2009年10月27日 (火)

ゲーデルの不完全性定理

I1   I2

 第39回京都哲学道場(10月25日)のレジュメをアップしておきます。

◆第39回京都哲学道場「ゲーデルの不完全性定理」レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39.pdf
◆イラスト:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39i.pdf

 イラストの解説は本文にないので、簡単な説明だけしておきます。

 【図1】
 形式的体系の文命題は、最初の記号(主演算子)が「~」(否定)であるものの集合(否定文集合)とないものの集合(肯定文集合)との、かならずどちらかに含まれる。どちらの集合も可算無限集合なので、まず肯定文集合の文命題に A1, A2, A3, …と番号をふることができて、これらおのおのを否定することで、~A1, ~A2, ~A3, …と否定文集合の文命題にも番号をふれる。図では、上平面に肯定文集合の文命題を、下平面に否定文集合の文命題を整列させている。
 対応する文命題同士に青線を引いている。ある文命題に対する証明図が存在する場合、その文命題のところに青いダイヤ記号を置くことにする。このとき、形式的体系が不完全であるとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれていないような青線が存在することであり、形式的体系が矛盾するとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれているような青線が存在することである。このように、不完全性と矛盾性とは対照的な概念である。

 【図2】
 図中の「数学」は「形式的体系」と同義。数学(小円)に対する超数学的分析が、再び数学(中円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第1不完全性定理。第1不完全性定理の超数学的分析が、みたび数学(大円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第2不完全性定理。超数学の審級は、どんな場合でも数学の背後から働いて意味の領野を支えている。

 実は、上でアップしたレジュメは「数学篇」で、第II部として「哲学篇」も執筆するつもりだったのですが、ちょうどゲーデルの原論文に I と書いてありながら II が存在しないのと同様、力尽きて哲学篇を書くことはできませんでした。書いたところで解説するのは無理だったと思うけど。あまりにも内容が豊富なので、議論するまえに理解を共有すべき点が多すぎるのです。結果、宣告通り「討論」というより「講義」という感じになってしまい、それが成功だったか失敗だったかというと、……少なくとも成功ではなかったと思うな。
 以下、不完全性定理についての覚え書。

○ゲーデルの不完全性定理は、人間理性の限界を示したものなどでは全然ない。こういう誤解はただのミスリーディングなのであって、数学の術語であるところの「不完全性」を、日常言語における「不完全性」と混同しているだけである。このことを、次の事実が端的に示している。

「矛盾している体系は完全である」
「自己の無矛盾性証明が可能な体系はかならず矛盾している」

 つまり、数学は完全である必要もないし、自己の無矛盾性証明が可能である必要もない。だから、数学が不完全であり、無矛盾性証明ができなかったとしても、それは数学の限界などでは全然ないのである。

○では、ゲーデルの不完全性定理にはどんな哲学的価値もないか。そんなことはない。ぼくが考えるに、ゲーデルの不完全性定理というのは、「意味を言葉(形式)にするとはどういうことか」という、言語哲学の全域にわたる、このうえないアポリアそのものなのである。「自然言語における数学」の構造が「形式的言語における数学」の構造に投射されるとは、どういうことなのか、ぼくには全く意味が分からない。なにしろ、自然言語における数学とは、形式化されざる数学なのだから、形式化されざるものに構造などある筈がないではないか。そもそも自然言語の数学と形式的言語の数学とは比較不可能な筈であり、比較不可能なもの同士が同一の構造を有しているとか、ある構造を反映しているとか言われても、それがどういうことなのかぼくには理解できない。
 自然言語と形式的言語の関係は、意味と言葉の関係である。自然言語における数学的意味が、形式的言語の内部で言葉として形式化される。ところが、形式的言語は自然言語を完全に表現することはできなかった。このことが不完全性定理の示したことである。

 意味→言葉=意味→言葉=意味→言葉=意味→……

 この無限背進(超越論的階梯)は、事柄の本質を隠蔽している。すなわち、この系列のどの項にも本当の〈意味〉は登場してこない、ということをである。〈超数学〉は、常に背後から働き、意味の領野の全体を支配している。このような〈超数学〉が、その一端すら形式化されることは遂になかった。そういうことなのだろう。つまり、あらゆる数学はもともと形式的だった。自然言語と形式的言語の関係は、ある形式とある形式とのかかわり合いにすぎなかった。〈意味〉は、常にすでに背景に退いてしまっている。だからこそ、比較が可能になっていたのだ。
 〈数学〉とは絶対的な壺である。その壺は、二人の人間が向き合ったものとして眺められることは「決して」ない、そのような「壺でしかありえない」壺が〈数学〉である。

○ところで、記号列のゲーデル数化とは、記号列を自然数に単射する操作のことだった。また、ゲーデルの対角化定理は、対角線論法という自然数論の技術を使っている(対角線論法がどの程度「自然数論」的なのかはちょっと謎だが)。そして、自然数論を含む体系は自然数論を利用して、自己を表現することが可能となる。いったい自然数とは何なのだろう。
 ぼくにはかなり驚きだったのだが、形式的体系の論理式は可算個しかないのだという(ゲーデル数化が可能なのだから)。ちなみに、一般帰納函数の個数も可算個しかなく、チャーチ‐チューリングの提唱によると、それは計算可能函数と一致する。また、表現可能性とも一致するそうな(「この論理式は証明可能である」という自然言語の文は、原始帰納的にプログラミングすることができなかったので、表現可能ではなかった)。
 この可算無限の空恐ろしさ。

 関係ないですが、去る10月12日に開催された、第3回京都数学研究会のレジュメも、折角なので張るだけ張っておきます。
 http://www.ilp-project.net/storage/kms003.pdf

 以上。

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2009年9月 5日 (土)

『檸檬』と「神聖なるもの」

 反批評的な方のブログで『檸檬』の書評を綴りながら考えた。かつて『檸檬』の一篇を十全に評しうるだけの言葉が組織されたことはあっただろうか、と。かつて批評の言葉は『檸檬』一篇にさえ届いたことはなかったのではないだろうか。
 斯くも『檸檬』は難しい小説である。とても美しい小説であるが、とても難しい小説である。こころみに、『檸檬』の難しさを(「批評」でなく)「哲学」してみよう。

 『檸檬』という一篇の小説は、見事な「イメージの反転」にむけて進められてゆく。それはつまり「この檸檬が爆弾だったら!」という「!」のことである。この、一瞬間にパッとひらめく凄ざまじいイメージを、あざやかな言葉で焼きつけたものが『檸檬』という小説なのだと言ってよい。
 だが、単純に「イメージの反転」があざやかだというだけの話なのか? 『檸檬』は、もっと何か、何か言葉にならない感情に触れてはいまいか?
 かりに、『檸檬』のラストで「私」がダガーナイフをふりまわし、通行人を無差別に刺し殺していたとしたら、どうだろうか。ストーリーの流れから言って、それほど不自然な展開というわけでもない。

  出口のない不安の堂々めぐり・感情のからまわり
    →憂鬱の爆発としての感情的行動

 という流れだから、なにをしても充実できないという非‐行為遂行的な状況から、劇的な事件を惹きおこす行為遂行的な状況への、見事な「イメージの反転」が描き出されている。どうしてこうであっていけないか。
 どうだろう。この小説が、『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことはできるだろうか。「不可能ではない」というのが、ぼくの出した答えである。しかし、そのためには、まだ何かたりない。この「イメージの反転」には、まだ『檸檬』のそれのような「神聖さ」がたりていないのだ。逆に言って、もし「私」の殺人行為を『檸檬』における「神聖さ」に比肩する「神聖なる行為」として描き出すことができるなら、そのときその小説が『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことも不可能ではないだろうと考える。
 では、『檸檬』における「神聖さ」とは何か。それは「神的なるものに触れること」である。どういうことか。つまり「檸檬」は美しいが、「殺人」はあまり美しくない。そういうことだ。「殺人」では(普通の描き方では)「美」に触れることができないのである。
 「美」に触れることは、すなわち「レジスタンス」である。もちろん、通常の意味で「美」に触れることは、なんら「レジスタンス」ではなく、むしろ共同体においては推進されてさえいる行為であるが、そうではあっても、いや、そうでしかないとしても、にもかかわらず、〈美〉に触れることは〈レジスタンス〉であると言いうるのである[1]。〈レジスタンス〉であるとは、共同体性が超越されるまさにその地点に立つということを通じて、共同体に対しての全面的で決定的な悪が働かれうるということである。通常の「レジスタンス」がなんらかの体制への反抗であるとするなら、〈レジスタンス〉はもはやいかなる体制への反抗でもなく、共同体性そのものに対する超越的な反抗である。
 ここで注意しなければいけないことは、〈美〉に触れているならそれは〈レジスタンス〉であるが、「レジスタンス」であるからといって〈美〉に触れているとはかぎらない、ということである[2]。すなわち、「檸檬」の〈美〉は結果的に〈レジスタンス=共同体への爆弾〉であらざるをえないが、「殺人」という「レジスタンス=体制への爆弾」は、それが「レジスタンス」であることをもって、かならずしも〈美〉であるとはかぎらない(というか、普通は美しくない)ということだ。原因と結果を履き違えてはいけない。「檸檬」はもともと〈美しかった〉ゆえに〈レジスタンス〉であらざるをえないが、「殺人」はただの「レジスタンス」であって、そのことをもってして〈美〉に触れることはできないのである。もっと分かりやすく言えば、「殺人」は超越しない。〈美〉は超越である[3]。
 だが、『檸檬』という小説自体において、この原因と結果とが混同される。そのことは「見すぼらしくて美しいもの」につよく惹きつけられる、というくだりに表われている。もちろんそうではない。なにかに惹きつけられてみると、惹きつけられたものが偶然「見すぼらし」かったわけではない。事実はまったく逆で、「私」は自分が惹きつけられる〈美しいもの〉のことを「見すぼらしいもの」と呼んでいるのである。なぜなら、ここで「見すぼらしさ」とは〈レジスタンス〉=「レジスタンス」だからだ。「見すぼらしいもの」とは、共同体の価値観において価値がないもののことであり、それに惹きつけられるということ自体がれっきとした反抗であるからだ。梶井はこの論理を逆転させて、たまたま自分が惹きつけられたものが見すぼらしかったのだと、自己の本質的な反‐共同体性を擬装する。
 梶井の「憂鬱」とは何だろうか。それは存在論的不安だったのでなくてはならない。〈美〉に癒されるということは、彼には〈美〉が、すなわち〈存在〉が見失われていたと推論できる。
 「イメージの反転」は、まさにこの地点で描き出される。梶井の「檸檬」は一瞬にして世界を超越し、その〈美〉が〈レジスタンス〉に転化する。それは共同体性に対する爆弾であり、その爆弾を見る者は、同時に「檸檬」が〈美〉であるさまを、文学が「神聖なるもの」に触れるさまを目撃することになるだろう。「檸檬」は音もなく爆発する。どうして音がありえようか、この「檸檬」が爆破しようとしているのは、もはや丸善ではない、体制ですらない、それらを超越したもの、眼に見えず耳にも聴こえぬ〈敵〉であるのだから。
 浄らかな静寂、そのうちに捉えられた一瞬の激情。この激情は、丸善を超え、体制を超え、世界全体への火の手となって炎上する。「檸檬」は小さく見すぼらしいものでなくてはならない。「神聖なるもの」は、世界が点火される地点は、常にもっとも小さなもの、もっとも無価値なもの、もっとも馬鹿げたもの、そしてもっとも美しいものであるだろう。

 ……と、このように書いてきて、やはり『檸檬』一篇を十全に評しうるだけの言葉を組織することはできなかったな、と思う。そんな言葉はない。〈美〉が「言葉」を超越する以上、定義上ありえないのである。文中、ぼくは〈美〉の内容について一切触れなかった。「檸檬」が具体的にどう〈美しい〉のか、なにも語ることができなかった。それを批評することはできないからだ。それを批評することは、まさに『檸檬』を評すための言葉を破棄するということにほかならないからだ[4]。

 しかし梶井基次郎は『檸檬』を書いた。

 それでも梶井基次郎は『檸檬』の一篇を書いたのだ。

 このことこそ、真に奇蹟の名にあたいする。

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[1] もちろん永井均の山括弧記法を踏襲したもの。
[2] 「レジスタンス」が〈美〉に触れられないのは無論としても、〈レジスタンス〉が〈美〉に触れられるか(この命題の逆〈美〉⇒〈レ〉はかならず成立する)というのは、もっとずっと難しい問題である。一方、「レ」⇒「美」や「美」⇒「レ」が成立するかどうかは、ぼくにとってはどうでもいい。
[3] [2]で書いた問題を言い換えれば、〈美〉は超越性の真部分集合であるのかどうか、ということになる。
[4] このことは、しかし批評するロゴスの本性にかかわっている。もしかすると、哲学するロゴスにはそれは可能かもしれない。そして少なくとも文学するロゴスにはそれが可能であるということが、哲学するロゴスによって示される。文学は示さない。文学はそれそのものとして〈美〉であるだけだ。

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2009年7月26日 (日)

京哲37#サブレジュメ

 第37回京都哲学道場「廣松渉 I」(発表者:深草君&ぼく)のサブレジュメです。内容は、実質的には崎山ワタル氏(哲学道場運営協力者、廣松主義者にして難攻不落のディベーター)に対するふたりがかりの批判ということになります。
 ぼくの発表は、チラシの裏に書き殴ったようなものなので、読まなくていいです。

【本発表の戦略】
(1)指針として、実用説の内的矛盾を示すことはせず、実用説がドグマに立脚していることのみを主張するに留めた。
(2)以上の指針に基き、通常実用説を批判するさいに論点となる「実用性の基準は立てられるのか」「実用説は実用的であるのかどうか」などというトピックは一切論じず、むしろ真なる前提として立てることにした。
(3)記号を多用し、あえて文章を難解にすることによって、崎山氏が発表内容を先読みし、先手を打って再反論を構築してくることを牽制した。

※以下、ヘブライ文字「アレフ」をギリシャ文字「ω」で代用しています。
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2009.7.26 Ph.D Kyoto-37 Sub-Resume / Tani R. Fra: I∴L∴P∴
◆実用説との永訣

      §0 崎山哲学と実用説

 崎山ワタル(廣松渉)の哲学は、(1)共同主観性論、(2)実用説、によって特徴づけられる。両者の関係は、(2)が(1)を基礎づけるものである。すなわち、(2)は崎山哲学全体の肯綮点である。そこで、本発表では専ら(2)を扱う。
 本発表の目的は、崎山哲学がなんらかのドグマを措定していることを示すことである。発表者は、崎山哲学の内的矛盾を示すことには興味がない。崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるためには、それがドグマに立脚しないことが必要である。換言すれば、崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるものではないことを示すことが、本発表の目的ということになる。

      §1 実用的実用説

 実用説には、(A)実用説自体も実用的であるとする≪実用的実用説≫、(B)実用説自体は真理だから実用的でなくともよいとする≪非‐実用的実用説≫、の二種類が考えられる。B説は実用性のドグマを措定するものだから、B説が主張されるのなら本発表の目的は達成される。以下、A説に的を絞って考察する。

      §2 理路

 A説の主張は次の通り。
  (α)真理とは実用的な理論のことである。
  (β)実用説は実用的である。
 ここで、以下の前提を仮設する。
  (前提1)真理である主張は真である。
  (前提2)実用性基準は有意味な基準である。
 さて、Aタイプ実用説Xが存在するとき、主張α及び
  (前提3)主張βは真である。
 を前提する場合、主張βにより「Xは実用的である」。すると主張αにより「Xは真理である」。前提1により「主張αは真である」ことが妥当に推論される。しかしながら、主張αを前提して主張αが真であると推論しているのだから、この推論は「主張αが真ならば主張αが真である」ことを主張しているにすぎない。この推論からは、Xが真理であることは導出できないのである。
                                (第1駁論Q.E.D.)

      §3 高階実用性空間Xn

 しかしA説論者はこう主張するだろう。「Xが真理であることは導出できないというが、ここで『真理』という言葉はわれわれの用法で用いられていない。われわれは『真理とは実用的な理論のことである』という意味で『真理』という言葉を使用する。したがって、いま主張βが真であることは前提されているのだから、自動的にXは真理であるということになる」と。主張αに二通りの意味があることに注意しよう。すなわち、主張αが単純定義である場合、提示主題「真理」は無内容であるから、主張α全体も無意味である(α1)。一方、主張αが前提1と複合的に主張される場合、「真である」という判断はなんらかの規定であるから、主張α全体も有意味な主張となる(α2)。無意味な主張はいつでも主張できるが、有意味な主張はその主張が真である場合においてのみ主張できる。すると、先のA説論者の主張は、常に主張可能な無意味な主張α1を前提して、そこから主張α2を利用して有意味な命題を帰結させるという詭弁である。α1がα2に変形されている以上、そこには隠された前提α0が働いているのでなくてはならない。前提α0は、「真(理)である」ということの意味を主張αの高階から密輸入する。
 かくして、実用性空間Xの背後に働く、高階実用性空間Xnが発見される。A説論者がA説の真理性を主張するためには、常に高階の真理空間から真理の意味を備給してこなくてはならない。したがって、無限に続く系列X1, X2, X3,…が構成される。

      §4 超準実用性空間Xω

 そして、A説はなにを主張しているのだろうか。実用性空間Xnは実用性基準Pnに対して相対的に、かつ一意に定まる。すなわち、実用性基準の集合Pから実用性空間の集合Xへの全単射fが存在する。ところで、A説が独立の理論として主張されうるために、系列X1, X2, X3,…の各項Xnが同一の実用性基準Pω0を共有していることが必要である。すると、fはPω0をXの同一の元Xω0に写すから、無限列の各項Xnは同一空間Xω0であって、等式X1=X2=X3=…が成立する。しかるに、A説の真理性が主張されているということは、Pω0自体において背後から作用し、真理の意味論をたえず供給するような、高階空間の実用性基準がそこに存在している筈なのである。
 これを超脱的実用性基準(超準)Pωと表現する。Pωの作用圏域は超準実用性空間Xωである。超準Pωは、無限列の各項に作用する実用性基準Pω0を可算無限空間Xnの外部から支える。超準Pωは、Pω0の主張αを媒介することによって、系列Xn全体を無限に駆動してゆく当の基準であるわけだ。そこで、超準PωこそがA説のドグマであるといえる。
 これで本発表の目的は達成された。すなわち、崎山哲学は超準Pωをドグマとして立てている。
                                (第2駁論Q.E.D.)

      §5 超準真理空間

 超準Pωは超脱的であるから、これを主張の内部に取り出してくることはできない。Pω0≠Pωだから、ある意味でA説の主張は二種類の実用性基準を立てていることになるが、Pωはそもそも主張の内部にないので、Pω0≠Pωであるかどうかということすら論じることはできず、矛盾でもない。それだから、超準Pωなどもともと立てられておらず、A説にドグマはないと考えることもできる。もっとも、これはA説の内部にA説のドグマは存在しないと述べているだけにすぎず、ドグマPωはA説の外部からA説全体の存立を支えている。
 実用性空間は真理空間の真部分集合であるから、このことを真理空間に拡張して考えてみることができる。あらゆる真理空間は、その内部における「真(理)である」ということの源泉を、明示的主張として取り出してくることのできない超脱的真理基準Nωによって与えられている。このようなNωの全体が超準真理空間である。すなわち、超準Pωに対しては、常に系列Pω, Qω, Rω,…を立てることが可能である。
 実用説とは、自己を無限系列化し、Xnにおける「真(理)である」という主張を、Xn+1における「実用的である」という主張へ読み換えてゆくことによって、自己を完成するような真理空間である(読み換えの力はPωに由来する)。そこで、実用説に対して「実用的でない真理が存在する」ということを主張しようとしても、この主張はすぐさま「高階における実用性が存在する」という主張に読み換えられてしまう。実用説の内部から、ドグマPωを破って超準真理空間の存在に触れることはできない。このことはしかし、実用説が唯一無二の真理空間であることを全く意味しはしないのである。
                                (以上)

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2009年6月24日 (水)

文学的理性のこと

 このごろ考えたことをまとめてみる。

 このあいだ、新文学ustを拝見していて、ディスコミュニケーションがどうたらという内容の会話を聴きながら、本当のディスコミュニケーションをひしひしと感じさせられていた。それは、間‐理性的なコミュニケーション(ディア=ロゴス)がいかに不可能であるかという、その断絶のふかさを思い知らされたからである。批評するロゴスは、もちろん島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性なのであるが、このような理性は、ただに批評だけの所有するものではない。哲学もまたそうだし、じつは文学もそうであろうと思う(ぼくの「批評」批判の眼目は、文学もまたそのような理性であるという点に存する)。このことが、まったくと言ってよいほど理解されなかった。すなわち、批評は、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるような理性の可能性について、あまりにも想像力が欠如しているのである。ロゴスの異質性を超えた間‐理性的コミュニケーションの本当の難しさは、この点にあるのではないだろうか。
 批評に対する哲学の他者性というのは、島宇宙同士の他者性(多言をもちいるほどの他者性とも思えないのだが)などよりも、もっとずっと超越的な他者性である(しかし完全に超越的であるわけではない)。哲学と批評とのコミュニケーション不全は、島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性同士におけるメタ・レヴェルの対立、つまり複数の全体性のあいだにおけるメタ・コミュニケーション不全なのである(批評するロゴスは、すでに「複数の全体性」という表現を誤読しているだろう)。永井均のタームでは、哲学するロゴスとは省察的理性(真理の全体性を目がける理性)のことであり、批評するロゴスとは解釈的理性(価値の全体性を目がける理性)のことである。そして、解釈的理性にとっては、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるあらゆるロゴスは、もうひとつの解釈的理性であるとみなされがちである(だから「複数の全体性」という表現もまた「複数の“価値的”全体性」として誤読されてしまう)。この意味で、解釈的理性に対して省察的理性は超越的である。もっとも、「真‐善‐美」という組み合わせが伝統的に用いられてきていることからして、この三項の対立が理解できる以上は、完全に超越的である筈はないと思う。ここで、文学(藝術)的理性を「美の全体性を目がける理性」として位置づけたい。すると、こうなる。

【世界に対する理性のありかた】
○哲学するロゴス=省察的理性=真理の全体性(独我論的?)
○批評するロゴス=解釈的理性=価値の全体性(政治的?)
○表現するロゴス=文学的理性=美の全体性(A感覚的?)

【共通点】
○なんらかの全体性を目がけていること
○論理の言葉を用いること

 批評するロゴスに対して哲学するロゴスが超越的他者であるのと同様に、批評するロゴスにとっては表現するロゴスもまた、超越的他者なのではないか、というのが、ぼくの批判である。すなわち、批評は美を価値として誤読することによって成立する。たんに美の全体性を目がけるような理性のありかたを、批評は掬いとることができない(先述の通り、完全に超越的ではないので、ちょっとは掬いとれているかも)。
 哲学するロゴスと批評するロゴスとが対立しうるのは(つまりぼくがこんな文章を書かなくてはならなくなった理由は)、文学を媒介項として立てることができて、文学をめぐって両者が対立できるからではないだろうか。すなわち、真理と価値とは美(エロス)から全体性を補給しなくては存立できないのかもしれない。ここで真理を独我論的なものとして、価値を政治的なものとして考えると、瞬間性と歴史性とが美を媒介にして橋わたしされるというわけだから、稲垣足穂=オスカー・ベッカーの「美のはかなさ」論と同じ話になってくる。しかも、哲学と批評との両者に対して文学は他者なのである。文学的理性は実作によってしか、みずから表現者となることによってしか、掬いとられることはない(作者が死んでいたら小説は書けないのです、誰がなんと言おうと)。
 さてはて、間‐理性的な言説空間(ロゴスをコミュニケートするようなディア=ロゴス)は構築可能なのだろうか。そもそも、三種類の理性の出自を洗う作業が、ここまでないがしろにされてきた。これらロゴスの異質性は、いかなる基盤によって与えられるものなのか、そしてそれぞれのロゴスを特徴づけ、語りうるような言葉は成立できるか。「論理の言葉」がキー・ワードになりそうな気がしている。少なくとも、論理的瑕疵を駁論することによる間‐理性的コミュニケーションは常に可能であるからだ。このところ数年来、ぼくはいつでも「論理」というアポリアに立ちもどってしまう。それからもうひとつ。美の全体性とはなにか。それは「世界をデザインする」ということと、どんなかかわりがあるか。この点についても、おいおい考えてゆきたい。

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2009年6月19日 (金)

雑記 20090619

 松平耕一氏の『新文学』2号のこと、再度告知しておきます。

 ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャの特集に対して、ぼくは哲学をテーマに「哲学と批評のディア=ロゴス」(6865文字)という文章を寄稿いたしております。まあ、あまり哲学的にどうこう、といった文章ではないです。発行は、コミケに間に合うか間に合わないかぐらいであるとか。

 で。明日土曜日(6月20日)14時ごろより、公開企画会議・座談会ustをおやりになるそうです。ぼくも、とりあえず拝見はさせていただこうと思っております。お暇な方は、視聴されてみてはいかがでしょうか。

【松平氏の日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1196729166&owner_id=4275826

    ○

 当分「β」の外されそうもない書評ブログ「反批評的考察」ですが。16冊分書評してみて、ようやく気がついた。とてもではないが、アフィリブログとしては役立ちそうにない。それというのは、ぼくの読んでいる本のヴァリエーションがひどいものであって、

『異体字の世界』小池和夫/『哲学がはじまるとき』斎藤慶典/『思想地図 vol.2』東浩紀ほか/『砂の女』安部公房/『ジョン・レノン対火星人』高橋源一郎/『永遠の出口』森絵都/『パルタイ』倉橋由美子/『世界制作の方法』ネルソン・グッドマン/『差別感情の哲学』中島義道/『〈魂〉に対する態度』永井均/『塚本邦雄歌集』塚本邦雄/『ペラギウス派駁論集(1)』アウグスティヌス/『二十歳の原点[新装版]』高野悦子/『射影幾何学入門』丹羽敏雄/『天族ただいま話し中』稲垣足穂/『超速!最新日本文化史の流れ』竹内睦泰

 なんというか、まずジャンルがバラバラで、ターゲットがまったく分からない。しかも、売れそうにない本が多い。どマイナー。断言できるが、アウグスティヌス著作集からやってきて、本を購入してゆくユーザーなんてひとりもいないだろう。なんというか、ぼくと似たような読書傾向の人というのが、想像つかない。これはひどい。誰得ブログである。
 まあ、やる気が続くだけ続けて、やる気がうせたら即座に削除しておしまいにすることになるだろう。幸か不幸か、書評すること自体は殆んど苦にならない。自分でも気づかなかったことに気づけたりするのが、やってゆくうえで唯一の利点である。
 そういや、一冊だけボロクソに批評してしまった中島義道『差別感情の哲学』であるが、あれが 2ch 中島スレにさらされていたようで、大量のアクセスを稼ぐことができた。なるほど、なんでもいいから新刊を購入してきて、人目を惹く批評をすりゃアいいのか。

    ○

 世界に対する唯一にして無二の〈正当〉な怒りとは、世界に自分が生まれてきたことそのことに対する怒りである。あらゆる怒りは、この水準において怒られるとき、またそのときにのみ、まったく〈正当〉な怒りでありうる。不当に対する怒りというものは、もしその不当が正当であったとしたならぼくは怒らなくて済むわけだから、しょせんたいした怒りではない。本当の怒りというのは、相手が不当でない場合、それどころか自分の方が不当である場合においてこそ、ふつふつとわきあがってくる感情である。自分の方が不当であるのだから、怒りの〈正当性〉をその水準(法律ないしは道徳の水準)で担保することはできない。あらゆる怒りを〈正当化〉する、唯一にして無二の〈不当〉とは、世界に自分が生まれてきたという〈不当〉、そして(中島義道風に表現すれば)生まれてきたその瞬間から死刑宣告を受けているという(自分もいつかは死ぬのだ)、この目も眩むほど絶大な〈不当〉なのである。この〈不当〉は、どのような怒りによってもあがなえないほど絶大であるので、あらゆる怒りは、この〈不当〉に対しては〈正当〉なものということになる。子供は、だから泣くのである。相手が悪くても、自分が悪くても、そんなことにはおかまいなしに、子供は泣くのである。
 こんな〈不当〉をまえに、あらゆる怒りが〈正当化〉されたところで、いったいどうすればいいというのだろうか。土浦の犯人のように、不当でしかありえないほど(それゆえ、このうえもなく〈正当〉な)犯罪でも犯すか、さもなくば、世界に対して、あまりにも無謀であまりにも滑稽な戦いを挑んでみるしかないだろう。ぼくは、〈正当〉にも、生きて、なにごとかを行為している。
(もちろん、土浦の犯人のやったことは、あらゆる意味で不当な行為でしかない。それがぼくにとって〈正当〉な行為でありうる状況は、どんな場合でも考えることができないから)

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2009年6月10日 (水)

雑記 20090609

 先だって深草君も日記に書いていたが、マイミクの大学生、ARUKOBU君が自殺した。先月のこと、硫化水素自殺だった。日記で自殺をほのめかしていて、深草君はジョークかどうか分からず反応にこまると言っていたけども、まあこんなことになるだろうなとは思っていた。マンガ学きわめるんじゃなかったんか、東京に出るんじゃなかったんかい、おい、と思いこそすれ、いまさら言っても詮ない話である。彼が亡くなった夜、ぼくは彼にスカイプを架けていて、しかも出たと思ったら切られてしまった。音声デバイスの不都合があったのかもしれない、少し残念である。死んだのだから、もはやどうでもいいけどね。
 彼はもともと、ぼくの差別論がきっかけになって、ぼくにアクションをかけてきてくれて、哲学道場にも二度くらい参加してくれた。浅田彰『構造と力』でぼくが発表したとき、居合わせた。あの『構造と力』発表は、哲学道場史に残るほどの名発表だったと自分で思っているので、往時の感動を伝えてくれる人がひとり減ったのは、つくづく残念である。彼が死んだころ、ぼくは短歌を作っていたわけで、せめてぼくの短歌を読んで批評してから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、なんとも残念である。彼と通話で表現について話し合ったとき、彼はぼくに何冊か海外小説をすすめてくれて、いまやタイトルを失念してしまったので、教えてから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、いかんせん残念である。彼がなにも返答してくれないということが、とにかく残念である。彼のミニコミ誌のために執筆し、彼の要望を容れて大きく書きなおしたりもしたチャットモンチー論だけが、ミニコミ誌はとうとう刊行されず、ぼくの手許に残された。
 興味がないのでお通夜には行かなかった。ただ、作っていた短歌三十首中に一首、彼への挽歌が急遽入れられることになった。ぼくにできる「喪の作業」といったら、このくらい。

    ○

 購入した本。
 三島由紀夫『美しい星』、廣松渉『もの・こと・ことば』、原口統三『二十歳のエチュード』、寺山修司『寺山修司全歌論集』、稲垣足穂『天族ただいま話し中』、中城ふみ子『中城ふみ子歌集』、田島邦彦『これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語』、丹羽敏雄『射影幾何学入門』、ベンゼ『情報美学入門』、など。読了したものから書評ブログで報告してゆく予定。
 なんか情報美学おもしろそうだけど、これでレジュメ切ろうかな>深草君

※書評ブログ:http://d.hatena.ne.jp/TaniR/

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 コミュニケーションとは、コミュニケーションの手順を習得することそのことであり、現実に対してなんらかの期待をいだき、その期待が現実によってたえず応答されるということである。これは現実に対して賭博的関係をとりむすぶということに相当する。中島義道的〈対話〉は、むろん現実に対する賭博でなくてはならない。
 ゼロアカ界隈では、象徴界S(ロゴス)の紐帯がゆるんだのちに、いかなるコミュニケーションの形がありうるかなどとかまびすしいけれども、事は単純だろう。現実に対するインターフェースのスタイルがどれほど変化したとしても、現実に対して「期待‐応答」というルーチンが反復されるかぎり、常にすでにコミュニケーションは生起していると言える。
 迷路とは、制作者と解答者とのダイアローグではないか、とこのごろ考えている。ぼくには迷路を作る趣味があって、最近はピクシブで発表したりしているのだけれど、イメレスで解答をもらえたりして、とてもうれしい。どうしてうれしいかというと、そこでコミュニケーションが成立しているからにほかならない。「迷路とは、世界で一番小さな賭博である」と、ぼくは思う。迷路というのは、分岐のひとつひとつに賭けてゆくゲームのことだからだ。手順を習得し、径路に期待をいだき、その期待が裏切られ、さらに制作者の心理を裏読みし、その裏読みが径路によって応答され……と、どこまでも〈対話〉に駈り立てられてゆく。それというのは、迷路が自己韜晦のスタイルでもあるからだ。迷路がどこか崇高に思えるのは、そこには神話が、すなわち「作者神話」が存在しているからではないだろうか。迷路は解答者のまえに「謎」として立ち現れてくる必要がある。そこで表現者とは「謎」を演出する者でなくてはならない。
 あるいは、東方花映塚(弾幕シューティング・ゲーム)をやりながら、弾幕がコミュニケーションであるとはどういう意味かを考えている。それはやはり、弾幕シューティング・ゲームをプレイするということが、手順を習得し、現実と〈対話〉することであるからなのでないか。この場合、弾幕シューティングにおける「弾幕の美」が「謎」に相当するかもしれない。ニコニコ動画に「東方紅魔郷Ultraモード」(sm6091554)なんていう動画が存在するが、この動画は弾幕をめちゃくちゃ濃くしておいて、それを実行速度50%でプレイするというしろものである。なんでこんな動画で感動できるのだろう。それは、なにか過剰なまでのコミュニケーションが視聴者の夢をなぞるように追体験できるからなのではないか。この動画をみていて、どこか渇望みたいなものを感じてしまうのは、ぼくだけなんだろうか……。
(ちなみに、賭けるということと、手順を習得するということにかんして、花映塚体験版についてくる「上海アリス通信 vol.5」で、神主の見解が述べられていて、参考になる)

※pixiv(迷路):http://www.pixiv.net/member.php?id=389792

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2009年5月14日 (木)

雑記 20090513

 図書館で借りて、アウグスティヌス著作集の第9巻『ペラギウス派駁論集(1)』を読んでいる。一体どうしてこんなものを読む羽目になっているんだか、自分でもよく分からない。
 『霊と文字』は、「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味を考えている。なかなかよくできた論考で、この「文字‐霊」という対立を、「旧約‐新約」という対立に重ね合わせて論じている。すなわち、ここで文字というのは律法のことなのだが、律法は聖霊を欠いては「殺す文字」である。罰の存在が律法を守らせる(行為の律法)というのではだめで、内なる聖霊の力による神への愛が律法を守らせる(信仰の法則)のでなくてはならない。前者が「旧約」に、後者が「新約」に対応する。この、文字と霊とのふしぎな一致には、「イエスがキリストである」という信仰告白に受肉の秘儀が現れているように、ひとつの秘蹟が介在していると言えるかもしれない。
 つまり、このぼくが神への愛(=憎悪)において行為することが、なぜだか文字(=ぼくという物語)に一致してしまうということである。この一致は偶然のたまもので、もちろん時に破られもする。しかし、どうして一致するのか。一致するように思えてしまうのか。
    ○
 定額給付金で春山行夫詩集(稀覯本、市場価格一万数千円ほど)でも購入しようかと思っていたのだが、売れてしまっていた。しかたがないので、エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』上下巻でも買い入れようかと考え中。春山行夫は、日本モダニズム詩の立役者のひとりなのに、なんでまともな詩集が出ていないのだか。
    ○
 ブログの方で人と話しているとき考えたのだが、また「真理と意味」の話だけれど、真理→意味という流れがいまひとつつかめないのは、ここでいう「真理」の本性がどうもよく分かっていないためらしい。
 つまり、「真理」には三種類の意味がある。「客観的事実」「客観的世界」「客観的構造」の三種類で、関係としては以下のようになるだろうか。

◆客観的事実=客観的世界+客観的構造(+物自体?)

