2009年6月24日 (水)

文学的理性のこと

 このごろ考えたことをまとめてみる。

 このあいだ、新文学ustを拝見していて、ディスコミュニケーションがどうたらという内容の会話を聴きながら、本当のディスコミュニケーションをひしひしと感じさせられていた。それは、間‐理性的なコミュニケーション(ディア=ロゴス)がいかに不可能であるかという、その断絶のふかさを思い知らされたからである。批評するロゴスは、もちろん島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性なのであるが、このような理性は、ただに批評だけの所有するものではない。哲学もまたそうだし、じつは文学もそうであろうと思う(ぼくの「批評」批判の眼目は、文学もまたそのような理性であるという点に存する)。このことが、まったくと言ってよいほど理解されなかった。すなわち、批評は、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるような理性の可能性について、あまりにも想像力が欠如しているのである。ロゴスの異質性を超えた間‐理性的コミュニケーションの本当の難しさは、この点にあるのではないだろうか。
 批評に対する哲学の他者性というのは、島宇宙同士の他者性(多言をもちいるほどの他者性とも思えないのだが)などよりも、もっとずっと超越的な他者性である(しかし完全に超越的であるわけではない)。哲学と批評とのコミュニケーション不全は、島宇宙への自閉を破り、全体性を目がけてゆくような理性同士におけるメタ・レヴェルの対立、つまり複数の全体性のあいだにおけるメタ・コミュニケーション不全なのである(批評するロゴスは、すでに「複数の全体性」という表現を誤読しているだろう)。永井均のタームでは、哲学するロゴスとは省察的理性(真理の全体性を目がける理性)のことであり、批評するロゴスとは解釈的理性(価値の全体性を目がける理性)のことである。そして、解釈的理性にとっては、みずからのロゴスに対峙して立ちあがってくるあらゆるロゴスは、もうひとつの解釈的理性であるとみなされがちである(だから「複数の全体性」という表現もまた「複数の“価値的”全体性」として誤読されてしまう)。この意味で、解釈的理性に対して省察的理性は超越的である。もっとも、「真‐善‐美」という組み合わせが伝統的に用いられてきていることからして、この三項の対立が理解できる以上は、完全に超越的である筈はないと思う。ここで、文学(藝術)的理性を「美の全体性を目がける理性」として位置づけたい。すると、こうなる。

【世界に対する理性のありかた】
○哲学するロゴス=省察的理性=真理の全体性(独我論的?)
○批評するロゴス=解釈的理性=価値の全体性(政治的?)
○表現するロゴス=文学的理性=美の全体性(A感覚的?)

【共通点】
○なんらかの全体性を目がけていること
○論理の言葉を用いること

 批評するロゴスに対して哲学するロゴスが超越的他者であるのと同様に、批評するロゴスにとっては表現するロゴスもまた、超越的他者なのではないか、というのが、ぼくの批判である。すなわち、批評は美を価値として誤読することによって成立する。たんに美の全体性を目がけるような理性のありかたを、批評は掬いとることができない(先述の通り、完全に超越的ではないので、ちょっとは掬いとれているかも)。
 哲学するロゴスと批評するロゴスとが対立しうるのは(つまりぼくがこんな文章を書かなくてはならなくなった理由は)、文学を媒介項として立てることができて、文学をめぐって両者が対立できるからではないだろうか。すなわち、真理と価値とは美(エロス)から全体性を補給しなくては存立できないのかもしれない。ここで真理を独我論的なものとして、価値を政治的なものとして考えると、瞬間性と歴史性とが美を媒介にして橋わたしされるというわけだから、稲垣足穂=オスカー・ベッカーの「美のはかなさ」論と同じ話になってくる。しかも、哲学と批評との両者に対して文学は他者なのである。文学的理性は実作によってしか、みずから表現者となることによってしか、掬いとられることはない(作者が死んでいたら小説は書けないのです、誰がなんと言おうと)。
 さてはて、間‐理性的な言説空間(ロゴスをコミュニケートするようなディア=ロゴス)は構築可能なのだろうか。そもそも、三種類の理性の出自を洗う作業が、ここまでないがしろにされてきた。これらロゴスの異質性は、いかなる基盤によって与えられるものなのか、そしてそれぞれのロゴスを特徴づけ、語りうるような言葉は成立できるか。「論理の言葉」がキー・ワードになりそうな気がしている。少なくとも、論理的瑕疵を駁論することによる間‐理性的コミュニケーションは常に可能であるからだ。このところ数年来、ぼくはいつでも「論理」というアポリアに立ちもどってしまう。それからもうひとつ。美の全体性とはなにか。それは「世界をデザインする」ということと、どんなかかわりがあるか。この点についても、おいおい考えてゆきたい。

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2009年4月 5日 (日)

京哲34#レポート

◆第34回京都哲学道場(2009年4月4日)
◆参加者:itikun、コーゾー、さかた、深草周。

 前半は、深草君が切り出した「ゾンビとビンゾの話」をめぐって、雑談、というかレジュメなしの議論がスタートした。深草君いわく、永井ワールドにぞくしている人しか来ていないということで、こういうなりゆきになったものだろう。

 深草君の立脚している議論を、ぼくは知らないから、なんとも言えないが、ゾンビの逆としてのビンゾを考える場合、ぼくはゾンビもビンゾも現実性(アクチュアリティ)のレヴェルで考えている。つまり、
「私はゾンビではなく、他人はゾンビである」
 という意味でのゾンビと、これに対する、
「私はビンゾであり、他人はビンゾではない」
 という意味でのビンゾとを、考えている。もしここで、入不二的に「ビンゾ」と「ゾンビ」を置換してみるなら、「私はゾンビであり、他人はゾンビではない」ということになるだろう。
 で、深草君は実在性(リアリティ)のレヴェルでゾンビの議論をやりたいということだったが、ごめんなさい、深草君の「ゾンビ」がどういう意味でのものなのか、ぼくにはちょっと分からなかった。他者の内に「心」なる存在を各人が立てることを承認する立場、というのは、どういうことになるのかな。それは機能主義のことなのかしら。そうではないの?
 それはともかく、肉体(って、どこまでが肉体?)のないゾンビと、〈私〉のないビンゾとでは、違う気がするということをぼくは述べました。現実性のレヴェルでは、ゾンビとは「〈私〉ではない=〈私〉がない」という意味だけど、ゾンビに定義上許された私秘性は、そのまま残ってもよい筈だ、と思ったので。つまり肉体は存在せず、私秘性だけを有する、認識不可能な存在。というか、構成概念としての一般的な意味における「魂」って、そういうものではないかな。これに対して〈私〉のないビンゾには、なにも残らないと思う。深草君が言いたかった違いは、この違いではないのだと思うけどね。

 そんなこんなで議論が紛糾し、三時前後の休憩を入れて、ようやくレジュメの発表ということになりました。ただでさえ内容が濃かったのに、急いだので、「客観的客観性の客観性が主観的客観性の主観性を間主観的に客観的客観化する!」などと機関銃みたいに喋ってしまった。参加者のみなさま、すみません。

 このたびの発表で、ぼくが特に主張したかったのは、以下の二点。

○非科学的なものというのは、「主観的客観性の科学」という意味では科学的なのであり、競馬においてリアルな利益を生むために、それはなくてはならないものである。

○それら一切を凌駕する「超越的非科学」を考えることが可能であり、それこそがアクチュアルな利益を生みおとす当のものなのである。

 超越的非科学の説明は、レジュメでは不充分だったので、咄嗟に以下の考え方を案出し、説明に利用した。

「いまここで、コップを手にとり、手をはなす。コップは落下するかもしれないし、落下しないかもしれない。あらゆる科学的説明を凌駕して、只今この瞬間、なぜだかコップが落下しないということは、どこまでも可能でなくてはならない。コップを手にとる。コップから手をはなす。コップは落下する。なぜだかコップが落下しないということがどこまでも可能だったにもかかわらず、只今この瞬間、〈なぜだか〉コップは落下した。いまここでコップが落下するかしないかは、実在的な内実からは全く束縛されていないことなので、コップが落下するということはひとつの〈奇蹟〉である。すなわち、ぼくに〈ツキ〉があったから、コップが落下したのだといえる。このような〈ツキ〉のことを、超越的非科学という。しかし、コップが落下したということは、いままさに実在的な事実となってしまったから、この実在的な事実を実在的に考えるかぎり、それは科学に回収されうることであり、科学的法則という物語によって、ならびたつ実験のなかのとある実験として、コップの落下という実験が行なわれたのだとみなされる」

 しかしどうなんだ。ぼくはとんでもないことを言っていやしまいか。つまりアクチュアルな〈ツキ〉が、リアルな「科学」を現に生み出してゆく、とぼくは言っているのだ。永井にそくして言い換えるなら、アクチュアルな〈私〉が、リアルな「世界内的な存在者」に干与し、変化を生じさせてゆく、と言っているのだ。しかも、このレジュメでぼくが一番考えたかったのは、アクチュアルとリアルという二分法は本当に正しいのか、この二分法は錯覚なのではないかということだった(もちろん結論を出してはいない)。
 しかしこれはヤバい。科学の産出運動における生成力こそがアクチュアリティであるとぼくは論じたが、めちゃくちゃ危ないことをぼくは言っている。深草君の指摘の通り、科学が存在する可能世界(アクチュアルでない世界)を考えることができるし、その世界の住人も、科学の生成力とはアクチュアリティである、と主張することができるからだ。じっさいには、その世界はアクチュアルでないにもかかわらず! アクチュアリティを内実にからめてしまうと、アクチュアリティとリアリティとを分離した議論ができなくなってしまう。そのうえ時間的にも、科学とは有史以来、営々と織りなされてきたものである。それを、独今論的なアクチュアリティにおいて主張してしまおうとは。それは(語りうるかどうかは措いておくとして)可能な立論なのか? それともなにか別の構造に、永井哲学自体を頽落させてしまっているのか? よく分からない。
 〈ツキ〉が〈私〉と違う点は、〈私〉とはただの現実性であるのに対し、〈ツキ〉とは予測的態度における現実性であり、それだからまさに現実性を物語に賭けわたすものでもあるということ。つまり自由意志の問題圏にかかわっている。自由と不自由との両面性が、あるポイントにおいて統一されなくてはならない。その統一はどうやって可能になるのか。
 深草君は、これを「超越論的神と、存在者としてのキリストとの、統一というアポリア」に定式化してみせてくれた。この定式化は正しいと思った。しかしここで、別口の難点が登場してくる。つまり「神」と〈開闢の神〉とは違う(そしてぼくが問題にしたい統一は後者である)にもかかわらず、それがキリスト教の宗旨論争と同一の構図になっているというのは、どういうことなのか。というか、これを同一の構図だと考えてしまってよいのか。
 少なくともどちらも超越論的である。そして、超越論的であるということが、同一の構図をみちびいてきているようにも思える。しかし、ぼくは超越論性を統一したいわけではない! ぼくはアクチュアリティとリアリティとを統一したいのだ。
 ……逆に考えて、そもそも超越論性というのは、そんなどこにでもかしこにでも登場してくるものなのか、という疑いがおこる。超越論性が問題になるのは、それがなんらかの意味で〈私〉と関係している場合にかぎるのであって、〈私〉と無関係にキリスト教だの物自体だのという場面で超越論性が出てくるのは、たんなる錯覚、気のせいなのではないか、というふうにも思える。つまり永井哲学以外での超越論性の全否定。うっひゃー。

