2009年10月27日 (火)

ゲーデルの不完全性定理

I1   I2

 第39回京都哲学道場(10月25日)のレジュメをアップしておきます。

◆第39回京都哲学道場「ゲーデルの不完全性定理」レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39.pdf
◆イラスト:
http://www.ilp-project.net/storage/pd_kyoto39i.pdf

 イラストの解説は本文にないので、簡単な説明だけしておきます。

 【図1】
 形式的体系の文命題は、最初の記号(主演算子)が「~」(否定)であるものの集合(否定文集合)とないものの集合(肯定文集合)との、かならずどちらかに含まれる。どちらの集合も可算無限集合なので、まず肯定文集合の文命題に A1, A2, A3, …と番号をふることができて、これらおのおのを否定することで、~A1, ~A2, ~A3, …と否定文集合の文命題にも番号をふれる。図では、上平面に肯定文集合の文命題を、下平面に否定文集合の文命題を整列させている。
 対応する文命題同士に青線を引いている。ある文命題に対する証明図が存在する場合、その文命題のところに青いダイヤ記号を置くことにする。このとき、形式的体系が不完全であるとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれていないような青線が存在することであり、形式的体系が矛盾するとは、青線の両端にダイヤ記号が置かれているような青線が存在することである。このように、不完全性と矛盾性とは対照的な概念である。

 【図2】
 図中の「数学」は「形式的体系」と同義。数学(小円)に対する超数学的分析が、再び数学(中円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第1不完全性定理。第1不完全性定理の超数学的分析が、みたび数学(大円)の内部で表現される、ということを、超数学的に分析するのが第2不完全性定理。超数学の審級は、どんな場合でも数学の背後から働いて意味の領野を支えている。

 実は、上でアップしたレジュメは「数学篇」で、第II部として「哲学篇」も執筆するつもりだったのですが、ちょうどゲーデルの原論文に I と書いてありながら II が存在しないのと同様、力尽きて哲学篇を書くことはできませんでした。書いたところで解説するのは無理だったと思うけど。あまりにも内容が豊富なので、議論するまえに理解を共有すべき点が多すぎるのです。結果、宣告通り「討論」というより「講義」という感じになってしまい、それが成功だったか失敗だったかというと、……少なくとも成功ではなかったと思うな。
 以下、不完全性定理についての覚え書。

○ゲーデルの不完全性定理は、人間理性の限界を示したものなどでは全然ない。こういう誤解はただのミスリーディングなのであって、数学の術語であるところの「不完全性」を、日常言語における「不完全性」と混同しているだけである。このことを、次の事実が端的に示している。

「矛盾している体系は完全である」
「自己の無矛盾性証明が可能な体系はかならず矛盾している」

 つまり、数学は完全である必要もないし、自己の無矛盾性証明が可能である必要もない。だから、数学が不完全であり、無矛盾性証明ができなかったとしても、それは数学の限界などでは全然ないのである。

○では、ゲーデルの不完全性定理にはどんな哲学的価値もないか。そんなことはない。ぼくが考えるに、ゲーデルの不完全性定理というのは、「意味を言葉(形式)にするとはどういうことか」という、言語哲学の全域にわたる、このうえないアポリアそのものなのである。「自然言語における数学」の構造が「形式的言語における数学」の構造に投射されるとは、どういうことなのか、ぼくには全く意味が分からない。なにしろ、自然言語における数学とは、形式化されざる数学なのだから、形式化されざるものに構造などある筈がないではないか。そもそも自然言語の数学と形式的言語の数学とは比較不可能な筈であり、比較不可能なもの同士が同一の構造を有しているとか、ある構造を反映しているとか言われても、それがどういうことなのかぼくには理解できない。
 自然言語と形式的言語の関係は、意味と言葉の関係である。自然言語における数学的意味が、形式的言語の内部で言葉として形式化される。ところが、形式的言語は自然言語を完全に表現することはできなかった。このことが不完全性定理の示したことである。

 意味→言葉=意味→言葉=意味→言葉=意味→……

 この無限背進(超越論的階梯)は、事柄の本質を隠蔽している。すなわち、この系列のどの項にも本当の〈意味〉は登場してこない、ということをである。〈超数学〉は、常に背後から働き、意味の領野の全体を支配している。このような〈超数学〉が、その一端すら形式化されることは遂になかった。そういうことなのだろう。つまり、あらゆる数学はもともと形式的だった。自然言語と形式的言語の関係は、ある形式とある形式とのかかわり合いにすぎなかった。〈意味〉は、常にすでに背景に退いてしまっている。だからこそ、比較が可能になっていたのだ。
 〈数学〉とは絶対的な壺である。その壺は、二人の人間が向き合ったものとして眺められることは「決して」ない、そのような「壺でしかありえない」壺が〈数学〉である。

○ところで、記号列のゲーデル数化とは、記号列を自然数に単射する操作のことだった。また、ゲーデルの対角化定理は、対角線論法という自然数論の技術を使っている(対角線論法がどの程度「自然数論」的なのかはちょっと謎だが)。そして、自然数論を含む体系は自然数論を利用して、自己を表現することが可能となる。いったい自然数とは何なのだろう。
 ぼくにはかなり驚きだったのだが、形式的体系の論理式は可算個しかないのだという(ゲーデル数化が可能なのだから)。ちなみに、一般帰納函数の個数も可算個しかなく、チャーチ‐チューリングの提唱によると、それは計算可能函数と一致する。また、表現可能性とも一致するそうな(「この論理式は証明可能である」という自然言語の文は、原始帰納的にプログラミングすることができなかったので、表現可能ではなかった)。
 この可算無限の空恐ろしさ。

 関係ないですが、去る10月12日に開催された、第3回京都数学研究会のレジュメも、折角なので張るだけ張っておきます。
 http://www.ilp-project.net/storage/kms003.pdf

 以上。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 5日 (土)

『檸檬』と「神聖なるもの」

 反批評的な方のブログで『檸檬』の書評を綴りながら考えた。かつて『檸檬』の一篇を十全に評しうるだけの言葉が組織されたことはあっただろうか、と。かつて批評の言葉は『檸檬』一篇にさえ届いたことはなかったのではないだろうか。
 斯くも『檸檬』は難しい小説である。とても美しい小説であるが、とても難しい小説である。こころみに、『檸檬』の難しさを(「批評」でなく)「哲学」してみよう。

 『檸檬』という一篇の小説は、見事な「イメージの反転」にむけて進められてゆく。それはつまり「この檸檬が爆弾だったら!」という「!」のことである。この、一瞬間にパッとひらめく凄ざまじいイメージを、あざやかな言葉で焼きつけたものが『檸檬』という小説なのだと言ってよい。
 だが、単純に「イメージの反転」があざやかだというだけの話なのか? 『檸檬』は、もっと何か、何か言葉にならない感情に触れてはいまいか?
 かりに、『檸檬』のラストで「私」がダガーナイフをふりまわし、通行人を無差別に刺し殺していたとしたら、どうだろうか。ストーリーの流れから言って、それほど不自然な展開というわけでもない。