 まず、名辞の意味は客観的事実を介して学ばれる。このことは明白で、ぼくは現在でも、あたらしい言葉を覚えるためには、常に客観的事実を介してその意味を覚える必要がある。
 次に、客観的事実が存立できるための客観的世界という概念があるが、この客観的世界という概念がなくとも言葉を覚えることが可能かどうかは、凄く難しいところである。他者と会話できるためには、それぞれの言明が同一の世界についてのものであることが理解できている必要がある。とはいえ、これはどういうことか、そして本当にそうなのか。
 それから客観的構造。これはつまり「主‐述」構造ということで、客観的事実にも客観的世界にも由来するものではないから、独立して出自を洗わなくてはならない。
 ……とまあ、このように「真理」には多義性があるわけなのだが、一体「意味から真理へ叛逆することができない」というときの「真理」とは、このどれのことを指していて、そしてどういう理窟で叛逆できないということが言われているのだろう。そもそもこれらの内、叛逆可能であるのは「客観的事実」しかないように思えるのだが、そうだとすると、権利上叛逆可能であるということは、先の日記で論じたことである。
    ○
 東方花映塚。暇をみつけて練習してる内に、ようやく霊夢でてゐを倒すことができました。これで念願のルナシューター……なわけないけど。えーきさんとか倒せないと、やっぱりだめなんだろうなー。足が遅いので、小町ぐらいなら倒せる気がする。また練習してみます。
 なお、操作デバイスは無論キーボード。

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2009年5月 5日 (火)

メモ:言語と哲学(永井先生の哲学教室)‐1

 5月2日、永井均先生の哲学講義(於、朝日カルチャーセンター京都)に出席してきました。講義内容は、さかた氏がくわしくまとめておられ、サッとながめさせていただきましたが、ぼくの解釈上とくに附言すべき点はないようです。そこで、リンクを張らせていただくことにして、いちいち論点をまとめることはしません。

◆5月2日13時 朝日カルチャーセンター京都での永井先生の講義
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1156041089&owner_id=19842618

 以下は個人的なメモ。

      φ      φ      φ

 母親から言語を学ぶ段階や、外国人から外国語を学ぶ段階では、母親や外国人は、決して間違ったことは言わない(真理である)と考えられているというが、母親はともかく、外国人の場合はどうなのだろう? つまり、雨がふってきたとき、外国人が「ラチ ミスル」と言ったからといって、ぼくはかならずしも「ラチとは雨のことだろう」と考えるわけではない。というのは、ぼくは「正しくは雨をルキというのに、この外国人がルキ ミスルと言うべきところを、あやまってラチ ミスルと言ってしまった可能性」を常に想定できるからである。
 母親から言語を学ぶ段階とは違って、外国人から外国語を学ぶ段階では、少なくともぼくは母語を習得しているわけだから、実際の言語的遂行能力はないとしても、意味から真理への叛逆は権利上可能になっているのではないだろうか?
 もっともこれは、ぼくの母語の分節体系が、その外国語の分節体系と、同一のものである(名辞が一対一対応する)と仮定しているからかな? この仮定がない場合、意味から真理への叛逆はやはり不可能なのかもしれない。もちろん母親から言語を学ぶ段階では、真理に叛逆することはできない。この段階で学ばれる「主‐述」という分節化は、いったいどうやって学ばれうるのだろう? 「真理」=「客観的事実」にも「主‐述」的構造がある筈で、だとするとこれは「真理」から学ばれたものではないのだろうか。すると、どこから?
(というか、逆に「真理」=「客観的事実」の「主‐述」的構造が学ばれてしまったあとなら、ぼくは母親に対してでも、外国人に対するのと同じように、言葉を覚えぬ内から、権利上叛逆できるのではないだろうか。あれれれ、とすると「真理」の出る幕なんてなくなってしまう???)
    ○
 それから、「私」という言葉の使い方をどうやって覚えるのかということについても、メモを書こうと思ったのだけれど、ちょっと混乱してきてまとめられなかった。また、考えが煮つまってきたら日記を書くかもしれません。
 とりあえずは以上です。

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2009年4月14日 (火)

無意味の意味/意味の無意味

 この文章を書いていて、ひさしぶりに、なんだか本当の意味で「哲学したなあ」という気分になりました。

      ○〈高階の脳〉は変容できるか

 意識は脳の作り出したものである、と考えてみる。脳というのは物理的存在なので、時刻 t1 における脳と t2 における脳とでは、構成する物質も、脳状態も、まったく同一であるということはありえない。それなら、テセウスの舟ではないが、どうしてそれを同一の脳だと言えるのか。少なくとも、脳によって作り出された意識においては、過去と現在とを通じて、自分は常に同一の自分であるかのように思われている。自分は常にひとりだというこの感覚は、どこから出てくるものなのだろうか。

 その答えは、「脳が世界のモノサシだから」ということになろう。すなわち、脳は世界を測り、自分を測る。このとき、過去の自分もまた、現在のモノサシによって測られることを免れない(現在には現在のモノサシしか存在しないのだから)。脳 t1 から脳 t2 への変容は、モノサシで測られる対象物の変容ではなく、モノサシそのものの変容なのである。そうすると、夏には伸び、冬には縮むモノサシだったとしても、そのモノサシしか与えられていないのならば、1cm は常に 1cm だということになる。モノサシを測れるモノサシが与えられていない以上、モノサシの自己同一が破られる可能性はない。

 だが、この答えが本当だとしたら、おかしなことになる。こんなことがもし事実なのだとしたら、モノサシであるところの脳が常に変容しているということを、ぼくが知りうるわけがないからだ。脳 t1 と脳 t2 とが変容していることを知れるためには、ぼくは脳 t1 と脳 t2 との違いを計測できるようなモノサシを所有していなくてはならない。そのモノサシで、脳 t1 と脳 t2 とをともに計測してみることをもって、はじめて比較ということが可能になる筈だ。ところが、脳は「そのモノサシしか存在しないようなモノサシ」なのであってみれば、比較衡量用のモノサシなど存在できる余地はなく、つまり脳の変容を知ることは不可能な筈なのである。

 いったい、脳が変容しているという事実を、ぼくはいかにして知るにいたったのか。よく考えてみると、変容する脳というのは、他者の脳のことではないのか。あるいは「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」ではなく、「ぼくの意識と対応するとみなされている、世界内の存在者としての脳」ではないのか。これら物体の変容なら、ぼくにも観察することができる。「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」は、もはや測定されうるものでなく、それゆえ無規定的な存在であり、ぼくはこんな脳(以後〈高階の脳〉と表記)が本当はどのようなものであるのか、知ることが原理的に不可能である(知るためには計測しなくてはならない)。ぼくに知りうるのは、限定的な存在、計測可能な存在としての、世界内に存在する「ぼくの脳という物体」にすぎない。そして、他者の脳やぼくの脳といった、これら物体の観察を通してぼくが知りうるのは、それら「存在者としての脳」が「存在者としての他者やぼく」のモノサシであるということだけである。ぼくの〈高階の脳〉が、〈この世界〉のモノサシをなしているかどうかは、いかにしても知ることができないのである。

 そういうわけで、ぼくの無限定な〈高階の脳〉が変容しているかどうかは知りえない。だから、自分が同一であると思える理由もないかわりに、自分が同一であると思えては不都合な理由(脳の変容)もないことになる。というよりか、〈高階の脳〉が「変容」するということ自体が不可能なのである。世界内の存在者について、それが「変容」するということは言えても、そうでないものについては、「変容」するということ自体、意味をなさない。それでもなお、〈高階の脳〉が「変容」する可能性を、考えうるように思えてしまうのはどうしてか。それは世界内の存在者に発生する「変容」という事態を、あやまって〈この世界〉そのもの、あるいは〈この世界〉を作り出している〈高階の脳〉にまで適用してしまったというだけのことなのだろうか。

      ○〈世界全体性〉は思考できるか

 どうしてこんな適用が成り立ってしまうのか。物事を考えるというとき、ぼくに考えうる物事は、世界内の存在者とそこに発生する事態だけである。そこで、たとえ世界内に存在しないものであっても、ひとたびぼくに考えられてしまった瞬間、それは世界内的な物事であるかのように考えられてしまうのではないか。ひとたび〈高階の脳〉を思考してしまった瞬間に、それが「変容する」という事態もまた可能であるかのように錯覚してしまうことになるのではないか。

 しかしそれなら、無限定な〈高階の脳〉というものを、ぼくはどうして思考の舞台に登場させることができるのだろう。世界内に存在しないものを、ぼくはどうして考えることができるわけなのか。

 ふむ、それは「根拠」を、つまり世界内の物事であればどんな物事に対してでも考えることが可能な「根拠」を、〈この世界〉という世界内に存在しない物事(世界そのものは世界内には存在しない)に対してまで適用してしまうことによるのだろう。そこで、〈この世界〉の「根拠」として、ぼくの意識を作り出している〈高階の脳〉が措定されてしまうのではないか。……この答えには二点、不明瞭な点が残されている。まず、「根拠」とはなにか、ということをはっきりさせなくてはならない。それから、これはきわめて重大なポイントなのだが、ぼくはどうして〈この世界〉という、世界内に存在しない筈の物事を思考することができたのか。〈高階の脳〉が思考されてしまう理由は分かったが、では〈この世界〉が思考されてしまう理由はというと、依然として不明なままである。

 まずは「根拠」について、簡単に考えておこう。「根拠」を答えるとは、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)を、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)でもって答えるということである。意味の網目のなかで、「根拠」は常に飛躍したものでしかありえない。つまり「A の根拠は B である」なら、「B ならば A である根拠は?」と問いかけることができる。「B ならば A の根拠は C である」なら、「CB ならば A である根拠は?」と問える。以下「……EDCB ならば A である根拠は?」と、どこまでも問うてゆくことができる。だがしかし、これら無数の事柄が積分されて「根拠」になっていたわけではない。むしろ反対に、「根拠」を微分してゆくことによって、無数の事柄は事後的に発見されてゆくのではないのか。はじめにあったのは「B ならば A である」という根拠のみであって、A と B との連結は偶然的なもの、体で覚えていた経験的なものであるように思える。すなわち、B が観察されてのち A が観察されるという、先後関係が身体感覚として累積されていたにすぎない。そうだとすると、〈この世界〉という事例がひとつしかないものについては、なにかが観察されてのち〈この世界〉が観察されるという経験はありえないので、やはりその存立に「根拠」などないということになるだろう。

 では、〈この世界〉が思考されてしまう理由に移ろう。〈この世界〉あるいは〈世界全体性〉を、ぼくはどうして考えることができるか。逆に、〈この世界〉を考えられない筈だとする理由は、なんだったろうか。それは、〈この世界〉が、世界内に存在する物事ではないということによるのだった。しかし、世界内に存在する物事だけが考えうるとする、その根拠は? それは、「世界内に存在する物事である」ための必要充分条件が、「意味的な物事である」ということによる。世界内の存在者はおしなべて意味的なのである。われわれの考えるやりかたは意味的だから(しかし、考えるやりかたが意味的であるということ自体、どうやって知れるのだ?)、意味的でない〈この世界〉、あらゆる意味の冪乗としての〈世界全体性〉=〈意味全体性〉を、われわれは考えることができない筈なのだ。逆に言えば、意味的に捉えられた〈この世界〉や、意味的に捉えられた〈意味全体性〉は、充分思考されてかまわないということになるだろう。もちろん、〈この世界〉や〈意味全体性〉は意味的には捉えられない筈なので、意味的に捉えられた瞬間それは意味の内部へと頽落してしまうことになる。

 だが、だがだ、だがしかし、〈なにを〉意味的に捉えるというのか。この世界内の、意味的でしかありえぬ存在者についてなら、ある意味をある意味で捉える(解釈する)ということは可能だろう。しかし、無意味を意味的に捉えるということ、無意味をある意味で捉える(解釈する)ということは、「無意味を」という目的語が機能しないため、不可能なのではないのか。

      ○〈無意味の意味〉あるいは〈意味の無意味〉

 ……なぜ無意味が、意味の領野に登場できるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。……

 なんなのだこのトートロジーは!

 ……なぜ世界全体性が、世界内に登場できるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。……

 ああ。

 ここまで、ぼくは自分の議論を前提に結論を出し、その結論を前提に結論を出し、というふうにして、書き進んできた。だが、もはやここから先に、ぼくの思考は進むことができない。上記のトートロジーは、これまでの議論を承けて、完全に妥当にみちびかれたものだ。けれども、このトートロジーは、いかなる分析のメスをも受けつけないように思われる。もうどうすることもできない。深淵を前に、ほとんど放心することしかできない。

 なんとか、それでもなんとか、考えられるだけのことを考えてみよう。このトートロジーをどこまで遡行しても、意味的に捉えられた無意味しか出てはこず、本当の無意味など登場してくる余地はない。もちろん「本当の無意味」というこの言葉も、意味的に捉えられた無意味しか指示しないわけだ。そうだとして、では無意味を〈意味的に〉捉えるという場合、それは〈どんな〉意味として捉えられているのだろうか。つまり、無意味の意味とはなにか。「無意味の意味」という意味が、〈意味世界〉に登場してくる意味はなんなのか。

 それは、われわれが「有‐無」という対立で世界を把握するから、「意味=有意味」ということが把握された途端、その対立概念として「無意味」もまた把握されざるをえない、ということではない! なぜなら、「意味」ということもまた無意味だからだ。意味的に捉えられた「意味」には意味があるが、意味的に捉えられていない、「意味」そのものは無意味である。だから、「意味」そのものも、意味として捉えられていなければ〈意味世界〉には登場してこられないのである。いや、あらゆる概念について、その概念は意味的に捉えられたとき意味があるが、概念そのものは無意味である、と考えることができる。だがこれは、〈なにを〉考えていることになるのか。「概念そのものは無意味である」と考えられるということは、ここでは「概念」も「無意味」も意味的に捉えられているのであり、この説明には意味しかなく、ここまでの論述全体にも意味しかなく、そもそも〈この世界〉には意味以外のものはひとかけらとてなく、にもかかわらず「無意味」を考えることには意味があるように思われ、しかり、意味はあるのだが、それはもちろん意味はあるのだが、それが〈どんな〉意味なのかを考えることは無意味であり、しかもそれが無意味であるということを考えることには意味がある!

 すなわち、こういうことだ。「意味」を考えることは「無意味」であり、「無意味」を考えることには「意味」がある。そう、「無意味」を考えること〈だけ〉に「意味」がある。ぼくは、ぼくに許された正当な権利として、「無意味」を存分に考えることができる。だが、ぼくに「意味」を考える権利はない。ぼくに考えることが許されているのは「無意味」だけである。だから、常識とは正反対に、ぼくに考えることが許されているのは〈無意味世界〉内の物事なのであり、〈意味世界〉内の物事については、ぼくは〈絶対に〉考えることはできない。

      ○結論

 この文章は、ぼくにはなにも考えることができないということ、つまりぼくが考えていることはみんな無意味なことだということを、〈有意味に〉示した論証だといえる。(Q.E.D.)

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2009年4月 5日 (日)

京哲34#レポート

◆第34回京都哲学道場(2009年4月4日)
◆参加者:itikun、コーゾー、さかた、深草周。

 前半は、深草君が切り出した「ゾンビとビンゾの話」をめぐって、雑談、というかレジュメなしの議論がスタートした。深草君いわく、永井ワールドにぞくしている人しか来ていないということで、こういうなりゆきになったものだろう。

 深草君の立脚している議論を、ぼくは知らないから、なんとも言えないが、ゾンビの逆としてのビンゾを考える場合、ぼくはゾンビもビンゾも現実性(アクチュアリティ)のレヴェルで考えている。つまり、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
 という意味でのゾンビと、これに対する、
「私はビンゾであり、他人はビンゾではない」
 という意味でのビンゾとを、考えている。もしここで、入不二的に「ビンゾ」と「ゾンビ」を置換してみるなら、「私はゾンビであり、他人はゾンビではない」ということになるだろう。
 で、深草君は実在性(リアリティ)のレヴェルでゾンビの議論をやりたいということだったが、ごめんなさい、深草君の「ゾンビ」がどういう意味でのものなのか、ぼくにはちょっと分からなかった。他者の内に「心」なる存在を各人が立てることを承認する立場、というのは、どういうことになるのかな。それは機能主義のことなのかしら。そうではないの?
 それはともかく、肉体(って、どこまでが肉体?)のないゾンビと、〈私〉のないビンゾとでは、違う気がするということをぼくは述べました。現実性のレヴェルでは、ゾンビとは「〈私〉ではない=〈私〉がない」という意味だけど、ゾンビに定義上許された私秘性は、そのまま残ってもよい筈だ、と思ったので。つまり肉体は存在せず、私秘性だけを有する、認識不可能な存在。というか、構成概念としての一般的な意味における「魂」って、そういうものではないかな。これに対して〈私〉のないビンゾには、なにも残らないと思う。深草君が言いたかった違いは、この違いではないのだと思うけどね。

 そんなこんなで議論が紛糾し、三時前後の休憩を入れて、ようやくレジュメの発表ということになりました。ただでさえ内容が濃かったのに、急いだので、「客観的客観性の客観性が主観的客観性の主観性を間主観的に客観的客観化する!」などと機関銃みたいに喋ってしまった。参加者のみなさま、すみません。

 このたびの発表で、ぼくが特に主張したかったのは、以下の二点。

○非科学的なものというのは、「主観的客観性の科学」という意味では科学的なのであり、競馬においてリアルな利益を生むために、それはなくてはならないものである。

○それら一切を凌駕する「超越的非科学」を考えることが可能であり、それこそがアクチュアルな利益を生みおとす当のものなのである。

 超越的非科学の説明は、レジュメでは不充分だったので、咄嗟に以下の考え方を案出し、説明に利用した。

「いまここで、コップを手にとり、手をはなす。コップは落下するかもしれないし、落下しないかもしれない。あらゆる科学的説明を凌駕して、只今この瞬間、なぜだかコップが落下しないということは、どこまでも可能でなくてはならない。コップを手にとる。コップから手をはなす。コップは落下する。なぜだかコップが落下しないということがどこまでも可能だったにもかかわらず、只今この瞬間、〈なぜだか〉コップは落下した。いまここでコップが落下するかしないかは、実在的な内実からは全く束縛されていないことなので、コップが落下するということはひとつの〈奇蹟〉である。すなわち、ぼくに〈ツキ〉があったから、コップが落下したのだといえる。このような〈ツキ〉のことを、超越的非科学という。しかし、コップが落下したということは、いままさに実在的な事実となってしまったから、この実在的な事実を実在的に考えるかぎり、それは科学に回収されうることであり、科学的法則という物語によって、ならびたつ実験のなかのとある実験として、コップの落下という実験が行なわれたのだとみなされる」

 しかしどうなんだ。ぼくはとんでもないことを言っていやしまいか。つまりアクチュアルな〈ツキ〉が、リアルな「科学」を現に生み出してゆく、とぼくは言っているのだ。永井にそくして言い換えるなら、アクチュアルな〈私〉が、リアルな「世界内的な存在者」に干与し、変化を生じさせてゆく、と言っているのだ。しかも、このレジュメでぼくが一番考えたかったのは、アクチュアルとリアルという二分法は本当に正しいのか、この二分法は錯覚なのではないかということだった(もちろん結論を出してはいない)。
 しかしこれはヤバい。科学の産出運動における生成力こそがアクチュアリティであるとぼくは論じたが、めちゃくちゃ危ないことをぼくは言っている。深草君の指摘の通り、科学が存在する可能世界(アクチュアルでない世界)を考えることができるし、その世界の住人も、科学の生成力とはアクチュアリティである、と主張することができるからだ。じっさいには、その世界はアクチュアルでないにもかかわらず! アクチュアリティを内実にからめてしまうと、アクチュアリティとリアリティとを分離した議論ができなくなってしまう。そのうえ時間的にも、科学とは有史以来、営々と織りなされてきたものである。それを、独今論的なアクチュアリティにおいて主張してしまおうとは。それは(語りうるかどうかは措いておくとして)可能な立論なのか? それともなにか別の構造に、永井哲学自体を頽落させてしまっているのか? よく分からない。
 〈ツキ〉が〈私〉と違う点は、〈私〉とはただの現実性であるのに対し、〈ツキ〉とは予測的態度における現実性であり、それだからまさに現実性を物語に賭けわたすものでもあるということ。つまり自由意志の問題圏にかかわっている。自由と不自由との両面性が、あるポイントにおいて統一されなくてはならない。その統一はどうやって可能になるのか。
 深草君は、これを「超越論的神と、存在者としてのキリストとの、統一というアポリア」に定式化してみせてくれた。この定式化は正しいと思った。しかしここで、別口の難点が登場してくる。つまり「神」と〈開闢の神〉とは違う(そしてぼくが問題にしたい統一は後者である)にもかかわらず、それがキリスト教の宗旨論争と同一の構図になっているというのは、どういうことなのか。というか、これを同一の構図だと考えてしまってよいのか。
 少なくともどちらも超越論的である。そして、超越論的であるということが、同一の構図をみちびいてきているようにも思える。しかし、ぼくは超越論性を統一したいわけではない! ぼくはアクチュアリティとリアリティとを統一したいのだ。
 ……逆に考えて、そもそも超越論性というのは、そんなどこにでもかしこにでも登場してくるものなのか、という疑いがおこる。超越論性が問題になるのは、それがなんらかの意味で〈私〉と関係している場合にかぎるのであって、〈私〉と無関係にキリスト教だの物自体だのという場面で超越論性が出てくるのは、たんなる錯覚、気のせいなのではないか、というふうにも思える。つまり永井哲学以外での超越論性の全否定。うっひゃー。

 もう全然、哲学道場とは関係のない話をしますが、このごろぼくは、超越論的文学は可能か? ということを考えている。
 マンガの主人公は死なない。すなわち、主人公以外の登場人物については、生と死との対立を考えることができるが、主人公についてはこの対立は存在しない。つまり、主人公は超越論的「生」を所有している。ぼくが大好きなマンガ『修羅の門』は、このことが作品内でも追究されている。つまり、主人公である陸奥九十九にとって、「戦い」とは常に生死を賭けて行なわれるものである。ここでは「生‐死」「強い‐弱い」「勝つ‐負ける」という通常では独立の対立軸が、すべて重ね合わされている。「勝ったのなら強くないことはありえず、強いのなら勝たないことはありえない」というわけだ。九十九は超越論的に「強い」。だがそれは、九十九が〈死〉を賭けているからこそである。
 ところで、ぼくをマンガの主人公だと考えてみよう。ぼくが登場するマンガは、文学をテーマにしたマンガである。ぼく以外の登場人物にとっては「文学である‐文学でない」という対立を考えることができるが、ぼくは超越論的に文学者なので、ぼくについてはこの対立は存在しない。ぼくは超越論的「文学」を所有している。すなわち「ぼくがなしたことなら文学でないことはありえず、文学でないのならぼくがなしたことではありえない」というわけ。
 こんなことは本当に可能なことなのだろうか。少なくともこれまで、ぼくはそのようにして生きてきた。あらゆる認識が可能になる条件として、ア・プリオリにぼくは文学者だったし、たとえ小説を書いていようがいまいが、ぼくは「文学している」のだった。
 このような文学を〈文学〉と表記するとして、話は〈ツキ〉の場合とまったくおなじ帰結をもたらす。すなわち、〈文学〉は〈私〉とは違っている。〈私〉がたんなる現実性であるのに対し、〈文学〉とは態度的現実性であり、それは現に、ぼくに小説を書かしめるものであり、あるいは小説を書くという予測的態度にぼくを置こうとするものである。すなわち、〈文学〉はアクチュアルである一方、リアルな世界内的事実に変化を与えるものである。ここでもまた、アクチュアリティとリアリティとの統一が問題になってくる。
 いったい、ぼくが超越論的文学者であることは可能なのか。そして〈文学〉を「小説」へと賭けわたす〈オッズ〉とは何か。これからじっくり考えてゆきたい。

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2009年4月 4日 (土)

京哲34#馬券科学の哲学的基礎づけ

図式化

 2009年4月4日の第34回京都哲学道場は、なりゆきでぼくが発表することになりました。というわけで競馬論(というよりは、競馬を素材にした科学論)です。時間があまりなく、レジュメは大急ぎで作ったものですが、テーマ自体は以前から温めていたもので、それほど苦労なく書き切ることができました。いやはや……もう少し、自分なりに一歩を踏み出してゆく立論ができたらよいのですがね。
 気分しだいで、またレポートもアップするかもしれません。

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2009.4.4 Ph.D Kyoto-34 Resume
◆馬券科学の哲学的基礎づけ

 
      §0 馬券は科学なのか

 競馬は科学できるか。科学における競馬の位相を考えてゆくことは、ひるがえって、競馬から投光される科学の位相、とりもなおさずその限界を、はるかに見晴らすことにも等しい。このような思考のために、競馬はうってつけの材料である。それというのも競馬には、科学なるものと科学ならぬものとのダイナミクスがすぐれて看取されるのだから。
 丁半博打や五目ならべにはない魅力が、競馬には存している。すなわち、競馬は必然的であり、かつまた偶然的でもある。そもそもが競馬は不合理な賭博であり、偶然に左右されやすく、JRAの控除率(約25%)を考えれば、ゼロ‐サムどころかマイナス‐サムである。詩人、寺山修司は賭博の魅力を一点豪華主義(庶民が大金を手にしうること)に求めているが、なるほど、宝くじでは金もち気分すら味わえぬのだし、競馬はなかなか手軽であるのだろう。一点豪華主義とは、市場原理からの逸脱にほかならない。すなわち、競馬とは不合理への愛である(寺山は反近代主義者なのだから、当然の立論だ)。
 だが、競馬は本当に不合理なのだろうか。競馬理論の参照項は多岐にわたり、血統、馬体、戦績の衡量による各馬の脚質と力量とを軸に、騎手や出走馬の構成、賞の傾向、馬場、天気、ジンクスなどを考え併せ、これら諸前提の連言的結合から、着順命題が妥当に推論されるとみなす。このことは、科学的世界観においても基本的には承認される(ラプラスの悪魔)。そうだとすると、競馬理論がいくぶんは実証的でないにしろ、自然淘汰というものがあるのだから、競馬は合理性に回収されることになってしまう。いったい必然(不自由)と偶然(自由)との関係はどうなっているのか。
 寺山は、「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」などと詩的な言い分を口にしながらも、「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」(「私の競馬ノート」『馬敗れて草原あり』角川文庫クラシックス)と、尤もなことを述べている。彼によれば、科学の「原則的現実」は「エロス的現実」によって乗りこえられるべきなのであり、ファンひとりひとりが幻想の物語を読みこんでゆくことで、競馬には魂の交響性が見出されるという。
 どういうことか。以下、競馬における科学の位置づけを、利益産出の現場に遡行して考えてゆくことにしよう。