 もう全然、哲学道場とは関係のない話をしますが、このごろぼくは、超越論的文学は可能か? ということを考えている。
 マンガの主人公は死なない。すなわち、主人公以外の登場人物については、生と死との対立を考えることができるが、主人公についてはこの対立は存在しない。つまり、主人公は超越論的「生」を所有している。ぼくが大好きなマンガ『修羅の門』は、このことが作品内でも追究されている。つまり、主人公である陸奥九十九にとって、「戦い」とは常に生死を賭けて行なわれるものである。ここでは「生‐死」「強い‐弱い」「勝つ‐負ける」という通常では独立の対立軸が、すべて重ね合わされている。「勝ったのなら強くないことはありえず、強いのなら勝たないことはありえない」というわけだ。九十九は超越論的に「強い」。だがそれは、九十九が〈死〉を賭けているからこそである。
 ところで、ぼくをマンガの主人公だと考えてみよう。ぼくが登場するマンガは、文学をテーマにしたマンガである。ぼく以外の登場人物にとっては「文学である‐文学でない」という対立を考えることができるが、ぼくは超越論的に文学者なので、ぼくについてはこの対立は存在しない。ぼくは超越論的「文学」を所有している。すなわち「ぼくがなしたことなら文学でないことはありえず、文学でないのならぼくがなしたことではありえない」というわけ。
 こんなことは本当に可能なことなのだろうか。少なくともこれまで、ぼくはそのようにして生きてきた。あらゆる認識が可能になる条件として、ア・プリオリにぼくは文学者だったし、たとえ小説を書いていようがいまいが、ぼくは「文学している」のだった。
 このような文学を〈文学〉と表記するとして、話は〈ツキ〉の場合とまったくおなじ帰結をもたらす。すなわち、〈文学〉は〈私〉とは違っている。〈私〉がたんなる現実性であるのに対し、〈文学〉とは態度的現実性であり、それは現に、ぼくに小説を書かしめるものであり、あるいは小説を書くという予測的態度にぼくを置こうとするものである。すなわち、〈文学〉はアクチュアルである一方、リアルな世界内的事実に変化を与えるものである。ここでもまた、アクチュアリティとリアリティとの統一が問題になってくる。
 いったい、ぼくが超越論的文学者であることは可能なのか。そして〈文学〉を「小説」へと賭けわたす〈オッズ〉とは何か。これからじっくり考えてゆきたい。

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2009年3月22日 (日)

雑記 20090322

 報告。「新現代詩の会」を脱会いたしました。

 とりあえず、破壊できるものからみんな破壊していって、残されたものだけを自分の呪いとして背負ってゆきたい、というのが現在の心境です。

    ○

 第1回哲学書ランキングの結果発表をしました。
 ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。
 http://tetsugakudojo.web.fc2.com/rk0804_0809.html

    ○

 そのときどきに考えている内容が自律的にくっつきあって、変なことばかり思いついてしまうのは、どうにかならないものか。

 稲垣足穂は「A感覚とV感覚」において、V(ヴァギナ)感覚とはA(アナル)感覚から派生したものにほかならず、P(ペニス)感覚とはV感覚がさらに反転したものにすぎないという、澁澤龍彦いわゆる「エロスの絶対的一元論」を打ち樹てた。すなわち、P感覚‐V感覚という常識的対立は、A感覚の一元論に解銷されるわけである。ここでA感覚こそ、あらゆる性感の基礎をなすのであり、それはP感覚とV感覚とをつなぐ「夢の懸橋」であると同時に、「宇宙的郷愁」から「精神性」への媒介をはたすことともなる。
 「A感覚とV感覚」は、美学論「美のはかなさ」を下敷きにして書かれたものである。「美のはかなさ」はオスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』をタルホが読み、自己流にまとめた文章で、ハイデガー現象学を前提に、「歴史」と「人間的自然」との対立を、「美のはかなさ=超存在論的基礎緊張」が橋わたしするという構図になっている。つまり純粋持続的で尖端的な「美のはかなさ」が、「絶対なる矛盾を解決」(シェリング)するものであるというわけ。
 ところで茂木健一郎が「プラトンの時代と現代とでは、実在するものが反対になっている。プラトンの時代はイデアこそ真の実在だったのに、現代ではイデアは仮象とみなされる」という意味のことを述べていたと、関東のエヌ氏よりうかがったのだが、奇遇にも、同様のことが「美のはかなさ」に書かれてあった。いわく「プラトーンにあってはイデーは本質的に真実なものであり、生成界は単なる見せかけである。現時の哲学者らにあっては反対に、『規範』が単にイデー的なのであり、流動の生のみが現実である」云々。まあもちろん、これはたんに時宜にかなった話というだけのことであるけども。
 で、「美のはかなさ」が「A感覚」と等置される。タルホがそう主張したことがあるかどうか、ぼくには分からないが、そう読むのは順当だと思われる。ここで、浅田彰『構造と力』における、構造‐力の二元論の、力の一元論への脱構築を思い出してもよいのだが(そして多分、こちらの方が正しい読み方だろうが)、話を辿るとハイデガーなわけで、あえて永井均を導入してみるのもよい。つまり「言語的世界」と〈私〉との対立を、美がとりもつと考えるのである。というか、そう考えてみないことには、ぼくには自分が文章を書く理由が分からなくなってしまう。絶対的矛盾を解決するものとして芸術(変性感覚?)がある、という方向でこれから考えてみることも無益じゃないだろう。
 ところで再び脱線しますが、ぼくは永井先生の日記で「変性感覚」という言葉を目にして、勝手に「分裂病的感覚」と読み換えていた。というのは、分裂病者は世界に二重定位(複式簿記)するといわれている。つまり、一方ではわれわれの住む言語的世界にぞくしていながら、他方、われわれの理解のまったく及ばない世界(言語ゲームの外)にも生きているということ。われわれが分裂病者を理解する場合は、一方的に、われわれの世界の側からしか、理解することができない。このさい、分裂病は「不安」として立ち現れてくるわけである。……でも、そうだとすると、分裂病的感覚を小説が描けないというのはおかしな話で、ぼくが小説に期待するのは、まさにそういった分裂病的感覚であるわけだし、内田百間の茫洋たる夢幻空間にも、稲垣足穂のコスモロジーにも、それは見出せると思う。これは、言語に乗らない筈の〈私〉をどうして言葉で論じることが可能なのか、という話でもあるのだろう。
 本筋にもどるとして。そういうわけで、「美のはかなさ」が対立をより高次に統一する、という論旨になっているのだけれど、これはさすがに牽強付会といわれても仕方ないが、ユダヤ教神秘主義のカッバーラ体系と、おもしろい符合をみつけることができた。カッバーラ体系では「セフィロト=生命の樹」が独自の理論的展開を遂げたのであるが、アイン・ソフ(無限)からの六番目の流出であるセフィラ、ティファレトは、日本語では「美」ないし「崇高」などと訳出される。このティファレトは、四番目の流出であるケセド(慈悲)と、五番目の流出であるゲブラー(力)との対立を統一する役割を担っている。のみならず、ティファレトは「生命の樹」の中心となるセフィラでもあり、その右半分(陽)と左半分(陰)とを中央において調和させる役割すら担っているのである。このセフィラが「美」と呼ばれていることは、なかなか興味ぶかい話ではないだろうか。占星術的には「月」の象徴になるのだが、アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、ティファレトにはタロット・カード(小アルカナ)の四枚の六が対応すると述べており、それは「太陽」を象徴すると同時に、テトラグラマトンの体系ではイエス・キリストの表現だとも言っている。月であると共に太陽でもあり、陰と陽とを併せもつ。なおさらに、マルクトの女性原理に対し、ティファレトは男性原理を意味するともいう。すると、タルホが主張するA感覚とは、アナルセックス、つまり少年愛(ベエデフィリアエロティカ)をも意味しているわけだから、男性にはじまり男性に終わる少年愛=A感覚が、ティファレト=美に対応するという、見事な図式ができあがるではないか!
 さすがに穿ちすぎだろうか……。

 まあこんなように、しっちゃかめっちゃかなことが次々思いつかれて困っているのです。

 (追記)
 ごめんなさい、ちょっと勘違いしてました。
 ティファレトが「月」の象徴になると書いてましたが、そういう事実はなかったです。正しくは、ケテル‐ティファレト間のパス(ギメル)が、タロット・カード(大アルカナ)で女教皇に相当するので、こちらが月ですね。あとはネツァク‐マルクト間のパス(クォフ)が大アルカナ「月」に相当するのと、十番目のセフィラ、マルクトが、月の象徴になっているらしいです。

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2009年3月 3日 (火)

雑記 20090303

 高野悦子『二十歳の原点』『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』が新装版で復刊されることになったそうだ。もちろん歓迎すべきことではあるが、少々複雑な気分でもある。恩田陸が一気に売れっ子になったときも、なんだかこんな複雑な気分になった。本読みというのは、自分の好きな著述者がいつまでもマイナーでいてほしいとねがう人種である。
 そういえば、近ごろずっと研究中の寺山修司であるが、著作集が現在刊行中であるということを知った。寺山は、過去に全集が出たことがなく、なんでこういう作家の全集が出ないものかと不審に思っていたのだが、こうやって再評価の気運が高まってくるのはよいことである。ついでに、どこかの出版社がアレイスター・クロウリー著作集を文庫かなにかに入れてくれないものかねえ(自伝だけでもいいからさ)。

    ○

 松平耕一氏主宰の『新文学』第2号に、7000字程度の批評を寄稿させていただいた。ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャを五つえらんで論評するというもので、哲学をテーマに以下の五冊をえらんだ。

○ジョン・R・サール『マインド 心の哲学』
○永井均『なぜ意識は実在しないのか』
○入不二基義『相対主義の極北』
○中島義道『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』
○東浩紀『動物化するポストモダン』

 哲学をオブジェクトに批評を書いたというだけのことで、哲学的な文章というわけではもちろんない。まあ、「哲学ブーム」とそれ以後の哲学出版界の事情について、きちんと論じた批評を過去に見かけたことがなかったので、それなりにはお茶を濁せたのではないかと思う。

    ○

 これからの文学に、どのような方策がありうるのか、近ごろいろいろと考えていて、いくつかのアイデアを手に入れることができた。以下、それぞれ簡潔にメモしておく。

(1)内在的態度へのあくなき拘泥。
(2)〈対話〉としての自作自註実践。
(3)非-詩の可能性。
(4)一作家一ジャンルの徹底。
(5)全集的存在・文体的存在としての作家。

(1)内在的態度へのあくなき拘泥。
 オブジェクトレベルとメタレベルとの循環構造(いわゆるクラインの壺)は、オブジェクトレベルにおいて0だったものが、メタレベルにおいては1とみなされ、この双方が同一の地平に対してひらかれるということだから、0=1という等式の成立だと考えてよい。この等式を最大限に利用して、あらゆる内容を証明しようとすること、あらゆる内実を氾濫させることが、文学の豊穣に繋がるのではないか。