  出口のない不安の堂々めぐり・感情のからまわり
    →憂鬱の爆発としての感情的行動

 という流れだから、なにをしても充実できないという非‐行為遂行的な状況から、劇的な事件を惹きおこす行為遂行的な状況への、見事な「イメージの反転」が描き出されている。どうしてこうであっていけないか。
 どうだろう。この小説が、『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことはできるだろうか。「不可能ではない」というのが、ぼくの出した答えである。しかし、そのためには、まだ何かたりない。この「イメージの反転」には、まだ『檸檬』のそれのような「神聖さ」がたりていないのだ。逆に言って、もし「私」の殺人行為を『檸檬』における「神聖さ」に比肩する「神聖なる行為」として描き出すことができるなら、そのときその小説が『檸檬』にひとしい感動を呼ぶことも不可能ではないだろうと考える。
 では、『檸檬』における「神聖さ」とは何か。それは「神的なるものに触れること」である。どういうことか。つまり「檸檬」は美しいが、「殺人」はあまり美しくない。そういうことだ。「殺人」では(普通の描き方では)「美」に触れることができないのである。
 「美」に触れることは、すなわち「レジスタンス」である。もちろん、通常の意味で「美」に触れることは、なんら「レジスタンス」ではなく、むしろ共同体においては推進されてさえいる行為であるが、そうではあっても、いや、そうでしかないとしても、にもかかわらず、〈美〉に触れることは〈レジスタンス〉であると言いうるのである[1]。〈レジスタンス〉であるとは、共同体性が超越されるまさにその地点に立つということを通じて、共同体に対しての全面的で決定的な悪が働かれうるということである。通常の「レジスタンス」がなんらかの体制への反抗であるとするなら、〈レジスタンス〉はもはやいかなる体制への反抗でもなく、共同体性そのものに対する超越的な反抗である。
 ここで注意しなければいけないことは、〈美〉に触れているならそれは〈レジスタンス〉であるが、「レジスタンス」であるからといって〈美〉に触れているとはかぎらない、ということである[2]。すなわち、「檸檬」の〈美〉は結果的に〈レジスタンス=共同体への爆弾〉であらざるをえないが、「殺人」という「レジスタンス=体制への爆弾」は、それが「レジスタンス」であることをもって、かならずしも〈美〉であるとはかぎらない(というか、普通は美しくない)ということだ。原因と結果を履き違えてはいけない。「檸檬」はもともと〈美しかった〉ゆえに〈レジスタンス〉であらざるをえないが、「殺人」はただの「レジスタンス」であって、そのことをもってして〈美〉に触れることはできないのである。もっと分かりやすく言えば、「殺人」は超越しない。〈美〉は超越である[3]。
 だが、『檸檬』という小説自体において、この原因と結果とが混同される。そのことは「見すぼらしくて美しいもの」につよく惹きつけられる、というくだりに表われている。もちろんそうではない。なにかに惹きつけられてみると、惹きつけられたものが偶然「見すぼらし」かったわけではない。事実はまったく逆で、「私」は自分が惹きつけられる〈美しいもの〉のことを「見すぼらしいもの」と呼んでいるのである。なぜなら、ここで「見すぼらしさ」とは〈レジスタンス〉=「レジスタンス」だからだ。「見すぼらしいもの」とは、共同体の価値観において価値がないもののことであり、それに惹きつけられるということ自体がれっきとした反抗であるからだ。梶井はこの論理を逆転させて、たまたま自分が惹きつけられたものが見すぼらしかったのだと、自己の本質的な反‐共同体性を擬装する。
 梶井の「憂鬱」とは何だろうか。それは存在論的不安だったのでなくてはならない。〈美〉に癒されるということは、彼には〈美〉が、すなわち〈存在〉が見失われていたと推論できる。
 「イメージの反転」は、まさにこの地点で描き出される。梶井の「檸檬」は一瞬にして世界を超越し、その〈美〉が〈レジスタンス〉に転化する。それは共同体性に対する爆弾であり、その爆弾を見る者は、同時に「檸檬」が〈美〉であるさまを、文学が「神聖なるもの」に触れるさまを目撃することになるだろう。「檸檬」は音もなく爆発する。どうして音がありえようか、この「檸檬」が爆破しようとしているのは、もはや丸善ではない、体制ですらない、それらを超越したもの、眼に見えず耳にも聴こえぬ〈敵〉であるのだから。
 浄らかな静寂、そのうちに捉えられた一瞬の激情。この激情は、丸善を超え、体制を超え、世界全体への火の手となって炎上する。「檸檬」は小さく見すぼらしいものでなくてはならない。「神聖なるもの」は、世界が点火される地点は、常にもっとも小さなもの、もっとも無価値なもの、もっとも馬鹿げたもの、そしてもっとも美しいものであるだろう。

 ……と、このように書いてきて、やはり『檸檬』一篇を十全に評しうるだけの言葉を組織することはできなかったな、と思う。そんな言葉はない。〈美〉が「言葉」を超越する以上、定義上ありえないのである。文中、ぼくは〈美〉の内容について一切触れなかった。「檸檬」が具体的にどう〈美しい〉のか、なにも語ることができなかった。それを批評することはできないからだ。それを批評することは、まさに『檸檬』を評すための言葉を破棄するということにほかならないからだ[4]。

 しかし梶井基次郎は『檸檬』を書いた。

 それでも梶井基次郎は『檸檬』の一篇を書いたのだ。

 このことこそ、真に奇蹟の名にあたいする。

-------------------------------------------------------
[1] もちろん永井均の山括弧記法を踏襲したもの。
[2] 「レジスタンス」が〈美〉に触れられないのは無論としても、〈レジスタンス〉が〈美〉に触れられるか(この命題の逆〈美〉⇒〈レ〉はかならず成立する)というのは、もっとずっと難しい問題である。一方、「レ」⇒「美」や「美」⇒「レ」が成立するかどうかは、ぼくにとってはどうでもいい。
[3] [2]で書いた問題を言い換えれば、〈美〉は超越性の真部分集合であるのかどうか、ということになる。
[4] このことは、しかし批評するロゴスの本性にかかわっている。もしかすると、哲学するロゴスにはそれは可能かもしれない。そして少なくとも文学するロゴスにはそれが可能であるということが、哲学するロゴスによって示される。文学は示さない。文学はそれそのものとして〈美〉であるだけだ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年7月26日 (日)

京哲37#サブレジュメ

 第37回京都哲学道場「廣松渉 I」(発表者:深草君&ぼく)のサブレジュメです。内容は、実質的には崎山ワタル氏(哲学道場運営協力者、廣松主義者にして難攻不落のディベーター)に対するふたりがかりの批判ということになります。
 ぼくの発表は、チラシの裏に書き殴ったようなものなので、読まなくていいです。

【本発表の戦略】
(1)指針として、実用説の内的矛盾を示すことはせず、実用説がドグマに立脚していることのみを主張するに留めた。
(2)以上の指針に基き、通常実用説を批判するさいに論点となる「実用性の基準は立てられるのか」「実用説は実用的であるのかどうか」などというトピックは一切論じず、むしろ真なる前提として立てることにした。
(3)記号を多用し、あえて文章を難解にすることによって、崎山氏が発表内容を先読みし、先手を打って再反論を構築してくることを牽制した。

※以下、ヘブライ文字「アレフ」をギリシャ文字「ω」で代用しています。
---------------------------------------------------------
2009.7.26 Ph.D Kyoto-37 Sub-Resume / Tani R. Fra: I∴L∴P∴
◆実用説との永訣

      §0 崎山哲学と実用説

 崎山ワタル(廣松渉)の哲学は、(1)共同主観性論、(2)実用説、によって特徴づけられる。両者の関係は、(2)が(1)を基礎づけるものである。すなわち、(2)は崎山哲学全体の肯綮点である。そこで、本発表では専ら(2)を扱う。
 本発表の目的は、崎山哲学がなんらかのドグマを措定していることを示すことである。発表者は、崎山哲学の内的矛盾を示すことには興味がない。崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるためには、それがドグマに立脚しないことが必要である。換言すれば、崎山哲学が他者に対して論理的に主張できるものではないことを示すことが、本発表の目的ということになる。

      §1 実用的実用説

 実用説には、(A)実用説自体も実用的であるとする≪実用的実用説≫、(B)実用説自体は真理だから実用的でなくともよいとする≪非‐実用的実用説≫、の二種類が考えられる。B説は実用性のドグマを措定するものだから、B説が主張されるのなら本発表の目的は達成される。以下、A説に的を絞って考察する。

      §2 理路

 A説の主張は次の通り。
  (α)真理とは実用的な理論のことである。
  (β)実用説は実用的である。
 ここで、以下の前提を仮設する。
  (前提1)真理である主張は真である。
  (前提2)実用性基準は有意味な基準である。
 さて、Aタイプ実用説Xが存在するとき、主張α及び
  (前提3)主張βは真である。
 を前提する場合、主張βにより「Xは実用的である」。すると主張αにより「Xは真理である」。前提1により「主張αは真である」ことが妥当に推論される。しかしながら、主張αを前提して主張αが真であると推論しているのだから、この推論は「主張αが真ならば主張αが真である」ことを主張しているにすぎない。この推論からは、Xが真理であることは導出できないのである。
                                (第1駁論Q.E.D.)