      §I オッズ、この霊妙なるもの

 オッズとは何か。われわれには、名状しがたい「あるもの」として、オッズを考えてゆくことしか許されない。この意味で、それは逆説的に示されてゆくしかないのであって、オッズとは何でないかを問うことだけが、方途として残されてある。
 だいいちに、確率的予測の特殊な数値表現がオッズなのでは勿論ない。このことは自明である。丁半博打でピンゾロの出る確率ならばいざ知らず、着順の確率などいかにしても求めようがないからだ。オッズ上の人気と現実の着順とでは、かなりの相関がみとめられるということであるが、相関があったところでそれは統計学的関係にすぎない。オッズを確率とみなして不便があるかどうかは個々人が判断すればよいことだ。哲学的に、オッズは確率に還元されはしない(専門家集団の調査をもとに、オッズが決定されるというのなら、話は違ってくる。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用しているが、イギリスなどのブックメーカー方式は、これに近いかもしれない。その場合でさえ、馬券購入者の思惑は、ブックメーカーのオッズ設定を左右し、このことが決定的に重要な点なのである)。
 それから、馬券購入者の予想の統計的表現がオッズである、という考え方もなりたたない。着順の確率をかっきり求め、割り当てられた比率をもとに、全通りの馬券を購入してゆく律儀者などいない。第一候補の馬が、同時に一番人気でもあり、どうも旨味が少ないようなら、第二候補をくりあげて、こちらに資金を投入することだろう。あるいは、ダービーで十万円の単勝を購入した者と、千円購入した者とで、後者の百倍の確率を前者が与えているのだとも思われない。
 すると、市場原理という、よく分からないものに行き着く。市場なる形而上学的実体が、確率を与え、払いもどしを決めているのだという、陰謀論じみたことになる。だが、いったい市場はどこにあるのか。それは、誰が、いつ、認識できるものなのか。認識可能性が一切ないというのであれば、わざわざそんなものを立てる理由が、哲学的にはなくなってしまう。しかし、誰もそんなものを認識することはできない。まず空間的に、そのレースにかかわる厖大な貨幣の流れを、全て把握している人間などどこにもいない。それから時間的にも、いまこの瞬間のオッズというものは、誰にも求めることができない。JRAの電子計算機にも部分々々においてタイムラグがあるだろうし、それが画面に表示され、そこから光が人間の網膜にいたり、認識が完了するまでに、やはりタイムラグを排除することはできない。すなわち、いまこの瞬間の市場というものは、存在しない。だから、いかなる瞬間についてでも、市場という静的構造体は存在することができない(デリダ的差延によって共時性は破られる)。
 こうして、オッズという「ありてあるもの」は、どんな実体にも還元できず、どんな規定に対してもずれを孕むような存在であることが分かった。オッズはどこまでも無根拠であり、ただそのように購入されたという事実だけを示し、それがなにかを表現することはない。だがしかし、オッズは払いもどしを現実化せしめる。それは無根拠であると同時に、まさに利益の根拠となる存在でもある。この点において、オッズの自己差異化運動は、競馬における科学をどこまでも駆動してゆくことになる。

      §II 第1審級:客観的客観性の科学

 競馬において、利益はどこから生まれてくるのか。先述の通り、競馬はマイナス‐サムの賭博であり、オッズと確率とは相関的であるから、なにも考えずに賭けつづければ、一回賭けるごとに25%ずつ資金が目減りしてゆくことになる。とはいえ、競馬上手と競馬下手とがいるのだから、やはり戦略はあるだろう。賭け方にも当て方にも、戦略はある。たとえば、武豊が騎乗する全レースについて、武の乗る馬ばかりを購入してゆけば、資金の目減りはさらに早まる。武の乗る馬はたいてい人気馬であるし、騎手の人気がそれに拍車をかけるので、払いもどしが妥当な金額より少なくなるだろうからだ(ただの投資として競馬を考える場合、本命党より穴党の方が効率的である。これは、払いもどしのふれ幅が、穴であればあるほど幾何級数的に増大することによる)。あるいは、マーチンゲール法や、その競馬版であるココモ法なども、賭け方戦略のひとつであろう。
 ここで「妥当」とはどういうことかを考えてみたい。ハルウララやユキチャンの場合には、払いもどしが不当に少なく感じられるし(戦績に見合わない)、逆にある競馬場、ある距離において好成績を残している穴馬が、まさにその競馬場、その距離であるのに全く注目されておらず、払いもどしが不当に多くなることもある。ここでは妥当とは、科学的に正当な確率が、その馬のオッズに反映されていることである。オッズが科学的妥当性からずれているとき、われわれは利益を手にできる。
 科学的理論の客観性とは、いつ実験しても(通時性)、誰が実験しても(間主観性)、理論の正しさが検証されることをいう。このような科学を、後述する「主観的客観性の科学」に対して、「客観的客観性の科学」とよぶことにする。すなわち、客観的客観性の科学とは、客観的(間主観的)に客観性が示されるような科学のことだ。コンセンサスとして科学的常識にとりこまれていない私的理論は、客観的客観性をそなえていないため、この意味での科学とはいえない。だが、それでもオッズには、妥当なものとそうでないものとがあるように思える。オッズとは基本的に多数決のようなものだから、多数の人間の科学的常識がそこには反映されている筈である(たとえば「速い馬ほど勝ちやすい」ということには、客観的客観性があるだろう)。そうであれば、客観的客観性の科学に照らして、オッズが妥当でないことはありえない。もしオッズが妥当でないと考えられるとすれば、そこでは客観的客観性の科学ではなく、第二の意味での科学がひそかに供給されていたのである。
 客観的客観性の科学は、利益を生むことはできない。オッズと妥当性とのあいだに介在するずれこそ、利益を生み出す当のものである筈だ。

      §III 第2審級:主観的客観性の科学

 それでは、客観的客観性の科学からはなれて、なおも妥当性を担保することのできる、第二の意味での科学とはなにか。これを主観的客観性の科学とよぶことにしよう。この場合の「客観性」は、通時的ではあるが、間主観的ではない(つまり主観的である)。競馬理論とは、まさに主観的客観性の科学であるだろう。それは一部の人間、またはたったひとりの人間だけが共有し、客観的客観性からの差異を孕むことで、オッズの妥当性を意味づけし、ずれを測量することで利益を生みおとす。血統理論、相馬眼(パドック見)、サイン理論など、みなこれである。寺山は、競馬場でときたま見かける中年男を「死神」だと述べ、この男と出くわすとかならずツキがおちると力説しているが、これもまた主観的客観性の科学である。科学である理由は単純で、間主観性はないものの、通時的に検証可能であることによる。すなわち、寺山は、この男と出くわすという実験のたび、いつもツキがおちることを検証済みであるわけだ。だから、「幸運の女神」と出会ったときには大博打を打ち、「死神」と出会ったときには賭け金を減らす、という戦略は、きわめて科学的な馬券理論である。競馬において利益を生むためには、主観的な科学、他者にみとめられていない科学に立脚することが、ぜひとも必要である。
 主観的客観性の科学は、オッズの無根拠性によって、無限に産出されゆく運命にある。すなわち、オッズは無根拠に利益を現前させる。このことで、主観的客観性の科学は反証され、あらたな馬券科学へのパラダイム・シフトがはじまる。法則性が発見され、反証され、それにともなって新法則がたゆみなく産出されてゆく。これこそ競馬のダイナミクスである。
 主観的客観性の科学は、客観的客観性の科学から、どこまでも自己を差異化してゆく一方、客観的客観性の科学のがわから、どこまでも回収されてゆく運命にある。これは客観的客観性の科学がイデオロギーとして、原理的にあらゆる事況を回収できるということを掲げているためだ。先の寺山理論でさえ、かりに「死神」が八百長競馬の立役者なのであり、八百長のせいでいつも大負けしていたのだと判明したなら、理論は客観的客観性に帰着することになるだろう。逆に、あるとき「死神」と出くわしても、大勝ちすることができたのなら、そこで寺山理論は反証される。このように、客観的客観性の科学は隙あらば主観性を回収しようと目論む。競馬理論のがわも、合理性を掲げているなら、客観的客観性の科学に歩みよることは避けられない。尤も、「霊感」を主張するなど、あくまで科学からの回収を拒否してゆくことも可能であり、そしてそのことは定義的に回収不能であるという以上の意味をもたない。

      §IV 第3審級:主観的主観性の超越的非科学

 主観的客観性の科学のがわから「霊感」が主張された場合、それは原理的に間主観的ではありえぬものとして提示されているので、客観的客観性の科学は回収することはできない。というよりも、それは非科学的な理論として回収されないことで、逆説的に回収されることだろう。このような非科学に対して、主観的主観性の超越的非科学を主張することができる。すなわち〈ツキ〉ないし〈運〉とよばれているものがそれだ。このような超越的非科学は、どこまでも科学から遁れ去ってゆくものであって、科学のがわからそれへと到達する手段がないために、回収されないことで回収されるという逆説的回収すら不可能な何かである。超越的非科学は、通時性をもたず(独今論的)、間主観性ももたない(独我論的)。賭博の一回性において、まさにそこで利益が現実化するということ、これこそが〈ツキ〉の意味である。だから、馬券科学が「当てようとするもの」であるのに対して、超越的非科学としての〈ツキ〉は「原理的に当たってしまうしかないもの」であるといえる。〈ツキ〉はオッズの無根拠性に立脚し、無根拠でありながらも科学を実証してゆくものとして、科学の根拠となるものだ。〈ツキ〉は、科学に回収されてゆくものの余剰として、どこまでも科学からの逃走を図るとともに、科学を根拠づけることで、まさに利益を現前させる。利益は、超越的非科学=〈神の思慮〉にこそ淵源している。
 客観的客観性の科学のがわから、「霊感」と〈ツキ〉を区別することはできない。超越的非科学として〈ツキ〉を主張したくとも、それはすぐさま非科学的なるもの、「霊感」として、読み換えられてしまう。言葉に乗せられたとき、〈ツキ〉は各人の内に実体化されたものとして語られざるをえない。そこで〈ツキ〉の主観的主観性たるゆえんは、すでにして喪われていることだろう。

      §V オッズに対する態度

 大森荘蔵は次のように述べている。「人生に賭ける、ということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活を賭けることなのである。単に未来を傍観者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである」(「確率と人生」『流れとよどみ』産業図書)。大森の考えを承認するのなら、人生とはひとつの賭博である。〈ツキ〉とは、それが現在を未来へ投げかけることによって、自己を自己自身と同一ならしめるものであるだろう。
 競馬で一番おもしろいのは、原理的に看取される筈のない、超越的実体としての〈ツキ〉が、他者の内にたしかに「ある」ことがまざまざと知られる点である。馬券師に〈神〉がおりる瞬間は、芸術家に〈神〉がおりる瞬間に等しい。それがどうして〈神〉なのかといえば、〈神〉とは自己自身者(Ipsissimus)であるからだ。「これ」ではない、もうひとつの開闢の原点として、芸術家がまさに自己自身と同一であるそのさまが、芸術家をいまや〈神〉の高みにおく。このような事態が、しかし競馬においては日常的に目撃される。この意味で、競馬はもっとも〈神〉に愛された賭博なのかもしれない。
 客観的客観性の科学にとって、主観的客観性の科学とは非科学にすぎない。それは客観的客観性の科学に回収されることで、はじめて科学となりうる、科学以前の物語であるとみなされる。このような非科学は、しかし主観的客観性の科学という、れっきとした科学であるのである。科学からたえず非科学はずれてゆき、非科学はたえず科学に回収されてゆく。物語は科学に反抗し、科学は物語を簒奪する。このような産出過程の全体が、科学が産出されてゆく過程そのものなのである。そうして、この自己産出運動の外部に、超越的非科学=〈ツキ〉の審級が存在する。
 寺山の言葉を再掲してみよう。「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」。それでは、ここで「偶然」と名指されているものは、主観的客観性の科学なのだろうか、それとも超越的非科学なのだろうか。
 答えは「主観的客観性の科学=競馬予想という幻想の物語」である。超越的非科学においては「不運」と「幸運」の対立など存在しない。あるのは〈運〉だけである。このことを補強するものとして、寺山の同書から、べつの部分を引用してみよう。「常に存在が本質に先行している時代にあって、その存在の真理を知りたいという願望は、誰にでもある。(……)私は運命からの自由が、世界を支配できる日のためには賭けない。私は言葉の占星学、思念の十二支の中で、ただひたすら『幸運の誘惑』に遊蕩することが願いである」。存在=運命からの自由=超越的非科学のためではなく、幸運=物語=主観的客観性の科学のために賭けること。自由を求めながら、不自由をむしろ舐め尽くすこと。これはいくぶん、浅田彰的な結論であるようにも思えるが、それなりに得心のゆく回答ではある。
 科学からの自由、偶然性を夢みつつ、どこまでも科学=必然に回収されてゆかざるをえない、物語としての人生。競馬とは、科学なるものと科学ならぬものとの哀しいダイナミクスなのである。そしてその彼岸には、非物語としての超越的非科学が発見される。オッズ、この霊妙なるものは、非物語をひとつの物語へと懸け(賭け)わたす。
 オッズとは何か。全てはここに集約される。自由と不自由とが一致する、その地点はいったいどこにあるのか。
                                   (了)

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2009年3月22日 (日)

雑記 20090322

 報告。「新現代詩の会」を脱会いたしました。

 とりあえず、破壊できるものからみんな破壊していって、残されたものだけを自分の呪いとして背負ってゆきたい、というのが現在の心境です。

    ○

 第1回哲学書ランキングの結果発表をしました。
 ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/rk0804_0809.html

    ○

 そのときどきに考えている内容が自律的にくっつきあって、変なことばかり思いついてしまうのは、どうにかならないものか。

 稲垣足穂は「A感覚とV感覚」において、V(ヴァギナ)感覚とはA(アナル)感覚から派生したものにほかならず、P(ペニス)感覚とはV感覚がさらに反転したものにすぎないという、澁澤龍彦いわゆる「エロスの絶対的一元論」を打ち樹てた。すなわち、P感覚‐V感覚という常識的対立は、A感覚の一元論に解銷されるわけである。ここでA感覚こそ、あらゆる性感の基礎をなすのであり、それはP感覚とV感覚とをつなぐ「夢の懸橋」であると同時に、「宇宙的郷愁」から「精神性」への媒介をはたすことともなる。
 「A感覚とV感覚」は、美学論「美のはかなさ」を下敷きにして書かれたものである。「美のはかなさ」はオスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』をタルホが読み、自己流にまとめた文章で、ハイデガー現象学を前提に、「歴史」と「人間的自然」との対立を、「美のはかなさ=超存在論的基礎緊張」が橋わたしするという構図になっている。つまり純粋持続的で尖端的な「美のはかなさ」が、「絶対なる矛盾を解決」(シェリング)するものであるというわけ。
 ところで茂木健一郎が「プラトンの時代と現代とでは、実在するものが反対になっている。プラトンの時代はイデアこそ真の実在だったのに、現代ではイデアは仮象とみなされる」という意味のことを述べていたと、関東のエヌ氏よりうかがったのだが、奇遇にも、同様のことが「美のはかなさ」に書かれてあった。いわく「プラトーンにあってはイデーは本質的に真実なものであり、生成界は単なる見せかけである。現時の哲学者らにあっては反対に、『規範』が単にイデー的なのであり、流動の生のみが現実である」云々。まあもちろん、これはたんに時宜にかなった話というだけのことであるけども。
 で、「美のはかなさ」が「A感覚」と等置される。タルホがそう主張したことがあるかどうか、ぼくには分からないが、そう読むのは順当だと思われる。ここで、浅田彰『構造と力』における、構造‐力の二元論の、力の一元論への脱構築を思い出してもよいのだが(そして多分、こちらの方が正しい読み方だろうが)、話を辿るとハイデガーなわけで、あえて永井均を導入してみるのもよい。つまり「言語的世界」と〈私〉との対立を、美がとりもつと考えるのである。というか、そう考えてみないことには、ぼくには自分が文章を書く理由が分からなくなってしまう。絶対的矛盾を解決するものとして芸術(変性感覚?)がある、という方向でこれから考えてみることも無益じゃないだろう。
 ところで再び脱線しますが、ぼくは永井先生の日記で「変性感覚」という言葉を目にして、勝手に「分裂病的感覚」と読み換えていた。というのは、分裂病者は世界に二重定位(複式簿記)するといわれている。つまり、一方ではわれわれの住む言語的世界にぞくしていながら、他方、われわれの理解のまったく及ばない世界(言語ゲームの外)にも生きているということ。われわれが分裂病者を理解する場合は、一方的に、われわれの世界の側からしか、理解することができない。このさい、分裂病は「不安」として立ち現れてくるわけである。……でも、そうだとすると、分裂病的感覚を小説が描けないというのはおかしな話で、ぼくが小説に期待するのは、まさにそういった分裂病的感覚であるわけだし、内田百間の茫洋たる夢幻空間にも、稲垣足穂のコスモロジーにも、それは見出せると思う。これは、言語に乗らない筈の〈私〉をどうして言葉で論じることが可能なのか、という話でもあるのだろう。
 本筋にもどるとして。そういうわけで、「美のはかなさ」が対立をより高次に統一する、という論旨になっているのだけれど、これはさすがに牽強付会といわれても仕方ないが、ユダヤ教神秘主義のカッバーラ体系と、おもしろい符合をみつけることができた。カッバーラ体系では「セフィロト=生命の樹」が独自の理論的展開を遂げたのであるが、アイン・ソフ(無限)からの六番目の流出であるセフィラ、ティファレトは、日本語では「美」ないし「崇高」などと訳出される。このティファレトは、四番目の流出であるケセド(慈悲)と、五番目の流出であるゲブラー(力)との対立を統一する役割を担っている。のみならず、ティファレトは「生命の樹」の中心となるセフィラでもあり、その右半分(陽)と左半分(陰)とを中央において調和させる役割すら担っているのである。このセフィラが「美」と呼ばれていることは、なかなか興味ぶかい話ではないだろうか。占星術的には「月」の象徴になるのだが、アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、ティファレトにはタロット・カード(小アルカナ)の四枚の六が対応すると述べており、それは「太陽」を象徴すると同時に、テトラグラマトンの体系ではイエス・キリストの表現だとも言っている。月であると共に太陽でもあり、陰と陽とを併せもつ。なおさらに、マルクトの女性原理に対し、ティファレトは男性原理を意味するともいう。すると、タルホが主張するA感覚とは、アナルセックス、つまり少年愛(ベエデフィリアエロティカ)をも意味しているわけだから、男性にはじまり男性に終わる少年愛=A感覚が、ティファレト=美に対応するという、見事な図式ができあがるではないか!
 さすがに穿ちすぎだろうか……。

 まあこんなように、しっちゃかめっちゃかなことが次々思いつかれて困っているのです。

 (追記)
 ごめんなさい、ちょっと勘違いしてました。
 ティファレトが「月」の象徴になると書いてましたが、そういう事実はなかったです。正しくは、ケテル‐ティファレト間のパス(ギメル)が、タロット・カード(大アルカナ)で女教皇に相当するので、こちらが月ですね。あとはネツァク‐マルクト間のパス(クォフ)が大アルカナ「月」に相当するのと、十番目のセフィラ、マルクトが、月の象徴になっているらしいです。

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2009年3月 3日 (火)

雑記 20090303

 高野悦子『二十歳の原点』『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』が新装版で復刊されることになったそうだ。もちろん歓迎すべきことではあるが、少々複雑な気分でもある。恩田陸が一気に売れっ子になったときも、なんだかこんな複雑な気分になった。本読みというのは、自分の好きな著述者がいつまでもマイナーでいてほしいとねがう人種である。
 そういえば、近ごろずっと研究中の寺山修司であるが、著作集が現在刊行中であるということを知った。寺山は、過去に全集が出たことがなく、なんでこういう作家の全集が出ないものかと不審に思っていたのだが、こうやって再評価の気運が高まってくるのはよいことである。ついでに、どこかの出版社がアレイスター・クロウリー著作集を文庫かなにかに入れてくれないものかねえ(自伝だけでもいいからさ)。

    ○

 松平耕一氏主宰の『新文学』第2号に、7000字程度の批評を寄稿させていただいた。ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャを五つえらんで論評するというもので、哲学をテーマに以下の五冊をえらんだ。

○ジョン・R・サール『マインド 心の哲学』
○永井均『なぜ意識は実在しないのか』
○入不二基義『相対主義の極北』
○中島義道『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』
○東浩紀『動物化するポストモダン』

 哲学をオブジェクトに批評を書いたというだけのことで、哲学的な文章というわけではもちろんない。まあ、「哲学ブーム」とそれ以後の哲学出版界の事情について、きちんと論じた批評を過去に見かけたことがなかったので、それなりにはお茶を濁せたのではないかと思う。

    ○

 これからの文学に、どのような方策がありうるのか、近ごろいろいろと考えていて、いくつかのアイデアを手に入れることができた。以下、それぞれ簡潔にメモしておく。

(1)内在的態度へのあくなき拘泥。
(2)〈対話〉としての自作自註実践。
(3)非-詩の可能性。
(4)一作家一ジャンルの徹底。
(5)全集的存在・文体的存在としての作家。

(1)内在的態度へのあくなき拘泥。
 オブジェクトレベルとメタレベルとの循環構造(いわゆるクラインの壺)は、オブジェクトレベルにおいて0だったものが、メタレベルにおいては1とみなされ、この双方が同一の地平に対してひらかれるということだから、0=1という等式の成立だと考えてよい。この等式を最大限に利用して、あらゆる内容を証明しようとすること、あらゆる内実を氾濫させることが、文学の豊穣に繋がるのではないか。

(2)〈対話〉としての自作自註実践。
 岡井隆→寺山修司→中島義道、という流れを考えることができる。つまり、岡井歌論の〈場〉の理論が、あくまで大きな物語を生かしてゆこうとする方策だったのに対し、寺山の場合は、各人がそれぞれ物語を読みこんでゆくものとして、個への退行を断ち切る短歌実践を企図していた。このあたりが、現代短歌運動において、塚本‐岡井‐寺山間の立ち位置のずれとして争点になっていたものと思う。ところで寺山は、演劇において透明なコミュニケーションの可能性を「ダイアローグ」と呼び、一回的なものとしてその場かぎりの物語が回帰してくることをみとめてもいた。そこで、寺山的「ダイアローグ」から中島的〈対話〉への遷移が、そのままポストモダン化の進行と対応することになる。もはや物語が必要とされなくなった現代における〈対話〉は、つねに虚無との戦いを経なくては成立しがたくなっている。
 自作自註は、もともとは岡井的発想であるわけだが、自分の作品がどういう意図で書かれ、どういう文学的意義を担っているのか、どこまでも語りつづけるという試行、どこまでも〈場〉を作り出してゆこうとする意志、これが現代においてあらためて求められてきているのではないか。このような自作自註は、作家と批評家との〈対話〉として遂行されなくてはならない。

(3)非-詩の可能性。
 詩的表現において、詩のレトリックは、表現対象をよりよく伝えるためのものである、という考え方を捨てること。むしろ、詩のレトリックは表現対象を韜晦し、表現対象がなんであるのか分からなくするために用いるものと考えてはどうだろうか。このような考え方は、従来の「詩」の考え方とはまっこうから対立するので、これを「非-詩」と呼ぶことにする。
 ここで詩は、二重の意味をやどすことになる。すなわち、作者による鑑賞と読者による鑑賞とで、まったく相反する表現が立ち現れてくることになる。このことによって詩は、一方で読者の求めに応じることができるとともに、他方、作者の個を表現するものとしての意味も担保することができる。
 Not a poem is this! これが新時代を顕彰する。

(4)一作家一ジャンルの徹底。
 恩田陸は、一作家一ジャンルという言葉をよく体現する作家として言及されることが多い。ここで、いわゆる「三月は深き紅の淵を」シリーズについて考えてみよう(以下ネタバレ)。
 「三月は深き紅の淵を」とは、恩田ワールドにおいて「謎の本」として登場してくる書物のタイトルである。この本にまつわる物語群は、ゆるやかな連関性をたもっていることが特徴的であり、その本は架空の、存在しない本として扱われたり、重要な内容を記した文書として扱われたりする。『麦の海に沈む果実』からはじまる一連の物語も、この「三月は深き紅の淵を」シリーズを敷衍したものであり、それなりの内的連関をたもっていながら、べつの作品では「作中に登場する演劇のストーリー」として扱われていたりもする。
【参考資料:三月シリーズ相関図】
http://web.archive.org/web/20050429070856/http://tacet.milkcafe.to/ondariku/world.htm
 このような作品内の複雑な相関関係は、著名な同人漫画家、粟岳高弘の作品群にもみてとることができる(単行本には『プロキシマ1.3』『鈴木式電磁気的国土拡張機』がある)。『鈴木式……』の222ページに作品相関図が掲載されており、「同一世界」「ちょっと近い」「少し繋がっている」などの関係で、さまざまな作品群がゆるやかな世界観を形作っている。
 恩田や粟岳の作品群は、ひとつの「謎」として読者の前に立ち現れてくる。これら迷路のような作品群の相関関係のむこうに、触れてみることのできない「謎」としての世界が浮かびあがってきて、このことが彼らの作品の魅力となっているのだろうし、一作家一ジャンルとはそういう意味なのだろうと思う(なお、女性を「彼」と表現することは日本語としては間違いではありません、念のため)。これからの作家は、どんどん一作家一ジャンルを徹底させてゆくべきだろう。

(5)全集的存在・文体的存在としての作家。
 作家は、文学の終わりにむけてみずからを駆動してゆく存在である。東浩紀は平野啓一郎について「面白いのは、どうやら彼が、自分には『文学』や『芸術』に正面から立ち向かい、独自の結論を出す権利があると信じているらしいことですね」(『郵便的不安たち#』)と皮肉めかして書いているが、作家が「文学」について、独自の結論を出す権利をもっていることは、ほとんど自明のことだろう。なぜならば、その作家が存在するまで文学は存在しなかったからであり、その作家の死によって、つねに文学は終わりを迎えるものであるからだ(そうでないのなら、いったい「文学」という言葉にどんな意味があるだろうか)。平野が歴史的経緯を捨象して文学を称賛しようとも、稲垣足穂が「ダダ以前にはなにもなかった」と断言しようとも、いささかも不当であるわけはない。最終的には、全集の刊行可能性が作家の存在を支えるだろう。前項でみた「ゆるやかな世界観の立ち現れ」は、究極には、作家の全作品(小説・エッセイ・詩)の全体におけるゆるやかな相関関係、ひとつの「謎」としての作家=文学の提出というところにゆきつくだろう。それこそが全集である。
 なお、ぼくは「文体は内容を凌駕する」という考えをもっているのだが、そこで文体がどういう役割をはたしうるのか、文体と内容とが溶解し合一する地点はありうるのか、ということについては、まだまだはっきりとした意見をもつことができないでいる。哲学的探求が俟たれるだろう。

    ○

 花映塚。マッチハードで魔理沙vsチルノを制するという数か月来の目標が、ようやく達成されました。次はマッチルナで霊夢vsてゐがなんとかいけそうなので、これを目標にやってみようと思います。

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2009年1月14日 (水)

タナトフォビアについて

 第31回京都哲学道場は、『死の恐怖』をテーマに議論がかわされた。発表者、さかた氏のレジュメは、大脳分割移植の思考実験を論拠に、カント原理に対するライプニッツ原理の視座を示し、このことから「生まれかわり」が可能であることを論じたもの(ただし、歴史の持続性という一般的な意味での「生まれかわり」は否定され、そのかわり〈私〉の持続性という意味で「生まれかわり」の可能性が示される)。
 このレジュメは、ぼくには大変面白くて、永井的な〈私〉にどこまでも沿ってゆくなら、つまるところ〈私〉は独今論的な存在でしかありえないのを、あえて〈私〉の持続性ということを考えてみることで、話は〈私〉の可能性の限界をめぐらざるをえなくなる。もっとも、哲学道場でやった以上、そこまでつっこんだ議論に進めるわけもなく、むしろ前提を共有したり、さかた氏のレジュメの不備を指摘したりすることに、大方の時間は費やされたのだったけれど。
 例えば、独我論と超独我論との区別という、きわめて素朴なレベル(永井的な弁証法をまったく理解しないレベル)で話が紛糾するわけである。つまり、独我論を唱えるX氏に対して、ぼくもまたX氏の議論に賛成するのなら、それは普通の独我論。逆に、比類なき〈私〉はぼくだけのものだから、X氏の独我論はうけいれられないとつっぱねるのが超独我論。崎山氏や深草氏は、さかた氏は独我論者であり、谷口は超独我論者であるという区分を導入するのだが、永井的には、こんなのはまさに「他者の意識を、あったりなかったりできる物体のように扱っている」というわけで、非常に素朴な立場だとしか言いようがない。べつに、哲学道場とはそういう場なので、だからどうだと言いたいわけではないけどね。

 で、いまのぼくには〈私〉の持続性をめぐって、大上段に議論を展開する用意も能力もないので、そういうつっこんだことは今後の課題として、タナトフォビア(死恐怖症)について。
 哲学道場では、崎山氏と深草氏のラインが「死(死亡ではなく)にはまったく恐怖を感じない。死の恐怖とは錯覚なのではないか」という意見で、さかた氏と谷口のラインが「死の恐怖を感じる」派の立論だった(なお、この対立ラインは今回の哲学道場全体の対立ラインでもある)。
 死という、意味世界のなかには存在しない事態に対しての恐怖を、ありもしないものに怯える錯覚として斥けるのかどうか。ぼくは一応、死の恐怖を不合理なものだとする崎山‐深草説に対して、死の恐怖は合理的に主張できるという立論をしておいたが、べつだんそのことに深い意味はない。〈私〉は意味世界のなかには存在せず、だから〈私〉の消滅もまた意味世界的な事態ではありえない。〈私〉の存在を、実用主義的にみとめない崎山氏(深草氏はしらないが)が、その死に恐怖を感じないとしても、それは物の道理というものだ。
 ただ、死の恐怖について、ぼくは今回あまりくわしく喋らなかったけども、さかた氏の認識とぼくの認識とのあいだには、微妙な立ち位置のズレがあったように思われる。それは、さかた氏が大脳分割移植の思考実験にこだわる理由と、ぼくがそれにこだわる理由とが、微妙に違っているゆえんでもある。
 永井均的な「奇蹟」は、実は二種類の側面から語ることができる。それは、

一、なぜか〈私〉が存在しているという奇蹟
二、なぜか〈私〉がこの歴史(谷口一平)とむすびついているという奇蹟

 の二側面である。さかた氏が拘泥している奇蹟は前者で、ぼくが拘泥している奇蹟は、おそらく後者なのだ。例えば、ぼくはさかた氏に「生まれかわったとしても、そのとき前世の記憶が喪われているとすれば、それはなんの救いにもならないのではないか」と尋ねたことがある。さかた氏は「記憶はどうでもよく、その時点においても世界が〈私〉という一点からひらかれた、この生々しい現実であるなら、それでかまわない」とのことだった。しかし、ぼくの場合、死の恐怖は、記憶が喪われるという恐怖と完全にイコールの関係である。すなわち、死とは、ぼくにとって「歴史が喪われる」ということと同一なのだ。もちろん、歴史とは、意味世界内的な事態であるが、それが〈私〉とむすび合っている限りにおいて、つまり〈私〉と歴史との偶然=必然的関係の消滅を考える限りにおいて、歴史の喪失は存在論的アポリアである。
 大脳分割移植の思考実験にしても、さかた氏においては「その内どちらか片方が〈私〉である」ということが言えれば充分なのに対し、ぼくにとって重要なのは「そのどちらが〈私〉になるのか」ということ。一見、独我独今論から離れて、未来における〈私〉を云々しているさかた氏の方が、実は歴史を完全に捨象した「今だけの〈私〉」を考えているようで、逆に、みたところ独今論的な主張をしているぼくの方が、「今における記憶」という形で〈私〉に歴史をもちこんでいるのは、面白い。この対立は、かなり重要なんじゃないだろうかと思われる。