(2)〈対話〉としての自作自註実践。
 岡井隆→寺山修司→中島義道、という流れを考えることができる。つまり、岡井歌論の〈場〉の理論が、あくまで大きな物語を生かしてゆこうとする方策だったのに対し、寺山の場合は、各人がそれぞれ物語を読みこんでゆくものとして、個への退行を断ち切る短歌実践を企図していた。このあたりが、現代短歌運動において、塚本‐岡井‐寺山間の立ち位置のずれとして争点になっていたものと思う。ところで寺山は、演劇において透明なコミュニケーションの可能性を「ダイアローグ」と呼び、一回的なものとしてその場かぎりの物語が回帰してくることをみとめてもいた。そこで、寺山的「ダイアローグ」から中島的〈対話〉への遷移が、そのままポストモダン化の進行と対応することになる。もはや物語が必要とされなくなった現代における〈対話〉は、つねに虚無との戦いを経なくては成立しがたくなっている。
 自作自註は、もともとは岡井的発想であるわけだが、自分の作品がどういう意図で書かれ、どういう文学的意義を担っているのか、どこまでも語りつづけるという試行、どこまでも〈場〉を作り出してゆこうとする意志、これが現代においてあらためて求められてきているのではないか。このような自作自註は、作家と批評家との〈対話〉として遂行されなくてはならない。

(3)非-詩の可能性。
 詩的表現において、詩のレトリックは、表現対象をよりよく伝えるためのものである、という考え方を捨てること。むしろ、詩のレトリックは表現対象を韜晦し、表現対象がなんであるのか分からなくするために用いるものと考えてはどうだろうか。このような考え方は、従来の「詩」の考え方とはまっこうから対立するので、これを「非-詩」と呼ぶことにする。
 ここで詩は、二重の意味をやどすことになる。すなわち、作者による鑑賞と読者による鑑賞とで、まったく相反する表現が立ち現れてくることになる。このことによって詩は、一方で読者の求めに応じることができるとともに、他方、作者の個を表現するものとしての意味も担保することができる。
 Not a poem is this! これが新時代を顕彰する。

(4)一作家一ジャンルの徹底。
 恩田陸は、一作家一ジャンルという言葉をよく体現する作家として言及されることが多い。ここで、いわゆる「三月は深き紅の淵を」シリーズについて考えてみよう(以下ネタバレ)。
 「三月は深き紅の淵を」とは、恩田ワールドにおいて「謎の本」として登場してくる書物のタイトルである。この本にまつわる物語群は、ゆるやかな連関性をたもっていることが特徴的であり、その本は架空の、存在しない本として扱われたり、重要な内容を記した文書として扱われたりする。『麦の海に沈む果実』からはじまる一連の物語も、この「三月は深き紅の淵を」シリーズを敷衍したものであり、それなりの内的連関をたもっていながら、べつの作品では「作中に登場する演劇のストーリー」として扱われていたりもする。
【参考資料:三月シリーズ相関図】
http://web.archive.org/web/20050429070856/http://tacet.milkcafe.to/ondariku/world.htm
 このような作品内の複雑な相関関係は、著名な同人漫画家、粟岳高弘の作品群にもみてとることができる(単行本には『プロキシマ1.3』『鈴木式電磁気的国土拡張機』がある)。『鈴木式……』の222ページに作品相関図が掲載されており、「同一世界」「ちょっと近い」「少し繋がっている」などの関係で、さまざまな作品群がゆるやかな世界観を形作っている。
 恩田や粟岳の作品群は、ひとつの「謎」として読者の前に立ち現れてくる。これら迷路のような作品群の相関関係のむこうに、触れてみることのできない「謎」としての世界が浮かびあがってきて、このことが彼らの作品の魅力となっているのだろうし、一作家一ジャンルとはそういう意味なのだろうと思う(なお、女性を「彼」と表現することは日本語としては間違いではありません、念のため)。これからの作家は、どんどん一作家一ジャンルを徹底させてゆくべきだろう。

(5)全集的存在・文体的存在としての作家。
 作家は、文学の終わりにむけてみずからを駆動してゆく存在である。東浩紀は平野啓一郎について「面白いのは、どうやら彼が、自分には『文学』や『芸術』に正面から立ち向かい、独自の結論を出す権利があると信じているらしいことですね」(『郵便的不安たち#』)と皮肉めかして書いているが、作家が「文学」について、独自の結論を出す権利をもっていることは、ほとんど自明のことだろう。なぜならば、その作家が存在するまで文学は存在しなかったからであり、その作家の死によって、つねに文学は終わりを迎えるものであるからだ(そうでないのなら、いったい「文学」という言葉にどんな意味があるだろうか)。平野が歴史的経緯を捨象して文学を称賛しようとも、稲垣足穂が「ダダ以前にはなにもなかった」と断言しようとも、いささかも不当であるわけはない。最終的には、全集の刊行可能性が作家の存在を支えるだろう。前項でみた「ゆるやかな世界観の立ち現れ」は、究極には、作家の全作品(小説・エッセイ・詩)の全体におけるゆるやかな相関関係、ひとつの「謎」としての作家=文学の提出というところにゆきつくだろう。それこそが全集である。
 なお、ぼくは「文体は内容を凌駕する」という考えをもっているのだが、そこで文体がどういう役割をはたしうるのか、文体と内容とが溶解し合一する地点はありうるのか、ということについては、まだまだはっきりとした意見をもつことができないでいる。哲学的探求が俟たれるだろう。

    ○

 花映塚。マッチハードで魔理沙vsチルノを制するという数か月来の目標が、ようやく達成されました。次はマッチルナで霊夢vsてゐがなんとかいけそうなので、これを目標にやってみようと思います。

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2008年11月 2日 (日)

完全な作品という名前の作者

 さっき、ぼくはこんな歌を詠んだ。

◆紙巻の火口《ほくち》より死のほつるとき小春日の坩堝《うづ》を大駈けてゆき

 作歌過程において、ぼくが生み出した variant は、だいたい以下の24通りぐらい。

◆火口より死を解き放て小春日和
◆火口より死を解きはなて小春日和
◆火口より死を解きはなて小春日へ
◆火口より死を解きはなて小春日へ十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より死を解きはなて小春日へ、十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死を解きはなて十馬身差で大駈けてゆき(☆1)
◆火口より小春日へ死を解きはなて十馬身差で駈け過ぎてゆき
◆火口より小春日へ死を解きはなち十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせて十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死を解らせて十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせよ十馬身差で大駈けてゆき
◆火口より小春日へ死をほつらせよ解きはなつとき大駈けてゆき
◆紙巻の尖っぽより死を解きはなて小春日の涯へ大駈けてゆき
◆紙巻の尖っぽより死を解きはなて小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の尖秀より死を解きはなて小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の尖秀より死のほつるとき小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の涯へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の青へ駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の青を駈け過ぎてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の底を駈け過ぎてゆき(☆2)
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の底を大駈けてゆき
◆紙巻の火口より死のほつるとき小春日の渦を大駈けてゆき
◆紙巻の火口から死のほつるとき小春日の坩堝を大駈けてゆき
◆紙巻の火口より死がほつるとき小春日の坩堝を大駈けてゆき

 当然ながら、これだけの差分を生み出すために、一時間以上は掛かっている。一時間ですむなら楽なもので、何日も考えた挙句ものにならないことはザラである。しかし、そんなのは短歌を作る人間なら誰でも当たり前のことで、とりたてて自慢すべき話ではない。
 上に列挙した差分の中で、ぼくが選び出した歌よりもよいと思われるものがあるかもしれない。最終的には趣味嗜好の話になってくるから、しかたのないことだ。

(たとえば☆1とか☆2などは、ある意味で完成されている。
 ☆1は、上の句と下の句のあいだで殆ど連関が断ち切られていて、非常にシュールな歌風になっている。物凄く深読みをする人で、たぐいまれなセンスの持ち主なら、☆1の歌からでも、ぼくの詩想をだいたい汲みあげてくれるかもしれない。しかし、こんな詠み方はかなりエキセントリックなので、よほどの大仕掛けとして持ちかけているのでなければ、短歌としては失敗作だと言わざるをえないだろう。
 ☆2は、うまく上の句と下の句を繋げられており、通常の意味では短歌として完成されている。しかし、詩想が微妙にズレてしまっていて、ぼくには納得しがたかった。ぼくはこの歌で、上の句の「虚無と陰惨」のイメージを、下の句の「無謀と疾走」のイメージと表裏一体のものとして、対比させることを試みた。しかし☆2の歌では、「駈け過ぎてゆき」と詠むことで時間の経過が強調されすぎ、結果として、上の句の「静・一瞬」と下の句の「動・永遠」とを対比させる技法になってしまっている。実はこちらの方が詩想としてはダイナミックで、だから☆2の歌の方が好きだと思われる人もいるのは当然だろうが、しかし、それはぼくの詠みたかった歌ではないのだ)

 そんなことよりも重要なのは、ぼくがやったことは、同格の差分のなかから一番よいひとつを選び出してくるという行為ではなかったということだ。上に列挙した差分は、互いに同格なんかではなく、因果律的・時系列的な順番をもったならびになっている。各差分は、ひとつ前の差分から必然的に導き出される。つまり演繹可能なのである。
 これがどういうことかというと、最初に詠みおろした「火口より死を解き放て小春日和」が与えられた時点で、すでに最終形が冒頭の「紙巻の火口より死のほつるとき~」という歌になることが予め決まっていたということである。
 そんなバカな、と思われるかもしれない。もっと別の過程を辿って、全然別の短歌になっていた可能性もあるだろう、と思われるかもしれない。だが、ぼくには「それは完全な短歌ではない」と断言することができる。「火口より死を解き放て小春日和」という原型に対する完全な短歌形は冒頭のあの一首でしかありえないのである。それを証明するために、ぼくは幾らだって饒舌になれる。どの差分ひとつについても、その差分が導き出されたことについての論理的な根拠を滔々と述べ立てる自信がある。
 作品への自信というのは、結局そういうものでしかありえないんじゃないだろうかと思う。それを完全だと言えるだけの、自分がこれまでやってきたことへの信頼、自分がその作品と究極まで対決したことへの信頼、自分の作品の完全性についての、どんな議論にも打ち克てるだけの飽くなき弁明。それが可能であるとき、作品への自信というものは決して打ち破られることがない。美は、そういう現場で火花をちらして生まれる。
 しかし、それなら最初の差分は、もうそれより前に根拠を求めようのない、一番最初の差分は、いったいどこから生まれてきたのだろうか。それがただの無根拠、ただの塵埃でなかったとどうして言えるのだろうか。
 いや、その無根拠をも自己が根拠づけた自己の作品として承認すること、それがニーチェの言う「運命愛」ということの意味なんじゃないでしょうか。最終的に、作者は一個の美・一個の作品となり、それ以上でも以下でもありえなくなる。

 そういう完全な創作活動を……やれるもんならなあ。

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2008年8月25日 (月)

