月23日 (金)

いかにして哲学書を読むか

 暇なのでJ.P.サルトルの『存在と無〔現象学的存在論の試み〕』(サルトル全集/人文書院/S31年初版)に手をつけてみましたが、どうもいけません。『純粋理性批判』『存在と時間』に次いで、三度目の返り討ちに遭いそうです。三巻の分冊合わせて千五百ページ近い哲学書ですから、半分読んで放り出すんだったら、それは別に構わないわけです。しかし緒論で返り討ちされるのは、どうも納得が行かない。いったいぼくにはなにがたりないんでしょうか。哲学的センス? 知識? 読解能力? これらすべて? それとも、こんな難解な本を書く方が悪いの? 中島大先生だったら「気合で理解しろ! 無理ならセンスがない!」なんて言いそうですが。さいわいにして、二十ページぐらいで挫折したものですから、自分のどこが悪かったのか、詳細に調べてみることができます。分析と雑感をおりまぜて報告いたしますので、誰かアドバイスください。

      【緒論 存在の探求】

    1 現象という観念

 現象学は、あらゆる存在者を現象とすることで、現象の一元論を打ちたてたという。
 内-外という二元論から、確かにわれわれは脱却した。現象はたがいに等価であって、ひとつの現象は他のもろもろの現象を指し示す。
(指し示す、というのが、超越する、ということであるらしい。これは、ひとつの現象が、後述の「本質」を指し示していると理解してよいんだろうか?)
12P『その作用は、それ自身と、全体的な連鎖とを指示するのである』
(全体的な連鎖=道理=本質? たったひとつの現象だけで、本質を指示することができる? 抽象の作業は要らないのかなあ)
 現象は「背後の実在」の現れではなく、むしろ現象こそが存在である。現象は、かならず視点を持たなければならないために相対的だが、現象がそれ自身を指示しているという意味で絶対的である。
 可能態と現実態の二元論も排除される。現象の綜合的統一(弁証法?)が「能力」である。本質もまたひとつの現象である。
(可能性はどう扱うのだろう。いまいち理解できないくだり。それから、本質もひとつの現象だというが、本質とはどういう現象なのか、いまいち想像つかない。ぼくの目前に現れているもの、これらみな現象なんだろうけど、いったい本質ってどの現象のこと?)
 われわれはしかし、有限と無限の二元論をあらたに持ち込んだ。存在者は有限な連鎖には還元されえない。
15P表記改『(前略)仮に現れの連鎖が有限であるとすれば、このことは、初めに現われたものが再びあらわれる可能性をもたない、ということを意味する(中略)もろもろの現れが全部同時に与えられうる、ということを意味する(後略)』
(意味が良く分からない。なんだか初歩的な話のような気もするけれど。存在者が有限な連鎖に還元されないというのは、『論考』のウィトゲンシュタインに近い気もする)
 現象は主観的に充実しており、現象を超越させると本質になる。ひとつの対象は無限の現象を有する。ものは見方によるんである。対象は現象の無限の連鎖である。
(「対象」ってなに!? いきなり凄い用語が持ち出されたような気がする……。「対象」なんてものが登場するんだったら、「背後の実在」を考えるのと変わんないのでは? ひとつの現象は有限で、意味されている本質は無限だというが、その本質があらたな現象として次の本質を意味してゆくのだとすると、本質は「無限かつ有限」ってことにゃならんのだろうか)
 現象学の帰結は以上の通りで、いかなる存在とも対立しない「存在概念」がこれからの議論の中心となる。
(「対立」なんて、また弁証法的な概念を持ち出すなあ)