 なお、ぼく個人のタナトフォビアについて喋るなら、それは死への恐怖というのとは、ちょっと違う。さかた氏が「死ぬことが怖い」と言うのに対し、ぼくの感覚は「死ぬことが哀しい」である。死ぬことは、べつに怖くはない。ただ、一般的な哀しみとは違う次元で、喩えようもないほど「死ぬことが哀しい」のである。これもおそらく、〈私〉にとって歴史がいかほどのものであるのかという、立場の相違に由来する。さかた氏の恐怖が、この生々しい「現実」が喪われることについての恐怖なら、ぼくの哀しみは、この生々しい「記憶」が喪われることについての哀しみである。
 それは、世界が喩えようもなくいとおしいという感覚と表裡一体で、この世界に充ちみちている石ころ一個、草花ひともとが有する「歴史」が喪われることが哀しい。あるいは〈私〉の死という事態において、石ころ一個、草花ひともとがますます肉感的な歴史的存在となってぼくに迫ってくる。草原に生い茂る雑草が、いったい何本生えているのか、その正確な数を一生知ることができないということが、〈私〉の死とまったく同等に哀しい。小学校の修学旅行で、となりに寝ていた女の子が、懐中電灯で天井に描いていた文字、ぼくがそのことに気づいたのは、その子が殆ど文章を書き終えてしまったあとだったのだが、その子本人も、おそらくいまはどんな文章を書いていたか、すっかり忘れてしまっていて、ぼくにその文章を知る手段は永遠に与えられていない。そのことが哀しい。あるいは、小説の作中人物ひとりひとりが有する歴史。作家本人が書くのをやめてしまってから、小説は再び動き出すことはなく、作中人物たちは一瞬で時間を凍りつかせ、そのまま無限の静止のなかに閉じこめられている。こんなに楽しい生活を送ってきたのに、こんなに哀しい事件があったのに、それら一切は無の墓場のなかに置き去りにされて、小説が閉じられたあと、作中人物たちには希望も絶望もなく、空虚な時間を凝結させていることしか許されない。このことが、〈私〉の死とまったく同等に哀しくてしかたがない。終わりある一切が哀しい。終わりなき苦痛こそ、むしろいとおしい。そういう感覚なのだ。
 ぼくは、小説(物語)というものについて、常にそういった感覚をいだいてきた。絵本『小箱のなかのビッグバン』を小さいころに読んだせいかも、恩田陸の小説を読みながら、ストーリーとはまったく関係なく、その風景描写があまりにもなつかしくて泣いたせいかもしれない(あれ、よく考えたら、これって変性感覚じゃないんだろうか)。ぼくにとっては、小説の作中人物というのは生きているようにしか思われず、逆に現実世界の登場人物(家族や友人)も、小説の作中人物とまったく同等の権利しかもちあわせていなかった。だから、作中人物を作者が殺せるということ、あるいは人間と同じく歴史をもった一匹の蟻を、誰でも簡単に踏みつぶせるということ、これらのことが、きわめて重要な倫理的問題だったわけである。酒鬼薔薇聖斗にかぶれていたのも、彼の「ゴキブリ」に対する感受性が、ぼくのものとまったく同じだったことがその理由だった。そして、決して終わらない小説、作中人物が作者=神であるぼくを殺してきて、みずから生き延びるような小説、そんな小説を書きたいと思ったことから、ぼくは小説家になりたいと思った。

 なんにもせよ、偶然か必然か、あるいは偶然と必然とが一致する地点を問題にできるのは、〈私〉における歴史の偶有性が問題だからであって、ただ〈私〉が存在している奇蹟を問題にするだけでは、偶然とか永劫回帰とかの真の意味を考えてゆくことはできないように思われる。〈私〉における倫理を考えるのも、〈私〉が偶然この歴史とむすび合っているという事実を肯定するところからはじめるしかないんじゃないかと思う。しかし、そこから「この歴史、いかに生くべきか」という問題に発展してゆくと、さてどう答えればよいものやら、やっぱりよく分からない。

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2008年11月 5日 (水)

肉体言語、あるいは生成する主体

 以下の論考には、多分にぼくの独自的解釈が含まれており、寺山の文章を公平に分析したものではないということを、あらかじめ断っておきます(というか、彼の文体はかなり文学的すぎるので、表面的には理解できるのに読解するのはかなり苦労しました)。

      ×      ×      ×

 寺山修司は、演劇における肉体について述べた「肉体言語と私性」(『臓器交換序説』所収)というみじかい議論のなかで、肉体に対する精神の優越という考えに支えられた近代までの演劇のありように抗して、精神(言語、ロゴス)であると同時に肉体でもあるような「肉体言語」による意味伝達の可能性を模索する。

「(……)さしあたって肉体と精神について考えた場合も、この二つは両義的なものであるとみてもいいんじゃないかという気がする。そうなると当然表記されてある文字、あるいは何かを『示す』『表わす』という形の言語の一つとして当然媒体としての人間の体の記号化が問題になる。からだはあくまでも個を単位にできるが、言語は集団=国家が単位になることが多かったのです。(……)」

「(……)要するに日本語に対比できる日本肉体なんてものは存在しなかったのです。それは、あらゆる肉体の出会いは政治化に先行するという考え方ですよ」

 ここで「政治化」という、それこそ多少イデオロギッシュな術語で述べられていることの内容は、言語という差異の体系が文化的に規定されているということにすぎない。言語が世界をカテゴライズ(分節化)するやりかたは、どう分けるかということと、どう名づけるかということとの、二重の意味で恣意的である。
 さて、そう考えてみると、ここで寺山が述べていることはなんとも奇妙である。彼は「日本語に対比できる日本肉体」は存在しないというが、普通に考えれば「日本肉体(言語)」が存在するということは自明だろう。たとえば、日本ではお辞儀をすることで相手への敬意を表わすが、アフリカのある国では、お辞儀をすることは侮辱の符牒として用いられているかもしれない。お辞儀という行為で敬意を表明できるのは、それが日本式の肉体言語だからである。
 また、「からだはあくまでも個を単位にできる」という主張についても、同種の批判が可能だろう。個を(象徴体系の)単位にできる言語などありはしない。ある表現が記号として流通するのならば、少なくとも二人以上の人間が必要なのである。
 こう考えてくると、寺山の一見奇異なこれらの主張は、そもそも彼の考える「肉体言語」というものが、われわれの考える、たとえば「お辞儀」といったような象徴体系に回収されうる肉体の使用とは、まったく違ったものであるということによっているのではないか、と思える。

「(……)演劇が生成し、消滅してゆくシチュエーション(『場』)は人間がいるところではすべて成立することが可能であるはずで、それは無人島以外の場所ならば未開社会であろうと、西欧の文明社会であろうとどういう場所でも構わない。(……)」

「(……)別の言い方をすれば演劇の肉体は意味の不連続性によってその切断面の多さだけ出会いを増幅する。それは単に身振りが意味を表わすという記号的な部分にとどまらず、もっと余剰的なもの、たとえばエロチシズムとして考えることもできると思うわけです」

 これらのくだりから読みとれることは、生々流転してゆく演劇の「場」の一回性であり、その一回的な演劇の「場」において肉体の記号が孕む余剰こそを、寺山は「肉体言語」とよんでいる、ということである。所与の言語規範にのっとった肉体の使用が「肉体言語」なのではない。そうではなく、無限定的で非‐意味的な肉のうごめき(たとえば寺山の演劇は、肉体を過剰に誇張した独特の動きを多用することで有名である)から、一回的な演劇の現場においてそのたびごとに意味(たとえばエロチシズム)が読みこまれなにかが共有されるという、そのような事情を「肉体言語」という言葉は表現していたのである。「肉体言語」とは、演劇という現実において言語規範以前に生成し、一回だけ疎通しては消える幻の記号であるといってよいかもしれない。
 そこで、「からだはあくまでも個を単位にできる」という主張についても、それは肉体のうごめきの個別性から記号が生成されるということを述べていたものとして了解される。だが、多数の観衆がその演技をながめているとして、そこで各個の観衆が個別的に演技から生成する記号同士は、たがいに疎通する手段をもたない(だから、ここで個別的なのは肉体ではなく観衆だ)。そこでは、演劇の「場」における「肉体言語」は、観衆おのおのの私的言語にとどまるのであり、それでは集団的なものとしての演劇は成立しようがない(せいぜい誤解としての演劇が成立しうるのみだろう)。だが、寺山の考える演劇は、まったく発想が逆だった。

「(……)しかもそれは個的というよりもむしろ関係的なものだという気がする。もともと、『肉』という宗教的概念をとりはずして、『体』に限定した場合、自分のからだと他人のからだの境界線はきわめてあいまいなものだという気がしますね。(……)」

「(……)肉体における個と全体、あるいは自と他、『私』と『あなた』という二律が不可能になってゆく中で肉体の概念、あるいは肉体の領界、あるいは肉体の中における『私』の意味を再検討してゆくことが『肉体言語』を考える上での重要なことだと言えるでしょう。(……)」

 寺山の肉体言語モデルは、独立した個別的な人間同士が記号をやりとりするという構図自体を認めない。そうではなく、先に肉体言語とその疎通という関係が成立しており、そこから出発してさまざまな主体が相対的・一回的に成立する。幻だったのは記号ではなく主体の側だったのである。ここで絶対化されるものこそが、「肉体言語」という唯一の現実であり、この考え方に立ってこそ、個別的だったのは観衆ではなく、やはり「肉体言語」の方だったと言えるのである。このような演劇の空間では、肉体言語を媒介項として、誰もが個別であり全体であり、自分であり他人であることができる。

「(……)つまり、自他の関係の中で肉体の意味が問われるということが超言語的な演劇ではないか、という考え方ができたわけです」

 寺山はこう述べているが、ぼくの考えでは、彼はまったく反対のことを述べるべきであった。つまり、肉体の意味の中で自他の関係が問われるということこそ、超言語的(そして超近代的)な演劇なのである。
 寺山の肉体言語モデルは、言語規範にしたがった主体間での記号の疎通という、これまでの言語モデルとはことなった、まったく新しい言語の可能性をひらいている。寺山の理論が本当に妥当なものであり、そのような言語が本当に可能だったのかどうかということを別にして、少なくとも彼がどんな演劇を意図していたかということは明白だ。彼はそれを「ダイアローグ」だという。彼が目指したのは、肉体を介したまったく有機的な、真に可能な「対話」だった。

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2008年11月 2日 (日)

完全な作品という名前の作者

 さっき、ぼくはこんな歌を詠んだ。

◆紙巻の火口《ほくち》より死のほつるとき小春日の坩堝《うづ》を大駈けてゆき

 作歌過程において、ぼくが生み出した variant は、だいたい以下の24通りぐらい。

◆火口より死を解き放て小春日和
◆火口より死を解きはなて小春日和
◆火口より死を解きはなて小春日へ
◆火口より死を解きはなて小春日へ十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より死を解きはなて小春日へ、十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死を解きはなて十馬身差で大駈けてゆき(☆1)
◆火口より小春日へ死を解きはなて十馬身差で駈け過ぎてゆき
◆火口より小春日へ死を解きはなち十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせて十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死を解らせて十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせよ十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせよ解きはなつとき大駈けてゆき
◆紙巻の尖っぽより死を解きはなて小春日の涯へ大駈けてゆき
◆紙巻の尖っぽより死を解きはなて小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の尖秀より死を解きはなて小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の尖秀より死のほつるとき小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の青へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の青を駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の底を駈け過ぎてゆき(☆2)
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の底を大駈けてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の渦を大駈けてゆき
◆紙巻の火口から死のほつるとき小春日の坩堝を大駈けてゆき
◆紙巻の火口より死がほつるとき小春日の坩堝を大駈けてゆき

 当然ながら、これだけの差分を生み出すために、一時間以上は掛かっている。一時間ですむなら楽なもので、何日も考えた挙句ものにならないことはザラである。しかし、そんなのは短歌を作る人間なら誰でも当たり前のことで、とりたてて自慢すべき話ではない。
 上に列挙した差分の中で、ぼくが選び出した歌よりもよいと思われるものがあるかもしれない。最終的には趣味嗜好の話になってくるから、しかたのないことだ。

(たとえば☆1とか☆2などは、ある意味で完成されている。
 ☆1は、上の句と下の句のあいだで殆ど連関が断ち切られていて、非常にシュールな歌風になっている。物凄く深読みをする人で、たぐいまれなセンスの持ち主なら、☆1の歌からでも、ぼくの詩想をだいたい汲みあげてくれるかもしれない。しかし、こんな詠み方はかなりエキセントリックなので、よほどの大仕掛けとして持ちかけているのでなければ、短歌としては失敗作だと言わざるをえないだろう。
 ☆2は、うまく上の句と下の句を繋げられており、通常の意味では短歌として完成されている。しかし、詩想が微妙にズレてしまっていて、ぼくには納得しがたかった。ぼくはこの歌で、上の句の「虚無と陰惨」のイメージを、下の句の「無謀と疾走」のイメージと表裏一体のものとして、対比させることを試みた。しかし☆2の歌では、「駈け過ぎてゆき」と詠むことで時間の経過が強調されすぎ、結果として、上の句の「静・一瞬」と下の句の「動・永遠」とを対比させる技法になってしまっている。実はこちらの方が詩想としてはダイナミックで、だから☆2の歌の方が好きだと思われる人もいるのは当然だろうが、しかし、それはぼくの詠みたかった歌ではないのだ)

 そんなことよりも重要なのは、ぼくがやったことは、同格の差分のなかから一番よいひとつを選び出してくるという行為ではなかったということだ。上に列挙した差分は、互いに同格なんかではなく、因果律的・時系列的な順番をもったならびになっている。各差分は、ひとつ前の差分から必然的に導き出される。つまり演繹可能なのである。
 これがどういうことかというと、最初に詠みおろした「火口より死を解き放て小春日和」が与えられた時点で、すでに最終形が冒頭の「紙巻の火口より死のほつるとき~」という歌になることが予め決まっていたということである。
 そんなバカな、と思われるかもしれない。もっと別の過程を辿って、全然別の短歌になっていた可能性もあるだろう、と思われるかもしれない。だが、ぼくには「それは完全な短歌ではない」と断言することができる。「火口より死を解き放て小春日和」という原型に対する完全な短歌形は冒頭のあの一首でしかありえないのである。それを証明するために、ぼくは幾らだって饒舌になれる。どの差分ひとつについても、その差分が導き出されたことについての論理的な根拠を滔々と述べ立てる自信がある。
 作品への自信というのは、結局そういうものでしかありえないんじゃないだろうかと思う。それを完全だと言えるだけの、自分がこれまでやってきたことへの信頼、自分がその作品と究極まで対決したことへの信頼、自分の作品の完全性についての、どんな議論にも打ち克てるだけの飽くなき弁明。それが可能であるとき、作品への自信というものは決して打ち破られることがない。美は、そういう現場で火花をちらして生まれる。
 しかし、それなら最初の差分は、もうそれより前に根拠を求めようのない、一番最初の差分は、いったいどこから生まれてきたのだろうか。それがただの無根拠、ただの塵埃でなかったとどうして言えるのだろうか。
 いや、その無根拠をも自己が根拠づけた自己の作品として承認すること、それがニーチェの言う「運命愛」ということの意味なんじゃないでしょうか。最終的に、作者は一個の美・一個の作品となり、それ以上でも以下でもありえなくなる。

 そういう完全な創作活動を……やれるもんならなあ。

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2008年10月 8日 (水)

京都造形大連続講座レポ

 本日(10月7日)、京都造形芸術大学大学院の連続公開講座(2008年度後期開催)の第1回に行ってきました。浅田彰が大学院長に就任したとのことで、以前ニュースになってましたが、「アサダアキラ・アカデミア」と銘打って、中沢新一やら柄谷行人やら、それっぽいメンバーが列記されてます。初回の特別講師は東浩紀でした。ゼロアカ参加以来、釣針にひっかかったみたいにズルズル追ってしまってるのがなんか嫌。

 17時20分ごろ造形大に到着してみると、もう教室にはかなりの人がおり、17時50分の開始前後には満杯寸前の大入りでした。おしゃれな大学生・院生っぽいのが多いのは造形大ゆえか。しかし年輩の方もけっこういて、来ている層がイマイチよく分かりませんでした。生浅田を見るのは初めてだったのですが、小顔で小柄という印象。あずまんはいつも通り。
 テーマは「社会契約と『動物化』――オタク的公共性のゆくえ」というもので、大塚英志と共著の『リアルのゆくえ』(未読)にひっかけてるらしいです。この本のなかで「公共性」という概念について根本的なスレ違いがあったそうで、それが今回の講演の中心ということでした。
 講演の前半は、動物化という用語とそれをめぐる文脈の簡単な解説に費やされました。そして、この対立軸「スノビズム‐動物化」に、最近の「規律訓練‐環境管理」という対立も導入されます。規律訓練(フーコー)とは、厳罰化や倫理教育などによって、個人の内面を律することで秩序を守ろうとする考え方。しかし、動物化した社会状況では環境管理(そもそも犯罪を犯せる可能性がなくなるように環境を管理する)の方がふさわしいのだという話です。
 そして、公共性をめぐる対立ですが、これは言論の空間という意味での公共(大塚)と、公共財(灯台とか道路とか)という意味での公共(東)とのスレ違いで、前者の公共性は回復不能だが、後者の公共性はむしろ動物化した社会からこそ生成しうるのだ、ということでした。人文科学的認識が意識的に知を体系化することが不可能になっても、グーグルやSNSによって新らしい形での無意識的な知の体系化が進行しているし、そこにしか発展はない、と。で、そういう社会を理想した、ひきこもり=動物化したルソーの著作として『社会契約論』を読める可能性があるんじゃないか、という示唆でしめくくられました。

 このへんの文脈はよく分からないのですが、浅田彰と東浩紀は、8月に熊野大学で再会するまで9年近いブランクがあったそうで、そこらも踏まえると、ふたりの応酬の言外にするどい火花が散っていたような気がしないでもないですがそんなこともなかったような気もします。まあ、それこそ決定不能性って奴でしょうからどうでもいいですけど。しかし、東浩紀の、機関銃的早口であり、かつ整然と構成された講演には、多少圧倒されました。あと、光の加減だか、浅田彰をジッと視る眼がちょっと威嚇的で怖い(ように見えた)。

 せっかくなので質疑もしてきました。たいしたことのない質問しか考えつかなかったので、やめとこうかと思ったんですが、あまり手を挙げる人がいなかったんで。所属と名前を述べてということだったので、「京都哲学道場所属の谷口です」と言って宣伝までしてきました。
 思いついた質問は二点。動物化を追認するのに環境管理の点においては「犯罪者にICチップを埋めこむのは個人的に反対」というのはなぜか? という本筋から外れた質問と、動物化した社会は公共財を生成するというが、グーグルが情報を体系化するのは分かるが、そこからどうやって灯台ができるのか? という前提的な質問。
 前者は、理論的には反論できないが、可逆的措置なら肯定するも犯罪者に不可逆的変化を加えるのは、現状では危険があるように思える、とのこと。後者は、経済学者にきいてくれとのことで、浅田先生にお答えいただきました。まあなんにせよ、複雑な関係があってそこから複雑な仕方で公共財が生成されるということです。人間の生死をにぎる役割というのも複雑に重層化していて、だからネットというレイヤーを掌握したところで世界の政治というレイヤーを動かすことはできないし、そういう意味で支配層としてのエリートは存在しない、という話もありました。
 くだらない質問に時間を費やして悪かったかなとも思いましたが、他の質問もたいした内容のものがなかったので、まあよかった。

 以上レポ。次も行くかどうかは分かりません。

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2008年9月22日 (月)

ポスト構造主義は何の役に立つのか考えてみた。全裸で。

おお人類が無知であるのは、
見よ、たかだか哲学道場が月に一度の開催であるからにすぎぬ。
                  ……タニ・ローヘイ(1989‐没年不詳)

      ×      ×      ×

 戯言は扨措き、先日の長崎哲学道場の話。
 此間は、参戦者が二人しかいなかったこともあり中沢派にまわる者がおらず、そういう場合は発表者がダミーで「手の内の者」を演じることが多いのだが、あいにくぼくは、ダミーでそれをやりたいと思えるほどにも中沢のよい読者ではなかったようだ。そういうわけで、論戦は成立しなかった。かわりに、中沢新一をも含めたニューアカ(ポスト構造主義)について、包括的な意見のやりとりがなされた。
 ニューアカは、フランス現代思想という言葉で括るのは的を得ていないし、ポストモダン思想とよんでも悪くない気はするけれど、やはりポスト構造主義として括るのが、暴力的ではあれそこそこな分類だと思う。親分格の浅田彰の流儀がポスト構造主義だから。で、崎山氏はニューアカ全体を以下のように批判した。
 ニューアカ的な言説・批評というものは、あるひとりの哲学者・あるひとつの対象についての議論を、批判・再解釈(要は脱-構築)することによって成り立っている。これはつまり、おおもととなる対象を一次資料とするなら、その一次資料に対する二次資料を資料として、自分の批評を組み立てていることになる。図式化するとこうだ。

[対象:一次資料]←[A:二次資料]
                ←[B:三次資料]←[C:四次資料]……

 この[B]以下が、ニューアカの人々の言説にあたる。これは一次資料に対しての言説として、学問的厳密性をたもてているのだろうか。もし「あなたの議論は対象を正しくとらえていない」と反論されても、「この文章は二次資料について書かれたものだから対象とは関係ない、ゆえに対象を正しくとらえていなくてもかまわない」と自説を擁護できる。しかし、そこには対象に対しての議論のつみかさねがなく、ちっとも建設的に機能しないので、有用性もなく発展もない。それは、唯の空疎な妄言に過ぎないのではないか? というわけだ。
 これに対してぼくは、もちろん二次資料から言説を組み立てることには必然性があると答える。それは、一般にニューアカの人々の思考法が、対象の存在を消去するものだから、あるいは、まさに対象の存在が消去されるということをめぐって展開される言説だからである。

[抹消された対象] ←[A]←[B]←[C]←……

 すると崎山氏は、ではニューアカの人々は時間軸についてどう考えているのだろうと言う。つまり、ニューアカの人々でも時間が存在することは認めるだろう。そして、時間が存在する以上は、[対象]より後に[A]が、その後に[B]が書かれるという先後関係は、換言すれば[対象]が[A]を規定し、その[A]が[B]を規定するという規定関係は、動かないだろう。ならば、[対象]についての意見は[A]の方が[B]より信用できるし、その時間的な関係が[対象]の原典性(オリジナリティー)を保証するのではないか、ということだ。
 ぼくは、いやそんなことはない、ある対象についての言説はニューアカ的思考法ではシミュラークル(事件)の関係に入るので、そこでは[B]が[A]のシミュラークルであるということと、[A]が[B]のシミュラークルであるということとは、区別がつかないのだと述べる。[A]、[B]、[C]と、次々に増殖してゆくテクストは、すべてが表象であり実体性はなく、その躍動する力の場だかテクストの快楽だかが言説の到達可能な一切なのだ。
 でも時間的な先後関係はあるんでしょ、と崎山氏。そこで、ぼくは少し図を修正することにする。東浩紀が『存在論的、郵便的』で「デリダの特殊性は、エクリチュールのゆらぎを、間テクスト空間への溶解としてとらえるのではなく、ネットワークの不完全性の問題として考えたところにある」というよーな雰囲気のことを言っていたが、要はそういうこと。[対象]は存在するけどアクセス不能なの。

[対象]←×××―[A]←[B]←[C]←……

 まあこの図式が妥当なものだと仮定して、本当にアクセスが不能なのかどうか崎山氏の共同主観性説と少し対立するも、どうどうめぐりなことが分かっているので対立はお流れ。で、どっちにしたところで、ニューアカの人々の思考法は、現実の[対象]はもとより現実の[A]や[B]や以下略に対して、自分でイデアールな[A']や[B']や以下略を立て、その脳内王国で

……[A']―[B']―[C']……

 という等質空間を作りあげてから、その[A']とか[B']とかを批評するものだ、という意見で一致した。だからこそ時間の先後関係もないシミュラークルみたいな考え方も出てくるのだ。脳内王国成立時点(現在)に[A'][B']以下略すべてが属するのだから、同時に現前するのは当然である。

      ×      ×      ×

 で、ポスト構造主義って何の役に立つの?

 議題はニューアカ(ポスト構造主義)の遺産に移る。ポスト構造主義は何を遺したのだろうか。そして、ポスト構造主義は何かの役に立つのだろうか。崎山氏は実用説(理論が役に立てば立つほど真理に近いとする考え方)をとっているので、こういう話の流れになるのは必然である。
 手始めに学問的な遺産について考えてみる。二人無言。はい、いっさいゼロですね、なんにもないですね。困ったものです。脱-構築派の差別論とか読みたくもないしな。
 せいぜい挙げられるのが、大きな意味での文芸批評の分野くらい。それにしたって薄っぺらで面白くない。というのは、批評の相手が表象(脳内王国のイデアールな対象)なので、質量はかぎりなく無に近い。重みがまったくない。ここで「テクストを読むっていうのは、いかに華麗にテクストから深い読みを截り出してくるか、そのアクロバティックさを競う芸なんだ。つまり剣道の演舞みたいなものさ」というわが先輩の言を想い出すものの、ニューアカとその後継者の奴らはそんなことすら考えてねぇ。彼らにとって「テクストを読む」という行為は目的じゃなく手段だからだ。彼らは、テクストを読むことを通して、まさに「対象へのアクセス不能性」だの「表象しか存在しないシミュラークルの世界」だのを描き出してみたいだけだからだ。だから、どの論者も同じことしか言っていない。適用をちょっと変えただけだ。実は作品に対してなにかを言いたいのではないから、作品論としては面白くない。
 なんでメタに立つかなぁ。[A'][B'][C']の等質空間があることを分かっていても、そんなことを無視して唯の[D']であろうとすることは可能なはずだ。芸っていう軽いノリでも、のめりこんだ感じのイタいノリでも、なんでもいいけど、何も言わないよりは何か語っている方が面白い。それなのに彼らは、[D']を書くかわりに「実はこの文章にはダッシュがついてるんですよ。あ、他のテクストもみんなそうだけどね」と言って、それで終わり。サーカス観にきて、主催者が「ところでこのサーカスはとなりのサーカスとシミュラークルの関係にあるんですよ」とだけ言って、それで終演。え? サーカス本編? ハッ、っていうこのスタンス。
 だったら結局なんの役に立つんだろう。崎山氏と頭をひねらし、がんばって考えてみて、以下の二案を案出できた。

    【1】弁論術

 ポスト構造主義は弁論術に役に立つ。なかでも「煙に巻く」作戦部門の「梯子をのぼらせておいて上まで行ったらぶったおす」作戦に役に立つ。
 この術は、まず相手の意見を観念化するところからスタートする。相手が意見を述べたら、「その意見はまとめるとこういうことですね?」と、よく分からないまとめを提示して、相手の意見をイデアールに変形(ダッシュづけ)する。次に「その意見に対してこういう意見が考えられますね」と、観念化された相手の意見を土台に反論を提示してみる。「この反論に対してはさらにこのように反論できるでしょう」と、どんどん梯子をのぼらせる。とにかく速度が重要だ。相手に「でも……」とか言わせちゃダメだ。で、最後に「というわけで、あ、でも今のは全部表象で、実体とか関係ないですし、それじゃ」と蹴ったおす。
 まとめると「あなたの意見は××というわけで、それに対しては××という反論があって、それにはまた別に××という意見も考えられますが、それに対しても××と反論することはできて、だからあなたの意見は正しいと思ったかこんにゃろー!」ということになる。
 あれ、でもこれって要するに藁人形論法……。

    【2】ミステリ小説

 ポスト構造主義はミステリ小説を書くのに役に立つ。ここで[実体]とは殺人事件のことである。それに対してさまざまな推理が提出される。

[殺人事件]←[推理A]←[推理B]←[推理C]←……

 ところが、実は殺人事件は存在しなかったのである。われわれは、現実にはなかった架空の殺人事件について、あれこれ推理をめぐらせていただけだったのだ。

[抹消された殺人事件] ←[A]←[B]←[C]←……

 しかしデリダ探偵は、殺人事件は確かに存在したのだけれど、われわれは決して真相を知ることはできないのだという。そこでは、架空の殺人に対する架空の推理が戯れているだけで、だから犯人は登場人物であり作者であり同時に読者であって、よく分からないがアンチミステリが書けてしまう。

[殺人事件]←×××―[A]←[B]←[C]←……
  =(……[A']―[B']―[C']……)

 あれ、でもこれって要するに後期クイーン問題……。

    【結論】

 絶望したっ!! あまりに役に立たないポスト構造主義に絶望したっ!!