      §3 高階実用性空間Xn

 しかしA説論者はこう主張するだろう。「Xが真理であることは導出できないというが、ここで『真理』という言葉はわれわれの用法で用いられていない。われわれは『真理とは実用的な理論のことである』という意味で『真理』という言葉を使用する。したがって、いま主張βが真であることは前提されているのだから、自動的にXは真理であるということになる」と。主張αに二通りの意味があることに注意しよう。すなわち、主張αが単純定義である場合、提示主題「真理」は無内容であるから、主張α全体も無意味である(α1)。一方、主張αが前提1と複合的に主張される場合、「真である」という判断はなんらかの規定であるから、主張α全体も有意味な主張となる(α2)。無意味な主張はいつでも主張できるが、有意味な主張はその主張が真である場合においてのみ主張できる。すると、先のA説論者の主張は、常に主張可能な無意味な主張α1を前提して、そこから主張α2を利用して有意味な命題を帰結させるという詭弁である。α1がα2に変形されている以上、そこには隠された前提α0が働いているのでなくてはならない。前提α0は、「真(理)である」ということの意味を主張αの高階から密輸入する。
 かくして、実用性空間Xの背後に働く、高階実用性空間Xnが発見される。A説論者がA説の真理性を主張するためには、常に高階の真理空間から真理の意味を備給してこなくてはならない。したがって、無限に続く系列X1, X2, X3,…が構成される。

      §4 超準実用性空間Xω

 そして、A説はなにを主張しているのだろうか。実用性空間Xnは実用性基準Pnに対して相対的に、かつ一意に定まる。すなわち、実用性基準の集合Pから実用性空間の集合Xへの全単射fが存在する。ところで、A説が独立の理論として主張されうるために、系列X1, X2, X3,…の各項Xnが同一の実用性基準Pω0を共有していることが必要である。すると、fはPω0をXの同一の元Xω0に写すから、無限列の各項Xnは同一空間Xω0であって、等式X1=X2=X3=…が成立する。しかるに、A説の真理性が主張されているということは、Pω0自体において背後から作用し、真理の意味論をたえず供給するような、高階空間の実用性基準がそこに存在している筈なのである。
 これを超脱的実用性基準(超準)Pωと表現する。Pωの作用圏域は超準実用性空間Xωである。超準Pωは、無限列の各項に作用する実用性基準Pω0を可算無限空間Xnの外部から支える。超準Pωは、Pω0の主張αを媒介することによって、系列Xn全体を無限に駆動してゆく当の基準であるわけだ。そこで、超準PωこそがA説のドグマであるといえる。
 これで本発表の目的は達成された。すなわち、崎山哲学は超準Pωをドグマとして立てている。
                                (第2駁論Q.E.D.)

      §5 超準真理空間

 超準Pωは超脱的であるから、これを主張の内部に取り出してくることはできない。Pω0≠Pωだから、ある意味でA説の主張は二種類の実用性基準を立てていることになるが、Pωはそもそも主張の内部にないので、Pω0≠Pωであるかどうかということすら論じることはできず、矛盾でもない。それだから、超準Pωなどもともと立てられておらず、A説にドグマはないと考えることもできる。もっとも、これはA説の内部にA説のドグマは存在しないと述べているだけにすぎず、ドグマPωはA説の外部からA説全体の存立を支えている。
 実用性空間は真理空間の真部分集合であるから、このことを真理空間に拡張して考えてみることができる。あらゆる真理空間は、その内部における「真(理)である」ということの源泉を、明示的主張として取り出してくることのできない超脱的真理基準Nωによって与えられている。このようなNωの全体が超準真理空間である。すなわち、超準Pωに対しては、常に系列Pω, Qω, Rω,…を立てることが可能である。
 実用説とは、自己を無限系列化し、Xnにおける「真(理)である」という主張を、Xn+1における「実用的である」という主張へ読み換えてゆくことによって、自己を完成するような真理空間である(読み換えの力はPωに由来する)。そこで、実用説に対して「実用的でない真理が存在する」ということを主張しようとしても、この主張はすぐさま「高階における実用性が存在する」という主張に読み換えられてしまう。実用説の内部から、ドグマPωを破って超準真理空間の存在に触れることはできない。このことはしかし、実用説が唯一無二の真理空間であることを全く意味しはしないのである。
                                (以上)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月24日 (水)

文学的理性のこと

 このごろ考えたことをまとめてみる。

 このあいだ、新文学ustを拝見していて、ディスコミュニケーションがどうたらという内容の会話を聴きながら、本当のディスコミュニケーションをひしひしと感じさせられていた。それは、間‐理性的なコミュニケーション(ディア=ロゴス)がいかに不可能であるかという、その断絶のふかさを思い知らされたからである。批評するロゴスは、もちろん島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性なのであるが、このような理性は、ただに批評だけの所有するものではない。哲学もまたそうだし、じつは文学もそうであろうと思う(ぼくの「批評」批判の眼目は、文学もまたそのような理性であるという点に存する)。このことが、まったくと言ってよいほど理解されなかった。すなわち、批評は、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるような理性の可能性について、あまりにも想像力が欠如しているのである。ロゴスの異質性を超えた間‐理性的コミュニケーションの本当の難しさは、この点にあるのではないだろうか。
 批評に対する哲学の他者性というのは、島宇宙同士の他者性(多言をもちいるほどの他者性とも思えないのだが)などよりも、もっとずっと超越的な他者性である(しかし完全に超越的であるわけではない)。哲学と批評とのコミュニケーション不全は、島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性同士におけるメタ・レヴェルの対立、つまり複数の全体性のあいだにおけるメタ・コミュニケーション不全なのである(批評するロゴスは、すでに「複数の全体性」という表現を誤読しているだろう)。永井均のタームでは、哲学するロゴスとは省察的理性(真理の全体性を目がける理性)のことであり、批評するロゴスとは解釈的理性(価値の全体性を目がける理性)のことである。そして、解釈的理性にとっては、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるあらゆるロゴスは、もうひとつの解釈的理性であるとみなされがちである(だから「複数の全体性」という表現もまた「複数の“価値的”全体性」として誤読されてしまう)。この意味で、解釈的理性に対して省察的理性は超越的である。もっとも、「真‐善‐美」という組み合わせが伝統的に用いられてきていることからして、この三項の対立が理解できる以上は、完全に超越的である筈はないと思う。ここで、文学(藝術)的理性を「美の全体性を目がける理性」として位置づけたい。すると、こうなる。

【世界に対する理性のありかた】
○哲学するロゴス=省察的理性=真理の全体性(独我論的?)
○批評するロゴス=解釈的理性=価値の全体性(政治的?)
○表現するロゴス=文学的理性=美の全体性(A感覚的?)