寝よ寝よ

 九月いっぱいで京都に帰ることに決めた。畢竟なんだったわけか、自分でもよく分からない。とりあえず疲れてみた、ってな感じかな。文学の岨路を行きあぐねている内、人生の行路を生きあぐねてしまった。どうしたらいいのかよく分かんない。去年から「分かんない分かんない」しか言ってない。朔太郎じゃないけど寝台がほしい。寝台は求められるためだけにあるものだから、ぼくはかりそめの布団でいいや、少し休もう。休んで考えよう。
 せっかく長崎にいるのだから、やはり軍艦島を訪れてから帰りたいと思う。ミクシィと 2ch の情報を綜合して、渡航方法はだいたい把握。しかし、工事の進行がとても気に懸かる(というより、状況としてもはや無理という可能性もあるしね)。

 土日で、腸の調子を崩しながらも『涼宮ハルヒの暴走』だけ読んで、いまは高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』にかかっている。こんな本が存在していたとは、ふしぎふしぎ。ぼくはニューアカブームの八十年代のことなんかなにも知らない。井亀あおいの生きた七十年代はもっと知らない。高野悦子の生きた六十年代はもっともっと知らない。そうして、泉鏡花や森有礼の生きた時代のことなんか、誰も知らない。彼らの使った言葉の意味ひとつとっても宙吊りにされている。宇宙の涯など見たくもない。
 でも、本当はもっともっともっと難しいことがある。それは、人が自己に対し、真に歴史家であろうとすることだ。明治時代のことをよく知っていると言ったら、誰かがちょっとは褒めてくれるかもしれないが、自分自身をよく知っているからといって、誰も褒めてはくれない。自己を学ぶことは世界史を学ぶことよりはるかに困難で、実りない努力。昔の CD-R を外づけ HDD にコピーしていて、小説のヴァリアントやらペイントで作ったらくがきやら、わんさと出てきた。なにを考えていたのか分からない、どうやったらこんな表現になるのか分からない、ファイル名の意味すら分からない。
 それでも繋いでゆくのだとしたら、ぼくはかなしい裁縫職人ですね。
 京都帰ったら胃腸科に行こっと。

 小説の話でもしましょうか。ここ一年ぐらい、自分の小説の話をした覚えがない。自称作家なのに。これじゃ、ぼくがいつのまにか、ヴィオロン職人になるためにヨーロッパに渡ったり、犬を逆さにして壁にかんかん釘打ちする仕事をしていたりしても、誰も気がつかないじゃないか。それはいけない。モチベーション維持のために夢語りは大切です。
 いま構想している中で一番現実性が高いのは、京都を舞台にした芸術家群像的な長編。ふとしたことで謎の創作集団に関係することになった主人公の詩人は、京都のさまざまな場所で現代アート活動を展開してゆくが、やがてその活動の裏にネットを舞台にした魔術師らの暗躍が見え隠れしはじめ、主人公は現代白魔術と現代黒魔術の熾烈な抗争に巻きこまれてゆく……というお話を考えています。ファンタジーじゃないよ? もちろんテーマは、ぼくの大好きなふたりの魔術師、クロウリーと寺山修司。
 そんな小説が書けたらいいな。

 じゃおやすみ。

 追伸:ARUKOBU氏へ
 例の評論の書きなおしですけど、なんか書きあぐねてるのでもう少し待ってくださいね。モチベーション出たら頑張りますー。

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2008年4月14日 (月)

詩なんかどうせ伝わらない

 この文章の意味が分からなくなったところで読むのをやめてください。

     ×      ×      ×

 詩なんかどうせ伝わらない、といってみても詮ないことで、別に詩にかぎった話ではありません。日常においても、人は論理学者であるよりはむしろ詩人であって、にもかかわらず詩人であるといえるほどには詩人でないということが、事態を難かしくさせています。表現よりも沈黙が、言葉よりも肉体が、求められる場面というものは往々にしてあって、それはそれで詩趣ぶかい事実であるとはいえるかもしれませんが、むしろそういう場面でこそ過剰な表現に走り、増悪 Schub する言葉を生きようとするのが本当の詩人です。だからこそ詩は伝わらない。詩は論理の言葉を用いて書くものではありませんが、しかし日常からもたえず乖離を繰りかえし、それら両者の空隙を辿ってゆこうとする孤独の言葉です。
 ぼくは不幸な詩の話をしているので、あるいは幸福な詩ならそうではないのかもしれない。ですが、ぼくにとって詩とは不幸なものです。その理由は「詩なんかどうせ伝わらないから」であるわけなのですが、このことはとりもなおさず「詩とは伝えようとする言葉である」ということに原因しているのです。ある意味では「詩が伝わる」というのは自明なことで、こういう自明な前提のうえに立って人々は現代詩を「難解だ、ひとりよがりだ」と批判するわけですが、この批判は当たらない。彼らは詩人であるといえるほどには詩人でなかったため、どうして現代詩が難解にならざるをえないのかが正しく把握できていないのです。
 不幸な詩とは、もっとも「伝えようとすること」に愚直であるような詩のことです。不幸な詩は、幸福な一致から遁走して不幸な不一致の中を歩みはじめます。それは、伝えようとするからこその、本当は伝わっていないということへの正直さです。本当は伝えようとしているのに、それなのに彼らの詩は未来永劫にわたり伝わることがない、そういう意味で彼らの詩は不幸とよぶべきなのです。
 Not a poem is this. つまり非-詩である、と。どこかのなんとか大先生の御言葉を勝手に換骨奪胎しますが、不幸な詩人というのは二重の意味で(ひとつに日常を生きられないという意味で。またひとつに真の詩人になれないという意味で)「ならず者」であるわけであり、だからその詩も「詩ならざる詩」でしかありえない(どこかのなんとか大先生の哲学が「哲学ならざる哲学」なのかどうかは存じませんが)。これはしかし、孤独なことです。いいですか、みなさん、これは孤独なことです。本当に孤独なことです。死にたいくらい孤独なことです。

 ぼくが本当に伝えたいと思う相手に、決してぼくの詩が伝わることはないのですから。

 嗟々、なんてサヨナラに近しい肉体!

      ×      ×      ×

 そんな忌わしい営為はもう止めろ。壜の中から脱出することも、壜の中へ投身することも、所詮は壜的思想の階段の上下にしかならぬ。かりに福神漬の壜を真理と仮定してみたとしても、それが一体何になる。(中略)
 大事なことは食わず、理解せずに福神漬の「ありとあらゆる」妄想の淵へ、どっぷり浸ってくことなのだ。
「壜の中の手紙」の発信者は、こう警告する。
「壜を見るなかれ。むしろ壜たれ!」
(中略)
 壜の中へ投身自殺をはかるな。壜を超克せよ。(後略)
                       ――寺山修司『地獄篇』より

 こう述べた寺山修司が、むしろ壜の中へ無限の投身自殺をはかっていたように思えるのは、おそらくぼくの妄想でしょう。というよりかは、壜として生きることのできる者を、人は天才とよぶのかもしれない。そういう意味では、ぼくはいささかも天才ではありませんが、多分鬼才です。なぜなら、ぼくは天などにはこれっぽっちも興味がありませんが、一疋の鬼がぼくに憑いているようだから(二疋ではないという点が重要)。
 いずれにしろ、戦略としては、ぼくもしばらく「壜を超克する」路線で行くつもりです。

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2008年4月11日 (金)

神が舞いおりた、爾後

 日記のようなもの。

 四月七日。
 ずいぶんひどい昼夜逆転中。初更に入る時分まで眠っていると、友人唯君の電話に叩きおこされる。助けてくれと言うので行くと、自転車の鍵をなくしたから自転車屋まで一緒に運んで欲しいとのこと。雨の中、小一時間、えっちらおっちら自転車を運ぶ。やっとこさ到着した自転車屋は閉まっており、自転車をその場に放置しておいて、唯君の学生マンションに上げてもらう。カップラーメンにコーラ、菓子パンやオレンジグミなどをご馳走してもらい、胃の中をちゃんぽんにして帰宅。
 深夜は、JUDY AND MARY のアルバム『WARP』をずっと聴いていた。

 四月八日。
 何時に目を覚ましたか記憶はないが、とうに日のくれた後だったと思う。基本情報技術者の試験勉強や読書をするのに、梦幻院(※ぼくの書齋の号)ではなにかと落ちつかないため、自転車をひっぱり出して夜の街にこぎだす。からふね屋珈琲店で十一時半から約二時間、CASLIIというアセンブリ言語を勉強し、深夜の四條界隈をひとめぐりして、それから烏丸五條角のマクドナルドに居坐る。さらに二時間ほどCASLIIの勉強を続けた後、『涼宮ハルヒの退屈』を読み、ちょうど読了したころには午前六時になっていた。勉強も読書も順調に進み、大変充ちたりた気分で表に出た。
 帰宅してから、制作中の詩『卒業』にとりかかる。装飾過剰な蔓延体で書き進めてゆくという方向性は決定しており、ストーリーの流れも散文体で用意してあるので、もっぱらイメージを具体的に翻訳してゆく作業に摧心する。と、神が舞いおりた。この感覚は本当にひさしぶりだった。綴文し、刪削し、吟味せよ。この繰りかえし。おそるべきスピードで目標が把捉され、寸分の狂いもなく言葉が撃ちこまれてゆく。詩作機械。ふと息をついて、自分の書いた文章を音読しながら「あっ、これはぼくには書けないな」と思った。それほど凄い一文がそこにはあった。ぼくには書けない筈のものをぼくが書いたのだから、これは神が舞いおりたとでも考えるしかない。気がつくと七時間ほど経過しているが、時間の感覚もまるでない。詩は、原稿用紙換算にして二、三枚分、進んでいた。
 だが、だんだん言葉がとだえがちになってくる。文章にはまだ、それほど目立った粗は見えないが、このまま書き続けていると早晩ぬけがらの言葉をつらねることになるだろう。リミッターが解除されて、作品からはよい意味で箍が外れていたが、箍が外れていたのはぼくの精神の方も同じで、要するに精神力が神を御しがたくなってきていたのだ。
 本日終了。午後三時、擱筆。睡眠。

 四月九日。
 夜おそく目を覚ます。深草氏とスカイプで会話し、一緒に深夜アニメの第一話を視る。それからボーッとパソコンの画面をながめ、まんじりともしない。再び『卒業』に手を出す気に、どうしてもなれない。怖い。
 基本、ぼくは瞬撥力で作品を作るタイプの人間であり、あまり長いこと能力を発揮することができない。いつ読みかえしても「ああ、こんな小説は誰にも書けない。こんな文章はぼくにしか書けない」と思わせておきながら、続きがまったく手につかず、未完作品の海に弔われた自分の文章を、ぼくは嫌というほど見てきている。ああなるのが怖いのだ。「もし続きを書けなかったらどうしよう。もし急に文章がヘタになっていたらどうしよう」と思うと、怖い。それは「たしかに昨日までの君は天才だった。そしていまの君は凡人に過ぎず、それも文章を書くことでしか生きてゆけない凡人だから、もう死ぬしかない」という宣告にもひとしい。その宣告がくだされるのが怖い。
 午前十一時まで、ボーッとパソコンをながめたままだった。ふいに一念発起した。手許に積んであった『立原道造詩集』と安西均『暗喩の夏』との二冊を矢継ぎ早に読了し、寺山修司『地獄篇』をじわじわと読んでゆく。人しれず詩に息づく「どこか、ここではない場所」の音楽を聴きうるために、限界まで感覚を研ぎすまさなくてはならない。その瞬間、ぼくは再び神をおろし、一気にこの詩を書きおおすのだ!
 ……だが、だめだった。言葉はぼくに帰ってはこなかった。二時間かけて一行を書いたが、よけい悪くしているようにしか見えなかった。睡眠不足のせいだと、ぼくは逃避した。午後四時、ぼくは寝た。