      ×      ×      ×

 いや、別にポスト構造主義についてバカにしたいわけではなくてですね、いやとりあえずバカにしてみたけど、それだけではなくてですね。ぼくはかなり迷っているわけです。たしかに芸としての文芸批評は軽いかもしれない、そりゃ島宇宙に閉じこもってるだけかもしれない、でもこな×かがで描きたいのなら欲望にまかせるべきで、そこでコミケ全体を批評してても仕方ないんだよな。
 たとえば、以前 hiropon 氏が京都哲学道場で唯物論の話をなさいましたけど、結局ぼくがそこから読みとれたのは、「唯物論‐観念論」という二元論を「真の唯物論=力の場」一元論に脱-構築する、というストーリーでしかなかった。そこで問題なのは、その論者が何が言いたいのかということ、つまり「真の唯物論こそ素晴らしい」と言いたいのか、それとも「このように、どんな理論も脱-構築されちゃうから理論なんかくだらないよね」と言いたいのかが分からない。ベタなのかメタなのか理解不能。中沢新一も同じ。オブジェクトレベルなのかメタレベルなのかが分からない。それを「クラインの壺だしオッケー」は不誠実だし、だったらひとりでクラインの壺を高速回転していればいい話で、何で批評にしたいのかが分からない。何で喋る気になれるのか分からない。ただメタの梯子をひたすら駈けてゆきたいんなら、それが「唯の相対論」とどう違うのかが分からなくなってくる。
 一方で、あらゆる構造に対して脱-構築が可能であるという認識は、殆ど自明なくらい正しくて、いろいろな対象にそれを適用してゆくことができる。だから、その認識が何かを言い当てているのは分かる。でも方法論が根本的に間違ってる気もする。
 ひいきのひきたおしだけど、というかポスト構造主義の文脈に登場する人ではないですが、永井均はちょっと違うとも思う。

      ×      ×      ×

 軍艦島、渡航したよ。

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2008年9月20日 (土)

第3回長崎哲学道場#レジュメ

 2008年9月20日(本日)、長崎市内のファミリーレストランで、第3回長崎哲学道場が開催された。参加者は崎山氏とぼくの二名。テーマは、たまたまブックオフで百円だったから読んでいた中沢新一の『雪片曲線論』。レジュメは、本文の内容にいっさいつけくわえる点のない単なる要約で、このレジュメを読むくらいだったら本文を読むべきだと思う。非常に読みやすく分かりやすい内容だったので、レジュメをまとめるに当たっては徹底的に二項対立図式に還元した。このような仕方は、しかしいかにも「建築的思考」の所産だね。二時間強、おもにポスト構造主義(ニューアカ)について討論が交わされた。

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〔2008.9.20〕長崎哲学道場No.3レジュメ/制作:TANI Ro^hei
◆中沢新一『雪片曲線論』を読む

≪中沢新一『雪片曲線論』(中公文庫、1988.7.10初版)の第Ⅰ部『雪片曲線論』の読書ノートまたはメモ≫

    §1 建築的思考と流体的思考

★建築的思考
同一性をもった不連続な単位としての事物(世界の素材)と、その生成変化の場としての空虚な空間とを原初的に想定し、その空虚な空間を舞台として、文法・法則を通じて事物が組み合わされ、配列されることで、人間にとって意味のある世界(象徴秩序)が成立する、という思考法。世界を実体性・構造性において把握しようとする。

★流体的思考
同一性のない、連続的な躍動する力に充たされた場として世界を把握し、あらゆる事物をたえまなく変様してゆくものとしてとらえる思考法。それは建築的思考の眼からは無秩序(カオス)として映るが、奔流する流れにみずから身を投じる(知性を自然化する)ことで、そこからジェネレーター(複雑性を生成する単純な原理)を見つけてゆくことができる。

★中観仏教と密教

<1> 静態的思考(静的な建築的思考)
世界は不変のカテゴリーの体系から成立しているという考え方。

<2> 弁証法的思考(動的な建築的思考)
世界を「静止‐動態」という対立が生成発展してゆくプロセスとしてとらえる考え方。単純な静止的構造として世界を切り出せないため、主語(静止)+動詞(動態)において世界を切り出してこようとする。

<3> 中観仏教的思考(合理論的な流体的思考)
上記二種の建築的思考を、無限変様の場であるありのままの世界「空」から目を背けるものとして、共に批判・解体する。言語的認識(弁証法的思考)の手前にある「空」に、直観を通して肯定的に踏み入ろうとする。

<4> 密教的思考(経験論的な流体的思考)
中観仏教的思考の自然主義化。静態的・弁証法的思考への理性的批判に飽きたらず、意識の流体的な場に直接おりたってゆくための技術知を探るプラグマティックな企て。意識の力の能産性から出発する内在性の哲学。

★空海における結合
密教の思想家;空海は、能書家、名文家、土木技術者でもあった。空海にみる建築的思考(A)と流体的思考(B)の結合。
◇書道
A: 意味を伝達する言語機能
B: 渦巻く墨痕による官能的な音楽性
◇名文
A: 明瞭に意味を伝えること
B: 視覚的音声的な音楽性
◇土木技術(流体力学)
A: 構造、秩序、幾何学的配分を扱うソリッド・システム
B: 流体への感覚や体験的知識を扱う流体モデル

    §2 アトミズムとクリナメン

★アトミズム
物体をそれ以上こまかく分割できないエレメント(原子)の組み合わせとして理解する思考。現代の、原子論を基軸とした自然科学的唯物論も、このかたくなな建築的思考を脱しえていない。

★クリナメン
古代の自然哲学者;ルクレティウスによるアトミズムの変形。原子を、物体を構成する基本単位としてとらえると同時に、原子には傾斜運動(クリナメン)という性質が内在しているとする。
傾斜運動とは、原子は運動中に、まったく不定の時点に、まったく不定の位置で、進路を少しそれ、運動が変化してゆく、という考え方。この性質がなければ、すべての原子は空間を一直線に下降するばかりで、衝突はなく、秩序が生成されることもない。

★カオス・コスモス・自己差異化運動

<1> カオス
カオス(無秩序)とは、すべての原子が直線運動しかせず、秩序が生成されない状態。実際には、世界には秩序が形成されており、クリナメンの運動性はカオスを破る。

<2> コスモス(建築的思考)
コスモス(秩序)とは、全体の目的因に沿って構成要素が整然と配列された世界。クリナメンの運動性は、その無目的的な不定運動によって、コスモス(建築的思考)からも逃れ去ってゆく。

<3> 自己差異化運動(流体的思考)
クリナメンの運動性は自己差異化運動である。その運動の、どんな微小な領域をとっても、そこには差異(ズレ)が孕まれており、どれだけ拡大しようともなめらかな運動にはならない。その軌跡はいたるところ微分不可能であり、流体モデルによってしかとらえられない。

    §3 平板な図形とフラクタル

★平板な図形
形式主義数学が前提とするような図形・曲線。細部を拡大してゆけばゆくほど曲線はなめらかになってゆき、最終的には直線と同一視される。このような曲線を基本として微分学は可能になる。

★フラクタル
形式主義数学をおびやかす図形・曲線。細部をどれだけ拡大していってもなめらかにはならず、いたるところが微分不可能である。クリナメンの運動性はフラクタルであり、流体モデル(渦巻き)もまたフラクタルである。フラクタルには最小の部分や構成要素はなく、どこまで拡大していっても自己相似なパターンが現れる。それは単純な原理(ジェネレーター)によって成立するが、建築的思考では把握不可能な複雑性をもつ。自然では、シダ植物や水流、空気の乱流など、いろいろな場面でフラクタルが発見される。

★形式主義数学への無限の侵入
自己矛盾なき完全な数学体系をうちたてようとした形式主義数学は、二方向からの無限の侵入により自己の限界を知ることになる。二方向とは、無限大と無限小である。
無限大とはカントールの集合論のことで、カントールは無限大を「超限数」として数学に導入した。だが、集合論はさまざまなパラドックスをも導き入れ、完全な数学体系をおびやかした。
無限小とはフラクタル幾何学のことで、これは気象理論や流体理論ともむすびつきながら、数学の分野に流体的思考を導入することに成功した。

    §4 非連続性の原理と連続性の原理

★非連続性の原理
知性は、これまで自然を「非連続性の原理」にしたがうものとして扱ってきた。目的論的思考は、自然を構造的=形態的な秩序をもつものとして把握し、意味の作用によって生の流れを言語的秩序に分断する。だが、このような建築的思考は、フラクタルである自然の細部をあえて無視し、知性を故意に抽象化したものである。

★連続性の原理
連続性の原理は「スケーリング」の思想によって表現される。顕微鏡をのぞきながらスケーリングを変化させてゆくと、世界は次々に新しい存在の連鎖(セリー)、異なる倍率からなる存在の束、フラクタルとして立ち現れてくる。それは単なる混乱ではなく、それぞれが水脈をもち、理法にしたがいながら有機的に関係している。世界は連続的だが平板ではない。

★間の思考
カオスとコスモスの間の薄膜を走ってゆくクリナメン、建築的思考と流体的思考を結合させる密教的な経験主義。世界の実相をとらえてゆくためには、知性に渦巻きを導き入れ、知性を流体化する、このような「間の思考」が必要とされている。フラクタルの導入によって数学が自然化されたように、われわれは自己の知性をフラクタル化・自然化し、流体モデルにしたがった新しい自然哲学を作ってゆく必要がある。

以上

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2008年5月21日 (水)

ストーリーと文体

 頭の中が不安と焦燥でいっぱいで、眠られないので文章を書く。そもそも、こんな時間から寝ようとしていること自体、どうかとは思うけれど。

 こないだの『なぜ差別は実在しないのか』[1]以来、永井均のくだんの累進構造[2]と、デリダの脱-構築(東浩紀の解説に憑拠)との関係についてが、哲学的思考の殆んどを占拠してしまっている。ちょっと気を抜くと、サヤエンドウとエダマメの二項対立を脱-構築しはじめていたりして、これはこれで、なかなかノイローゼじみたところがある。

[1] http://mixi.jp/view_diary.pl?id=793187946&owner_id=4224848
[2] 永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店、p.53ほか

 実は、もう一度「カテゴリ-個体性」と「言語的-前言語的」との違い[3]について、文章を書こうと思っていた。「なぜ萌え要素は実在しないのか」という視点から、永井的累進構造を語りなおせると考えたからだ。しかし挫折。理由は、いつのまにやら筆がそれて、大上段に「オタク系文化における萌えとはなにか」を論じはじめてしまい、正直疲れたというのが一点。それから、自分としては、こないだの読書感想文[4]以来、新しい着想をえたというわけではないので、浅薄な知識で解説文なんかを書いてもなんの意味もないと考えたというのが一点。

[3] 「カテゴリ-個体性」的誤読は、京都哲学道場界隈では「固有名的誤読」の名前で通っているらしい。
[4] http://mixi.jp/view_diary.pl?id=702130773&owner_id=4224848

 それで、とりあえずこの文章では、ぼくにとって重要な問題である、小説におけるストーリーと文体という二項対立を累進させながら(脱-構築しながら)、永井的累進構造とデリダ的脱-構築との関係について、いまの自分に分かるだけのことをメモしておこう。

 とりあえず、累進構造の記法を決めておく。註2の書中p.53に掲げられている図を、この文章中では次のように略記する。

[{(心理的:現象的):現象的}:現象的]……

 さて、以前に文体について少し考えてみたことがあるので、その時の文章を引用してみよう。

>ここに見出される意味こそが「文体」である。それはリズムであり、感覚であり、文字から無媒介的に与えられる躍動であり、野生の感動である。それは本質的に論述不可能な存在性である。それはただ「生きる」というありかたのみにかかわっている。わたしという存在と中心で結ばれたなんらかの存在、いやむしろわたしそのもの、それこそが文体の本義であろう。わたしの存在は本質的に言語なのであり、その言語をわたしという存在において語りだすことによって、小説というアートは成立しうるのである。[5]

[5] http://mixi.jp/view_diary.pl?id=317419539&owner_id=4224848

 この直前のくだりで、ぼくは文体とストーリーとの分離不可能性について書いている。これは、文章を文体のレベルで読むか、ストーリーのレベルで読むかの決定不可能性について書いたものだともとれる。「わたしの存在は本質的に言語なのであり」という時、ここでの「言語」はエクリチュールの意味であって、だからこそコンスタティヴな読解(文体的読解)とパフォーマティヴな読解(ストーリー的読解)のあいだを揺れ動かざるをえないのである。このような「文体」のことを、東浩紀によれば、デリダは「リズム」と表現しているらしい。[6]

[6] そして、まだ『存在論的、郵便的』を読んでいなかった頃に書かれた自分の文章をこのように読みなおすということは、過去の自分を郵便的に誤配するということでもある(要らない註釈)。

 このことを、永井的累進構造で表現すれば、次のようになる。

[{(ストーリー:文体):文体}:文体]……

 最上段の意味での「ストーリー-文体」という対立は、それが言語化されてしまった瞬間「ストーリーの中における『ストーリー-文体』という対立」へと読み替えられる。ぼくが文体(=無媒介的感動、非内容規定的表現)において書き綴った小説を、読者はストーリー(=媒介的感動、内容規定的表現)として読解せざるをえないのである。そこで、よしんば読者がその小説の文体について考えたとしても、それはすでに「定義上、非内容規定的な、しかし実際は内容規定的な要素」について考えているに過ぎない。
 この累進構造を、前言語的側面にいたろうとして失敗する無限の運動として捉えることができるだろう。

 デリダ的脱-構築は、累進の仕方が逆である[7]。ストーリーと文体の関係を脱-構築してみると、以下のようになる。

[7] 註2前掲書、p.156

……[ストーリー:{ストーリー:(ストーリー:文体)}]

 すなわち、ここでの最上段とは、真に言語的な側面のこと。こちらの無限背進は、前言語的側面を削除しようとして失敗する無限の運動として捉えることができる。ぼくが文体において小説を書き綴ろうとする時、その文体をストーリーとして読み替える外部(=〈他者〉)の存在が示される。この外部を、ぼくは否定し去ろうとするのだが、否定し去ってしまった瞬間、その構造全体を包摂する外部の視点が提示される。この運動が無限に進行してゆく……。

 言語的-前言語的という対立は、もちろん累進する。以下のように。

[{(言語的:前言語的):前言語的}:前言語的]……

 しかし、累進(進行)を計測するには尺度としての静止が必要となる。そのため、あえて「言語的-前言語的」という対立を累進しない対立として立ててみよう。そうしておいて、はじめて「永井均における対立とは『言語的-前言語的』という対立のことなんだ」と述べることができる。このようにして固定された最上段性、すなわち「常にどこかに最上段が実在するという信念」のことを、デリダ的に表現するならエクリチュールということになる。永井的前言語性=デリダ的エクリチュールが最上段性を担保することによって、はじめて累進(進行)について語ることができるようになる。このように仮構された尺度であるからこそ、エクリチュールは概念ではなく操作子と呼ばれるわけだろう。

 なお、最上段性もまた累進するというテーゼは、脱-構築が何度でも繰り返せるというテーゼに対応している。以下のごとし。

    【永井的、最上段性の累進】
[{(それ以下の段:最上段):最上段}:最上段]……

    【デリダ的、脱-構築の無限進行】
……[構築:{構築:(構築:脱-構築)}]

 以上、このごろ考えたことのメモ。あと、浅田彰を読んでいて、永井均の「解釈学-系譜学-考古学」の関係が「前近代-近代-ポストモダン」の関係に対応するような気がしたのだが、さすがにバカらしいので書かない。

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2008年5月 2日 (金)

雑記 20080501

 先輩から再びお話があり、こないだ紀行文を掲載してくださった東京某大の文芸誌に、こんどはルポルタージュを書かせていただくことになっていた。なんでも京都の遊廓について文章を書いて欲しいとのお話。その〆切が本日(五月一日)であり、ここ三、四日ずっと書きあぐねていたのだったが、数時間前にようやく脱稿することができた。タイトルは『高瀬川明暗』で、ペンネームはまたも冲月仄生、〆切に間に合ったという扱いになるなら掲載されると思います。
 それにしても、このたびの原稿は本当にたいへんだった。ルポというのは、基本知識を前提にして、そのうえに「取材源の証言」または「潜入取材」を組み合わせて成立するものだとぼくは思うが、さて自分をかえりみてみると、人脈なし、金脈なし、郷土史の知識さえもがわずかときている。これじゃあ原稿なんて書ける筈がないものを、調子がいいものだからほいほいと引き受けてしまって、あとから難儀したというわけ。ミノホドヲシレという教訓。
 今回の原稿は、転載予定はありません。明きらかに完成度が低いと思いますので。筆耕硯田の夢は、まだまだだなあ。

      ×

 ヤフオクのこと。友人と組んで(正確には、友人に売る物を提供してもらって)一ヶ月ほどいろいろ出品してみたが、とりあえず第一次販売計画は終了という見通し(まだ完全に取り引きが終わったわけではありませんが)。十五品出品して、四品捌けた。先行投資が大きく、結果的には赤字。別の友人から、二十年ぐらい前のポルノチラシ十数枚を提供してもらって、出品したりしてみたのだが、まあなかなか難しいもの。

      ×

 先日(四月二十七日)の京都哲学道場、テーマは永井均II。マイミクのARUKOBUさん(新らしい友人)と、おつれの女性の方が参加してくださった。参加者は多かったけれど、それほど活撥な議論でもなかったように思う(ぼくも話のタネがあまりなかったし)。
 で、まあ、哲学道場の話はどうでもよいとして、永井均。いまさらながら思うのだが、『なぜ意識は実在しないのか』は本当に面白い本である。非常に構図がすっきりしている。それは、ほとんど読者の<誤読>を許せるほどだ。例えば差別論に応用してみると、この本と併行的に「なぜ差別は実在しないのか」を立論することができるように思う。ちょっとやってみよう。

『ぼくにも君にも共通に理解できるとされる、差別っていったいなんだろう。そんなもの、本当に「ある」のか?
 差別なんて一般的なものは、じつは存在しない。それは、現にぼくが感じている「差別されている!」という端的な現実を、あたかも誰でもに対して妥当するような一般的事実として読みかえてしまった時に成立する、高度に抽象的な構成概念なのだ。このように公共化されてしまったあとでは、誰もが「自分は差別されている!」と主張することができる。こうなってしまえば、逆方向からふたつの主張を同時に立論することが可能になる。一方で「あらゆる行為(言葉)は差別(差別語)である」ということになり、他方で「そもそも差別(差別語)なんか実在しない」ということもできる。これは最上段における「差別でないこと‐差別であること」という対立が「差別でないことの内における『差別でないこと‐差別であること』」という対立へと読みかえられてしまった以上、必然的である。
 ひとたび差別が実体化されてしまえば、ぼくが現にいま差別ゾンビ(差別されているかのようだが実は差別されていない人)であることだって充分可能な事態となる。「あなたは経済状態がしかじかだから、実は差別されてないんですよ。あなたの感じているそれは、実は差別ではないのですよ」という社会学者の発言は、充分説得力を持ちうる。自分が差別ゾンビである可能性の成立こそが、自立的な「差別」概念の完成を意味するのだから。
 世間にいう差別語のアポリアなどというものは、「現に差別語である/ない」ということを実体化し、対象化し、実在化するところから生じる、架空の問題であるとぼくは考える。だから、すべての言葉が「差別語だ!」として糾弾の対象になりうることは避けられないのだ。そこで「なぜこの言葉は差別語なんだろう?」などと論じられたって、砂上の楼閣、空中戦、ぼくには問いの意味そのものがわからない。
 ああ、しかしぼくのこの議論は有意味でありえようか。ぼくが「ぼくは〈差別〉されている!」と述べる時、この言葉は必然的に「誰もが差別という社会関係のうえに生きている」という意味に頽落せざるをえない。ぼくが「そうじゃない、違うんだ。ぼくは現に〈差別〉されているんだ」と言ったところで、他人たちは「そうだね、誰もがみんな差別されながら生活しているんだね」と返すだろう。この読みかえは、構造上必然なのである。
 ……云々』

 多分、これが「差別を脱構築する」ということの意味なんだろうと思う(東浩紀的にはゲーデル的脱構築かな?)。まだ実験していないが、同じノリで「なぜ刑法は実在しないのか」「なぜ悪は実在しないのか」「なぜ魔術は実在しないのか」辺りはいけると思う。そういえば永井の「開闢の神‐普通の神」という対立だって「なぜ神は実在しないのか」という問題系であるわけだし。
 以上のような『なぜ意識は実在しないのか』の<誤読>を、ぼくが冗談でやっていると思っていただいては困る。この架空の本『なぜ差別は実在しないのか』の中で述べられていることは、すべて完全に正しい。この架空の本の序文にもまた「本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的」だと述べられているだろう。実際そうであるとしか言いようがない。ぼくの黒歴史である旧『差別論』だって、議論の道筋は幼稚ながらも本質的にはこういうことを考えていた(と思う。多分)。

 問題は、以上のような読みが<誤読>であるのかどうかだ。もちろん<誤読>であるには違いなかろうが、それがどういった意味での<誤読>なのか、それが重要なのである。それによって、これからの考え方も変わってくる。
 なんだか、永井均を援用して差別を存在論的脱構築したつもりが、そもそもの永井均自体を郵便的脱構築してしまったように思われなくもない(この、どこまでいってもついてくる東浩紀の影をどうにかしてくれ!)。

      ×

 いつまで生きてるんでしょうね。ぼくのような人は、たいがいぼくぐらいの年齢になったら自殺してるものですが。若年自殺者の手記を読むたびに、ああ、この人はぼくに似ているなあ、と、いつも思わずにはいられません。
 でも、本当は似てないんだ。ただ一点だけ、彼らはぼくとは違う。ぼくは汚い、そして彼らは美しい。それだけの違い。そうして、それがどれだけ大きな違いであることか!
(ついでながら言っておくと、ぼくが手記を書いたら、それを読んだ誰かはぼくのことを「美しい」と思うかもしれない。でも、ぼくは「現に」汚いんだ。この「現に」に傍点をふろうがゴシック体にしようが、どうしてもぼくの言いたいことは伝わらない、ということが、ウィトゲンシュタインの真に驚嘆すべき根本洞察なのでした。ほら、もう「美しく」なっちゃってるでしょう?)
 言いなおしましょう。「いつまで生きてるんでしょうね」ではなく「これからどうやって生きてゆくんでしょうね」だ。もうなにもかも終わった気がしてならない。

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2008年2月 4日 (月)

『なぜいし』を考える 2

      (承前)
 すなわち「赤のクオリアは××である」という無限の命題の総体として、赤のクオリアという「こと」が与えられているのではない。そんなふうには決して記述できない「こと」を、現象的側面という言い方は指示しようとしたのだ。いやもちろん、それは指示不可能性ゆえに必然的にしくじらざるをえず、言語に乗った瞬間から「論理的に付随している」か「自然的にも付随していない」ことへと頽落する(この「頽落」が、実はハイデガーの術語であるということには注意されたい)。論理的に付随しているとは、〈私〉が当人へと読み替えられるように、現象的側面が心理的側面に(心理的な概念の中の心理的‐現象的という対比に)読み替えられてしまうということであり、自然的にも付随していないとは、端的な事実である「他者の現象的側面の不在」が〈私〉を当人として読み替えたのちにも、いわば定義的に反復されるということである。〈私〉が当人へと読み替えられた時点で、すでに私は〈私〉でないし、だから他者も〈他者〉(決して隣人をもたない比類なき〈私〉の隣人たち)ではありえない。

『では、他者はゾンビなのでしょうか。一つの意味では、まさに[#「まさに」に傍点]そうなのです。(……)
 しかし、別の意味では、それらは現実の[#「現実の」に傍点]他者ではない』(p.82)

 個体性への愛が不可能であるということの意味は、ここにしか求められない。存在的な愛(世界の中に存在する対象物への愛)、いっさいを言語化しようとする愛は、つまるところカテゴリへの愛にとどまるのであり〈他者〉への愛とはいえない。個体性への愛は存在論的な愛(世界が存在するということへの愛)であり、だからこそその試みは挫折する。個体性のレベルとは心理的‐現象的の対立が生き、動いている最上段における現象性のレベルであり、それはかくもカテゴリ=言語化可能な世界からは乖離している。
 だから、赤のクオリアという「こと」は無限の命題の総体としては与えられない。赤のクオリアは、その、あらゆる意味を剥奪された無意味性においてこそ、与えられなくてはならない。それは原理的に意味の世界には乗らない仕組みになっているのだ。

『(……)そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ(……)』
(『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫、p.254)

 これはニーチェの読みだと思われる。永井は存在するということそのことを奇跡と呼んでいる。ここで驚かれているのは存在論的な驚きであり、決して存在的な驚き(意味に対する驚き)ではない。ニーチェが愛せよと述べた運命とは存在自体の別称であり、その内実に意味があるから愛せよと述べたわけではなかったのだ。
 同じことはクオリアに対しても言えはしないだろうか? 赤のクオリアの、決して語りおこすことのできない現象的側面。あらゆる意味が言語化されてゆくことによって、そこからはあらゆる意味が剥奪されてゆく。あたかも塩をふりかけた蛞蝓から水分が剥奪されてゆくように。赤のクオリアを「血のような」と表現することによって、その現象的側面からは「血のような性」が剥奪される。言語化されるものは心理的側面でしかありえないのだ。「情熱的な」と表現することで「情熱的な性」が、「劣情を催すような」と表現することで「劣情を催すような性」が、そこから剥奪される。いったいなにが残るだろうか? いや、なにも残ってはならないのではないか?
 本書中で、メアリーの部屋の思考実験はどのようにして解決されていたか、思い出してみよう。

『で、私自身の反論は簡単です。それは、この話はメアリーがゾンビであっても成り立つのではないか、というものです。(……)ゾンビ・メアリーにも「現象的体験」として位置づけられている心理的機能があるはずです。定義上[#「定義上」に傍点]、それは物理学的知識からは推論できない位置にある。とすれば、彼女もまた外界に出て赤や青を見たとき、それまで知らなかった世界の事実についてはじめて知ることになる(……)』(p.92)

 最上段における心理的‐現象的の対比は、〈私〉の当人への読み替えの運動によって、必然的に心理的な概念の中での対比へと転落する。そこでいかに「現象的体験」の名を騙ろうとも、それはもはや捏造された「意識」なのであり、しょせんは心理的機能に過ぎない。メアリーにとって有意味な事実はすべて心理的機能の範疇に収束されてしまう。それなら、とりこぼされた「赤」とは、いかなる形でも無意味な「赤」とは、いったいなんなのか。

 そんなものは、どこにもないのだ。最上段の、まったき現象的な側面から赤のクオリアを捉えたところで、それはまったき現象的側面から捉えられた青のクオリアとなんの違いもない。右目と左目でそれらが逆転することはありえない。なぜなら、それらは端的にないという意味で「同じ」だからだ。[#この段落は全文傍点]

 ここでぼくは、シューメイカーが言ったこととも、永井がレトリカルに語ったこととも、別のことを述べようとしている。まず、ぼくはシューメイカーとは違い、判断は(構成概念としての)意識にアクセスする権限をもたない、などという空中戦的立論をしたいわけでは無論ない。かといって、永井が示したように、われわれの言葉が理解可能なかぎり、われわれはすでにしてゾンビである、だから赤のクオリアなんかない、という事実を示したいわけでもないのだ。ぼくはいまから、言えないことを言おうとしている。
 目の前に、赤鉛筆と青鉛筆がならんでいる。それらを、赤を知覚する機能、青を知覚する機能に沿って、ぼくは区別することができる。だが、そんなことは完全に機械的なロボットにだって可能なことだ。ぼくは、それだけではないのだ、と思う。ぼくは、現実に赤という生々しい感覚を、青という生々しい感覚を、体験している。だが、この体験の、いったいどこまでが心理的な側面であり、どこからが現象的な側面であるのか、ぼくは区別することができない。この体験の内で、言語化できるものはすべて心理的な側面である。赤と青の区別はもとより、その情熱的な感じ、あざやかな感じ、好ましい感じ、すべらかな感じ、それらすべては心理的側面の範疇にぞくする。現象的側面は無意味である。無意味ゆえに、ぼくはそれを区別することすらできない。

『したがって、記憶が言語的であるという主張は誤りでなければなりません。(……)現在においてだけ現象的な質を体験しても、それを保持できなくなりますから。(……)要するにわれわれは、自己として、過去の自己と現象的[#「現象的」に傍点]につながっているのでなければならないのです。(……)そして、ゾンビもまた一個の人格であるかぎり、このことはゾンビにもあてはまらなくてはならないのです』(p.107-108)

 ゾンビにもまた、現象的な質を保持しておく機能がそなわっていなければならない。そうでなくては、ゾンビは一個の人格と見なされることができない。もちろん、ここで「現象的」とは心理的な概念の中での対比におけるそれである。だから、それは実は機能なのだ。ただ「言語的ではありえない」という位置づけになっているだけの、ひとつの機能なのだ。それが具体的にはどういうものなのか、よくは分からない。ぼくは、もちろん機能に尽きるものでない現象的体験を有している。だが、そこからはいっさいの意味が剥奪されている。つまり、現象的体験などというものに内実はない。現象的体験などというものはないのだ。現象的体験という言葉でぼくが伝えようとしているのは、ただぼくが現実に存在するということ、すなわちぼくには現実性があるということ、ただそれだけのことに過ぎない。だから、最上段の意味での現象的体験がどれだけ生き、動いていようとも、それで赤の現象的側面と青の現象的側面に違いがあるということにはならない。それらは同一のことを語っているのだ。それらは、現実であるということ、存在しているということ、それだけをひたすら語っている。だから、右目と左目でそれらが逆転することはありえない。それらは端的にないという意味で、というよりかは端的に現実でありまたそれ以上のいかなる存在者・実体でもないという意味で、「同じ」だからだ。
 これは存在論の切り拓かれる現場であり、存在論的な愛が個体性を狙撃する(そして必然的に失敗する)現場でもある。ここにおいては、もはや私秘的な「もの」などなにもない。すべては言語化されうるわけだし、よしんば言語化不能なものがあったところで、それは未知の領域とはいえないのだ。神秘はひとつ、ただひとつ、私秘的な「こと」として与えられている。そうして、ぼくの言葉が理解可能なかぎり、以上の論述が不可避的にシューメイカーの水準まで転落せざるをえなくなるということ、それが永井が本書で示したことなのである。
(終わり)

      ×      ×      ×

 自分で書いていて不安な論考。正しいような気もするし、なにかひどい間違いを犯しているような気もする。『なぜいし』における永井均の議論を進展させたような気もするし、もうすでに書かれていることを繰りかえしただけのような気もする。とりあえず、ご批判をお待ちしてます。
 なお、発表者某氏との議論がなかったなら、この文章はなかったと思います。さんくす也。

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2008年2月 2日 (土)

『なぜいし』を考える 1

 去る1月27日、第20回京都哲学道場で永井均『なぜ意識は実在しないのか』第1日を扱った。発表者はぼくではなかったが、当日まで数次にわたり、発表者某氏とレジュメの読み合わせを行うことができた。それ以前にも同書についての討論を行っており、哲学道場当日も含めれば、延べ二十時間近い議論を重ねたことになる。分からないことも多いが、見えてきたものも多い。
 ぼくの再読(精読)も終了し、第3日を除けば全体が俯瞰できるようになってきたので、再度、同書について考えることにする。なお文中敬称略。

      ×      ×      ×

 言語的‐前言語的という対立軸は、本書の基本的視座であるが、それを正しくつかまえることはとても難しい。話をカテゴリと個体性の対立と比較しつつ、ズレを探ってみよう。
 ぼくは個体的な自己理解と、カテゴリカルな自己理解のあいだをゆれうごく存在である。個体性という術語は、シェーラー=中島義道の用法を踏襲したもので、ぼくという全体性、ぼくという「他の誰でもなさ」を表現している。真の愛は個体性にむかうものであると、シェーラー=中島義道はいう。だから、原理的に愛は不可能だとぼくは考える。決して到達することができない相手の存在自体こそが個体性なのだ。
 一方で、カテゴリカルな自己理解とは、言語のレヴェルにおける自己理解のこと。例えば「男性」とか「えせ文士」とかいうのがこれに当たり、この両カテゴリに含まれる領域の中に、ぼくは存在している。ここにさらなる限定を加えれば、領域はますます狭くなるだろう。しかし、いかに局限されようとも領域は点ではない。すなわち、ぼくのみを描出し、他のいかなる存在者をも描出しないような領域はありえない(それはすでにして点だから)。カテゴリカルな把握は、ついにぼくを指し示すことができないのである。
 さて、一見すると、カテゴリ‐個体性の対立軸を、言語的‐前言語的の対立軸に重ね合わせることができるかに思える。だが、この捉え方はズレているのだ。
 永井均の言語的と前言語的の対立とは、当人と〈私〉の対立のことである。〈私〉は言語化されることによって当人へと読み替えられ、言いたかった正しいこと(ぼくは〈私〉だ!)は言ってしまった別の正しいこと(ぼくは当人だ!)へと頽落する。これは、言語的=カテゴリカルな把握が個体性に届かない、ということとは違う。ここが誤解されると、クオリアの話がえらいことになる。
 赤のクオリアについて考えてみよう。赤のクオリアについての言語的‐前言語的な対立とは、赤のクオリアにおける「心理的な概念の中での心理的‐現象的の差」と「最上段の心理的‐現象的の差」の対立だった。心理的な概念の中の赤の現象的側面が、実体として立てられる時、意識という高度に抽象的な構成概念が捏造される。この話が、言語が個体性に届かない、という話として読み替えられるとどうなるか。
 ぼくが「赤い」と言う。彼が「どんなふうに赤い?」ときいてくる。ぼくは「血のような赤さだ」と答える。これで、赤のクオリアという存在者の含まれる領域が少し狭まった。彼はさらにきいてくる。ぼくは「情熱的な感じだ」だの「劣情を催す」だの、いくらでも答えることができる。どんどん領域は狭まり、やがて点に近づいてくる。だがしかし、決して点(前言語的な赤のクオリアそのもの)に到達することはできない。局限しようという試行は無限累進化する……。
 こんな対立ではないのだ。赤のクオリアそのものに、その方法で迫ることはできない。なぜなら、仮に無限累進の階梯を無限にかけのぼり、赤のクオリアとして一点が示されたとしても、すなわち赤のクオリアが完全に局限され切ったとしても、そこで指示された対象からは、最上段の意味での現象的側面が逃げおおせてしまっているから。この階梯は、言語というカテゴリカルなレヴェルから無規定的な知覚への媒介をはたすが、その媒介が完全に成功したところで、たかだか知覚の内実が明らかになるというにすぎない。赤のクオリアについて、心理的な概念の中で「語り尽くすこと」は可能だろう。しかし、その真に現象的な・前言語的な側面については「語りはじめること」すら不可能である。

『つまり、私の感じている色や味が、その人の感じているものと一致するかどうかは、どこまでも決してたしかめられないわけです。いや、この領域では、そもそもそういう一致とか不一致といったことは、原理的に成り立っていないのです』(p.26)

 文中の「どこまでも」は「たしかめられない」ではなく「決してたしかめられない」全体を修飾している。どれだけ確かめようとしても「まだ」確かめられていない領域が残されている、のではなく、どれだけ確かめようとしても「決して」確かめられない領域が残されている、ということが言われている。でなければ「原理的に」成り立っていないなどと言われる筈がないからだ。

(続く)

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2008年1月27日 (日)

超自我、検閲失敗す。

 筒井康隆は『パプリカ』という小説を書くにさいして、一夜の内に白髪になったと述べている。『パプリカ』は夢に取材した小説であり、執筆のために自分が視た夢をいじくりまわしていたために、白髪になってしまったのだという。筒井は、この体験を元に、夢というものを安易な気持ちでほじくるものではない、必ずしっぺがえしを喰らうと忠告する。だが、こちとら「夢に生き、夢に死す」が商売であり、忠告されてもどうしようもない。ぼくは基本的に、中学二年生の秋から冬にかけて視たいくつかの悪夢に影響されてこれまで生きてきた。フランツ・カフカいわく「夢は現実を暴露する」ということだが、これは夢に対するいくぶん静的な解釈であり、ぼくだったら「夢は夢自体を暴露する」とか「夢は存在論する」とか、せめてもうちょっと動力学的な表現にしたいと思う。

 それはそうとして、今ちょっと精神が不安定である。できたら誰かと話していたいくらいなのだが、午前四時ともあり無理な相談で、しょうがないから日記でも書いて心をおちつける。おちつかなかったらニコニコ動画でも視て陽がのぼるまで繋ぐ。それというわけは、昨日の朝九時に視た夢にあるのであって、その夢が原因で今までずっと精神不安定なのだ。精神不安定というか、正直なところ怯えている。それにしても、いくらぼくの体にガタがきているといっても、まさか象徴化機制が失敗するとは思わなかった。ねえフロイトさんどうですか、さすがにどうかしていると思いません?