【共通点】
○なんらかの全体性を目がけていること
○論理の言葉を用いること

 批評するロゴスに対して哲学するロゴスが超越的他者であるのと同様に、批評するロゴスにとっては表現するロゴスもまた、超越的他者なのではないか、というのが、ぼくの批判である。すなわち、批評は美を価値として誤読することによって成立する。たんに美の全体性を目がけるような理性のありかたを、批評は掬いとることができない(先述の通り、完全に超越的ではないので、ちょっとは掬いとれているかも)。
 哲学するロゴスと批評するロゴスとが対立しうるのは(つまりぼくがこんな文章を書かなくてはならなくなった理由は)、文学を媒介項として立てることができて、文学をめぐって両者が対立できるからではないだろうか。すなわち、真理と価値とは美(エロス)から全体性を補給しなくては存立できないのかもしれない。ここで真理を独我論的なものとして、価値を政治的なものとして考えると、瞬間性と歴史性とが美を媒介にして橋わたしされるというわけだから、稲垣足穂=オスカー・ベッカーの「美のはかなさ」論と同じ話になってくる。しかも、哲学と批評との両者に対して文学は他者なのである。文学的理性は実作によってしか、みずから表現者となることによってしか、掬いとられることはない(作者が死んでいたら小説は書けないのです、誰がなんと言おうと)。
 さてはて、間‐理性的な言説空間(ロゴスをコミュニケートするようなディア=ロゴス)は構築可能なのだろうか。そもそも、三種類の理性の出自を洗う作業が、ここまでないがしろにされてきた。これらロゴスの異質性は、いかなる基盤によって与えられるものなのか、そしてそれぞれのロゴスを特徴づけ、語りうるような言葉は成立できるか。「論理の言葉」がキー・ワードになりそうな気がしている。少なくとも、論理的瑕疵を駁論することによる間‐理性的コミュニケーションは常に可能であるからだ。このところ数年来、ぼくはいつでも「論理」というアポリアに立ちもどってしまう。それからもうひとつ。美の全体性とはなにか。それは「世界をデザインする」ということと、どんなかかわりがあるか。この点についても、おいおい考えてゆきたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

雑記 20090619

 松平耕一氏の『新文学』2号のこと、再度告知しておきます。

 ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャの特集に対して、ぼくは哲学をテーマに「哲学と批評のディア=ロゴス」(6865文字)という文章を寄稿いたしております。まあ、あまり哲学的にどうこう、といった文章ではないです。発行は、コミケに間に合うか間に合わないかぐらいであるとか。

 で。明日土曜日(6月20日)14時ごろより、公開企画会議・座談会ustをおやりになるそうです。ぼくも、とりあえず拝見はさせていただこうと思っております。お暇な方は、視聴されてみてはいかがでしょうか。

【松平氏の日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1196729166&owner_id=4275826

    ○

 当分「β」の外されそうもない書評ブログ「反批評的考察」ですが。16冊分書評してみて、ようやく気がついた。とてもではないが、アフィリブログとしては役立ちそうにない。それというのは、ぼくの読んでいる本のヴァリエーションがひどいものであって、

『異体字の世界』小池和夫/『哲学がはじまるとき』斎藤慶典/『思想地図 vol.2』東浩紀ほか/『砂の女』安部公房/『ジョン・レノン対火星人』高橋源一郎/『永遠の出口』森絵都/『パルタイ』倉橋由美子/『世界制作の方法』ネルソン・グッドマン/『差別感情の哲学』中島義道/『〈魂〉に対する態度』永井均/『塚本邦雄歌集』塚本邦雄/『ペラギウス派駁論集(1)』アウグスティヌス/『二十歳の原点[新装版]』高野悦子/『射影幾何学入門』丹羽敏雄/『天族ただいま話し中』稲垣足穂/『超速!最新日本文化史の流れ』竹内睦泰

 なんというか、まずジャンルがバラバラで、ターゲットがまったく分からない。しかも、売れそうにない本が多い。どマイナー。断言できるが、アウグスティヌス著作集からやってきて、本を購入してゆくユーザーなんてひとりもいないだろう。なんというか、ぼくと似たような読書傾向の人というのが、想像つかない。これはひどい。誰得ブログである。
 まあ、やる気が続くだけ続けて、やる気がうせたら即座に削除しておしまいにすることになるだろう。幸か不幸か、書評すること自体は殆んど苦にならない。自分でも気づかなかったことに気づけたりするのが、やってゆくうえで唯一の利点である。
 そういや、一冊だけボロクソに批評してしまった中島義道『差別感情の哲学』であるが、あれが 2ch 中島スレにさらされていたようで、大量のアクセスを稼ぐことができた。なるほど、なんでもいいから新刊を購入してきて、人目を惹く批評をすりゃアいいのか。

    ○

 世界に対する唯一にして無二の〈正当〉な怒りとは、世界に自分が生まれてきたことそのことに対する怒りである。あらゆる怒りは、この水準において怒られるとき、またそのときにのみ、まったく〈正当〉な怒りでありうる。不当に対する怒りというものは、もしその不当が正当であったとしたならぼくは怒らなくて済むわけだから、しょせんたいした怒りではない。本当の怒りというのは、相手が不当でない場合、それどころか自分の方が不当である場合においてこそ、ふつふつとわきあがってくる感情である。自分の方が不当であるのだから、怒りの〈正当性〉をその水準(法律ないしは道徳の水準)で担保することはできない。あらゆる怒りを〈正当化〉する、唯一にして無二の〈不当〉とは、世界に自分が生まれてきたという〈不当〉、そして(中島義道風に表現すれば)生まれてきたその瞬間から死刑宣告を受けているという(自分もいつかは死ぬのだ)、この目も眩むほど絶大な〈不当〉なのである。この〈不当〉は、どのような怒りによってもあがなえないほど絶大であるので、あらゆる怒りは、この〈不当〉に対しては〈正当〉なものということになる。子供は、だから泣くのである。相手が悪くても、自分が悪くても、そんなことにはおかまいなしに、子供は泣くのである。
 こんな〈不当〉をまえに、あらゆる怒りが〈正当化〉されたところで、いったいどうすればいいというのだろうか。土浦の犯人のように、不当でしかありえないほど(それゆえ、このうえもなく〈正当〉な)犯罪でも犯すか、さもなくば、世界に対して、あまりにも無謀であまりにも滑稽な戦いを挑んでみるしかないだろう。ぼくは、〈正当〉にも、生きて、なにごとかを行為している。
(もちろん、土浦の犯人のやったことは、あらゆる意味で不当な行為でしかない。それがぼくにとって〈正当〉な行為でありうる状況は、どんな場合でも考えることができないから)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年6月10日 (水)

雑記 20090609

 先だって深草君も日記に書いていたが、マイミクの大学生、ARUKOBU君が自殺した。先月のこと、硫化水素自殺だった。日記で自殺をほのめかしていて、深草君はジョークかどうか分からず反応にこまると言っていたけども、まあこんなことになるだろうなとは思っていた。マンガ学きわめるんじゃなかったんか、東京に出るんじゃなかったんかい、おい、と思いこそすれ、いまさら言っても詮ない話である。彼が亡くなった夜、ぼくは彼にスカイプを架けていて、しかも出たと思ったら切られてしまった。音声デバイスの不都合があったのかもしれない、少し残念である。死んだのだから、もはやどうでもいいけどね。
 彼はもともと、ぼくの差別論がきっかけになって、ぼくにアクションをかけてきてくれて、哲学道場にも二度くらい参加してくれた。浅田彰『構造と力』でぼくが発表したとき、居合わせた。あの『構造と力』発表は、哲学道場史に残るほどの名発表だったと自分で思っているので、往時の感動を伝えてくれる人がひとり減ったのは、つくづく残念である。彼が死んだころ、ぼくは短歌を作っていたわけで、せめてぼくの短歌を読んで批評してから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、なんとも残念である。彼と通話で表現について話し合ったとき、彼はぼくに何冊か海外小説をすすめてくれて、いまやタイトルを失念してしまったので、教えてから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、いかんせん残念である。彼がなにも返答してくれないということが、とにかく残念である。彼のミニコミ誌のために執筆し、彼の要望を容れて大きく書きなおしたりもしたチャットモンチー論だけが、ミニコミ誌はとうとう刊行されず、ぼくの手許に残された。
 興味がないのでお通夜には行かなかった。ただ、作っていた短歌三十首中に一首、彼への挽歌が急遽入れられることになった。ぼくにできる「喪の作業」といったら、このくらい。

