筒井康隆は『パプリカ』という小説を書くにさいして、一夜の内に白髪になったと述べている。『パプリカ』は夢に取材した小説であり、執筆のために自分が視た夢をいじくりまわしていたために、白髪になってしまったのだという。筒井は、この体験を元に、夢というものを安易な気持ちでほじくるものではない、必ずしっぺがえしを喰らうと忠告する。だが、こちとら「夢に生き、夢に死す」が商売であり、忠告されてもどうしようもない。ぼくは基本的に、中学二年生の秋から冬にかけて視たいくつかの悪夢に影響されてこれまで生きてきた。フランツ・カフカいわく「夢は現実を暴露する」ということだが、これは夢に対するいくぶん静的な解釈であり、ぼくだったら「夢は夢自体を暴露する」とか「夢は存在論する」とか、せめてもうちょっと動力学的な表現にしたいと思う。
それはそうとして、今ちょっと精神が不安定である。できたら誰かと話していたいくらいなのだが、午前四時ともあり無理な相談で、しょうがないから日記でも書いて心をおちつける。おちつかなかったらニコニコ動画でも視て陽がのぼるまで繋ぐ。それというわけは、昨日の朝九時に視た夢にあるのであって、その夢が原因で今までずっと精神不安定なのだ。精神不安定というか、正直なところ怯えている。それにしても、いくらぼくの体にガタがきているといっても、まさか象徴化機制が失敗するとは思わなかった。ねえフロイトさんどうですか、さすがにどうかしていると思いません?
目が覚めた。この「目が覚めた」というところからして問題なわけで、床に就いたのが朝六時、目が覚めたのは朝九時である。ぼくは睡眠には、可能なものなら十二時間でも欲しい人なんであって、三時間で目が覚めるというのはいくらなんでもおかしい。その理由が外的な事情によるのか、超自我の検閲失敗による夢の中断なのかは、まだよく分からない。検閲失敗自体に由来する安眠妨害の可能性もあるが、むしろぼくとしては、外的な事情によって不意に目覚めてしまったため、象徴化機制が失敗した可能性の方が高いと思う。
目が覚めたとたんにパニックに陥った。あまりにも哀しかった。まるで(月なみな表現だが、この表現以上に適した表現がない)胸に錐をもみこまれでもしたかのような鋭い哀しみがぼくを襲った。だが、パニックに陥った理由は、そのこと自体にあるのではない。ただ哀しいというだけなら、哀しい夢を視たということで終わるべき話で、パニックに陥るほどの要素はどこにもない。ぼくがそんな事態に陥ってしまった理由は、それまで視ていた夢が、不快な・不安なものでこそあれ、哀しむべき夢ではまったくなかったからだ。それまで、ぼくは生温かい不快・不安を味わっていた。その感覚が、目覚めの瞬間に(本当に一瞬で。一秒もかからず)哀しみに転化した。そのあまりの落差にびっくりしてしまって、ぼくはパニックに陥ったのである。
だが、事情はほどなく理解された。同様な事態を、ぼくは2005年6月28日の午前中にも経験しており、「あれと同じことがおこったんだな」とすぐに分かったからである。2005年6月28日午前という日時がはっきりしているのには理由があって、その日、ぼくは目覚めと共に激しい哀しみの発作に襲われ、半分泣きながら憑かれたように、それまで視ていた夢を小説にしたのである。『海の家をもう一度』というタイトルで、こっちは夢分析がうまくいっていないのだが、おそらく死の夢だったんだろうな、と今にして思う。あの時も、象徴化機制がしくじっていたのかもしれない。
こんども同じことがおこったのだと分かると、次に、今視た夢がいったいなにを告げようとしていたのか、ぼくは哀しみを怺えながら考えた。だが、数秒とかからず夢分析ができあがってしまった。だから象徴化機制が失敗したというのである。確かに象徴化されてはいたが、あまりにも分かり易過ぎる。これを検閲に通した超自我の方もどうかしていたといわざるをえない。ぼくが数秒で終えた夢分析の結果は以下の通り。
【夢1について】
地中ふかくの部屋:
→心の部屋。『遊戯王』とかに出てくるアレ。まさにそのまんま。
繁茂する植物:
→心の部屋が自分自身でも見わたすことができなくなって、身動きがとれなくなっている象徴。
空位する玉座:
→かつては心の部屋の君主であった自分が、いまや自分自身の心を支配することができなくなってしまった象徴。そこに座っても、もちろん植物のせいで視界を塞がれている。
植物のむこうに広がる地下水脈:
→自分の心にひろがる、ながめわたすことのできない広大な領域。ぼくはそこへ行き、心の全体を白日の下にさらさねばならないのであるが、植物にはばまれ躊躇している。そのうちに、植物は完全にぼくの心の部屋を埋めつくしてしまうだろう。早くなんとかしないといけない。
【夢2について】
地中ふかくの秘密基地:
→同じく心の部屋。
そこが崩壊寸前であるということ:
→もはやそこを守り通すための時間がかぎられてきている象徴。
そこが蒸し暑く圧迫的であるということ:
→もはやぼくが自分の心に居た堪れなくなっている象徴。あるいは、現実世界から自分の心の部屋をながめかえした時には、常に不快で圧迫的な場所として映るのかもしれない。心の部屋は、夢の象徴の中でもトップ・シークレット扱いされねばならない場所だから(それなのに、なんでその象徴化機制がうまくいかないんだ……。超自我働け)。