 四月十日。
 三時間だけ眠り、ぼくは午後七時に布団から這い出した。胃がむかむかして、殆どなにも喰べていないのに食欲というものがなかった。
 ヤフーオークションから、ぼくが友人と組んで出品していた七品すべての自動再出品通知がきた。少しだけ漢検一級の勉強をしてみたが、いらいらしてどうしようもなかった。
 この日記を書き終えて、いまから寝る。明日には、詩が完成することを信じたいが。

      ×      ×      ×

 すべてがやすんでゐる。私もまた、夜だ。眠りにひたされて、遺された子守唄! そして、すべてが失はれてゆくだらう、やすみながら。闇に、つくりもせずつくられもしない闇に、そして光に、かへつてゆくだらう。夜だ!……
                     (立原道造『夜に詠める歌』より)

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2008年3月 3日 (月)

文学を〈半分〉降りる

 あ、BGMはチャットモンチー『東京ハチミツオーケストラ』で。

 東京から帰ってきました。昨夕もネカフェから繋いでましたが、京都にもどったのは今朝です。まあ「面白いこと」にもなんにもなってませんが、とりあえず報告しておきましょう。

 二十九日は神田古書街へ。東京古書会館で即売展があるという情報を先輩からいただいていたので、始まるまで喫茶店で暇をつぶしてから見てきました。京都でよくある「古本まつり」より、規模はだいぶ小さかったですが、周りが古書肆だらけですから、わざわざ集める意味があまりないんでしょう。そこでの収穫は柄谷行人『探求1』と井亀あおい『アルゴノオト~あおいの日記』の二冊。柄谷行人は読んだことがないので、一冊ぐらい読んでおいてもいいかな、という感じ。しかし形成史的研究をするつもりはないので、転回がどうたらこうたらという話を一々追う気はありません。『アルゴノオト』は前から探していた、若年自殺者の手記系の一冊。原口統三『二十歳のエチュード』も見かけたが、あまりに本が襤褸かったので購いませんでした。
 ぼくが若年自殺者の手記を好むのは、おそらく死者が好きなんだろうと思う。そこには理解可能性を超えた他者の存在が開示されるから。宛て先のない「祈り」の彼方に、ぼくはきっと、もういちど自分自身をつかみたいのだ。あきれるほど遠くに離れていってしまった今でも。
 あとは、虔十書林で寺山修司『地獄篇』と『臓器交換序説』を購入しました。

 一日。午前九時に講談社へ。こんどの東京行きの理由はこれです。

 『東浩紀のゼロアカ道場

 簡単に説明するなら、批評家版『TVチャンピオン』みたいなもんですね。深草某にそそのかされて応募してみたら書類選考を通過してしまったので、東京まで出かけることになりました。ゼロアカってなにかと思ったら「ゼロ年代アカデミズム・ブーム」の略なんだそうです。アカデミズム・ブーム? そんなのがゼロ年代にあったのか? それでもって、この東浩紀とかいう人がそれを牽引してたの?
 批評なんて読んだこともなければ書いたこともないわけで、慌てて一ヶ月で、

『動物化するポストモダン』(東浩紀)
『動物化する世界の中で』(東浩紀・笠井潔)
『存在論的、郵便的』(東浩紀)

 を読みました。感想としては、なかなか理知的な文章を書く人だなあ、という感じ。一番凄かったのは『存在論的、郵便的』で、ここまでアクロバティックな書を読んだのは久しぶりです(実は少し前の京都哲学道場でも扱ってるんですけどね、この本)。こないだ永井均『なぜ意識は実在しないのか』を精読していたので、それとの関係ですらすら読めました。ちなみに、のちの二・二六事件(註:二月二十六日午前二時、その東浩紀が2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨し、住人と交流を深め合ったという、日本哲学史上屈指の大事件)で永井均の話も出ていたので注目していたんですが、

>永井先生をご存知ですか?
知ってます。読んでます。

>永井均の独在性をめぐる議論に一言お願いします。
パス。難しいよこの質問。

 とのことで、どうも「否定神学バッサリ」な一筋縄ではゆかないようです(もちろん“当然”ですけどね)。まあ『存在論的、郵便的』という素晴らしい本にも出会えたことですから、これから「永井均と東浩紀の関係を考える」とか、いろいろできそうです。

 え? ゼロアカ道場どうなったかって?

 ……いや、第一関門試験で思いっきり落とされましたがね!

 落選の理由? んなもん、ぼくに批評を書かせてる時点で、それがそのまま落選の理由ですよ、ええもう。尤も、ちょっと甘く見すぎていたということはありました。批評家選考道場なんてイロモノにマトモな奴なんてくるわけないから、第一関門試験ぐらい文章書けりゃ通って、第三関門試験あたりでレベルが高くなってきて落とされるものだとばっかり思ってました。すっかり忘れてましたが、東浩紀にはとりまき連中、じゃなかった優秀な読者のみなさんがいるわけですね。そりゃ落とされるって! 京都哲学道場組は、おひとりは応募を忘れ、おひとりは詳しいことは存じませんが会場では見かけず、ぼくが第一関門試験で落とされたので、全滅ということになります。京都哲学道場によるゼロアカ道場の乗っとり作戦、惜しくもなんともなくここに潰ゆ……。
 ま、講談社のサイトにもうじき論文が上がると思いますので、ぼくの分はほとんど読む意味はないと思いますが、お暇な方は目を通してやってください。

 さて、ここからは自分のことを書きます。しょうじき、ゼロアカ道場も落とされて、もういいや、という気がしてきました。文学を〈半分〉降りることにします。
 結果発表後の交流会で、東浩紀がこんな話をしていたのですが、批評に必要なのは論理の言葉であって、それは小説が用いる煽情の言葉とはまた別のものなんだ、と。そういわれて考えてみると、ぼくは煽情の言葉しか使うことができず、論理の言葉とはおよそ無縁です。ぼくには神を信じない生き方はできない(「否定神学」という時の「神」ですが)。しかし大きな物語が崩壊した現代、イデオロギーによって生きるなんてことはどだい無理だ。そして動物もスノビズムも嫌だ。だから、ぼくは〈孤殖〉することにします。
 芽殖孤虫 Sparganum proliferum という寄生虫がいます。芽殖孤虫は世界で十数例しか確認されていない珍しい寄生虫で、いまだ成虫が発見されていません。人間を中間宿主として使うわけですが、終宿主と出会うことができないので、寄生した人間の体内でとめどなく増殖し、宿主を喰い破ってしまいます。寄生された人間の致死率は百パーセント。
 ぼくは、孤独に殖えることしかできない。芽殖孤虫は遺伝子の突然変異ではないかとも言われていますが、そうだとすると、終宿主なんてどこにもいないことになります。だからといって、無際限な増殖をとめることはできない。ぼくは、合一可能な世界(共生できる終宿主)を夢みつつ、この世界(中間宿主)を喰い破ってゆかざるをえない。そういう諦めがついてきました。だから、ぼくは文学を〈半分〉降ります。文学を〈半分〉降りて、それでも小説を殖やし続けてゆきたいと思います。

 二日に、目黒寄生虫館で本物の芽殖孤虫標本を見ることができましたが、どうにもかわいそうでなりませんでした。

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2008年1月27日 (日)

超自我、検閲失敗す。

 筒井康隆は『パプリカ』という小説を書くにさいして、一夜の内に白髪になったと述べている。『パプリカ』は夢に取材した小説であり、執筆のために自分が視た夢をいじくりまわしていたために、白髪になってしまったのだという。筒井は、この体験を元に、夢というものを安易な気持ちでほじくるものではない、必ずしっぺがえしを喰らうと忠告する。だが、こちとら「夢に生き、夢に死す」が商売であり、忠告されてもどうしようもない。ぼくは基本的に、中学二年生の秋から冬にかけて視たいくつかの悪夢に影響されてこれまで生きてきた。フランツ・カフカいわく「夢は現実を暴露する」ということだが、これは夢に対するいくぶん静的な解釈であり、ぼくだったら「夢は夢自体を暴露する」とか「夢は存在論する」とか、せめてもうちょっと動力学的な表現にしたいと思う。

 それはそうとして、今ちょっと精神が不安定である。できたら誰かと話していたいくらいなのだが、午前四時ともあり無理な相談で、しょうがないから日記でも書いて心をおちつける。おちつかなかったらニコニコ動画でも視て陽がのぼるまで繋ぐ。それというわけは、昨日の朝九時に視た夢にあるのであって、その夢が原因で今までずっと精神不安定なのだ。精神不安定というか、正直なところ怯えている。それにしても、いくらぼくの体にガタがきているといっても、まさか象徴化機制が失敗するとは思わなかった。ねえフロイトさんどうですか、さすがにどうかしていると思いません?

 目が覚めた。この「目が覚めた」というところからして問題なわけで、床に就いたのが朝六時、目が覚めたのは朝九時である。ぼくは睡眠には、可能なものなら十二時間でも欲しい人なんであって、三時間で目が覚めるというのはいくらなんでもおかしい。その理由が外的な事情によるのか、超自我の検閲失敗による夢の中断なのかは、まだよく分からない。検閲失敗自体に由来する安眠妨害の可能性もあるが、むしろぼくとしては、外的な事情によって不意に目覚めてしまったため、象徴化機制が失敗した可能性の方が高いと思う。
 目が覚めたとたんにパニックに陥った。あまりにも哀しかった。まるで(月なみな表現だが、この表現以上に適した表現がない)胸に錐をもみこまれでもしたかのような鋭い哀しみがぼくを襲った。だが、パニックに陥った理由は、そのこと自体にあるのではない。ただ哀しいというだけなら、哀しい夢を視たということで終わるべき話で、パニックに陥るほどの要素はどこにもない。ぼくがそんな事態に陥ってしまった理由は、それまで視ていた夢が、不快な・不安なものでこそあれ、哀しむべき夢ではまったくなかったからだ。それまで、ぼくは生温かい不快・不安を味わっていた。その感覚が、目覚めの瞬間に(本当に一瞬で。一秒もかからず)哀しみに転化した。そのあまりの落差にびっくりしてしまって、ぼくはパニックに陥ったのである。
 だが、事情はほどなく理解された。同様な事態を、ぼくは2005年6月28日の午前中にも経験しており、「あれと同じことがおこったんだな」とすぐに分かったからである。2005年6月28日午前という日時がはっきりしているのには理由があって、その日、ぼくは目覚めと共に激しい哀しみの発作に襲われ、半分泣きながら憑かれたように、それまで視ていた夢を小説にしたのである。『海の家をもう一度』というタイトルで、こっちは夢分析がうまくいっていないのだが、おそらく死の夢だったんだろうな、と今にして思う。あの時も、象徴化機制がしくじっていたのかもしれない。
 こんども同じことがおこったのだと分かると、次に、今視た夢がいったいなにを告げようとしていたのか、ぼくは哀しみを怺えながら考えた。だが、数秒とかからず夢分析ができあがってしまった。だから象徴化機制が失敗したというのである。確かに象徴化されてはいたが、あまりにも分かり易過ぎる。これを検閲に通した超自我の方もどうかしていたといわざるをえない。ぼくが数秒で終えた夢分析の結果は以下の通り。