    ○

 購入した本。
 三島由紀夫『美しい星』、廣松渉『もの・こと・ことば』、原口統三『二十歳のエチュード』、寺山修司『寺山修司全歌論集』、稲垣足穂『天族ただいま話し中』、中城ふみ子『中城ふみ子歌集』、田島邦彦『これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語』、丹羽敏雄『射影幾何学入門』、ベンゼ『情報美学入門』、など。読了したものから書評ブログで報告してゆく予定。
 なんか情報美学おもしろそうだけど、これでレジュメ切ろうかな>深草君

※書評ブログ:http://d.hatena.ne.jp/TaniR/

    ○

 コミュニケーションとは、コミュニケーションの手順を習得することそのことであり、現実に対してなんらかの期待をいだき、その期待が現実によってたえず応答されるということである。これは現実に対して賭博的関係をとりむすぶということに相当する。中島義道的〈対話〉は、むろん現実に対する賭博でなくてはならない。
 ゼロアカ界隈では、象徴界S(ロゴス)の紐帯がゆるんだのちに、いかなるコミュニケーションの形がありうるかなどとかまびすしいけれども、事は単純だろう。現実に対するインターフェースのスタイルがどれほど変化したとしても、現実に対して「期待‐応答」というルーチンが反復されるかぎり、常にすでにコミュニケーションは生起していると言える。
 迷路とは、制作者と解答者とのダイアローグではないか、とこのごろ考えている。ぼくには迷路を作る趣味があって、最近はピクシブで発表したりしているのだけれど、イメレスで解答をもらえたりして、とてもうれしい。どうしてうれしいかというと、そこでコミュニケーションが成立しているからにほかならない。「迷路とは、世界で一番小さな賭博である」と、ぼくは思う。迷路というのは、分岐のひとつひとつに賭けてゆくゲームのことだからだ。手順を習得し、径路に期待をいだき、その期待が裏切られ、さらに制作者の心理を裏読みし、その裏読みが径路によって応答され……と、どこまでも〈対話〉に駈り立てられてゆく。それというのは、迷路が自己韜晦のスタイルでもあるからだ。迷路がどこか崇高に思えるのは、そこには神話が、すなわち「作者神話」が存在しているからではないだろうか。迷路は解答者のまえに「謎」として立ち現れてくる必要がある。そこで表現者とは「謎」を演出する者でなくてはならない。
 あるいは、東方花映塚(弾幕シューティング・ゲーム)をやりながら、弾幕がコミュニケーションであるとはどういう意味かを考えている。それはやはり、弾幕シューティング・ゲームをプレイするということが、手順を習得し、現実と〈対話〉することであるからなのでないか。この場合、弾幕シューティングにおける「弾幕の美」が「謎」に相当するかもしれない。ニコニコ動画に「東方紅魔郷Ultraモード」(sm6091554)なんていう動画が存在するが、この動画は弾幕をめちゃくちゃ濃くしておいて、それを実行速度50%でプレイするというしろものである。なんでこんな動画で感動できるのだろう。それは、なにか過剰なまでのコミュニケーションが視聴者の夢をなぞるように追体験できるからなのではないか。この動画をみていて、どこか渇望みたいなものを感じてしまうのは、ぼくだけなんだろうか……。
(ちなみに、賭けるということと、手順を習得するということにかんして、花映塚体験版についてくる「上海アリス通信 vol.5」で、神主の見解が述べられていて、参考になる)

※pixiv(迷路):http://www.pixiv.net/member.php?id=389792

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

雑記 20090513

 図書館で借りて、アウグスティヌス著作集の第9巻『ペラギウス派駁論集(1)』を読んでいる。一体どうしてこんなものを読む羽目になっているんだか、自分でもよく分からない。
 『霊と文字』は、「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味を考えている。なかなかよくできた論考で、この「文字‐霊」という対立を、「旧約‐新約」という対立に重ね合わせて論じている。すなわち、ここで文字というのは律法のことなのだが、律法は聖霊を欠いては「殺す文字」である。罰の存在が律法を守らせる(行為の律法)というのではだめで、内なる聖霊の力による神への愛が律法を守らせる(信仰の法則)のでなくてはならない。前者が「旧約」に、後者が「新約」に対応する。この、文字と霊とのふしぎな一致には、「イエスがキリストである」という信仰告白に受肉の秘儀が現れているように、ひとつの秘蹟が介在していると言えるかもしれない。
 つまり、このぼくが神への愛(=憎悪)において行為することが、なぜだか文字(=ぼくという物語)に一致してしまうということである。この一致は偶然のたまもので、もちろん時に破られもする。しかし、どうして一致するのか。一致するように思えてしまうのか。
    ○
 定額給付金で春山行夫詩集(稀覯本、市場価格一万数千円ほど)でも購入しようかと思っていたのだが、売れてしまっていた。しかたがないので、エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』上下巻でも買い入れようかと考え中。春山行夫は、日本モダニズム詩の立役者のひとりなのに、なんでまともな詩集が出ていないのだか。
    ○
 ブログの方で人と話しているとき考えたのだが、また「真理と意味」の話だけれど、真理→意味という流れがいまひとつつかめないのは、ここでいう「真理」の本性がどうもよく分かっていないためらしい。
 つまり、「真理」には三種類の意味がある。「客観的事実」「客観的世界」「客観的構造」の三種類で、関係としては以下のようになるだろうか。

◆客観的事実=客観的世界+客観的構造(+物自体?)

 まず、名辞の意味は客観的事実を介して学ばれる。このことは明白で、ぼくは現在でも、あたらしい言葉を覚えるためには、常に客観的事実を介してその意味を覚える必要がある。
 次に、客観的事実が存立できるための客観的世界という概念があるが、この客観的世界という概念がなくとも言葉を覚えることが可能かどうかは、凄く難しいところである。他者と会話できるためには、それぞれの言明が同一の世界についてのものであることが理解できている必要がある。とはいえ、これはどういうことか、そして本当にそうなのか。
 それから客観的構造。これはつまり「主‐述」構造ということで、客観的事実にも客観的世界にも由来するものではないから、独立して出自を洗わなくてはならない。
 ……とまあ、このように「真理」には多義性があるわけなのだが、一体「意味から真理へ叛逆することができない」というときの「真理」とは、このどれのことを指していて、そしてどういう理窟で叛逆できないということが言われているのだろう。そもそもこれらの内、叛逆可能であるのは「客観的事実」しかないように思えるのだが、そうだとすると、権利上叛逆可能であるということは、先の日記で論じたことである。
    ○
 東方花映塚。暇をみつけて練習してる内に、ようやく霊夢でてゐを倒すことができました。これで念願のルナシューター……なわけないけど。えーきさんとか倒せないと、やっぱりだめなんだろうなー。足が遅いので、小町ぐらいなら倒せる気がする。また練習してみます。
 なお、操作デバイスは無論キーボード。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