扉のむこうの巨大な空間:
→地下水脈と同じ。ぼくはその扉をひらくことに躊躇し、どうしても先に進めない。
壁中のらくがき:
→大部分は記憶の投影であり、夢の本質とは無関係。但し、迷路など、ぼく自身が心の部屋にらくがきしたとしか思えないようなものもある。
やがて部屋を洗い流すであろう水流:
→心の部屋が「意味不明なもの」に完全に支配される予感。ぼくは心の部屋を出る(世間一般の人々と同じように自己疎外されたままで生きる)か、水流に呑みこまれる(精神崩壊をおこす)危険を冒してでも心の部屋に拘泥するかの二者択一を迫られている。
次の訪問者のために書き置きを残すこと:
→小説を書くこと。ぼくの「まだ見ぬ自分にむけて差し出された宛て先のない手紙」という自己文学観を完璧に反映していて、でき過ぎの感すら否めない。
この夢分析で問題となるのが、繁茂する植物と雪崩打ってくる水流の予感とである。ぼくはこの点の解釈について、いくぶん「精神分裂病の理論」的な読み替えを行なった。植物や水流は「意味不明なもの」の象徴である。「意味不明なもの」とは、現実からは触れることすらできないもうひとつの現実、現実とは違う論理の働くもうひとつの世界である。だから、水流の到来を予感するということは、分裂病理論にいわゆる〈世界没落感 world-destruction phantasy〉と対応する。だが、この読みに、ぼくはいまひとつ自信がない。もしかしたら別の事柄が象徴されているのかもしれない。とにかく判明なのは、それが心の全体を見通せなくしているということ、それがどんどん侵蝕してきて、ぼくをみじろぎもならない状況に追いやろうとしているということである。
ぼくは〈まだ見ぬ誰か〉のためのメッセージを書き置こうとして、危殆にひんした心の部屋を後にすることができない。ぐずぐずと自分の心に拘泥して、〈まだ見ぬもうひとりの自分〉のために小説を書くわけである。〈もうひとりの自分〉とは誰か? それは、自分=自分という自同律がなりたつことを理解した自分、それゆえ自分の述べたことを自分自身で完全にうけとることのできる自分、いわば完全に統合された神的存在としての自分である。彼は宛て先のない手紙の宛て先をも知っている。すなわち〈私〉が誰なのかということさえも知っている。彼はその意味で、真の神といってよい。
ぼくにとって、しかし彼は、神というよりかは救世主である。彼は、ぼくがひらくことを躊躇していた扉を自信たっぷりに開け放ち、その先の巨大な未知なる空間へもずかずかと歩いてゆくだろう。彼はその空間を寸毫にいたるまで把握しつくし、その全体を白日の下にひきずり出すだろう。彼はそんな使命を帯びてやってくる。彼は、ぼくの心の部屋をすみずみまで統合された状態へと恢復し、結果として世界(心の部屋)は救世されるのである。ぼくは彼の到来を待ち望む。だがしかし、彼とは自分自身のことなのである。彼は〈まだ見ぬもうひとりの自分〉であり、ぼくは彼への道程を歩んでゆかなくてはならない。ぼくはぼく自身の世界を救い出さなくてはならないのである。
……とまあ、こんな夢分析を経て、ぼくは多少あわれみみたいなものを感じた。もちろん自分自身に対してである。夢の中での不快→現実世界で感じた哀しみ→あまりにも象徴化機制が失敗していることへの呆れ→自分ってかわいそうだなあというあわれみ、と、目まぐるしく感情を変転させたぼくは、やがて再び眠りにおちた、という寸法である。
ぼくの視た夢は、ふつうには悪夢といわれなくてはならないのだろう。だがしかし、ぼくはよい夢であったと思う。この夢は、たとえそれが象徴化機制の失敗であれ、超自我のしくじりであれ、ぼくに語りかけ、ぼくが問いかえすというタイプの夢であり、ぼくはこの夢との対話を通じて、自分にとって解決せねばならなかった問題がますます明確化されてきたことをうれしく思う。問題の全体像がつかめた時、問題はすでに解決されているわけであるから。
なお、哲学的な教訓としては、「哀しみ」に理由はいらないということ、つまり原因があってその結果として哀しくなるのだという常識的世界把握は間違っているということを教えてくれたといえる。実際、ぼくは自分が理由なく哀しいということを発見し、それにびっくりしてパニックに陥ったのだ。その転化が、夢が現実になるその一瞬間に行われたということは、夢で〈それ〉と触れ合った時と現実から〈それ〉をながめた時との、〈それ〉に対する感情はまったく異質なものであり、現実から〈それ〉に対峙する時のわれわれの心のあり方が「哀しみ」とよばれているのではないか、という推測がなりたつ。この点についてはまた考えたい。
あと「お前の夢分析は完全に間違っている。玄人の俺にまかせてみやがれ」という方がもしいらっしゃったら、このたびの夢を巨細にわたって記録した原稿用紙13枚分のテキストデータがあるので送りましょう。ま、いないでしょうが(などと言いつつ、たまにいるからインターネットって面白い)。
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