【夢1について】

 地中ふかくの部屋:
 →心の部屋。『遊戯王』とかに出てくるアレ。まさにそのまんま。

 繁茂する植物:
 →心の部屋が自分自身でも見わたすことができなくなって、身動きがとれなくなっている象徴。

 空位する玉座:
 →かつては心の部屋の君主であった自分が、いまや自分自身の心を支配することができなくなってしまった象徴。そこに座っても、もちろん植物のせいで視界を塞がれている。

 植物のむこうに広がる地下水脈:
 →自分の心にひろがる、ながめわたすことのできない広大な領域。ぼくはそこへ行き、心の全体を白日の下にさらさねばならないのであるが、植物にはばまれ躊躇している。そのうちに、植物は完全にぼくの心の部屋を埋めつくしてしまうだろう。早くなんとかしないといけない。

【夢2について】

 地中ふかくの秘密基地:
 →同じく心の部屋。

 そこが崩壊寸前であるということ:
 →もはやそこを守り通すための時間がかぎられてきている象徴。

 そこが蒸し暑く圧迫的であるということ:
 →もはやぼくが自分の心に居た堪れなくなっている象徴。あるいは、現実世界から自分の心の部屋をながめかえした時には、常に不快で圧迫的な場所として映るのかもしれない。心の部屋は、夢の象徴の中でもトップ・シークレット扱いされねばならない場所だから(それなのに、なんでその象徴化機制がうまくいかないんだ……。超自我働け)。

 扉のむこうの巨大な空間:
 →地下水脈と同じ。ぼくはその扉をひらくことに躊躇し、どうしても先に進めない。

 壁中のらくがき:
 →大部分は記憶の投影であり、夢の本質とは無関係。但し、迷路など、ぼく自身が心の部屋にらくがきしたとしか思えないようなものもある。

 やがて部屋を洗い流すであろう水流:
 →心の部屋が「意味不明なもの」に完全に支配される予感。ぼくは心の部屋を出る(世間一般の人々と同じように自己疎外されたままで生きる)か、水流に呑みこまれる(精神崩壊をおこす)危険を冒してでも心の部屋に拘泥するかの二者択一を迫られている。

 次の訪問者のために書き置きを残すこと:
 →小説を書くこと。ぼくの「まだ見ぬ自分にむけて差し出された宛て先のない手紙」という自己文学観を完璧に反映していて、でき過ぎの感すら否めない。

 この夢分析で問題となるのが、繁茂する植物と雪崩打ってくる水流の予感とである。ぼくはこの点の解釈について、いくぶん「精神分裂病の理論」的な読み替えを行なった。植物や水流は「意味不明なもの」の象徴である。「意味不明なもの」とは、現実からは触れることすらできないもうひとつの現実、現実とは違う論理の働くもうひとつの世界である。だから、水流の到来を予感するということは、分裂病理論にいわゆる〈世界没落感 world-destruction phantasy〉と対応する。だが、この読みに、ぼくはいまひとつ自信がない。もしかしたら別の事柄が象徴されているのかもしれない。とにかく判明なのは、それが心の全体を見通せなくしているということ、それがどんどん侵蝕してきて、ぼくをみじろぎもならない状況に追いやろうとしているということである。
 ぼくは〈まだ見ぬ誰か〉のためのメッセージを書き置こうとして、危殆にひんした心の部屋を後にすることができない。ぐずぐずと自分の心に拘泥して、〈まだ見ぬもうひとりの自分〉のために小説を書くわけである。〈もうひとりの自分〉とは誰か? それは、自分=自分という自同律がなりたつことを理解した自分、それゆえ自分の述べたことを自分自身で完全にうけとることのできる自分、いわば完全に統合された神的存在としての自分である。彼は宛て先のない手紙の宛て先をも知っている。すなわち〈私〉が誰なのかということさえも知っている。彼はその意味で、真の神といってよい。
 ぼくにとって、しかし彼は、神というよりかは救世主である。彼は、ぼくがひらくことを躊躇していた扉を自信たっぷりに開け放ち、その先の巨大な未知なる空間へもずかずかと歩いてゆくだろう。彼はその空間を寸毫にいたるまで把握しつくし、その全体を白日の下にひきずり出すだろう。彼はそんな使命を帯びてやってくる。彼は、ぼくの心の部屋をすみずみまで統合された状態へと恢復し、結果として世界(心の部屋)は救世されるのである。ぼくは彼の到来を待ち望む。だがしかし、彼とは自分自身のことなのである。彼は〈まだ見ぬもうひとりの自分〉であり、ぼくは彼への道程を歩んでゆかなくてはならない。ぼくはぼく自身の世界を救い出さなくてはならないのである。

 ……とまあ、こんな夢分析を経て、ぼくは多少あわれみみたいなものを感じた。もちろん自分自身に対してである。夢の中での不快→現実世界で感じた哀しみ→あまりにも象徴化機制が失敗していることへの呆れ→自分ってかわいそうだなあというあわれみ、と、目まぐるしく感情を変転させたぼくは、やがて再び眠りにおちた、という寸法である。

 ぼくの視た夢は、ふつうには悪夢といわれなくてはならないのだろう。だがしかし、ぼくはよい夢であったと思う。この夢は、たとえそれが象徴化機制の失敗であれ、超自我のしくじりであれ、ぼくに語りかけ、ぼくが問いかえすというタイプの夢であり、ぼくはこの夢との対話を通じて、自分にとって解決せねばならなかった問題がますます明確化されてきたことをうれしく思う。問題の全体像がつかめた時、問題はすでに解決されているわけであるから。
 なお、哲学的な教訓としては、「哀しみ」に理由はいらないということ、つまり原因があってその結果として哀しくなるのだという常識的世界把握は間違っているということを教えてくれたといえる。実際、ぼくは自分が理由なく哀しいということを発見し、それにびっくりしてパニックに陥ったのだ。その転化が、夢が現実になるその一瞬間に行われたということは、夢で〈それ〉と触れ合った時と現実から〈それ〉をながめた時との、〈それ〉に対する感情はまったく異質なものであり、現実から〈それ〉に対峙する時のわれわれの心のあり方が「哀しみ」とよばれているのではないか、という推測がなりたつ。この点についてはまた考えたい。

 あと「お前の夢分析は完全に間違っている。玄人の俺にまかせてみやがれ」という方がもしいらっしゃったら、このたびの夢を巨細にわたって記録した原稿用紙13枚分のテキストデータがあるので送りましょう。ま、いないでしょうが(などと言いつつ、たまにいるからインターネットって面白い)。

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2007年12月20日 (木)

ただいま

 東京旅行から帰って参りました。

 池袋でストリップを鑑賞し、恵比寿の東京都写真美術館で『文学の触覚』展を観て、東京学芸大学で文学の演習授業にもぐりこませてもらい、神田の古書街で文士の直筆原稿などながめて参りました。

 或同人の先輩に案内していただいたのですが、本当に出かけてよかったです。ストリップは小説に役立つこともちろんですし、文学の演習授業もとても参考になりました。哲学道場などとはまったく違う言葉の使い方、まったく違う議論の進行方法があって、それだけでも参考になったのですが、なにより「テクストの分析」ということの意味が凍解氷釈しました。レジュメの発表とその批判という形で授業が進行したのですが、そこでテクストが分析されてゆく過程をつぶさにながめることができて、なるほどこういうわけだったか、というような感じです。「作者の死」の意味なんかも、どんな解説書を読むよりすんなりと理解することができました。ぼくは差別論とのかかわりの内にテクストの分析の話を捉えており、かなりその点にてこずっていたのでしたが、これで心おきなくテクスト論者の差別論客を批判することができます。

 夜は、かなり酔っ払いつつ先輩とわけのわからない議論をしました。おもに「ウェブ時代」と「差別論」についてでしたが。このごろ、いろんな人とウェブについて解説したり、議論したりしています。それだけウェブというのが大きなものであると共に、自分にとっても重要なものだということでしょう。時代と文化ということがますますハッキリと自覚されてくるようになっており、六十年代から照らし返して現代を解読する作業にもとりくめるようになってきました。
 ついでに、ぼくの和歌なんかも具体的に批評していただきました。

 このごろは、ぼくはCSSとXHTMLの復習を終え、フォトレタッチの勉強も始めようかというところです。あとはジャバスクリプトとCGI、PHPあたりまで学べたらいいなと思っております。来年以降、独自ドメインを取得して本格的にサイト運営を始めるつもりです。
 ぼくは生きることで暇をつぶしているだけなんでしょうか。一歩々々進んではおりますし、物事の輪郭も次第にハッキリと見えるようになってきました。でも、それがなんなんだろう。ぼくは、人間が進歩するものだという考え方をさいしょから否定していた筈です。ぼくの興味は常に過去にむけられており、具体的には小学生時代から中学生時代の自分にしか興味がありません。端的に言って、それが自己喪失型ナルシシズムの意味です。ものを学べば学ぶだけ、ぼくは過去の自分から遠去かってゆくのではないかと思われてしかたがありません。

日を啖(く)らひ吐きくだしては再た啖らひ
    文士
(ふみつかさ)かな文士かな
(とぶら)ひの言葉なるべしわが詩文(ふみ)
    たゞ昔日
(せきじつ)てふものを葬(おく)らん
〔……『夢むるナルシス』より〕

 ぼくは、欠けたところのない人間が嫌いです。人はみんな、心のどこかが欠けていなくてはならないと思う。そこで理性的になるということは、よくないことなんだと思います。
 社会から奪いとれるだけのものを搾取し、日々人を不幸にしながら、ぼくはもう少し生きています。「自分がいま引き受けるべき価値」(永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』)が創出されるまで。

(ぼくは日記作家になるわけじゃないんだから、少し日記にものを書くことを自重しようかなあ。ミクシィやブログだけで自己充足してしまうというのは、あまりよろしい傾向じゃない)

 古書街などで購入した本は以下。

◆佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』
 絶版ですが、けっこう有名な本。平野啓一郎『日蝕』が、自分の小説『鏡の影』のパクリであると、この作家さんは主張されているようで、前からちょっと興味を持っていました。

◆中島義道『カントの時間構成の理論』
 中島大先生の一番古い作品ですね。

◆宮本忠雄『精神分裂病の世界』
 けっこう見かける本なんですが、有名なんでしょうか?