    2 存在現象と現象の存在

 存在論的研究において、初めに「現象の存在」がとりあげられるが、さてこれは現象なのだろうか。これもまた、自己を現すから現象であろう。すると、存在を指示する「存在の現象」がある筈であり、これの記述が存在論。存在現象の存在は、他の現象の存在様式と同一か? フッセルとハイデッガーはそう考えたそうな。
(「初めに」と言うからには「現象の存在」以外の存在もあるんだろうけど、「現象の存在」以外の存在ってなにさ?)
 本質=道理は「対象」の意味である。「対象」はしかし、意味を指示するのと同じ方法では存在を意味できない。存在を現在 presence として規定することは不可能。
(道理=対象ではなかったんかい。本質を指示するのは現象だけれども、すると対象=現象? もうわけ分からん。あと presence ってなに?)
 対象は、存在を隠しもしないが、あらわにもしない。
(だったら、なんだってんだよ! この辺から理解がおっつかなくなる。あとは字面を追うのみ)

 こんな感じで読み進めておりました。いったいぼくの欠点はどこにあるんでしょうか? 誰かたすけてー。

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2007年2月 7日 (水)

進捗

 だいぶ前にミクシィの日記にも書きましたが、このところ長篇小説にとりかかっております。とある少女の半生を描くつもりですが、都合によりインターネットに掲載はできません。タイトルだけ明かしておきますが『天涯地角』です。長篇を書かせるとすぐに抛ったらかしてしまうこのぼくですが、これだけつづいているのは見こみがあるかもしれません。そうは言ってもまだ35枚(原稿用紙換算)。たいした量じゃありませんね。文章には、とり分け心を砕いております(いつものことですが)。すくなくとも、ぼくの書くものは美しくあらねばならないのです。

 さて、パラレルで書いているのが『差別論』。「構造形批判」という副題も決まりました。一時は44枚まで行きましたが、深草氏にご批評をいただき、意気消沈してはじめから書きなおしているところです。哲学にどれだけ深入りしたものか、ちょっと逡巡しております。もろに認識論をくりひろげてもよいのですが、ぼくの力にあまるうえ、興味をもたれない人にとってはたいへん冗長なものになってしまいそうです。やはり感覚与件(センスデータ)から差別的認識まで解明してゆこうというのは難しいのでしょうか。すぐに書きなおすつもりですので、今お読みになってもあまり意味はありませんが、チラとでもながめてみたいとおっしゃる人はこちらへ。

 小説、論文と、ふたつの難事業をかかえつつ、日常生活にも忙殺されておりますわけで、まことに気が重い毎日です。とにかく「ちゃんと書いてるんだよ」てなことだけ表明しておきます。表明したからといって、どうなるものでもありませんが。インターネットでの活動も滞りがちになりますが、どうもすみません。生きて書きます。それだけです。

 このごろ読み終えた本は、次の通り。

 『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』『ぼくは偏食人間』『孤独について(生きるのが困難な人々へ)』以上三冊、中島義道/『クレオパトラの夢』恩田陸/『となり町戦争』三崎亜記/『古都』川端康成/『他人と深く関わらずに生きるには』池田清彦/『みんなで国語辞典!』北原保雄監修/『私・今・そして神』永井均/『善悪の彼岸』ニーチェ

 今は室生犀星の『杏っ子』を読んでいます。古本屋でサルトル『存在と無』全三冊を1500円(安い!)で購入してきましたが、読むのはいつになるやら分かりません。差別論を書くための参考書籍も読まなくてはならないし……。

 CDを二枚買いました。扇愛奈『ニッポンの150cm』および YUKI 『joy』です。毎日聴いてます。ホントに音楽は好いものです。こんどはクラシックでも聴きたいところです。バッハのカノンが聴きたいのですが、どれがどれだかよく分かりません。なんか、未完の奴があったようにおもうんですが。あと『ツァラトゥストラ』聴いてみたいですね。それから、マーラーもワーグナーも、まだ聴いたことがないし……。ショパン『葬送』およびムソルグスキー『展覧会の絵』が、ぼくのお気に入りのクラシック音楽です。それぞれ、平野啓一郎『葬送』と恩田陸『麦の海に沈む果実』の影響ですけど。

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