メモ:言語と哲学(永井先生の哲学教室)‐1

 5月2日、永井均先生の哲学講義(於、朝日カルチャーセンター京都)に出席してきました。講義内容は、さかた氏がくわしくまとめておられ、サッとながめさせていただきましたが、ぼくの解釈上とくに附言すべき点はないようです。そこで、リンクを張らせていただくことにして、いちいち論点をまとめることはしません。

◆5月2日13時 朝日カルチャーセンター京都での永井先生の講義
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1156041089&owner_id=19842618

 以下は個人的なメモ。

      φ      φ      φ

 母親から言語を学ぶ段階や、外国人から外国語を学ぶ段階では、母親や外国人は、決して間違ったことは言わない(真理である)と考えられているというが、母親はともかく、外国人の場合はどうなのだろう? つまり、雨がふってきたとき、外国人が「ラチ ミスル」と言ったからといって、ぼくはかならずしも「ラチとは雨のことだろう」と考えるわけではない。というのは、ぼくは「正しくは雨をルキというのに、この外国人がルキ ミスルと言うべきところを、あやまってラチ ミスルと言ってしまった可能性」を常に想定できるからである。
 母親から言語を学ぶ段階とは違って、外国人から外国語を学ぶ段階では、少なくともぼくは母語を習得しているわけだから、実際の言語的遂行能力はないとしても、意味から真理への叛逆は権利上可能になっているのではないだろうか?
 もっともこれは、ぼくの母語の分節体系が、その外国語の分節体系と、同一のものである(名辞が一対一対応する)と仮定しているからかな? この仮定がない場合、意味から真理への叛逆はやはり不可能なのかもしれない。もちろん母親から言語を学ぶ段階では、真理に叛逆することはできない。この段階で学ばれる「主‐述」という分節化は、いったいどうやって学ばれうるのだろう? 「真理」=「客観的事実」にも「主‐述」的構造がある筈で、だとするとこれは「真理」から学ばれたものではないのだろうか。すると、どこから?
(というか、逆に「真理」=「客観的事実」の「主‐述」的構造が学ばれてしまったあとなら、ぼくは母親に対してでも、外国人に対するのと同じように、言葉を覚えぬ内から、権利上叛逆できるのではないだろうか。あれれれ、とすると「真理」の出る幕なんてなくなってしまう???)
    ○
 それから、「私」という言葉の使い方をどうやって覚えるのかということについても、メモを書こうと思ったのだけれど、ちょっと混乱してきてまとめられなかった。また、考えが煮つまってきたら日記を書くかもしれません。
 とりあえずは以上です。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年4月14日 (火)

無意味の意味/意味の無意味

 この文章を書いていて、ひさしぶりに、なんだか本当の意味で「哲学したなあ」という気分になりました。

      ○〈高階の脳〉は変容できるか

 意識は脳の作り出したものである、と考えてみる。脳というのは物理的存在なので、時刻 t1 における脳と t2 における脳とでは、構成する物質も、脳状態も、まったく同一であるということはありえない。それなら、テセウスの舟ではないが、どうしてそれを同一の脳だと言えるのか。少なくとも、脳によって作り出された意識においては、過去と現在とを通じて、自分は常に同一の自分であるかのように思われている。自分は常にひとりだというこの感覚は、どこから出てくるものなのだろうか。

 その答えは、「脳が世界のモノサシだから」ということになろう。すなわち、脳は世界を測り、自分を測る。このとき、過去の自分もまた、現在のモノサシによって測られることを免れない(現在には現在のモノサシしか存在しないのだから)。脳 t1 から脳 t2 への変容は、モノサシで測られる対象物の変容ではなく、モノサシそのものの変容なのである。そうすると、夏には伸び、冬には縮むモノサシだったとしても、そのモノサシしか与えられていないのならば、1cm は常に 1cm だということになる。モノサシを測れるモノサシが与えられていない以上、モノサシの自己同一が破られる可能性はない。

 だが、この答えが本当だとしたら、おかしなことになる。こんなことがもし事実なのだとしたら、モノサシであるところの脳が常に変容しているということを、ぼくが知りうるわけがないからだ。脳 t1 と脳 t2 とが変容していることを知れるためには、ぼくは脳 t1 と脳 t2 との違いを計測できるようなモノサシを所有していなくてはならない。そのモノサシで、脳 t1 と脳 t2 とをともに計測してみることをもって、はじめて比較ということが可能になる筈だ。ところが、脳は「そのモノサシしか存在しないようなモノサシ」なのであってみれば、比較衡量用のモノサシなど存在できる余地はなく、つまり脳の変容を知ることは不可能な筈なのである。

 いったい、脳が変容しているという事実を、ぼくはいかにして知るにいたったのか。よく考えてみると、変容する脳というのは、他者の脳のことではないのか。あるいは「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」ではなく、「ぼくの意識と対応するとみなされている、世界内の存在者としての脳」ではないのか。これら物体の変容なら、ぼくにも観察することができる。「ぼくのこの意識をまさに作り出している当の脳」は、もはや測定されうるものでなく、それゆえ無規定的な存在であり、ぼくはこんな脳(以後〈高階の脳〉と表記)が本当はどのようなものであるのか、知ることが原理的に不可能である(知るためには計測しなくてはならない)。ぼくに知りうるのは、限定的な存在、計測可能な存在としての、世界内に存在する「ぼくの脳という物体」にすぎない。そして、他者の脳やぼくの脳といった、これら物体の観察を通してぼくが知りうるのは、それら「存在者としての脳」が「存在者としての他者やぼく」のモノサシであるということだけである。ぼくの〈高階の脳〉が、〈この世界〉のモノサシをなしているかどうかは、いかにしても知ることができないのである。

 そういうわけで、ぼくの無限定な〈高階の脳〉が変容しているかどうかは知りえない。だから、自分が同一であると思える理由もないかわりに、自分が同一であると思えては不都合な理由(脳の変容)もないことになる。というよりか、〈高階の脳〉が「変容」するということ自体が不可能なのである。世界内の存在者について、それが「変容」するということは言えても、そうでないものについては、「変容」するということ自体、意味をなさない。それでもなお、〈高階の脳〉が「変容」する可能性を、考えうるように思えてしまうのはどうしてか。それは世界内の存在者に発生する「変容」という事態を、あやまって〈この世界〉そのもの、あるいは〈この世界〉を作り出している〈高階の脳〉にまで適用してしまったというだけのことなのだろうか。

      ○〈世界全体性〉は思考できるか

 どうしてこんな適用が成り立ってしまうのか。物事を考えるというとき、ぼくに考えうる物事は、世界内の存在者とそこに発生する事態だけである。そこで、たとえ世界内に存在しないものであっても、ひとたびぼくに考えられてしまった瞬間、それは世界内的な物事であるかのように考えられてしまうのではないか。ひとたび〈高階の脳〉を思考してしまった瞬間に、それが「変容する」という事態もまた可能であるかのように錯覚してしまうことになるのではないか。

 しかしそれなら、無限定な〈高階の脳〉というものを、ぼくはどうして思考の舞台に登場させることができるのだろう。世界内に存在しないものを、ぼくはどうして考えることができるわけなのか。

 ふむ、それは「根拠」を、つまり世界内の物事であればどんな物事に対してでも考えることが可能な「根拠」を、〈この世界〉という世界内に存在しない物事(世界そのものは世界内には存在しない)に対してまで適用してしまうことによるのだろう。そこで、〈この世界〉の「根拠」として、ぼくの意識を作り出している〈高階の脳〉が措定されてしまうのではないか。……この答えには二点、不明瞭な点が残されている。まず、「根拠」とはなにか、ということをはっきりさせなくてはならない。それから、これはきわめて重大なポイントなのだが、ぼくはどうして〈この世界〉という、世界内に存在しない筈の物事を思考することができたのか。〈高階の脳〉が思考されてしまう理由は分かったが、では〈この世界〉が思考されてしまう理由はというと、依然として不明なままである。