◆マンディアルグ『狼の太陽』
 この作家はまったく知りませんが、生田耕作が訳しているということで購入。生田耕作の訳というだけでわくわくするじゃないですか。

◆デュヴェール『幻想の風景』
◆アレクサンダー・ドルナー『[美術]を超えて』
 この二冊は適当に。『狼の太陽』を買った古書肆があまりにも安かった(というか値札がなく、その場でアバウトに値段をつけてくれた)ものですから。

◆春日井建『春日井建歌集』
 先輩からいただきました。和歌は詠む割に不勉強なので、もっとがんばらないとね。

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2007年10月19日 (金)

初音ミク騒動

■「初音ミク」画像がネットから“消えた”?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=319093&media_id=32

 さすが。現在このニュースが日記ランキングの綜合一位から三位あたりをキープしているようです。
 2ch で祭りなみのスピードでスレが消費されてるもよう。Live2ch を使っているのだが、勢いが二万の大台に乗ってるから凄い。
 そもそも初音ミクってなんなのよ、とかいう話は差し当たりどうでもよい。実際に聴いてみたけどなにも感じなかったし、コンピューターに歌わせるくらいなら自分で歌った方が早くない? と思うわけだが、なにかぼくには分からない魅力があるんでしょう。それはどうでもよくて、明きらかにgoogle、yahoo!、exciteあたりのイメージ検索からはじかれているのが分かるわけね。実際に検索してみて、Live searchとかと比較してみると、目で見てすぐ分かる、誰でも分かる。これはちょっとショッキングな話ですよ。さすがにWikipediaの話はうがちすぎかとも思うが、どうも偶然だとは考えにくいですよね。
 とりあえずホームはどうにでもなるとしても、ジオシティーズにサイトを持っているから、google&yahoo!不使用運動には参加できそうもないんだけど、薄ら寒い事件です。このごろネットを見ていてゾッとすることが多い。人がたくさんいるということ、世の中は群衆でできているということは、考えようによっちゃ怖ろしいし、自分がその群衆のひとりでしかないということはなお怖ろしい。wwwはここ十年で、人間の存在基盤をゆるがせた。

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83 名無しさん@八周年 sage 2007/10/19(金) 00:17:08 ID:Qcz1O6z40
>>31
> 初音ミク伝説

いや、マジで初音ミクは伝説になるわこれ。
このツインテールのボーカロイドが、一体どれだけの「世間の悪」を暴き上げて
民衆の象徴となって民衆を纏め上げてるか。

あれだよ、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」そのままだよ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg

もちろん、初音ミクだけに、手にもつのは、旗ではなくネギだがw
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http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1192720298/

 という書き込みがあって、このイメージがあまりにも印象的で美しすぎて、ちょっと感動して日記を書いてみる気になった、という次第です。こういうネタはがんらい小説的なものであって、「事実は小説よりも」がここまできたか、という気持になりますね。個人が生み出せる発想なんて、多寡がしれてる。センチメンタルかな。

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2007年10月11日 (木)

ぐだぐだ

 この一年ぐらいで、ようよう「文学」ってなんなのか、ぼくにも分かってきた気がする。とすると、それまでの三年間、お前は「文学」とはなにかも分からずに小説を書いてきたのか、といわれるかもしれないが、まったくその通りで、ただ無茶苦茶を書き殴ってきただけのことだった。もっとも、あとから読みかえしてみて、多少の文学的価値は発見できるから、その分の批難は差しひいてもらえるかもしれないが。
 文学ってなんなのか。けっきょく、計画的である、ということにつきる。モンダイを見つけ出し、それを純粋に抽出してきて、そのモンダイに対し小説のうえでどんなことができるかをハッキリ見きわめ、そして小説として現前させてゆく作業、それが文学。現代に対し、自分がどんな意味とかかわりを持っているかを理解し、あるいは理解できないならモンダイとして提起し、自己を統一し、世界を読み解こうとする意志と力、それが文学。言うのは容易いが、こんな当たり前のことを理解するだけのことに、ぼくは三年かかった。
 少々酔っている。話の前後がもしかしたら統一されていないかもしれないが、だったらそのせいだ。
 酒は一時のやすらぎを与えてくれるが、それがなんの役にも立たないのは分かりきっている。これからどうしたらよいのか、ぼくは自分を見失っている。どうでもよい話だが、友人某君から某ブツを入手してくれるようたのまれ、購入ついでに自分の分も買った。違法な摂取方法をちょっとためしてみたが、ききめはなく、違法でない摂取方法だからここに書くが、お茶にして飲んでみた。しかし、やはりききめはない。別にトぶというようなことを期待していたわけではないが、同量のビールくらいにはキマって欲しかった。役に立たん。おととし買った某ブツは、別の友人が見事にトんでいたが、現在それそのものとしても違法になっている。合法の世界でまともなのが残っているなら誰かおしえてくれ。で、なんの話だ。
 そうそう、だから戦いは常に独りで戦うしかないってことだ。本当に孤独な人間が、孤独を人と分かち合うことはできないってことだ。だったらなんのために書いてるのかこの日記? なんのためなんだろね?
 なんかね、小説を書けないってことは、自分が存在してるのだかしてないのだかよく分からないってことに思えてくるのよ。ものを書いていない間、自分はどこにもいないという気がする。逆に言えば、ぼくはものを書くという手段を通して、あらためて自分を作りあげているということかもしれない。もともと性格として、ぼくは書きながら考える人で、書かずに先に考えておくという芸当はできない。書くということと、考えるということが、自分の中でイコールになっちゃってる。それで、この感覚、別に小説じゃなくてもなんでもよいけど、表現者なら誰でも分かると思うんだけど、ものが書けないと、これからもずっとなにも書けないんじゃないかって、凄くおそろしくなるんだよね。もうぼくの中のすべてが死んでしまっていて、あとに残っているぼくは脱け殻なんじゃないかっていう……。
 いや、書けるんだよ。どうせ三日もすりゃ書けるんだよ。でもほんとに怖い。そういう気分に浸ってるだけかもしんないけど、ひどく怖い。
 別に、どうせみんな心配しないでしょ? たとえばぼくが自殺しちゃうんじゃないかとか、思わないでしょ? みんなそう思わないって分かってるから、ぼくも気楽にこんなことが書けるんだけどね。実際、自殺なんかするわけないし。そんなことをしそうな人間に見えないでしょ。いくら神経がほそいからってねえ。だから、こんなぐだぐだ書いてても、みんな笑って対応してくれるんだと思うけど。そうでもなきゃ、ぼくはとてもつきあいにくい人間になっちゃうよね。
 ええと、それでなんだっけ? ああそうそう、そういえばこのごろよく夢を視ます。十月に入ってから、二日に一回くらい夢を視て、どうしてこんなことになったんだか、よく分かりません。もともと夢を糧にして生きてきたような人間で、小説の材料も夢からとったりなどしているから、夢を視ること自体は大歓迎なんだけどね。それにしても、昔みたいな、心にうったえかけてくる夢を視なくなった。昔は、あんまり夢に感動して、泣いたりしてたんだけど、このごろそんなことがない。世界の終わりの夢とか、重要なテーマの夢も視ない。この間なんか、夢に筒井康隆が出てきたんだけど、この夢はぼくの書いた小説なんです、とか言い出すわけね。じゃ、ぼくの夢ですらないでしょう。なに言ってんだか。
 ぼくは大丈夫です。多分。タロット占いでは、大アルカナがぽんぽん出て、どうも重要な局面にいるらしいことが分かった。しかし、自己暗示に乗りきれるだけの魔力すら、今のぼくにはないようだ。
 で、おそらくこんな日記、誰もまともに読んでないだろうから、話はまとまらないけどこのへんで終わります。それでは。

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2007年9月21日 (金)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

 あ、たいしたことは書きませんが、ネタバレあるかもしれませんよ。

◆そういうわけで

 本日(二十日)『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を視てきました。映画にあまり行かないぼくのこと、前に映画を視たのはいつだったか。まさか『姑獲鳥の夏』以来ということはないよなあ、と、日記を見かえしてみたら、おお、昨年六月に『トリック2』を視ている。記憶はさだかでないものの、多分それ以来ということですかね。エヴァ(今やヱヴァか)は、ぼくがこれまでの人生で出会ったアニメの中で最高の作品、そりゃ見ずばなりますまい。
 そういうわけで、映画の感想からエヴァとのなれそめまで、ゆったりつらつらと書いてみようかと思います。

◆はじめにどうでもよいことを

 本当にどうでもよい話だと思いますが……。「ヱヴァンゲリヲン」とはどういう意味か? Evangelion はもちろん evangel すなわち福音に由来するわけで、発音記号を見てみると「イヴァンゲル」あたりが適当のようです。どう頑張っても「ウェヴァンゲリウォン」という発音にはなりそうにないと思えます。しかし輪をかけて不満なのが映画のチケット。なんと「エヴァンゲリヲン」と表記されていました。
 エとヱの区別くらいつけようよ。ヱはワ行の e 音なんだってば。そもそもヱ、ヲときたからには「ヱワ゛ンゲリヲン」というぐらいの表記はして欲しかった。まあ外字に「ワ゛」を入れてる人なんて、ぼくぐらいのもんでしょうが(Unicode には入ってますけど、テキストエディターでは外字にしないと表示できないのよね)。
 どんどん話がそれますが、現在うちのパソコンに入っている外字の数は百三十一文字。だいたいは表示できない漢字や記号などですが、アザミ文字をパソコンでも入力できるように全文字外字登録したのも大きかった。

◆苦学時代

 ぼくが『新世紀エヴァンゲリオン』と出会ったのは、いつくらいだったろうなあ、多分、小学校の六年生か中学一年生ぐらいだったと思います。貞本義行のコミック版、一巻から三巻を古書肆で立ち読みしたのが最初だったと思うのですが、確信が持てません。なんにしろ、当時は劇場版の THE END OF EVANGELION すら公開はとっくの昔のことで、この作品を視聴するための方法が、子供のぼくにはあまりなかった。しかし、どうしても続きが知りたくなったんですね、コミック版がかなりおもしろくて。とはいえ、現在でも完結していないコミック版、当時は四五巻くらいまでしか出ていなかったんじゃないかなあ。ですから、漫画で続きを読むことはできない。だったらビデオということになるんですが、わが家のビデオデッキは当時こわれていたか、こわれていなくともあまり良い動きはしていなかったと思います。かてて加えて、わが家にはビデオを借りるというならわしがない。近くにあったレンタルビデオ屋で、のちに借りて視はじめたことがありましたが、そのレンタルビデオ屋とて冒頭部分を視たくらいのところで閉店してしまった。さんざんです(ちなみに、現在でもわが家ではビデオを視ることができません。といいますか、テレビ自体がこわれています)。
 さて、それでどうしたか。ぼくはフィルムブックを読むという行動に走った。アニメ作品をフィルムブックで「読む」なんてのは、下策もよいところなんですけどね。しかし、フィルムブックで読んですら、はまらざるをえない異様な力をこの作品は有していた。そんなわけで、フィルムブックしか手許にないという状況で、ぼくは毎日々々フィルムブックを繰りかえして読みました。ぼくの「エヴァンゲリオン苦学時代」の幕開けです。
 じつは、こんにちでもぼくは、シナリオだのコミックだの限定本だの研究本だのタイピングソフトだのいろいろ持っていますが、『新世紀エヴァンゲリオン』を通しで視たことがない。第七話から第弐拾弐話までは、完全にぼくの脳内で再構築されたイメージ映像によってつくろわれています。「大人になったら DVD を買おう」が夢だったのですが、なかなか今しばらくは難しいようです。
 こんなぼくですが、のめりこみ方は人なみで、聖書たるフィルムブックは、THE END OF EVANGELION の二分冊は二冊ずつ揃え、一冊が保存用、一冊を常用とし、内、常用の方はヘタクソな字の書きこみだらけです。この書きこみは、多分中学二年生の時くらいに行われたものだと思います。フィルムブックならではで、せりふの暗記などもしていました。今はかなり忘れてしまっていますが。
 あと、研究本なんかも当然読むわけですね。生命の樹からカバラとつながり、小学生時代にはまっていた飛鳥昭雄に再会してモルモン教のありがたい訓えをうけたり、流れ流れてアレイスター・クロウリーに「こんにちは」したりもしました(クロウリーは『カードキャプターさくら』とのダブルパンチかな?)。こうして考えてみると、どこまでもぼくの趣味についてまわるアニメです(衒学趣味から新本格ミステリへ、物語の崩壊とバッドエンド、世界と自己との関係、クロウリーを橋渡しにして意志の哲学、など)。

◆エディプス・コンプレクス?