 目が覚めた。この「目が覚めた」というところからして問題なわけで、床に就いたのが朝六時、目が覚めたのは朝九時である。ぼくは睡眠には、可能なものなら十二時間でも欲しい人なんであって、三時間で目が覚めるというのはいくらなんでもおかしい。その理由が外的な事情によるのか、超自我の検閲失敗による夢の中断なのかは、まだよく分からない。検閲失敗自体に由来する安眠妨害の可能性もあるが、むしろぼくとしては、外的な事情によって不意に目覚めてしまったため、象徴化機制が失敗した可能性の方が高いと思う。
 目が覚めたとたんにパニックに陥った。あまりにも哀しかった。まるで(月なみな表現だが、この表現以上に適した表現がない)胸に錐をもみこまれでもしたかのような鋭い哀しみがぼくを襲った。だが、パニックに陥った理由は、そのこと自体にあるのではない。ただ哀しいというだけなら、哀しい夢を視たということで終わるべき話で、パニックに陥るほどの要素はどこにもない。ぼくがそんな事態に陥ってしまった理由は、それまで視ていた夢が、不快な・不安なものでこそあれ、哀しむべき夢ではまったくなかったからだ。それまで、ぼくは生温かい不快・不安を味わっていた。その感覚が、目覚めの瞬間に(本当に一瞬で。一秒もかからず)哀しみに転化した。そのあまりの落差にびっくりしてしまって、ぼくはパニックに陥ったのである。
 だが、事情はほどなく理解された。同様な事態を、ぼくは2005年6月28日の午前中にも経験しており、「あれと同じことがおこったんだな」とすぐに分かったからである。2005年6月28日午前という日時がはっきりしているのには理由があって、その日、ぼくは目覚めと共に激しい哀しみの発作に襲われ、半分泣きながら憑かれたように、それまで視ていた夢を小説にしたのである。『海の家をもう一度』というタイトルで、こっちは夢分析がうまくいっていないのだが、おそらく死の夢だったんだろうな、と今にして思う。あの時も、象徴化機制がしくじっていたのかもしれない。
 こんども同じことがおこったのだと分かると、次に、今視た夢がいったいなにを告げようとしていたのか、ぼくは哀しみを怺えながら考えた。だが、数秒とかからず夢分析ができあがってしまった。だから象徴化機制が失敗したというのである。確かに象徴化されてはいたが、あまりにも分かり易過ぎる。これを検閲に通した超自我の方もどうかしていたといわざるをえない。ぼくが数秒で終えた夢分析の結果は以下の通り。

【夢1について】

 地中ふかくの部屋:
 →心の部屋。『遊戯王』とかに出てくるアレ。まさにそのまんま。

 繁茂する植物:
 →心の部屋が自分自身でも見わたすことができなくなって、身動きがとれなくなっている象徴。

 空位する玉座:
 →かつては心の部屋の君主であった自分が、いまや自分自身の心を支配することができなくなってしまった象徴。そこに座っても、もちろん植物のせいで視界を塞がれている。

 植物のむこうに広がる地下水脈:
 →自分の心にひろがる、ながめわたすことのできない広大な領域。ぼくはそこへ行き、心の全体を白日の下にさらさねばならないのであるが、植物にはばまれ躊躇している。そのうちに、植物は完全にぼくの心の部屋を埋めつくしてしまうだろう。早くなんとかしないといけない。

【夢2について】

 地中ふかくの秘密基地:
 →同じく心の部屋。

 そこが崩壊寸前であるということ:
 →もはやそこを守り通すための時間がかぎられてきている象徴。

 そこが蒸し暑く圧迫的であるということ:
 →もはやぼくが自分の心に居た堪れなくなっている象徴。あるいは、現実世界から自分の心の部屋をながめかえした時には、常に不快で圧迫的な場所として映るのかもしれない。心の部屋は、夢の象徴の中でもトップ・シークレット扱いされねばならない場所だから(それなのに、なんでその象徴化機制がうまくいかないんだ……。超自我働け)。

 扉のむこうの巨大な空間:
 →地下水脈と同じ。ぼくはその扉をひらくことに躊躇し、どうしても先に進めない。

 壁中のらくがき:
 →大部分は記憶の投影であり、夢の本質とは無関係。但し、迷路など、ぼく自身が心の部屋にらくがきしたとしか思えないようなものもある。

 やがて部屋を洗い流すであろう水流:
 →心の部屋が「意味不明なもの」に完全に支配される予感。ぼくは心の部屋を出る(世間一般の人々と同じように自己疎外されたままで生きる)か、水流に呑みこまれる(精神崩壊をおこす)危険を冒してでも心の部屋に拘泥するかの二者択一を迫られている。

 次の訪問者のために書き置きを残すこと:
 →小説を書くこと。ぼくの「まだ見ぬ自分にむけて差し出された宛て先のない手紙」という自己文学観を完璧に反映していて、でき過ぎの感すら否めない。

 この夢分析で問題となるのが、繁茂する植物と雪崩打ってくる水流の予感とである。ぼくはこの点の解釈について、いくぶん「精神分裂病の理論」的な読み替えを行なった。植物や水流は「意味不明なもの」の象徴である。「意味不明なもの」とは、現実からは触れることすらできないもうひとつの現実、現実とは違う論理の働くもうひとつの世界である。だから、水流の到来を予感するということは、分裂病理論にいわゆる〈世界没落感 world-destruction phantasy〉と対応する。だが、この読みに、ぼくはいまひとつ自信がない。もしかしたら別の事柄が象徴されているのかもしれない。とにかく判明なのは、それが心の全体を見通せなくしているということ、それがどんどん侵蝕してきて、ぼくをみじろぎもならない状況に追いやろうとしているということである。
 ぼくは〈まだ見ぬ誰か〉のためのメッセージを書き置こうとして、危殆にひんした心の部屋を後にすることができない。ぐずぐずと自分の心に拘泥して、〈まだ見ぬもうひとりの自分〉のために小説を書くわけである。〈もうひとりの自分〉とは誰か? それは、自分=自分という自同律がなりたつことを理解した自分、それゆえ自分の述べたことを自分自身で完全にうけとることのできる自分、いわば完全に統合された神的存在としての自分である。彼は宛て先のない手紙の宛て先をも知っている。すなわち〈私〉が誰なのかということさえも知っている。彼はその意味で、真の神といってよい。
 ぼくにとって、しかし彼は、神というよりかは救世主である。彼は、ぼくがひらくことを躊躇していた扉を自信たっぷりに開け放ち、その先の巨大な未知なる空間へもずかずかと歩いてゆくだろう。彼はその空間を寸毫にいたるまで把握しつくし、その全体を白日の下にひきずり出すだろう。彼はそんな使命を帯びてやってくる。彼は、ぼくの心の部屋をすみずみまで統合された状態へと恢復し、結果として世界(心の部屋)は救世されるのである。ぼくは彼の到来を待ち望む。だがしかし、彼とは自分自身のことなのである。彼は〈まだ見ぬもうひとりの自分〉であり、ぼくは彼への道程を歩んでゆかなくてはならない。ぼくはぼく自身の世界を救い出さなくてはならないのである。

 ……とまあ、こんな夢分析を経て、ぼくは多少あわれみみたいなものを感じた。もちろん自分自身に対してである。夢の中での不快→現実世界で感じた哀しみ→あまりにも象徴化機制が失敗していることへの呆れ→自分ってかわいそうだなあというあわれみ、と、目まぐるしく感情を変転させたぼくは、やがて再び眠りにおちた、という寸法である。

 ぼくの視た夢は、ふつうには悪夢といわれなくてはならないのだろう。だがしかし、ぼくはよい夢であったと思う。この夢は、たとえそれが象徴化機制の失敗であれ、超自我のしくじりであれ、ぼくに語りかけ、ぼくが問いかえすというタイプの夢であり、ぼくはこの夢との対話を通じて、自分にとって解決せねばならなかった問題がますます明確化されてきたことをうれしく思う。問題の全体像がつかめた時、問題はすでに解決されているわけであるから。
 なお、哲学的な教訓としては、「哀しみ」に理由はいらないということ、つまり原因があってその結果として哀しくなるのだという常識的世界把握は間違っているということを教えてくれたといえる。実際、ぼくは自分が理由なく哀しいということを発見し、それにびっくりしてパニックに陥ったのだ。その転化が、夢が現実になるその一瞬間に行われたということは、夢で〈それ〉と触れ合った時と現実から〈それ〉をながめた時との、〈それ〉に対する感情はまったく異質なものであり、現実から〈それ〉に対峙する時のわれわれの心のあり方が「哀しみ」とよばれているのではないか、という推測がなりたつ。この点についてはまた考えたい。

 あと「お前の夢分析は完全に間違っている。玄人の俺にまかせてみやがれ」という方がもしいらっしゃったら、このたびの夢を巨細にわたって記録した原稿用紙13枚分のテキストデータがあるので送りましょう。ま、いないでしょうが(などと言いつつ、たまにいるからインターネットって面白い)。

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2007年12月25日 (火)

読書記録 20071225

 11月22日以降に読了した本は計8冊です。やけに長文になってしまっているので、インデックスつけときます。興味のある本のところだけ適当にながめてください。

中島義道『ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白』(角川文庫)
寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫クラシックス)
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)
株式会社アンク『スタイルシート辞典 第4版』(翔泳社)
株式会社アンク『HTMLタグ辞典 第6版』(翔泳社)
京極夏彦『文庫版 百器徒然袋―風』(講談社文庫)
西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社)
河野道代『spira mirabilis』(書肆山田)

      ×      ×      ×

◆中島義道『ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白』(角川文庫)
 中島大先生の著書は、既読書がそろそろ20冊にもなるのに、未読書もあと20冊くらいはある。このはやさで著述活動ができるというのも、なみたいていのことではないが、それにつけても、大先生の執念が日々肥大化し、彼の神経をいためつける塵寰の事情が日々堆積してゆくのであろうことよなあ、と、心中お察しもうしあげる次第である。本作は新刊ではないから、それはよいとして。
 本作は、しょうじきなところあまり面白くなかった。彼のナルシシズム概念が、ぼくのいわゆる「自己喪失型ナルシシズム」概念とあまりにも違っていたため、どうにも共感のしようがなかった。愛されることが恐ろしい、という感覚がぼくにはなく、その意味ではぼくはマジョリティである。論述も厳密ではないし、文章のアラも目立つ。あまり中島大先生らしくない……というのも、とどのつまり、この本が「復讐」のために書かれた本だからなのだろう。この本において、読者はむしろ外野なのだ。別にそういったことを、ぼくは悪い傾向だとは思わない。ただ、ぼくとしても、ファン心理だけで読んでいるわけではもちろんないということだ。
(なお、いらないことを書きつけておけば、ぼくが中島義道を「大先生」号で呼んでいるのには、それなりの理由がある。まさか、ぼくが中島義道を尊敬しているがために「大先生」号を用いている、などと誤解なさっている方もあるまいと思うけれど。要するに、ぼくが中島義道に必ず「大先生」をくっつけるのは、中島義道がそう呼ばれることを物凄く嫌うだろうからなのである。ぼくは「大先生」号を用いることによって、中島義道が好もうと好まざるとにかかわらずあなたの著書・理論・意見を自分に都合のよいように換骨奪胎させてもらう、あなたの意嚮とは関係なくぼくはあなたを愛し・憎み・ぼくの中で再び生み変えさせてもらう、ということを自戒し宣言しているわけなのだ。つまり、これは屈折した愛の形ということ。ああ、またつまらないことを書いてしまった……)

◆寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫クラシックス)
 執拗なまでに〈イエ〉というテーマに拘泥した寺山が、親の愛情はいかにして子を飼い殺しにするかを剔抉し、故郷を捨て東京に家出することを具体的に論じ奨める、青年の自立について述べた軽快なエッセー(ちなみに、こういう文章の書き方は「褒め殺し」という)。親の愛情がいかにして子を喰べつくし、残酷なまでに生きる力を奪い去ろうとするかについては、中島義道に『カイン』というすぐれた著述があり、もっとあっけらかんとしたレヴェルでは五味太郎『大人問題』などもぼくは好きだが、寺山の、警句を利かせアイロニーをちりばめた独特の文体は、深刻な事態をあざやかに戯画化する、きわめて突出した文学的才能を物語っている。もっとも、こういう才能のない奴(たとえばぼく)には脚本なんぞ書けまい。
 一読して、彼がけっこう「理論家の領分」ということについて自覚的であることを意外に思った。ぼくなんかも自覚的な方なのだが、理論家は、自分ができもしないことを述べてよろしい。やるのは実践家の役割であって、あくまで仕事上の領分は守らねばならないし、そうでなければ理論家なんてやっていられない(いくつタマがあってもたりないということになる)。寺山は、根っからの演出家だ。彼は若者を集め、鼓舞し采配を揮う。いつぞやのNHKの番組が、彼を「東京を見世物小屋に作り変えようとした、偉大なる興行師」だと評していたが、言いえて妙だ。「見世物小屋の思想」はニーチェと、そしてぼくの差別論の思想とも通じるものがある(ぼくの差別論が思想と呼べるならの話だ)。
 寺山修司は、現代においてもっとも読まれるべき作家のひとりだとぼくは思う。新しい言葉を作るのがめんどうくさいので、あまりに薄汚れた言葉をあえて用いて楽するが、彼はポストモダニストだ。ぼくのくくりだと、中島義道、京極夏彦、そしてぼく自身などもポストモダニストということになる(中島義道においてもっとも顕著なポストモダニズム的用語は〈対話〉である)。寺山が「われわれは倫理を自分で創出しなければならない」という時、その言葉は非常にポストモダニスティックにひびく。
 尤も、寺山の演劇は観客参加型の演劇だと思うから(先輩H氏はそう思わないと仰っていた)、観客があまりにも役に立たなくなってしまった現代、ひと工夫欲しいところではあるなあ。

◆永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)
 ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』のむこうを張ったということだが、読んでいてあまりそんな感じはしなかった。中島大先生やらにもくそみそにけなされている『ソフィーの世界』であるが、少なくとも哲学書とは言えないんだろうなあ。というか、みなさん読む物を間違えている。ヨースタイン・ゴルデルは、まず『カードミステリー 失われた魔法の島』を読むべきなんだよな(どっちにしろ哲学書ではないけれどさ)。
 さて、この『翔太と猫のインサイトの夏休み』であるが、本作は凄い。どう凄いといって、ぼくは「哲学書」を日常言語で書くことなどできる筈ないと思っていたからである。永井均には『子どものための哲学対話』という面白い本もあるが、あの本にしたところで議論に一貫性はなく散発気味で、とにかくふしぎなことを集めたというような感がある(もちろん、それがあの本の意図なのだから、別に否定されるべき理由にはならないが)。それに比べ、本作の議論のなんと体系だっていて深いことか。もちろん、読者には理解力と思考力とが要請される。日常言語で哲学書を書くことはできても、理解力と思考力を必要としない哲学書を書くことは不可能だ。
 それにしても、やはり〈私〉だ……。ぼくには永井の議論が慎重すぎるように思えてならない。というのも、ぼくにしてみれば〈私〉という概念(正確には比喩)は物凄く単純なことを言っていると感じられるからなのだが、逆にぼくの周りには「〈私〉とはなんなのかサッパリ分からない」という人もたくさんいるようだ。しかし、こういうのはどうだろう? お母さんが子供に「あなたがわたしの子供として生まれてきてくれたことは、凄いことなんだよ。もしかしたら、あなたはとおい昔の、とおい国の王子さまとして生まれてくるのかもしれなかったんだからね」と言う。このような場合、このお母さんは〈私〉というコトの意味を正確に捉えている筈だし、子供もすんなりと理解するだろう。なぜなら、この場合に言及されているコトは当人としての私ではありえないからだ。当人としての子供が当人としてその子供以外でありうる筈はないのだから……と、ああ、だめなのか。頽落している。いや、頽落してないのかな? でも、永井均いわく言語ゲームのレヴェルで〈私〉を「語る」ことは不可能だった筈なんだけど……『なぜ意識は実在しないのか』を読み返そうっと。
 死をテーマに出してきたあたりから、永井ニーチェの「読み」が始まる。あの難解で有名な『これがニーチェだ』の中心的主張に繋がってゆく。ぼくは分かったような分からないような気分になる。ぼくはニーチェの運命愛を中島義道的に読み替えている。運命を愛し「かつ」憎みつつ、生きることに苦しみ「かつ」生きることをやめない、こういう自己撞着した往生際の悪い中島大先生的な生き方、これを運命愛だと考えている。ぼくは、いまでは残念ながら体感しにくいのだが、いちど永劫回帰を体感したことがあり、その体験から「存在」を愛するという意味がよく分かるのだ。確かに、それは無意味を承認することかもしれない。けれど、ぼくを意味として創出しない文学に、いったいどんな必要性があるというのか。まあ、このあたりは課題ということにしておこう。ニーチェは、けっこう好い加減にしか読んでいないしね。

◆株式会社アンク『スタイルシート辞典 第4版』(翔泳社)
◆株式会社アンク『HTMLタグ辞典 第6版』(翔泳社)

 スタイルシート辞典を読んだ時点で、XHTML の意味は殆ど理解したので、HTML タグ辞典を買ったのは、まあ復習といった体だ。なにより、にわか勉強の HTML をまともな構造を持つ HTML が書けるように勉強しなおしたかった。知らないタグがわんさとあったものね、cite タグだの dfn タグだの address タグだの。CSS も、かなり使えるようになってきた。あとは、きたるサイト再構築の日のために、ゆっくりデザインを練りつつ JavaScript の勉強でもするくらい。PHP ないし Perl は、新サイトを見切り発車させる日には間に合わせなくともよいでしょう。なお、仮設梦幻院からサイトのタイトルも変えるつもりです(すでに決定済み)。
 一応読書記録なので、本についての評言を附しておけば、両書共にかなり良質な方だと思う。誤字脱字はあるが、理系の書籍なんてこんなもんだろう(文系の書籍なら許さない)。解説が不十分だったり誤解を招きそうな表現をしている部分もあったが、読者が標準的な理性を具備しており、的確にググる(ないしヤフるかゲイツに訊く)能力を持っていれば、問題はない。ただ、タグ辞典の方にくっついている『Web用語辞典』の日本語の馬鹿さ加減にはあきれたね。ぼくは「正しい日本語」という考え方を認めないが、それは「言葉の意味は一定ではない」ということを承認しているだけであって、美しくない文章を、まして意味が通らない文章を褒めるわけにはとてもゆかない。はっきり言ってこんなものは基礎の基礎だと思うが、主語に対する述語が正しくなかったり、複数の主語に対して片方にのみ対応する述語をくっつけたり、というような間違いが目立ちすぎる。長い一文を書いている内に主語を忘れてしまうなんていうのは、自分の書いた文章を読み返していない証拠だ。査読もなってない。このレヴェルのミスは、ちょっと度しがたいミスである。もっとも、このレヴェルすらクリアできていない小説家が日本になん人いることか。
 そういえば、中島大先生にしてもそうだけどさ、哲学者って文章うまいよね。やはりたくさん本を読むからかな。筒井康隆の言う通り、少しは古典を読みなさい古典を。なんで、まだ小説家で「すら」ないぼくが叱らなきゃなんないんだろね。

◆京極夏彦『文庫版 百器徒然袋―風』(講談社文庫)
 で、ちょっと仰ぎたくなるくらい「まとも」な日本語の典型がここにあります。京極夏彦、こいつぁガチだ。
 百器徒然袋シリーズは、『姑獲鳥の夏』から『邪魅の雫』にいたる京極堂(妖怪)シリーズのサイドストーリーの内、特に探偵;榎木津礼二郎を主役に据えたシリーズものであり、現在『百器徒然袋―雨』と本作との二作が公刊されている。まあ、くだくだと解説することもないのだろうが、榎木津礼二郎は超能力探偵である。それだけなら「ああ、その超能力を使って事件を解決するのね」というのが普通人の反応だろうが、その超能力を使って事件を解決する「わけではない」から凄いのだ。このさい、彼の超能力なんざあってもなくても同じなのである。榎木津礼二郎は、超能力ではなく彼の常軌を逸した「性格」によって、事件を解決するのではなく「ひっかきまわす」のである。けっきょく、まいどながら中禅寺御大が重役出勤することになるしねえ……。
 さて、本作を一読して、ぼくは非常に演劇的な構成をしていると感じた。京極夏彦は脚本も書いているし、日本古来の演劇に造詣が深いようだから、きっとそういうクセが出てしまうのだろう。本作において、役まわりというのはとてもハッキリしている。主人公は誰か、どこでどの役者がどういうを役割を担って登場してくるか、そういうことがかなり意識的に構造化されていると思うのだ。筒井康隆も言っていたが、文学の基礎は演劇にあるのだなとしみじみ感じる。ぼくにはそういう素養が殆どない。
 但し、そのことによる弊害も見てとれる。この小説、どうにも「活劇風」すぎるのである。エンタテイメントにはすぐれているが、リアリティはあまりない。『姑獲鳥の夏』から、多分『狂骨の夢』あたりまでは保持されていただろう独特の「おどろおどろしさ」を一片も感じることができない。ご都合主義の勧善懲悪モノ、という気がしないでもない。そこはやはり京極夏彦、体調や気分やネタ切れなんかに左右されることなく、常に完全な文体とほれぼれする構成を保っているが、しかしなにか足りない気はする。逆に、その足りなさをこれだけ技術的に隠そうとしているのが凄いことなのかもしれない。でもぼくにとって、京極夏彦の最高傑作は『魍魎の匣』であり、それが超えられることは多分ない。もっとも、京極夏彦の天才ぶりが存分に発揮されているという点では『絡新婦の理』が一番だろうけれど。
 あ、そうそう、魍魎が映画化されるそうで。全然知らなかったんですが、もう公開されているそうじゃないですか。これは見ずばなりませんな。

◆西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社)
 本月の読書会の課題図書……だった筈が、諸事情によりまだ読書会は行われておらず、詳細未定。いまから参加したいという方は参加可能です。詳しくは、ぼくの管理する『Skype で読書会!』コミュニティを参照してください(mixi 限定)。
 とりあえず帯を見て、頭痛がしてきた。清涼院……流水……? ハァ……。なんか御大に惹句を書かれるだけで、ガクーッと士気がさがるのはどうしてだろう……。『西尾氏、イチ押し』って言われてもねえ……。ハァ……。
▼註:ご存知ない方のために一応言っておくと、清涼院流水は「壁本」=「読んだら壁に投げつけたくなる本」で有名なミステリ「大」説家です。読んだらあきれること請け合いですが、どうも嫌いになれないのはふしぎ▼
 疲れたのでさっさと感想に移る。本作はメフィスト賞受賞作ということで、おそらく処女作なのだろう。それにしては、かなりうまいという感触を持った。確かな才能があるようだし、日本語もひどくない(少なくとも清涼院流水とは雲泥万里だなア)。というか、これはうまいと言ってしまってもいいのかもしれない。程度の差ではなく方向性の差であるが、ライトノベル的なモノをやる気ならこの文章は物凄くうまいという気もする。まあ初見での印象はそんなところ。
 読んでいて、とても面白かった。スイスイ読めた。しかし、ここでまた清涼院流水が登場するわけだが、裏帯の惹句『オーソドックスな本格ミステリのようで、様式美(パターン)を信仰して疑わない作家ロボットにはゼッタイ創れない物語』……と、あるんだけれど……創れないんだろうか? 普通に創れると思ったんだがなあ。この惹句に、ぼくはちょっと過剰な期待を寄せていたのかもしれない。メフィスト賞を受賞しているということも、この期待に拍車を掛けた。しかし実際のところ、それほど驚天動地なことがなされているとは思えないのである。
 本作には、綾辻行人や法月綸太郎ほどにどんでん返しがあるわけでもなければ、京極夏彦のトリックを過剰な解説が凌駕する超絶技巧(もちろん『姑獲鳥』のことを言っているんですよ)のようなインパクトもない。ラストに登場する探偵は、類型としては麻耶雄嵩のメルカトル鮎がすでにいるし、麻耶と違って後期クイーン問題に係らい合っているような感触もない。竹本健治・笠井潔・島田荘司あたりのはたした先駆的役割を、なにか担って登場したのでもない。「要するに面白かった」のではないのか? 旧式の作家には書けないぐらいの「新しさ」が少しでもあったのだろうか。綜合点が高いことはすなおに認めるが、清涼院流水の惹句はおおげさだ。というか、なにもかも清涼院流水が悪い。
 他の作家との比較なんてぶしつけなことをするのは辞めて、本作を単独でながめてみると、ひとつだけ言っておかなくてはならない難がある。単刀直入に書くが、トリックが簡単すぎるのだ。ふたつの密室が登場するが、さいしょの密室は状況説明を聴いた時点ですでにトリックが分かっていた。誰かが「ところでこういう考えはどうでしょう?」と言い出して、みなが「ああ! そんなアイデアがありえたのか!」などと驚嘆して実況検分を始めるが、そこでさらなる不可解な現象が発見されてそのトリックも間違っていたことが分かり、五里霧中になる……という流れを期待して読んでいたのだが、まさかそのままトリックで通ってしまうとは思わなかった。ひっぱるほどのトリックじゃないんだよなあ。ふたつめの密室にしろ、その後に持ちあがったあまりにも不条理な現象のせいで、トリックが推理できてしまう。不条理すぎるというのは、裏を返せば選択肢がほとんどなくなるということだ。確かに、トリックの細部でよく分からないところはあったが、「こんなのどうにかなるレヴェルだよなあ」と思いつつ読んでいたら、本当にどうにかなってしまった。そんな感じ。
 もしかしたら、ラストにどんでん返しがあるわけで、そこまで読者をミスリードしたつもりかもしれない。こういうミスリードであざやかに決まったものといえば、岡嶋二人『クラインの壺』が想い浮かぶが、本作はやはりあざやかとはいえない。このタイプのどんでん返しは、とってつけるから面白いのであって、読者をひっぱってゆくようなたぐいのものではない。だって推理できるわけがないんだから。こういう苦言を呈しはしたが、むろんぼくにはこれほどのミステリなど書けはしない。ミステリのトリックを作るのが恐ろしく難しいことは、実際にやってみた経験からもよく分かる。つまるところ、たんなる下馬評である。
 あと、玖渚友かわいいよね。

◆河野道代『spira mirabilis』(書肆山田)
 帯の文句によると『本書は、著者私家版25部と刊行者版225部とが上梓された』とのことである。ブックオフで見掛け、造本が気に入ったこと、詩も悪い感じではなかったこと、などを理由に購入。高原耕治『虚神』ほどの大当たりではなかったが、損はしない買いものであった。
 現代詩のようだが、あまり生ぐささがない。澄明で硬質な詩的言語を用いるが、稲垣足穂の文章ほどに薫り高くはない。とても書きなれた感じはするのだが、どこかに覚束なさが残る。どちらかというとこぢんまりしていて、枠を破壊するような言葉の使い方はしない。どこか少女の面影すら残るようで、もしかするとこのあたりが魅力なのかもしれない。閉ざされた淡い祈りの中で、言語の限界を超えた存在をただながめている、といった体である。こんな書き方をして分かるものなのだろうか? どうも詩の批評というのは慣れない。
 現在、復刊ドットコムで復刊リクエスト受けつけ中のよう。貴重な本なのだとしたら、それはそれで書痴として、うれしいことである。もしこの本に資料的価値があるというのであれば、少しくらいの協力はしますが、……まあ多分そんな方はいらっしゃらないかな。

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2007年9月21日 (金)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

 あ、たいしたことは書きませんが、ネタバレあるかもしれませんよ。

◆そういうわけで

 本日(二十日)『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を視てきました。映画にあまり行かないぼくのこと、前に映画を視たのはいつだったか。まさか『姑獲鳥の夏』以来ということはないよなあ、と、日記を見かえしてみたら、おお、昨年六月に『トリック2』を視ている。記憶はさだかでないものの、多分それ以来ということですかね。エヴァ(今やヱヴァか)は、ぼくがこれまでの人生で出会ったアニメの中で最高の作品、そりゃ見ずばなりますまい。
 そういうわけで、映画の感想からエヴァとのなれそめまで、ゆったりつらつらと書いてみようかと思います。

◆はじめにどうでもよいことを

 本当にどうでもよい話だと思いますが……。「ヱヴァンゲリヲン」とはどういう意味か? Evangelion はもちろん evangel すなわち福音に由来するわけで、発音記号を見てみると「イヴァンゲル」あたりが適当のようです。どう頑張っても「ウェヴァンゲリウォン」という発音にはなりそうにないと思えます。しかし輪をかけて不満なのが映画のチケット。なんと「エヴァンゲリヲン」と表記されていました。
 エとヱの区別くらいつけようよ。ヱはワ行の e 音なんだってば。そもそもヱ、ヲときたからには「ヱワ゛ンゲリヲン」というぐらいの表記はして欲しかった。まあ外字に「ワ゛」を入れてる人なんて、ぼくぐらいのもんでしょうが(Unicode には入ってますけど、テキストエディターでは外字にしないと表示できないのよね)。
 どんどん話がそれますが、現在うちのパソコンに入っている外字の数は百三十一文字。だいたいは表示できない漢字や記号などですが、アザミ文字をパソコンでも入力できるように全文字外字登録したのも大きかった。

◆苦学時代

 ぼくが『新世紀エヴァンゲリオン』と出会ったのは、いつくらいだったろうなあ、多分、小学校の六年生か中学一年生ぐらいだったと思います。貞本義行のコミック版、一巻から三巻を古書肆で立ち読みしたのが最初だったと思うのですが、確信が持てません。なんにしろ、当時は劇場版の THE END OF EVANGELION すら公開はとっくの昔のことで、この作品を視聴するための方法が、子供のぼくにはあまりなかった。しかし、どうしても続きが知りたくなったんですね、コミック版がかなりおもしろくて。とはいえ、現在でも完結していないコミック版、当時は四五巻くらいまでしか出ていなかったんじゃないかなあ。ですから、漫画で続きを読むことはできない。だったらビデオということになるんですが、わが家のビデオデッキは当時こわれていたか、こわれていなくともあまり良い動きはしていなかったと思います。かてて加えて、わが家にはビデオを借りるというならわしがない。近くにあったレンタルビデオ屋で、のちに借りて視はじめたことがありましたが、そのレンタルビデオ屋とて冒頭部分を視たくらいのところで閉店してしまった。さんざんです(ちなみに、現在でもわが家ではビデオを視ることができません。といいますか、テレビ自体がこわれています)。
 さて、それでどうしたか。ぼくはフィルムブックを読むという行動に走った。アニメ作品をフィルムブックで「読む」なんてのは、下策もよいところなんですけどね。しかし、フィルムブックで読んですら、はまらざるをえない異様な力をこの作品は有していた。そんなわけで、フィルムブックしか手許にないという状況で、ぼくは毎日々々フィルムブックを繰りかえして読みました。ぼくの「エヴァンゲリオン苦学時代」の幕開けです。
 じつは、こんにちでもぼくは、シナリオだのコミックだの限定本だの研究本だのタイピングソフトだのいろいろ持っていますが、『新世紀エヴァンゲリオン』を通しで視たことがない。第七話から第弐拾弐話までは、完全にぼくの脳内で再構築されたイメージ映像によってつくろわれています。「大人になったら DVD を買おう」が夢だったのですが、なかなか今しばらくは難しいようです。
 こんなぼくですが、のめりこみ方は人なみで、聖書たるフィルムブックは、THE END OF EVANGELION の二分冊は二冊ずつ揃え、一冊が保存用、一冊を常用とし、内、常用の方はヘタクソな字の書きこみだらけです。この書きこみは、多分中学二年生の時くらいに行われたものだと思います。フィルムブックならではで、せりふの暗記などもしていました。今はかなり忘れてしまっていますが。
 あと、研究本なんかも当然読むわけですね。生命の樹からカバラとつながり、小学生時代にはまっていた飛鳥昭雄に再会してモルモン教のありがたい訓えをうけたり、流れ流れてアレイスター・クロウリーに「こんにちは」したりもしました(クロウリーは『カードキャプターさくら』とのダブルパンチかな?)。こうして考えてみると、どこまでもぼくの趣味についてまわるアニメです(衒学趣味から新本格ミステリへ、物語の崩壊とバッドエンド、世界と自己との関係、クロウリーを橋渡しにして意志の哲学、など)。

◆エディプス・コンプレクス?