 まずは「根拠」について、簡単に考えておこう。「根拠」を答えるとは、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)を、世界内の存在者にまつわる脈絡(意味)でもって答えるということである。意味の網目のなかで、「根拠」は常に飛躍したものでしかありえない。つまり「A の根拠は B である」なら、「B ならば A である根拠は?」と問いかけることができる。「B ならば A の根拠は C である」なら、「CB ならば A である根拠は?」と問える。以下「……EDCB ならば A である根拠は?」と、どこまでも問うてゆくことができる。だがしかし、これら無数の事柄が積分されて「根拠」になっていたわけではない。むしろ反対に、「根拠」を微分してゆくことによって、無数の事柄は事後的に発見されてゆくのではないのか。はじめにあったのは「B ならば A である」という根拠のみであって、A と B との連結は偶然的なもの、体で覚えていた経験的なものであるように思える。すなわち、B が観察されてのち A が観察されるという、先後関係が身体感覚として累積されていたにすぎない。そうだとすると、〈この世界〉という事例がひとつしかないものについては、なにかが観察されてのち〈この世界〉が観察されるという経験はありえないので、やはりその存立に「根拠」などないということになるだろう。

 では、〈この世界〉が思考されてしまう理由に移ろう。〈この世界〉あるいは〈世界全体性〉を、ぼくはどうして考えることができるか。逆に、〈この世界〉を考えられない筈だとする理由は、なんだったろうか。それは、〈この世界〉が、世界内に存在する物事ではないということによるのだった。しかし、世界内に存在する物事だけが考えうるとする、その根拠は? それは、「世界内に存在する物事である」ための必要充分条件が、「意味的な物事である」ということによる。世界内の存在者はおしなべて意味的なのである。われわれの考えるやりかたは意味的だから(しかし、考えるやりかたが意味的であるということ自体、どうやって知れるのだ?)、意味的でない〈この世界〉、あらゆる意味の冪乗としての〈世界全体性〉=〈意味全体性〉を、われわれは考えることができない筈なのだ。逆に言えば、意味的に捉えられた〈この世界〉や、意味的に捉えられた〈意味全体性〉は、充分思考されてかまわないということになるだろう。もちろん、〈この世界〉や〈意味全体性〉は意味的には捉えられない筈なので、意味的に捉えられた瞬間それは意味の内部へと頽落してしまうことになる。

 だが、だがだ、だがしかし、〈なにを〉意味的に捉えるというのか。この世界内の、意味的でしかありえぬ存在者についてなら、ある意味をある意味で捉える(解釈する)ということは可能だろう。しかし、無意味を意味的に捉えるということ、無意味をある意味で捉える(解釈する)ということは、「無意味を」という目的語が機能しないため、不可能なのではないのか。

      ○〈無意味の意味〉あるいは〈意味の無意味〉

 ……なぜ無意味が、意味の領野に登場できるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。それは、無意味が意味的に捉えられているからである。しかしなぜ、無意味を意味的に捉えることができるのか。……

 なんなのだこのトートロジーは!

 ……なぜ世界全体性が、世界内に登場できるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。それは、世界全体性が世界内的に捉えられているからである。しかしなぜ、世界全体性を世界内的に捉えることができるのか。……

 ああ。

 ここまで、ぼくは自分の議論を前提に結論を出し、その結論を前提に結論を出し、というふうにして、書き進んできた。だが、もはやここから先に、ぼくの思考は進むことができない。上記のトートロジーは、これまでの議論を承けて、完全に妥当にみちびかれたものだ。けれども、このトートロジーは、いかなる分析のメスをも受けつけないように思われる。もうどうすることもできない。深淵を前に、ほとんど放心することしかできない。

 なんとか、それでもなんとか、考えられるだけのことを考えてみよう。このトートロジーをどこまで遡行しても、意味的に捉えられた無意味しか出てはこず、本当の無意味など登場してくる余地はない。もちろん「本当の無意味」というこの言葉も、意味的に捉えられた無意味しか指示しないわけだ。そうだとして、では無意味を〈意味的に〉捉えるという場合、それは〈どんな〉意味として捉えられているのだろうか。つまり、無意味の意味とはなにか。「無意味の意味」という意味が、〈意味世界〉に登場してくる意味はなんなのか。

 それは、われわれが「有‐無」という対立で世界を把握するから、「意味=有意味」ということが把握された途端、その対立概念として「無意味」もまた把握されざるをえない、ということではない! なぜなら、「意味」ということもまた無意味だからだ。意味的に捉えられた「意味」には意味があるが、意味的に捉えられていない、「意味」そのものは無意味である。だから、「意味」そのものも、意味として捉えられていなければ〈意味世界〉には登場してこられないのである。いや、あらゆる概念について、その概念は意味的に捉えられたとき意味があるが、概念そのものは無意味である、と考えることができる。だがこれは、〈なにを〉考えていることになるのか。「概念そのものは無意味である」と考えられるということは、ここでは「概念」も「無意味」も意味的に捉えられているのであり、この説明には意味しかなく、ここまでの論述全体にも意味しかなく、そもそも〈この世界〉には意味以外のものはひとかけらとてなく、にもかかわらず「無意味」を考えることには意味があるように思われ、しかり、意味はあるのだが、それはもちろん意味はあるのだが、それが〈どんな〉意味なのかを考えることは無意味であり、しかもそれが無意味であるということを考えることには意味がある!

 すなわち、こういうことだ。「意味」を考えることは「無意味」であり、「無意味」を考えることには「意味」がある。そう、「無意味」を考えること〈だけ〉に「意味」がある。ぼくは、ぼくに許された正当な権利として、「無意味」を存分に考えることができる。だが、ぼくに「意味」を考える権利はない。ぼくに考えることが許されているのは「無意味」だけである。だから、常識とは正反対に、ぼくに考えることが許されているのは〈無意味世界〉内の物事なのであり、〈意味世界〉内の物事については、ぼくは〈絶対に〉考えることはできない。

      ○結論

 この文章は、ぼくにはなにも考えることができないということ、つまりぼくが考えていることはみんな無意味なことだということを、〈有意味に〉示した論証だといえる。(Q.E.D.)

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年4月 5日 (日)

京哲34#レポート

◆第34回京都哲学道場(2009年4月4日)
◆参加者:itikun、コーゾー、さかた、深草周。

 前半は、深草君が切り出した「ゾンビとビンゾの話」をめぐって、雑談、というかレジュメなしの議論がスタートした。深草君いわく、永井ワールドにぞくしている人しか来ていないということで、こういうなりゆきになったものだろう。

 深草君の立脚している議論を、ぼくは知らないから、なんとも言えないが、ゾンビの逆としてのビンゾを考える場合、ぼくはゾンビもビンゾも現実性(アクチュアリティ)のレヴェルで考えている。つまり、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
 という意味でのゾンビと、これに対する、
「私はビンゾであり、他人はビンゾではない」
 という意味でのビンゾとを、考えている。もしここで、入不二的に「ビンゾ」と「ゾンビ」を置換してみるなら、「私はゾンビであり、他人はゾンビではない」ということになるだろう。
 で、深草君は実在性(リアリティ)のレヴェルでゾンビの議論をやりたいということだったが、ごめんなさい、深草君の「ゾンビ」がどういう意味でのものなのか、ぼくにはちょっと分からなかった。他者の内に「心」なる存在を各人が立てることを承認する立場、というのは、どういうことになるのかな。それは機能主義のことなのかしら。そうではないの?
 それはともかく、肉体(って、どこまでが肉体?)のないゾンビと、〈私〉のないビンゾとでは、違う気がするということをぼくは述べました。現実性のレヴェルでは、ゾンビとは「〈私〉ではない=〈私〉がない」という意味だけど、ゾンビに定義上許された私秘性は、そのまま残ってもよい筈だ、と思ったので。つまり肉体は存在せず、私秘性だけを有する、認識不可能な存在。というか、構成概念としての一般的な意味における「魂」って、そういうものではないかな。これに対して〈私〉のないビンゾには、なにも残らないと思う。深草君が言いたかった違いは、この違いではないのだと思うけどね。