 新世紀エヴァンゲリオンの中心テーマのひとつに、『美味しんぼ』や『ソムリエ』同様「エディプス・コンプレクス」があるというのは、誰しも異存のないところでしょう。
 ところで。フロイトの理論によると、父親もその代役もいない場合は、エディプス・コンプレクスってどうなるんですか? ぼくには父親も、多分その代役もなかったと思われるのですが、自分がエヴァ函数の変項になにを代入していたのかに興味があります。自己の二重化から喪失の自己へ、そしてナルシシズムの展開というぼくの文学理論は、存外このへんからきているのかもしれないと、このごろ感じています。

◆ようやく新劇場版の感想

 さて、新劇場版の感想なんですが……。正直、舞いあがりました。先にも書いた通り、エヴァを「動く映像」で視たいというのがぼくのエヴァ苦学時代からの念願だったわけで、それを(まあリメイクじゃないんだから「視たい」の対象が微妙に違うわけですが)いきなりこんな大スクリーンで九十八分も堪能できるとは。感動しました。唯ただ圧倒されてながめていました。
 先入主が差しはさまれないように 2ch の下馬評なんかも読まず出かけたのですが、凄いなあ、アニメって凄いなあ、と、ずっと感じ入っていました。ここまでのレベルになってくると、文句なく一級品の芸術作品だなと思います。作画もたいへん美しい。こまかく叮嚀な作りこみがなされているようでした。ストーリーは第六話までをだいたいそのまま。
 長短問わず、気になったのは三点ほど。ひとつは、ちょっと展開が速いなということでした。『新世紀エヴァンゲリオン』を知っている人なら脳内補完できるでしょうが、初めて視る人には敷居が高くないか、と思いました。まあね、六話分を百分弱に短縮しているんですからね、仕方ないですけどね。術語頻出なのに説明はあまりないし……でもこれは、原作でもそうだったっけか? 追加されたカットに対し削られたカットが格段に多かったです。
 それと、ストーリーの流れが扁平な印象もうけました。心理描写も減っているようです。そこで、大詰めの「ヤシマ作戦」のあたりなんか、なんとなくありきたりな戦争映画の感じがしなくもない。もっとも、エヴァは「こわれモノ」のアニメですから、先に「こわすモノ」を作っとかないと無意味ですよね。この、あえて扁平な感触が、次作以降の周到な布石であることを祈ります。
 あとは、戦斗シーン、やっぱりカッコよかったですね。ディティールが原作とまるで違う。日本中の電気を集めるところとかが特に。使徒も、ラミエルが変形などして、大幅パワーアップ。あれ、しかし新劇場版では、現時点で使徒の名前は明かされていないんでしたっけ。

◆「悪夢」としてのヱヴァンゲリヲン

 新劇場版を視ていて、そうか、エヴァンゲリオンはひとつの悪夢としても視ることができるんだな、というあたらしい視点を発見しました。碇シンジという少年が視た、いびつな畸形のナイトメア。ここがまた、映像作品(芸術)として凄いなあと感じたゆえんなのですが、新劇場版を悪夢としてながめてみると、もうそうとしか感じられない。ひとつひとつのカットが幻想的で、まるで蝕まれた精神の底を泳いでいるような気分になる。幻想小説を書く者として、夢の描出法を研究する者として、おおいに創作意欲が沸きました。

◆バッドエンドのむこう

 過去、エヴァンゲリオンには二つの終局がありました。テレビ版と劇場版の終局がそれです。新劇場版が完結するとこれにもうひとつ、漫画版が完結すると合計四つのエンディングが存在することになります。こうなってくるともう、マルチエンディング形式かと思えてしまうほどです。
 テレビ版の終局は、うわさの自己啓発セミナー式、あるいはブレインコントロール式。これをハッピーエンドだと言ってしまうのは無茶かもしれませんが、バッドエンドとは言いきれないことも確かです。劇場版は、天地創造式とでも言うんでしょうかね、普通エヴァでバッドエンドと言えば、こちらの方を指すんじゃないですか? よく分からないですけど。
 自己啓発セミナーなんてかわいいもので、どちらがより病理的かというと、もちろん後者です。アスカの最後の最後のせりふからも分かりますよね。ぼくがより強く惹きつけられたのも後者でした(ビデオが視られた間に、ダビングしてもらったテープを数十回視ました)。
 エヴァンゲリオンが少年の自意識の生みおとした比類なき悪夢だとすると、彼の自意識は最後の最後まで裏ぎられなくてはならないわけですね。少年は、自分の作りあげてしまった悪夢の涯で、途方にくれます。そして、以降は誰から承認されることも、誰から褒められることもなく、人生という荒野をどれだけ苦しくとも孤独に歩いてゆかなくてはならない……そういうことを思わせます。殆ど彼の心境は、つぐないえない罪を犯してしまった少年の絶望にも似たものでしょう。エヴァが九十年代を綜括することにはなんの不思議もない。エヴァは自意識過剰の時代を生きる人々の、ポケモンと酒鬼薔薇聖斗の時代を生きる人々の、あたらしいリアルとなったのです。
 新劇場版は、これからなにをこわしてゆくんでしょうか。いくらマルチエンディングといっても、本当に微妙な匙加減でしょうが、こわすモノだけは間違えないで欲しい。世の中には、こわれなくてはならない物語というものが、バッドエンドでなくてはならない物語というものが、存在するのだと思う。ただ希望だけを賞賛することができる時代なら、エヴァンゲリオンという作品は不必要なものだったのですから。

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2007年9月13日 (木)

つぇるふぁーれん 2

 光速より速く移動することは、原理的に可能だろうか? こうたずねたら、××氏は可能だとのお答えだし、もちろんぼくも可能だと思う。すなわち、哲学で「原理的に」という言葉を用いる時、そこでいう「原理」は少なくともアインシュタインの相対性原理ではないのだ。だったらいったい、この「原理」という奴はなにものなのだろうか?
 原理的、という言葉、いろいろな用い方をされていて、用い方によっては光速より速く移動することは不可能になったりもする。この言葉の内実はややこしく、それゆえ、よく注意して使わないといけないと思う。
 ひとつに、想像可能性という解釈がある。想像が可能な状況は原理的に可能な状況とするのだ。これは思考実験むきの「原理的」性の解釈であって、この解釈の上でなら、われわれは原理的に光速より速く移動することができる。ここでいう原理とは、われわれが世界を表象として作り出す方法のことだろう。しかし、どのあたりから想像不可能になるのかは諸説ありそう。ウィトゲンシュタインだったら、ナンセンスかナンセンスでないかという話になるんだろう。
 もうひとつに、物理的可能性という解釈があり、たとえば「人工知能を作ることは原理的に可能だ」とぼくが言う時、もちろんぼくは「人工知能が存在することは想像できる」ということが言いたいわけじゃない。

前提1:他者は客体として存在する。
前提2:客体として存在するものは物理的に再構成できる。
結論:他者は物理的に再構成できる。

 という、単なる三段論法なのである。この「物理的再構成」は、原理的には可能だが現実的には不可能に近い。時間が掛かりすぎるし、技術も必要だ。たいてい「原理的」なんて言葉を持ち出す場合、現実的には不可能であることが多い。
 マジックにもいろいろあるよね。箱の中から物体が消失する、などというのは、物理的可能性という意味の「原理的」性において不可能なマジック。これに対して、未来予知やカード当てなんかは、偶然が重なれば誰だってできるものだから、原理的に可能なマジック。あれあれ、しかしマジックが現実に行われたということは、物体消失は現実的に可能だったということだ。それなのに原理的には不可能。逆転してるね。
 他にもいろいろ発展させられそうな話だが、今思いつくことはこのくらい。

    ×    ×    ×

 前からちょっと読みたかった『涼宮ハルヒの憂鬱』を読了。過去に読んだラノベとしては二冊め。もっとも、清涼院流水がラノベに含まれるのであれば、十冊はこえていることになるけれども。感想はとりあえず措いておくとして、ウィキでこの本の項目を読んでいると、ジャンルのところに「セカイ系」という説明があった。はてな。
 過去に何度かこの言葉を目にした覚えがあったが、とんだ勘違いもあったもので、ぼくは「きっと『世界の中心で、愛をさけぶ』と雰囲気の似ている感動モノという意味だろう」と思いこんで読み流していた(『世界の~』はもちろん未読。売れた本は基本的に読まない)。
 このぼくの憶測は、どうも『涼宮ハルヒの憂鬱』に当てはまりそうになかったので、なんだろう「セカイ系」って? と興味を持った。ページをひらいてみて、ちょっとびっくりした。

 セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB 2007/9/13版)

 小さな関係性? 具体的な中間項を挟むことなく? この世の終わりに直結する? こ、これはぼくの書く小説を解説しているのか?
 ……似ている、自分の書くものと。特に、小説を書きはじめた頃のものは、その殆どがテーマを「世界」に、もっとくわしくいうなら「世界からの逸脱」すなわち「世界の終わり」に据えていた。え? ぼくってセカイ系?
 微妙に違う点はいろいろあって、たとえば、あまり「関係性の問題」というものを「世界の終わり」と符合させたりはしない。というか、ぼくの(あえて漢字で)「世界系」小説には、基本的にヒロインは登場しない。但し、ふたりの少年を登場させることが多いから、やはり関係性といえなくもないか。
 ぼくが語り手の相手役として少年を登場させる理由はいたって単純だ。『新世紀エヴァンゲリオン』(カヲル君)と恩田陸『麦の海に沈む果実』(ヨハン)とヘッセ『デミアン』(デミアン)から相乗効果の影響を受けているわけである。

 多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れたと見ているが(同上)

 ああ、なるほど、やはりそうなのか。じつは、あまり言ったことはないが、ぼくにとってもエヴァの影響は非常に色濃い。毒気に中てられたというわけだ。バッドエンドとはなにかをずっと考えていた。エヴァのラスト(映画版)はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。もっとバッドエンドをつきつめることはできないか。究極のバッドエンドとはいったいなにか。
 ふーん。ま、なんにせよ、サブカルチャーによけい興味を持ってきた。勉強不足でもあるし。やはり東浩紀は読まなくちゃなんないのかなあ。……

    ×    ×    ×

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2007年9月12日 (水)

つぇるふぁーれん

 人間、生きるか死ぬかでしょ。私には生きようとする意志がないのよ。だけどそれにもまして自殺する勇気はないの。だから仕方なく生きているのよ。(高野悦子『二十歳の原点序章』)

    ×    ×    ×

 個人は国家によって生かされているのであり、個人的事情は国家のためなら無視して国家に奉仕しなければならない……こう言うと、大抵の人はこう返すだろう。
「自分の方が大切だ、国家なんてどれほどのものだ」と。
 しかし、ならば「自分」なんてどれほどのものなんだろう。国家がどうでもよいのと同じように、よく考えてみたら自分だってどうでもよいとは言えないか。そもそも、ぼくが国家でなくて自分であるとどうして分かる? この肉体を作る細胞の内のひとつではなくて自分であるとどうして分かる? <私> があるからだろうか、やはり。
 目的として酒をのむ人に比べ、手段として酒をのむ人はアル中になり易いと、中島らもの本に書いてあったが、目的として酒をのむというのはどうすることなのか? あらゆる行為には目的がある以上、あらゆる行為は手段でしかない。目的をめがけて意志が行う表象の操作のことを行為という。
 ああ! しかし慾求はどうして充たされなくてはならないんだ。慾求が充たされるべきだから、というトートロジーの他に答えがあるとは思われない。そうだとしたら、人間に自由意志があるなどというのは捏造以外のなにものでもないんじゃないか。
 慾求が実現することになんの意味がある? 時間はどうして進まなくてはならない?

 私は未来を<見ている>。未来はそこに、道路の上におかれていて、現在よりもほんのわずか色が淡いだけだ。なんの必要があって、未来が実現されるのか? 実現されてなにをうるのだろうか?(サルトル『嘔吐』)

    ×    ×    ×

 自己決定権などという言葉は幻想(社会的了解)に過ぎない。あるのは、唯その人がいつ自己決定したかという事実だけである。
(それにしても、中学生だった時分のぼくは「社会的了解」という言葉が大好きだった。みんなみんな嘘なんだ! というわけ)

    ×    ×    ×

 露悪趣味というのは、一般論を言わせてもらえば、自分とつきあう人間には自分の存在を同意してもらわなくともよい、だがせめて許容してほしい、という感情がはじめにあって、しかし相手が自分の本当のすがた、その特に悪い点をすべて知っているわけではないゆえの、自分の存在を相手が許容してくれるかという不安がなさしめるものである。
(しかし中島大先生の文章からはそんな感じもしないのだが、あの人もけっこうごまかしてるところがあるからな。分かんない)

    ×    ×    ×

 A、B、Cの三氏が無人島に流れついた。B氏とC氏は結託しており、A氏の意見をまったく容れようとしない。このような状況において、民主々義とは以下どっち?

1.多数決の原理をつらぬいて、B(C)氏の意見がすべて通る(だからA氏は虐げられたまま)。

2.綜人数三人に対する一人という割合から、三回の合議中に一回はA氏の意見を通す。(しかし、三回中どの一回にA氏の意見を通す? もしA氏の意見を通す回が予め決まっているのなら、A氏がその回にどんな無茶苦茶な意見を言っても通さなくてはならなくなる)。

 2のように思われがちだけれども、民主々義というからには1でしかありえない、とぼくには思われる。A氏は、ちょうど盲が睛眼になることがないように、虐げられなくなることはない。そういう生まれつきだったのだ。
 民主々義とは、とどのつまり力の原理でしかない。国家とは、そして圧倒的な力によって法とかいうものを無理矢理おしつけてくる征服者でしかない。
 A氏に残された手段は <対話> しかないのだ。

    ×    ×    ×

 空気を読むとは、どういうことなのだろうか? 空気というのは、そもそもどこにある? ぼくの中にあるのか、君の中にあるのか、ぼくと君の間に幽霊みたいに浮かんでいるのか。ぼくと君が別の空気を読んでいたらどうするんだ?

    ×    ×    ×

 いろいろ書くことはあるが、疲れたので、続きは明日。

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2007年9月 6日 (木)

神・仁侠・善良な市民

■高校生殴打の警官に支持の声
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=289888&media_id=2

 警官に共感をいだくのもほめそやすのも一向にかまわないけれど、逮捕や処分は当たり前でしょう、違法行為なんだったら。むしろ、逮捕や処分されることを覚悟で、それでも高校生を殴ることを決意した警官の仁侠に拍手を送るべきであって、だからこそ警官の名誉のためにも処分は厳正でなくてはならない。武士が切腹するというのに、どうして止め立てすることができようか。
 だいたい、殴る以外に方法がなかったわけではないよね。注意して、この高校生がどうせ不遜な態度をとったんだろうから、うまいこと暴言を吐くとか、胸ぐらを掴むとかするまで待って、そこで現行犯逮捕するのが普通でしょう。警官ならそれくらいの機転はほしいところ。それでもあえて殴ったというのが、まあカッコ好いわけなんだけど。

 ぼくにとって「責任ある態度」というのは、無責任な行動をとらないことではナイ。ある行動をとったことに対し、その帰結として生じてくる状況を、自分がみずから選んだものとして甘受しまた抵抗してゆく「覚悟」のことなのである。あらゆる事態を、自分のものとして貪欲に呑みこみ、みずから苦しめるだけを苦しまなくてはならないのだ。ただし、ここに「神の概念」が入ってくる場合だけ、また話がややこしくなってくるのだが、文学論じゃないから措いておこう。
 近代的法治主義というのは、実に「責任」をとり易いシステムになっていて、行動に対し生じてくる状況とは、罪に対する罰である。むろん、罪を犯したうえ、さらに罰から逃れようとしても、「責任ある態度」をとることはできる。ぼくのいう「責任」とは、「覚悟」というイデオロギーを奉ずるということであって、行為に対する羈絆ではいっさいありえない。
 これは(また中島術語が入るけれど)<マイノリティ>が<対話>を遂行するにあたり欠くべからざる条件であり、自由という言葉の意味である。ぼくの理解が正しければポストモダニズムの条件でもある。
 話が随分それてきたようだけれども、昨今の状況、特にインターネットという言論空間においては、誰をも排除しないまったくの自由がなりたっているように見えて、じつは<マジョリティ>による<マイノリティ>の排除はいっそう苛烈になっているのではないか。匿名性によって顔の見えない圧倒的多数の<善良な市民>は、決して自己の正しいことをうたがわない。そうして、社会道徳や秩序という旗印の下に、正義という神の言葉を背負って<マイノリティ>に石を投げるのである。神と戦うためには、内的倫理、すなわち「仁義と仁侠」による自己貫徹が必要になる。ところが、責任のよりどころたる「罪に対する罰」すら、<善良な市民>はその数の論理によって否定し、<マイノリティ>が<対話>を遂行することを不可能にしているのである。そういった「法を超えた論理」をふりまわす人々が、このごろとみに増えてきて、その一端がこのどうってことないようなニュースの中にも現れているんじゃないか。
 たとえば「2ちゃんねる」で見受けられる「祭り」という状況などには、なんだか空恐ろしいものが感じられる。ひとりひとりの市民がインターネットによって力を持ったかのように誤解されがちであるが、権力の所有者は市民ではなく大衆であり、それゆえ常に<マジョリティ>なのだということを忘れてはならない。たとえ、社会正義だの、悪を許さないだの、どんな建前があるにしろ、現状では「2ちゃんねる」に睨まれた個人が「2ちゃんねる」に戦いをいどみ、そして勝利することはまず不可能であり、大衆の(合法、違法をとわない)権力によって個人の言論が封殺されるということになってきている。「祭り」に参加する<マジョリティ>たちは、殆どゲーム感覚で<マイノリティ>を排外しようとする。
 その「善良な市民の冷酷な視線」にあなたは気づけるだろうか? <マイノリティ>は常に戦うことをもってしか自己を「存在させる」ことができないのだ。

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2007年8月14日 (火)

完全な音楽

 瀬名秀明『八月の博物館』に、多少ネタバレになるかも分からないが、次のようなエピソードがあった(ような記憶がある。なんせ読んだのは四年前)。ある空間を完全に再現することで、その空間が再現元の空間とシンクロを起こし、再現元の空間から続いている筈の世界が、再現した方の空間からも勝手に構築されるというのだ。だから、江戸時代の京都市の1メートル四方の空間を完全再現したとすると、そこから江戸時代の京都市そのものが勝手に(宇宙の法則かなにかで!)構築されてゆくことになり、タイムトラベルもどきを果たすことになる。空間自体が共鳴しシンクロするとは、なかなか面白い発想だと思う。
 さて、話は変わるが、小学生の頃、ぼくは音楽の完全性について考えていた。たとえば、ここにある音楽の一小節だけが与えられてあるとする。さて、この一小節から音楽全体を再現することは可能か。すなわち、一小節に対して音楽全体は一意に決定されうるか。ぼくは、一小節に対して「完全な音楽」はひと通りにしか与えられないのではないかと疑っていた。
 おそらく、ぼくはイデア説のようなことを考えていたのだと思う。この一小節を含む楽曲のイデアはひと通りしかなく、それゆえイデアを探ることで音楽の残りの部分も一意に決定される、と。
 もちろん、こんなことは空想にすぎなかった。六年生になって、ぼくは反例を見つけた。すなわち、ある一小節に対して、それに続く何通りもの音楽が作曲可能であることに気づいたのだ。「完全な音楽」は、いくらでもあったのだ。
 しかし、これを「完全性をそなえた音楽」と言い換えてしまえばどうだろうか。一小節に対して、不完全な音楽はいくらでも作曲しうる。しかし、完全なる音楽はひと通りにしか作曲されないのではないだろうか。いやむしろ、ある一小節の音源に対して、完全なる演奏はひと通りにしか奏でられることができないのではないだろうか。もっとも美のイデアを多く含み持つ演奏というものは!
 バカバカしい話だ。けれど、ぼくは書きかけの小説に、いつもそれに続く「完全性をそなえた小説」を演繹し、そのイデアをなぞるように執筆を続ける。こんなものは夢かもしれない、いや夢でしかない。原子一個に対して、江戸時代の空間は再現されているだろう。しかし、ぼくは江戸時代へ歩きもどることはできない。もしかしたら、この原子は、あの原子ではないのかもしれないのだ。
 ぼくには殆ど友達がいないことに気がついた。「完全性をそなえた友達」を夢見すぎたせいだろう。そんなものは自分自身でしかない。だからぼくはナルシストである。独我論というのは、他者の定義にあまりにも厳しくありすぎたゆえに、もはや神しか他者でありえなくなってしまった人間のとる、哀しい論理なのかもしれない。このアプローチは、けれども文学的過ぎるようだ。

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2007年8月12日 (日)

読書記録など;2007/08/12

◆読書記録

 七月四日以降に読了したもの、計六冊。「Psi って誰?」とか、気にしないでください。

『差別原論』好井裕明

 開口一番、Psi の言うには「君、やられたな」と。
「は? なんのお話ですか?」
 ききかえすぼくに対し、彼はだまって朝日新聞の切り抜きを突きつけた。
「なになに? ……『差別原論』……『差別はいけない』の落とし穴、だとォ?」
「ほら、君の差別論のコンセプトに似てるだろ。これは先をこされたかもしれんぞ」
「の、ようですねえ」
 さっそく買って読んでみましたが、そんなわけはありませんでした。正直なところ、ぼくにとって殆どの差別論は読むに堪えないのですが、読むに堪えない本リストに一冊が追加されただけでしたね。
 後日、Psi との会話。
「だめですね、これは。くだらなかったです」
「ふうん、たしかに。このくらいで『落とし穴』だのなんだの、語って欲しくはないわなあ」
「ぼくの理論が抜けがけされるなんて、ありそうもない話でしたね」
「それは君、君の理論が間違っとるからやないのん?」

『百鬼園随筆』内田百閒(間)

 百鬼園先生って、なんだか不気味な人ですよね。こういうタイプの芸術家って、あまりいないのではないでしょうか。随筆を読んで、あらためてこの作家の特異性を感じずにはいられませんでした。世間では、ひょうひょうとした作風に定評があるようですが、一読して、ぼくはつかみどころのない神経症的不安に襲われてしまいました。

『二十歳の原点』高野悦子

 生涯の一冊という話をしていて、Psi がこの本を挙げたので、読んだのでした。感想はあえて申しません。あと三年くらい、この本とつきあってゆかなくてはならない予定ですので。詳しいことは申せませんが、オマージュの計画があるということです。『原点序章』と『原点ノート』も近いうちに届く予定。

『わが解体』高橋和巳

 上記の本と、六十年代つながり。梅原猛『高橋和巳小論』で予備知識あり。母が全集を持っているので、高橋和巳には困りません。なんなんだよ母さん。とはいえこの本は、ぼくが別口で金百円也で購入した品なんですが。彼女の本の方が美品。

『中庭の出来事』恩田陸

 今月の読書会の課題図書。見事に外しました。お陰で、深草先生を恩田陸嫌いにさせてしまいました。ぼくがディープな恩田陸ファンなのは、みなさんご存知の通り。

『卒業式まで死にません』南条あや

 くだんの本と、若年自殺者の手記つながり。コミュニティは http://mixi.jp/view_community.pl?id=491871 です。あと、久坂葉子『幾度目かの最期』と山田花子『自殺直前日記』も積まれております。読むのはかまわないんですけどね……乗り憑られるのです。精神状態が一気におかしくなってきます。そのうえ、若年自殺者の手記を読むわけですから、必ずラストで主人公は死ぬのです、現実に。精神的にきついものがありますね。で、どろどろした気分になって、次の手記に手を出す、と。無限ループの悪循環にはならないで欲しいものです。

◆自主休養

 現在、自主休養中。人間が一個の実存である限り、わたしというものはカテゴリでは捉えきれない一個の現存在なわけです。すなわち一個の意志です。Do what thou wilt です。だから、病気かどうか、疲れているかどうか、自分を甘やかしてよいかどうかなんて、そんなことは自分で決めること。医者によって病気というカテゴリにカテゴライズされる必要はないんです。気が晴れました。しばらく自主休養します。

◆攣る

 指が攣ります。指が攣るのはよいのですが、このごろ股間が攣るようになってきました。用を足そうとすると、急になります。「わたたたたッ!」という感じです。いわゆる「蟻の門渡り」の部分だと思うのですが。なんだこりゃ。

◆素数

 Psi が素数を書きならべています。「百までの素数ならだいたい覚えてるから」とのこと。となりで見つめるぼくを無視して、彼はぐちゃぐちゃ数字をいじり始めます。
「なにしてんですか?」
「いや……ほら、どの数が素数かということに、なにか規則性がないのかなァ、と、思って」
 絶句。素数の規則性についての研究が現代数学の数論の最重要課題であるということを、なんと Psi は知りませんでした。
「あのォ……無理だと思います」
 とはいえ、家に帰ってから、ぼくも素数について考え始めます。素数というのは、自然数の中で約数の数がふたつである数字のことに過ぎない。素数でない数と一口に言っても、約数の数はそれぞれ違う。ある数字が素数でないということは分かっても、それなら約数の数はみっつなのか? よっつなのか? これまでとは違う観点から考えてみると、思わぬ規則性が見つかったりして……。はい、バカがひとり増えました。ミイラとりがミイラになる。

◆発見

 And who was it that scattered the cards away?
(訳:カードを吹き飛ばしたんは誰かなー?)

 あッ、強調構文だ! 理由はよく分かりませんが、発見してちょっとうれしい。発話者は、カードを吹き飛ばしたのが「誰」なのかよく承知していて、皮肉として疑問文にしているわけですね。「お前が吹き飛ばしたのだから、責任とれ」と。だから強調構文になっているわけなんですが、へえ、直訳なのに日本語のニュアンスの再現度高いなあ。冒頭の「And」も効いてますし。
 え? なにを見てたのかって? いや、ちょっとニコニコ動画で『カードキャプターさくら』を……。発話者はもちろんケロちゃん。

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2007年6月 3日 (日)

雑記;2007/06/03

◆自動詞の rule

 "Kuwata Keisuke rules!!!"
 "Yuki RULES!"
 以上、You Tube で見かけた用例です。多分ホメてるんでしょうが、いったいどういう意味なんでしょう。英英辞書まで渉猟してみましたが「統治する」ぐらいしか載ってません。スラング? まさか「地上を統治する」みたいなホメ言葉? どなたか、お分かりになる方おられませんか。

◆タロット占い

 一年半ぐらい前から(そろそろ二年になりますかね)、よくタロット占いをしてあげている女の子がいます。いわゆる「メル友」なんでしょうねえ。一時は毎日のように占っていたこともありました。お陰さまで、テクストブックもだいぶん使いこみ、占いのウデはかなりあがったかと思います。ひところ、占いに対して不信感があり、カードを切るのも辛かったことがあったのですが、さいきん、前にも申しました通り「魔術の現代的意義」の研究に目覚め、タロットカードも自分の中で再評価できるようになりました。すると的中するんです。当たり前ですね、的中するように占ってるのに、的中しなくてどうするんだ。これは魔術師としての自覚であり自信です。それにしても、今さらながら、京極夏彦って凄い人だと思います。あの人の、呪術に対する卓抜した視点は、もっと学術的に捉えなおされてしかるべきでしょうに。「式を打つ」という日本語以上に、魔術を端的に示した表現がありうるでしょうか?