 そんなこんなで議論が紛糾し、三時前後の休憩を入れて、ようやくレジュメの発表ということになりました。ただでさえ内容が濃かったのに、急いだので、「客観的客観性の客観性が主観的客観性の主観性を間主観的に客観的客観化する!」などと機関銃みたいに喋ってしまった。参加者のみなさま、すみません。

 このたびの発表で、ぼくが特に主張したかったのは、以下の二点。

○非科学的なものというのは、「主観的客観性の科学」という意味では科学的なのであり、競馬においてリアルな利益を生むために、それはなくてはならないものである。

○それら一切を凌駕する「超越的非科学」を考えることが可能であり、それこそがアクチュアルな利益を生みおとす当のものなのである。

 超越的非科学の説明は、レジュメでは不充分だったので、咄嗟に以下の考え方を案出し、説明に利用した。

「いまここで、コップを手にとり、手をはなす。コップは落下するかもしれないし、落下しないかもしれない。あらゆる科学的説明を凌駕して、只今この瞬間、なぜだかコップが落下しないということは、どこまでも可能でなくてはならない。コップを手にとる。コップから手をはなす。コップは落下する。なぜだかコップが落下しないということがどこまでも可能だったにもかかわらず、只今この瞬間、〈なぜだか〉コップは落下した。いまここでコップが落下するかしないかは、実在的な内実からは全く束縛されていないことなので、コップが落下するということはひとつの〈奇蹟〉である。すなわち、ぼくに〈ツキ〉があったから、コップが落下したのだといえる。このような〈ツキ〉のことを、超越的非科学という。しかし、コップが落下したということは、いままさに実在的な事実となってしまったから、この実在的な事実を実在的に考えるかぎり、それは科学に回収されうることであり、科学的法則という物語によって、ならびたつ実験のなかのとある実験として、コップの落下という実験が行なわれたのだとみなされる」

 しかしどうなんだ。ぼくはとんでもないことを言っていやしまいか。つまりアクチュアルな〈ツキ〉が、リアルな「科学」を現に生み出してゆく、とぼくは言っているのだ。永井にそくして言い換えるなら、アクチュアルな〈私〉が、リアルな「世界内的な存在者」に干与し、変化を生じさせてゆく、と言っているのだ。しかも、このレジュメでぼくが一番考えたかったのは、アクチュアルとリアルという二分法は本当に正しいのか、この二分法は錯覚なのではないかということだった(もちろん結論を出してはいない)。
 しかしこれはヤバい。科学の産出運動における生成力こそがアクチュアリティであるとぼくは論じたが、めちゃくちゃ危ないことをぼくは言っている。深草君の指摘の通り、科学が存在する可能世界(アクチュアルでない世界)を考えることができるし、その世界の住人も、科学の生成力とはアクチュアリティである、と主張することができるからだ。じっさいには、その世界はアクチュアルでないにもかかわらず! アクチュアリティを内実にからめてしまうと、アクチュアリティとリアリティとを分離した議論ができなくなってしまう。そのうえ時間的にも、科学とは有史以来、営々と織りなされてきたものである。それを、独今論的なアクチュアリティにおいて主張してしまおうとは。それは(語りうるかどうかは措いておくとして)可能な立論なのか? それともなにか別の構造に、永井哲学自体を頽落させてしまっているのか? よく分からない。
 〈ツキ〉が〈私〉と違う点は、〈私〉とはただの現実性であるのに対し、〈ツキ〉とは予測的態度における現実性であり、それだからまさに現実性を物語に賭けわたすものでもあるということ。つまり自由意志の問題圏にかかわっている。自由と不自由との両面性が、あるポイントにおいて統一されなくてはならない。その統一はどうやって可能になるのか。
 深草君は、これを「超越論的神と、存在者としてのキリストとの、統一というアポリア」に定式化してみせてくれた。この定式化は正しいと思った。しかしここで、別口の難点が登場してくる。つまり「神」と〈開闢の神〉とは違う(そしてぼくが問題にしたい統一は後者である)にもかかわらず、それがキリスト教の宗旨論争と同一の構図になっているというのは、どういうことなのか。というか、これを同一の構図だと考えてしまってよいのか。
 少なくともどちらも超越論的である。そして、超越論的であるということが、同一の構図をみちびいてきているようにも思える。しかし、ぼくは超越論性を統一したいわけではない! ぼくはアクチュアリティとリアリティとを統一したいのだ。
 ……逆に考えて、そもそも超越論性というのは、そんなどこにでもかしこにでも登場してくるものなのか、という疑いがおこる。超越論性が問題になるのは、それがなんらかの意味で〈私〉と関係している場合にかぎるのであって、〈私〉と無関係にキリスト教だの物自体だのという場面で超越論性が出てくるのは、たんなる錯覚、気のせいなのではないか、というふうにも思える。つまり永井哲学以外での超越論性の全否定。うっひゃー。

 もう全然、哲学道場とは関係のない話をしますが、このごろぼくは、超越論的文学は可能か? ということを考えている。
 マンガの主人公は死なない。すなわち、主人公以外の登場人物については、生と死との対立を考えることができるが、主人公についてはこの対立は存在しない。つまり、主人公は超越論的「生」を所有している。ぼくが大好きなマンガ『修羅の門』は、このことが作品内でも追究されている。つまり、主人公である陸奥九十九にとって、「戦い」とは常に生死を賭けて行なわれるものである。ここでは「生‐死」「強い‐弱い」「勝つ‐負ける」という通常では独立の対立軸が、すべて重ね合わされている。「勝ったのなら強くないことはありえず、強いのなら勝たないことはありえない」というわけだ。九十九は超越論的に「強い」。だがそれは、九十九が〈死〉を賭けているからこそである。
 ところで、ぼくをマンガの主人公だと考えてみよう。ぼくが登場するマンガは、文学をテーマにしたマンガである。ぼく以外の登場人物にとっては「文学である‐文学でない」という対立を考えることができるが、ぼくは超越論的に文学者なので、ぼくについてはこの対立は存在しない。ぼくは超越論的「文学」を所有している。すなわち「ぼくがなしたことなら文学でないことはありえず、文学でないのならぼくがなしたことではありえない」というわけ。
 こんなことは本当に可能なことなのだろうか。少なくともこれまで、ぼくはそのようにして生きてきた。あらゆる認識が可能になる条件として、ア・プリオリにぼくは文学者だったし、たとえ小説を書いていようがいまいが、ぼくは「文学している」のだった。
 このような文学を〈文学〉と表記するとして、話は〈ツキ〉の場合とまったくおなじ帰結をもたらす。すなわち、〈文学〉は〈私〉とは違っている。〈私〉がたんなる現実性であるのに対し、〈文学〉とは態度的現実性であり、それは現に、ぼくに小説を書かしめるものであり、あるいは小説を書くという予測的態度にぼくを置こうとするものである。すなわち、〈文学〉はアクチュアルである一方、リアルな世界内的事実に変化を与えるものである。ここでもまた、アクチュアリティとリアリティとの統一が問題になってくる。
 いったい、ぼくが超越論的文学者であることは可能なのか。そして〈文学〉を「小説」へと賭けわたす〈オッズ〉とは何か。これからじっくり考えてゆきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)