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2007年5月31日 (木)

Hiru (左のイラストは、高橋葉介『学校怪談 2』〔秋田書店、H8.01.10〕の186p上段からの引用です。著作物の引用は、著作権法において認められた正当な権利であり、違法行為ではありませんし、許可をとる必要もありません)

 また、どうでもよい、ちょっと哲学じみた話を。

 高橋葉介というマンガ家に『学校怪談』という連作短編ホラー集があります(かなりスプラッタ♪)。文庫化もされはじめているようですね。ぼくはこの人のファンで、もちろん『学校怪談』も大好きなのですが、それで、その第36話に『蛭』という作品があるのです(文庫じゃない方の版だと第2巻に収録。文庫版は知りません)。
 以下ネタバレになりますが、ストーリーを書いておきます。獲物の血を吸うだけでなく、その形状と記憶までも吸収してしまう蛭がいて、この蛭が通りかかった少年を吸いとってしまう。少年はミイラみたいに干からびてしまうわけですが、蛭は少年の記憶を吸収していますから、当然、自分のことをその少年なのだと思っており、自分が実は蛭なのだとは気がつかない。時間が経ってから、あのミイラこそ本物の少年なのであり、自分は蛭なのではないかと分かりはじめる。で、もうひとりの少年(こっちが主人公の山岸君)に話すわけですが、山岸君、笑ってとりあわない。そのうちに、蛭はもともとの蛭の形にもどってしまい、こんどは山岸君を吸いとる。山岸君のつもりになっている蛭は、気がつくと、自分のとなりに自分の服をつけた、干からびたミイラが転がっており、自分は裸であることを発見します。で、現れた母親にこう言う。「母さん、僕は……本当に僕なのかな……?」
 で、中学の、たしか二年生ぐらいだったころ、ぼくはこの話が非常に気になっておりました。自分がこの蛭でないという証拠はないからです。こんなバケモノ蛭でなくとも、別の事情で、なにか同じような状況におちいることは、考えられなくもない。そういう時、自分が蛭でないということを証明してくれるものはあるんでしょうか?
 時点t1において、ぼくが蛭でないことは明らかなのだとします。なぜなら、t1において、ぼくは「干からびた自分のミイラ」なんてものを発見した覚えはないからです。すると、ぼくは未来永劫に蛭ではありえません。蛭に吸いとられてミイラになってしまうことはありえても、自分が実は蛭で、となりに自分(だと思いこんでいる人物)のミイラが転がっているなんてことはありえません。だとすると、少なくともぼくには、自分が蛭ではないかとうたがう理由はありません。この点にかんしては完全な証拠があり、未来永劫、ぼくは(自分が蛭ではないということを)安心していてよいのです。
 t1にこんなふうに安心して、ぼくは寝てしまいます。ところが次の日の朝(時点t2)、目が覚めてみると、ぼくは、自分のとなりに自分の服をつけたミイラを見つけ、そして自分が裸であることを発見します。さあ、こうなると、ぼくは自分が蛭なのではないかと怯えないといけない。t1において、永久に安全であるという確証を有しておきながら、t2においては、この証拠はまったく証拠能力を有さないのです。なぜなら、自分の記憶は捏造されているかもしれないから。t1において確証を有していたという記憶は、あとから蛭である自分が吸収したものかもしれないから。これはいったいどういうことでしょう。
 t1における証拠は、まったく完全なものでした。自分が蛭である確率は寸毫もなかった。すなわち、t1を現在として生きている自分にとって、t2でミイラを発見するという未来はありえない未来だったのです。しかしながら、にもかかわらずt2においてミイラを発見することは可能なのです。いかにも不条理なことです。しかし、t2において自分が「不条理にも」ミイラを発見することはありうる。そしてこの場合、t1で完全だと思っていた証拠は全然無意味だということになります。
 ぼくは、どの時点においても常に完全であるような「自分が蛭でない証拠」を欲していた。そして、それがどうしても手に入れられないことをふしぎに思いました。t1における証拠は未来永劫にわたって効力を有した筈です。それが、実はt1という一時点においてしか証拠たりえず、t2にかんしてまったく証拠能力を有さないとは、どういうことなんでしょう。
 あるいは、別の視点をとるならば、こうも言えます。現在がt1なのだとすると、その証拠は未来永劫にわたって効力を有し、ぼくは「蛭でないか」ということを全然不安がる必要はないわけです。それなのに、いざふとんに入ってみると、明日の朝(t2)、自分が干からびた自分のミイラを発見しはしないかと恐怖する。どうしてぼくは、ありえない筈の未来を恐れることができるのか。そして、どうして証拠があるにもかかわらず、明日の朝、自分が干からびた自分のミイラを発見することが可能である「ように」思えてしまうのか。……

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2007年5月24日 (木)

自由意志にかんする思考実験

 自由意志について、ひとつおもしろい思考実験を考えてみました。正しくは「思考実験もどき」なんですが、それはまたあとの話。ちょっと書いてみましょうか。

『物事を知覚するのに、非常に時間のかかる生物がいるとする。われわれ人間にしたところで、光が網膜に達してから風景を認識するまで、いくらかのタイムラグがあるわけであるが、これを極端にしてみる。この生物(X)は、光が網膜に到達してから、風景を認識するまで二年かかるのである。めんどくさいので、Xの知覚能力は視覚のみとする。さて、2007年現在、Xが知覚している風景は2005年のものである。ぼくは、Xが2006年にチョコレートを喰べすぎて、おかげで肥満になってしまったことを知っている。そこで、Xの脳にコードを繋いで、2005年を現在として知覚しているXと通話する。
「X君、あなたは2006年にチョコレートを喰べすぎて、ぼくにとっての現在、つまり2007年には、肥満になりすぎてしまっていますよ。今、君は2005年を生きているわけだから、2006年という将来にはチョコレートなんか喰べないことにして、健康体になりましょうね」
 Xは、ぼくの忠告を理解して、きたる2006年にはチョコレートなんか喰べないことにした。ところが、本当は現在は2007年なわけで、すでにXがチョコレートを喰べすぎているという“過去”はゆらがない。するとXは、どうあがいても2006年という彼にとっての将来において、チョコレートを喰べざるをえないことになる。つまり、彼には自由意志が存在しないことになるが、これはどういうことか?』

 はい、ここまでお読みになって、この思考実験の「嘘」を見抜けましたでしょうか? これはあくまで「思考実験もどき」なわけですが、それにしたところで重要な示唆を含んでいることには違いありません。ひとつひとつ、論点を確認していってみましょう。

 ひとつ。この思考実験は、誰にとっての思考実験なのでしょうか。視点をXに据えている場合、そもそも「2007年現在」という言葉は意味をなしません。彼は2005年を生きているわけで、なんだかしらない神さまのお告げが「チョコレートを喰べすぎるな」と言うんだったら、ただそれに従えばよいだけです。視点を「ぼく」に据えている場合、ぼくの自由意志はここでは議論されていませんから、そもそもの「自由意志にかんする思考実験」の意義を失うことになります。Xがこれからどういう振る舞いを見せようとも、ぼくにとっては、なにひとつふしぎなことはないのです。じゃあ、たとえば神さまに視点を据えることにすると、この思考実験は成立しうるんでしょうか(カゼをひいているため、綿密な思考ができなくなっています。というわけで思考放棄。残りは誰か考えてください)。

 で、この思考実験の「嘘」についてなんですが。2007年現在、Xが2005年を今として生きているんだとすると、Xは2006年にどうやってチョコレートを喰べたんでしょうね? 「喰べる」という行為がXの自由意志のもとに行われたものであるのだとします(そうでなければ、この思考実験はまったく無意味となりますが)。すると、Xは知覚情報をもとにして判断を行い、それに従って行為したということになります。しかも、その判断はXが自由に操れると考えている「現在」において、すなわち2005年という認識の現在において行われたのでなければならない。これができないということになると、Xはそもそも自分が自由意志を持っているなんてことは思わないでしょう。というわけで、知覚に二年ものタイムラグがある生物がいるんだとすると、彼は二年後もそこにありそうなもの(たとえば山)などに対してしか、アクションを起こすことができませんね。チョコレートなんか喰べられません。以上。

 しかし、これで話を終わらすのはもったいないでしょう。二年というのは極端にしろ、人間にもこのタイムラグは存在するわけです。ぼくにも、あなたにも。これって、とってもふしぎなことだと思いませんか?
 われわれは、一瞬遅れで外界を認識しています(外界なんてものがあるのだとすると)。一瞬前の外界の情報をもとに、われわれは認識を行い、判断をくだします。「行為の判断をくだすこと」を認識が統制することが、すなわち自由意志です。脳内にも、当然担当課から担当課へのタイムラグがあるわけですが、われわれが、自分が判断をくだしたことを認識する場合、判断はすでにくだされてしまっています。すでにくだされた判断については、もちろん認識がその判断をくだしたのでなければならないわけですが、認識がその判断をくだした「と認識する」時、すでにその判断はくだされてしまっています。タイムラグがゼロになる地点はどこですか? 脳内のどの一点でタイムラグは消え失せるんですか? 判断することが判断されたこととイコールになるような地点、つまり現在が未来へと跳躍するような地点はどこですか? ……
 そもそも、どれが「現在」なのだか、いまいち分かりませんね。われわれにとっての現在というのは、われわれの網膜に光が達した瞬間でしょうか? それとも、それが脳において認識された瞬間でしょうか? はたまた、それが行為としてアウトプットされた瞬間でしょうか? われわれは、どうもこの三つを一セットにして「現在」と呼んでいるような気がします。だから、「現在」は意志が実現する瞬間、刻々と「未来」にむけて跳躍してゆくのです。

 われわれも、ある意味でXなのではないんでしょうかね。誰かが自分にチョコレートを喰べさせたことを知らず、いつまでも自分で喰べた気になっているだけの。しかし、ここは誤解していただきたくないのですが、視点がXに据えられているかぎり、Xはあくまで自由意志を持っているのです。Xは誰でもない、自分でチョコレートを喰べたんです。しかし視点が神さまに据えられた場合……?
 ね、だから昔から言われている通りですよ。「神さま」以外、われわれから自由意志を奪えるものなんてないんです。

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2007年5月 5日 (土)

『意志論小論』の未解決事項

(メモ)

【自分で気がついた点】

1.事況の現-現前性について。対象行為がすでにイメージできているにもかかわらず、行為がいまだ現-現前しない場合があるのは、どういうことか?

 a.事況は「時間をおいて現前する」という形で、すでに現-現前している。

 b.イメージはできていても、事況にはまだ現-現前性が与えられていない(現-現前性を与えるとはなにか)。

 c.事況が現-現前した場合にだけ、行為の現-現前性が追認される(すなわち意志の否定)。

2.意志と呼ばれる基本慾求は、行為をなす原動力ではないかもしれないが、意志慾求と相関して行為が現-現前するということは、少なくとも意志慾求はなんらかの力で行為と結びつけられていなくてはならない。まさに心身問題。この点について、そもそもぼくは、事態(客体)の側に基本慾求を与えたのだから、われわれの慾求というものも実は受動的なものだということになり、自由意志は完全否定されるが、それでよいのか?(別に悪くはないが)

3.ダブル・スタンダード。超越論的虚構(と、タームを使うとそれらしいが、合ってるのやらどうなのやら)。今に始まった話ではないが、どうしてぼくはこう、一方で肯定してもう片方で否定したくなるんだろう?

【京哲で指摘された点】

1.時間的遷移による基本慾求の変容。

2.この図式は誰に対して妥当するのか。「いつ」「誰にとって」基本慾求は充たされるのか。

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2007年4月26日 (木)

魔術師;世界をデザインする職業

 魔術の現代的意義にかんするメモ。
 現段階では草稿。
 魔術の理論化;実地の検証;ゆくゆくは小説化。



 魔法(magic, witchcraft)の「法」とは rule, law であり、それはすなわち spell である。

 spell→綴り/呪文、魔力。

 魔法とは、世界を綴り変える(spell する)能力。

 世界が美しくない理由;不統一/無秩序(khaos)
 →これを見えない「法」により再びデザインする(美化)ことが魔法である(kosmos)

 見えないルール(Ex.五行説)
 ルールにしたがうことにより、儀式、あるいは呪文が意味を有するようになる。

 呪文の意義:spell に対して自己を適応させる。
 神聖な空間に対する自己の神聖化。

 魔術師=デザインする者=綴る者(speller)。

 魔力とは、ひとつにデザインする能力のことであり、またひとつには精神力のことである。
 魔法は、その使用者の魔力に依存して効果を発揮する。

 魔法を作るには spell を作るだけの能力が必須。
 spell の、自然からの読解法(哲学とのかかわり)。

 われわれは、誰でも魔法を使えるだけの潜在能力を持っている。しかし実際に魔法を使うのは、ほんのわずかの人間にとどまる。本人がどれくらい魔力を有しているかということ。

 魔術の現代的意義。
 よく魔術を用いうる者こそが現代を制する。
 現代→法の不在。あらたなる法は不在者のために。
 自分で魔法を作り出せる者だけが、現代を生き抜くことができる。

 世界をデザインせよ!

 There is no law beyond Do what thou wilt.
 この言葉が新時代を顕彰する。



 ※また変なことを言い出した、こんどこそ気が狂ったか、などと思わないように。いちおう冷静です、かつ本気です。前から西洋魔術の勉強中って言ってるじゃないですかー。魔法は決して非科学的なものではありません。現代のためにこそ、魔術は要請されます。魔術師(speller)になりましょう。

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2007年4月13日 (金)

『意志論小論』脱稿!

http://www.geocities.jp/itikun01/nov_the_1.html
http://www.geocities.jp/itikun01/nov_the_2.html

 はあ、なんといいますか、凄まじく苦しみました。半月かけた哲学論文『意志論小論』なんとか本日脱稿です。小説書くのの比じゃないですね、これだけ時間をかけ、あたまをヒネり、それでもたいして分かりよいとは言えません。なんというか「もう無理」という感じです。あと半月は、誰とも哲学の話はしたくないぐらい、それぐらい嫌になりました。
 次の京都哲学道場、ぼくがレジュメをきることになりまして、テーマを「幸福の哲学」に決めました。レジュメを書いているうち、だんだん議論が「慾求」の話にズレてゆき、これだけを独立に論じたい気分になってきました。そこで、レジュメを作り終えたのち、おもむろに『意志論小論』とタイトルをつけ、論文の筆をとりはじめました。「基本慾求→意志慾求→対象行為→対象事況」という説明モデルをこさえていたので、かんたんに脱稿できるかとおもいきや、とんでもなかった。
 いったいに、ぼくは内容を決めてから書きはじめるのでなしに、書きはじめてからその場その場で内容を決めるのです。というのも、書かずにものを考えることができないタチなので、書く前に結論を出すことなんかできるわけがないんです。そこで書きはじめるのですが、基本慾求を次の基本慾求に繋ぐものが分からない。そもそも基本慾求を与えるものが分からない。で、考えます。考えるしかないわけです。目の前にコウモリさんをながめて「ぼくがこれをほしいというのはどういうことか?」と考えてみたり、イライラしてくると尖ったものを押しつけて「この痛さをなくしたいとはどういうことか?」と無理にも答えを出そうとしたり。哲学が好きなんだか、嫌いなんだか、分かったもんじゃない。なにしろそんな感じで前半を脱稿しました。
 後半は、議論のすじみちは早くから分かっていたのですが、確証がない。「本当にこれが正しいんだろうか?」と悩み、前半よりさらに苦しみます。みなさん、哲学する時って、どうするんですか? いつでもどこでも哲学できる人って、本当に凄いと思います。ぼくは、ちっとも哲学ができない。哲学道場に行って議論しても、まったく哲学した気にならない。かといって、独りでボーッとしてみても、考えがまとまらない。すなわち、なにをしてみたところで、一日せいぜい五分以上は哲学できないわけです。その五分間に考えた内容を、あとの五時間で論文にしてゆくわけですね。冗談じゃない。
 ま、そんなこんなで、後半もやっと書きあがりました。いろいろ発展させられそうな論ではありますが、つかれたので、しばらくは哲学論文は書きません。
 意志論繋がりで、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を読みはじめ、現在、中公クラシックスの第一分冊を半分ぐらいまで読みました。意外と読み易いことが判明。というか、そもそもショーペンハウアーって、けっこうバカだということが判明。読んでいると、ぼくでも哲学者になれそうな気がしてきました。
 次の京都哲学道場が「幸福」で、スカイプ哲学道場が「不幸」です。どちらもぼくの意見が通りました。というわけで、同じことをくりかえす可能性もないではない。深草先生、かくごしといてくださいね。次の哲学道場で、ぼくの理論を批判したい人は、前知識として『意志論小論』を読んでおいて、戦略を立てるのもよいかも知れませんね。

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2007年3月23日 (金)

いかにして哲学書を読むか

 暇なのでJ.P.サルトルの『存在と無〔現象学的存在論の試み〕』(サルトル全集/人文書院/S31年初版)に手をつけてみましたが、どうもいけません。『純粋理性批判』『存在と時間』に次いで、三度目の返り討ちに遭いそうです。三巻の分冊合わせて千五百ページ近い哲学書ですから、半分読んで放り出すんだったら、それは別に構わないわけです。しかし緒論で返り討ちされるのは、どうも納得が行かない。いったいぼくにはなにがたりないんでしょうか。哲学的センス? 知識? 読解能力? これらすべて? それとも、こんな難解な本を書く方が悪いの? 中島大先生だったら「気合で理解しろ! 無理ならセンスがない!」なんて言いそうですが。さいわいにして、二十ページぐらいで挫折したものですから、自分のどこが悪かったのか、詳細に調べてみることができます。分析と雑感をおりまぜて報告いたしますので、誰かアドバイスください。

      【緒論 存在の探求】

    1 現象という観念

 現象学は、あらゆる存在者を現象とすることで、現象の一元論を打ちたてたという。
 内-外という二元論から、確かにわれわれは脱却した。現象はたがいに等価であって、ひとつの現象は他のもろもろの現象を指し示す。
(指し示す、というのが、超越する、ということであるらしい。これは、ひとつの現象が、後述の「本質」を指し示していると理解してよいんだろうか?)
12P『その作用は、それ自身と、全体的な連鎖とを指示するのである』
(全体的な連鎖=道理=本質? たったひとつの現象だけで、本質を指示することができる? 抽象の作業は要らないのかなあ)
 現象は「背後の実在」の現れではなく、むしろ現象こそが存在である。現象は、かならず視点を持たなければならないために相対的だが、現象がそれ自身を指示しているという意味で絶対的である。
 可能態と現実態の二元論も排除される。現象の綜合的統一(弁証法?)が「能力」である。本質もまたひとつの現象である。
(可能性はどう扱うのだろう。いまいち理解できないくだり。それから、本質もひとつの現象だというが、本質とはどういう現象なのか、いまいち想像つかない。ぼくの目前に現れているもの、これらみな現象なんだろうけど、いったい本質ってどの現象のこと?)
 われわれはしかし、有限と無限の二元論をあらたに持ち込んだ。存在者は有限な連鎖には還元されえない。
15P表記改『(前略)仮に現れの連鎖が有限であるとすれば、このことは、初めに現われたものが再びあらわれる可能性をもたない、ということを意味する(中略)もろもろの現れが全部同時に与えられうる、ということを意味する(後略)』
(意味が良く分からない。なんだか初歩的な話のような気もするけれど。存在者が有限な連鎖に還元されないというのは、『論考』のウィトゲンシュタインに近い気もする)
 現象は主観的に充実しており、現象を超越させると本質になる。ひとつの対象は無限の現象を有する。ものは見方によるんである。対象は現象の無限の連鎖である。
(「対象」ってなに!? いきなり凄い用語が持ち出されたような気がする……。「対象」なんてものが登場するんだったら、「背後の実在」を考えるのと変わんないのでは? ひとつの現象は有限で、意味されている本質は無限だというが、その本質があらたな現象として次の本質を意味してゆくのだとすると、本質は「無限かつ有限」ってことにゃならんのだろうか)
 現象学の帰結は以上の通りで、いかなる存在とも対立しない「存在概念」がこれからの議論の中心となる。
(「対立」なんて、また弁証法的な概念を持ち出すなあ)

    2 存在現象と現象の存在

 存在論的研究において、初めに「現象の存在」がとりあげられるが、さてこれは現象なのだろうか。これもまた、自己を現すから現象であろう。すると、存在を指示する「存在の現象」がある筈であり、これの記述が存在論。存在現象の存在は、他の現象の存在様式と同一か? フッセルとハイデッガーはそう考えたそうな。
(「初めに」と言うからには「現象の存在」以外の存在もあるんだろうけど、「現象の存在」以外の存在ってなにさ?)
 本質=道理は「対象」の意味である。「対象」はしかし、意味を指示するのと同じ方法では存在を意味できない。存在を現在 presence として規定することは不可能。
(道理=対象ではなかったんかい。本質を指示するのは現象だけれども、すると対象=現象? もうわけ分からん。あと presence ってなに?)
 対象は、存在を隠しもしないが、あらわにもしない。
(だったら、なんだってんだよ! この辺から理解がおっつかなくなる。あとは字面を追うのみ)

 こんな感じで読み進めておりました。いったいぼくの欠点はどこにあるんでしょうか? 誰かたすけてー。

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2007年3月 2日 (金)

先日のクイズの答え

Mach_1

(このイラストは、エルンスト・マッハの描いたものだとのこと。public domain らしいので、ウィキから持ってきました)

    ◇    ◇    ◇

    ◇    ◇    ◇

 そうとも君の言う通り
 かれとはぼくだ! もちろんだ!
 ながめてみたまえこのアシを
 ながめてみたまえこのウデを

 かがみに映るは人なれど
 ながめおろせば人でなし
 こんな形に生まれつき
 こんな形で死んでゆく

 それでも君は人とよぶ
 ぼくが人だと君は言う
 暗いところにすわってる
 こんなものが人なのか

 そうだぼくにはカオがない
 ひさしくカオを捜してる
 ぼくの求めるカオはどこ?
 ぼくが人だと言うのなら

 カオのない者ひとりあり
 カオを捜して生きてゆく
 見うしなわれたぼくとぼく
 かりそめのカオには言葉をあつらえ

 カオのない者ぼくを捜す
 ぼくのない者カオを捜す
 求めるぼくと求められるぼく
 出くわすことはきっとない

(いや……むしろこんなものが
 これがぼくだとどうして言えよう)

 君には通じぬこの言葉
 誰れがぼくだかもし君が
 分かったならば君はぼく
 求めるぼくとは君のこと

(ところが君はほらごらん
 もはやどこにもいはしないのだ!)

 誰れかなる者誰れでもなし
 誰れかなる者誰れでもなし
 君とぼくとで不在する

    ◇    ◇    ◇

 このクイズには、しかしながら、答えはないのだと言ってしまってよいのかもしれません。このクイズは、ぼくがぼくにむけて提出した場合にのみ答えを持ちうるものだからです。「誰れかなる者」とは、けっきょく誰だったのでしょうか。「それはぼくだ!」と言ってみたところで、納得してくれる人はいないでしょう。その人から見ると、ぼくのアシは先ぼそってなどいませんし、ぼくにはカオが与えられているのですから。もはやその人にとって、ぼくは「誰れかなる者」ではありません。あるいは「それはあなたのことだ!」と答えてみたならどうでしょうか。しかし、それはウソでしかありえません。ぼくには、その人のカオが見えています。ぼくにとって、その人は「誰れかなる者」ではないのです。この水準ではクイズというものはなりたたないでしょう。「誰であれ、その人にとっての自分というものが答えなのだ」とは言えません、ぼくは「誰れかなる者」を「ひとり」だと言ったのですから。こんなおかしなものが、たったひとつ、存在している、ということを。
 この詩の描くものは、基本的には永井先生の<私>にかんする議論そのものですが、外にもいくらか、とりあげてみたい論点があります。
 ひとつめ。
「いや……むしろこんなものが/これがぼくだとどうして言えよう」というくだりがありますが、このおかしな「できそこないの人」はどうして「自分だ」と言えるのか。ここに自分というものが明らかに存在しているのなら、そこからながめおろされた「誰れかなる者」が自分である必然性はないわけです。この主張の対偶をとると、この「誰れかなる者」こそが自分であるという必然性があるのなら、ここに明らかに自分が存在しているのだと言うことはできなくなります。かなり難しい話ですが。
 ふたつめ。
 そのことを表現しているのは「カオのない者ぼくを捜す/ぼくのない者カオを捜す」というくだりです。ここには、ぼくの用語で言うところの「ナルシシズム」というものがかかわってきています。「自分」は「もはや喪われている」。その「もはや喪われた自分」を「自分」は捜しているのだ、という意味です。「自分」は「自分」に対して喪失の構造を持っているのですが、この話はいろんな論点と繋がってくるため、まだうまく説明することはできません。いちおうのところ、ぼくの文学理論は基本的にこの主張に準じています。

  ×××

 なお、永井先生はむろんお分かりのようでしたが、その外、数人の方からご解答をいただきました。どうもありがとうございました。正解者はいらっしゃいませんでしたが、いただいた解答をこちらに掲げておきます。

「宇宙人」
「漢字の“人”」
「谷」
「法人」

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2007年2月25日 (日)

クイズです。

 かんたんです。 お分かりになりましたら、書き込みください。

    ×    ×    ×

    『誰れかなる者』


 誰れなのだろう
 とこしえにひとり
 暗いところにすわってる
 暗いところにすわってる

 誰れなのだろう
 みな人とよぶ
 こんなものが人なのか
 こんなものが人なのか

 人人人人人人人
 かさなりあって人人人
 誰れかなるもの人をする
 ひそかに人をまとってる

 人と言われる人でなし
 人とも言われぬ人外だ
 こんなにおかしな形して
 だのに人らは気がつかない!

 人だと言うのかかれのことを
 それなら君にはっきり示そう
 いったいかれがなにものなのか
 どんなものであるのかを

 誰れかなる者先ぼそる
 たいそうおかしなアシをもつ
 双つのアシをだらりだらり
 羞じもしないで歩いてく

 誰れかなる者先ぼそる
 たいそうおかしなウデをもつ
 双つのウデをのばしては
 こえだの指をくんでいる

 誰れかなる者カオがない
 バランスの悪い胴の先
 無から生えてるアシとウデ
 カオがなくともウインクできる!

 誰れかなる者カワばかり
 クビもなければセナカもない
 かがみに映した場合だけ
 誰れかなる者人になる!

 君はこれでもかれのことを
 唯の人だと言うのかね
 君にはかれが分かるのか?
 かれが誰れだか分かるのか?

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2007年2月 9日 (金)

「いのり」の言葉

……この言葉は、もはや特定の意味内実を失いつつ、聴き届けられるか否かすら定かでないままに差し出される「挨拶」の言葉に似てはいないか。そしてそれが挨拶であるならば、私はすでにその挨拶の宛て先に「触れ/られ」てしまっているのだ。その宛て先ともはや無関係ではありえないにもかかわらず、それへと向けて差し出される言葉がはたして聴き届けられるか否か定かでないような言葉、それは死者たちに捧げる「弔い」の言葉に似てはいないか。もはや「ありえないもの」(存在ですらないもの)に向けて差し出される「祈り」の言葉に似てはいないか。そのような言葉を語り出すこと、それが「愛する」ということではないのか。
→『シリーズ・哲学のエッセンス/デカルト』斎藤慶典/NHK出版

 このひとくだりが、このごろ、ぼくのあたまの中を行ったりきたりしている。ここに言われていることは、懐疑の涯にデカルトが辿りついた(無自覚なままの)境地を示しているが、実際あらゆる意味で<他者>は「いのられる」しかない存在であるとぼくには感じられる。独我論なんていうことを、昔はふりまわしていた。永井均のおっしゃるところには、独我論においてもはや「独」の意味は理解されえない。独我論が理解されるためには<他者>の存在が要請されるのである、と。この論旨は、分かるような分からないような気がするのだけれども、むしろぼくには<他者>が「存在する」ということの意味がよくのみこめない。普通の人は<他者>が存在することを信じているのだと言うけれども、いったいかれらがなにを信じているのやら(冗談で言うのではない)本気で理解できないのである。このごろ、ちょっとじぶんの哲学が存在論にかたむき始めていらい、まったくわけが分からなくなってしまった。<他者>が存在するというのが、どういうことなのか、誰かに説明してもらいたいぐらいである。ぼくには、どうしても<他者>に「存在する」という述語をくっつけることができない。<他者>はただ「いのられる」ためだけのものだ。言うなれば、それは<わたし>のベクトルのむきを示すためだけのものなのである。ベクトルは無へと差し出されている。なにかを予感しているのですらない。無の中に予感できるものなど「在る」わけがない。<他者>はひたすらに「いのられる」。さて、およそ「いのり」の言葉、つまり呪文というものには形式がそなわっておらねばならない。ある形式にのっとるということが、呪詛を呪詛として機能させる。ぼくにとっては、その形式こそが「小説」なのではないだろうか。

 こうおもってみると、じぶんと「小説」とのかかわりが、いくらかハッキリしてきたように感じられる。ぼくの、ものを書くうえでの悩みのひとつは、どうしてこれだけ独りよがりな小説を書いておきながら、それを<他者>に読んでもらいたがるのか、ということだった。書くことでじぶんが充たされているのなら、誰かに読んでもらう必要なんかないではないか。書きためておいて、じぶんだけで読んでおればよい。それなのに、ぼくは無性に<他者>を求めている。この理由が分からなかった。人に読んでもらうこと、人からほめられることは心好い。しかしながら、あくまでぼくは、ただ書かざるをえないから書いているまでなのである。それならば、これはいったいどういうことか?

 こたえは、こういうことだとおもわれる。「小説」という形式は、ぼくにとって<他者>への呪文の形式である。書かれたものこそが、ぼくにとっての<じぶん>であり、ぼくの生きるリズムである。このリズム(=文体)を呪文という形式で組織することこそが小説なのである。ぼくにとって、実に<他者>とは<じぶん>のことであり、そして<じぶん>とは<他者>のことなのだ。ぼくにとっての<じぶん>は、常に喪われている。喪われた<じぶん>への呪文は、そのまま存在しない<他者>への呪文となる(ナルシシズム)。けっきょく、どんどんと<じぶん>の中に沈みこみ、どんどんと独りよがりになりつつも、それを文体(いのりの形式)において組織し、ついに<他者>へと弓がしぼられることになる。「独りよがり」かつ「<他者>を求める」というのは、自己撞着ではないのだ。むしろ、それはまったく同じことなのである。

 おもいかえしてみると、あるひとりの人のために、ぼくは小説を書き始めたようなものだった。<じぶん>=<他者>であり、しかも「もはやそれが喪われている」ぼくにとって、人への慕情は常にナルシシズムという形をとる。対象が喪われていなければ、それを求める必要はないのだ。だから、対象が喪われている時だけナルシシズムは成立する。実際、その人への感情がよわまってから、一時期、ぼくは小説のうえでじぶんのなすべきことを見うしなった。『化物』における用語で述べてみるなら、これはぼくの「人でなし期」から「化物期」への遷移である。「化物期」は乗りこえられざるをえない(乗りこえなければ生きてゆくことができない)。乗りこえたのちには、再びナルシシズムが始まるのであるが、このナルシシズムははじめのナルシシズムとは違うものである。すなわち、ナルシシズム1期(人でなし期)は化物期を経てナルシシズム2期へと移りかわってゆく。

 ナルシシズム1期は、喪失への端的な哀しみによって始まる。ぼくは「死への恐怖」ということをよく言うが、もしかすると中島義道からのうけうりだとおもっている人がおられるかもしれない。が、だんじてそんなことはない。真実はもちろんさかさまで、じぶんに「死への恐怖」の明確な経験があるからこそ、中島義道への傾倒が始まったのである。<じぶん>がいつか喪われること、今この時にも「過去」が喪われていること、これこそが喪失の原風景である。この哀しみは、ナルシシズムへの衝迫となる。<じぶん>を含めた世界全体へ(それがもはや喪われているにもかかわらず)恋をする。あるいは「その人」がもはや喪われていること(むしろ「喪われていなければならない」という強迫観念なのだが)へ恋をする。<恋人>=<他者>=<じぶん>であるから、けっきょく<じぶん>への恋(ナルシシズム)が組織されることになる。こうして「人でなしの恋」が完成する。

 ところが、ナルシシズム1期は崩壊を余儀なくされる。というのも、ある意味では「その人」を中心にして組織されていたナルシシズムが、ぼくの感情がうすまったことにより、もはや機能しなくなるからだ。「その人」に関連づけて理解されていた自己の全存在が存在意義(レゾンデートル)を喪う。ここから精神の彷徨が始まるが、この過渡期をぼくは「化物期」とよんでいる。もはや生きる意味は見出されなくなった。

 そして、ナルシシズム2期に入るのだ。これは「人でなしの恋」ではなくて、むしろ「人でなしへの恋」である。もはや人でなしではない自己が、人でなしだった過去の自己を求めてナルシシズムを製作する。<じぶん>(の存在意義)が喪われたことによる<じぶん>=<他者>へのナルシシズム。もはや喪失を体験できなくなった自己が、喪失体験(生きる意味)が喪失されたこと自体においてナルシシズムを成立させるのである。これはナルシシズムへのナルシシズムという屈折した感情であり、たとえて言うなら「自己への郷愁」なのだ。ナルシシズム2を通してナルシシズム1が導かれるので、全体としてナルシシズムの壮大な建築が営まれることになる。今のところ、ぼくはこの建築に棲んでいることになろう。

 はじめ、ぼくは<他者>(慕う人)が喪われることを<自己>へのナルシシズム1として作りかえた。その次に、ぼくは<自己>が喪われることを<他者>へのナルシシズム2として成立させたのである。めぐりめぐって、ナルシシズムが<他者>(としての<自己>)を求めるようになった。ここに「いのり」の形式が再びよみがえり、ぼくは呪文としての「小説」を再び組織できるようになった。<他者>を求めるものとしての小説が、ぼくの中に生まれたのである。この文学においては、<他者>=<自己>であることは自明の前提として組み込まれている。

 以上、ぼくのナルシスティックな「文学史」を自己分析してみた。これは『化物』への自己解説でもある。こうやって書きつらねてみることは、感情を整理してくれるし、自己理解への促進になる。

 なお、敬語と文体にかんする、似たような見地からの分析を、近日中に執筆する(かもしれない)。

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