 新世紀エヴァンゲリオンの中心テーマのひとつに、『美味しんぼ』や『ソムリエ』同様「エディプス・コンプレクス」があるというのは、誰しも異存のないところでしょう。
 ところで。フロイトの理論によると、父親もその代役もいない場合は、エディプス・コンプレクスってどうなるんですか? ぼくには父親も、多分その代役もなかったと思われるのですが、自分がエヴァ函数の変項になにを代入していたのかに興味があります。自己の二重化から喪失の自己へ、そしてナルシシズムの展開というぼくの文学理論は、存外このへんからきているのかもしれないと、このごろ感じています。

◆ようやく新劇場版の感想

 さて、新劇場版の感想なんですが……。正直、舞いあがりました。先にも書いた通り、エヴァを「動く映像」で視たいというのがぼくのエヴァ苦学時代からの念願だったわけで、それを(まあリメイクじゃないんだから「視たい」の対象が微妙に違うわけですが)いきなりこんな大スクリーンで九十八分も堪能できるとは。感動しました。唯ただ圧倒されてながめていました。
 先入主が差しはさまれないように 2ch の下馬評なんかも読まず出かけたのですが、凄いなあ、アニメって凄いなあ、と、ずっと感じ入っていました。ここまでのレベルになってくると、文句なく一級品の芸術作品だなと思います。作画もたいへん美しい。こまかく叮嚀な作りこみがなされているようでした。ストーリーは第六話までをだいたいそのまま。
 長短問わず、気になったのは三点ほど。ひとつは、ちょっと展開が速いなということでした。『新世紀エヴァンゲリオン』を知っている人なら脳内補完できるでしょうが、初めて視る人には敷居が高くないか、と思いました。まあね、六話分を百分弱に短縮しているんですからね、仕方ないですけどね。術語頻出なのに説明はあまりないし……でもこれは、原作でもそうだったっけか? 追加されたカットに対し削られたカットが格段に多かったです。
 それと、ストーリーの流れが扁平な印象もうけました。心理描写も減っているようです。そこで、大詰めの「ヤシマ作戦」のあたりなんか、なんとなくありきたりな戦争映画の感じがしなくもない。もっとも、エヴァは「こわれモノ」のアニメですから、先に「こわすモノ」を作っとかないと無意味ですよね。この、あえて扁平な感触が、次作以降の周到な布石であることを祈ります。
 あとは、戦斗シーン、やっぱりカッコよかったですね。ディティールが原作とまるで違う。日本中の電気を集めるところとかが特に。使徒も、ラミエルが変形などして、大幅パワーアップ。あれ、しかし新劇場版では、現時点で使徒の名前は明かされていないんでしたっけ。

◆「悪夢」としてのヱヴァンゲリヲン

 新劇場版を視ていて、そうか、エヴァンゲリオンはひとつの悪夢としても視ることができるんだな、というあたらしい視点を発見しました。碇シンジという少年が視た、いびつな畸形のナイトメア。ここがまた、映像作品(芸術)として凄いなあと感じたゆえんなのですが、新劇場版を悪夢としてながめてみると、もうそうとしか感じられない。ひとつひとつのカットが幻想的で、まるで蝕まれた精神の底を泳いでいるような気分になる。幻想小説を書く者として、夢の描出法を研究する者として、おおいに創作意欲が沸きました。

◆バッドエンドのむこう

 過去、エヴァンゲリオンには二つの終局がありました。テレビ版と劇場版の終局がそれです。新劇場版が完結するとこれにもうひとつ、漫画版が完結すると合計四つのエンディングが存在することになります。こうなってくるともう、マルチエンディング形式かと思えてしまうほどです。
 テレビ版の終局は、うわさの自己啓発セミナー式、あるいはブレインコントロール式。これをハッピーエンドだと言ってしまうのは無茶かもしれませんが、バッドエンドとは言いきれないことも確かです。劇場版は、天地創造式とでも言うんでしょうかね、普通エヴァでバッドエンドと言えば、こちらの方を指すんじゃないですか? よく分からないですけど。
 自己啓発セミナーなんてかわいいもので、どちらがより病理的かというと、もちろん後者です。アスカの最後の最後のせりふからも分かりますよね。ぼくがより強く惹きつけられたのも後者でした(ビデオが視られた間に、ダビングしてもらったテープを数十回視ました)。
 エヴァンゲリオンが少年の自意識の生みおとした比類なき悪夢だとすると、彼の自意識は最後の最後まで裏ぎられなくてはならないわけですね。少年は、自分の作りあげてしまった悪夢の涯で、途方にくれます。そして、以降は誰から承認されることも、誰から褒められることもなく、人生という荒野をどれだけ苦しくとも孤独に歩いてゆかなくてはならない……そういうことを思わせます。殆ど彼の心境は、つぐないえない罪を犯してしまった少年の絶望にも似たものでしょう。エヴァが九十年代を綜括することにはなんの不思議もない。エヴァは自意識過剰の時代を生きる人々の、ポケモンと酒鬼薔薇聖斗の時代を生きる人々の、あたらしいリアルとなったのです。
 新劇場版は、これからなにをこわしてゆくんでしょうか。いくらマルチエンディングといっても、本当に微妙な匙加減でしょうが、こわすモノだけは間違えないで欲しい。世の中には、こわれなくてはならない物語というものが、バッドエンドでなくてはならない物語というものが、存在するのだと思う。ただ希望だけを賞賛することができる時代なら、エヴァンゲリオンという作品は不必要なものだったのですから。

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2007年9月13日 (木)

つぇるふぁーれん 2

 光速より速く移動することは、原理的に可能だろうか? こうたずねたら、××氏は可能だとのお答えだし、もちろんぼくも可能だと思う。すなわち、哲学で「原理的に」という言葉を用いる時、そこでいう「原理」は少なくともアインシュタインの相対性原理ではないのだ。だったらいったい、この「原理」という奴はなにものなのだろうか?
 原理的、という言葉、いろいろな用い方をされていて、用い方によっては光速より速く移動することは不可能になったりもする。この言葉の内実はややこしく、それゆえ、よく注意して使わないといけないと思う。
 ひとつに、想像可能性という解釈がある。想像が可能な状況は原理的に可能な状況とするのだ。これは思考実験むきの「原理的」性の解釈であって、この解釈の上でなら、われわれは原理的に光速より速く移動することができる。ここでいう原理とは、われわれが世界を表象として作り出す方法のことだろう。しかし、どのあたりから想像不可能になるのかは諸説ありそう。ウィトゲンシュタインだったら、ナンセンスかナンセンスでないかという話になるんだろう。
 もうひとつに、物理的可能性という解釈があり、たとえば「人工知能を作ることは原理的に可能だ」とぼくが言う時、もちろんぼくは「人工知能が存在することは想像できる」ということが言いたいわけじゃない。

前提1:他者は客体として存在する。
前提2:客体として存在するものは物理的に再構成できる。
結論:他者は物理的に再構成できる。

 という、単なる三段論法なのである。この「物理的再構成」は、原理的には可能だが現実的には不可能に近い。時間が掛かりすぎるし、技術も必要だ。たいてい「原理的」なんて言葉を持ち出す場合、現実的には不可能であることが多い。
 マジックにもいろいろあるよね。箱の中から物体が消失する、などというのは、物理的可能性という意味の「原理的」性において不可能なマジック。これに対して、未来予知やカード当てなんかは、偶然が重なれば誰だってできるものだから、原理的に可能なマジック。あれあれ、しかしマジックが現実に行われたということは、物体消失は現実的に可能だったということだ。それなのに原理的には不可能。逆転してるね。
 他にもいろいろ発展させられそうな話だが、今思いつくことはこのくらい。

    ×    ×    ×

 前からちょっと読みたかった『涼宮ハルヒの憂鬱』を読了。過去に読んだラノベとしては二冊め。もっとも、清涼院流水がラノベに含まれるのであれば、十冊はこえていることになるけれども。感想はとりあえず措いておくとして、ウィキでこの本の項目を読んでいると、ジャンルのところに「セカイ系」という説明があった。はてな。
 過去に何度かこの言葉を目にした覚えがあったが、とんだ勘違いもあったもので、ぼくは「きっと『世界の中心で、愛をさけぶ』と雰囲気の似ている感動モノという意味だろう」と思いこんで読み流していた(『世界の~』はもちろん未読。売れた本は基本的に読まない)。
 このぼくの憶測は、どうも『涼宮ハルヒの憂鬱』に当てはまりそうになかったので、なんだろう「セカイ系」って? と興味を持った。ページをひらいてみて、ちょっとびっくりした。

 セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB 2007/9/13版)

 小さな関係性? 具体的な中間項を挟むことなく? この世の終わりに直結する? こ、これはぼくの書く小説を解説しているのか?
 ……似ている、自分の書くものと。特に、小説を書きはじめた頃のものは、その殆どがテーマを「世界」に、もっとくわしくいうなら「世界からの逸脱」すなわち「世界の終わり」に据えていた。え? ぼくってセカイ系?
 微妙に違う点はいろいろあって、たとえば、あまり「関係性の問題」というものを「世界の終わり」と符合させたりはしない。というか、ぼくの(あえて漢字で)「世界系」小説には、基本的にヒロインは登場しない。但し、ふたりの少年を登場させることが多いから、やはり関係性といえなくもないか。
 ぼくが語り手の相手役として少年を登場させる理由はいたって単純だ。『新世紀エヴァンゲリオン』(カヲル君)と恩田陸『麦の海に沈む果実』(ヨハン)とヘッセ『デミアン』(デミアン)から相乗効果の影響を受けているわけである。

 多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れたと見ているが(同上)

 ああ、なるほど、やはりそうなのか。じつは、あまり言ったことはないが、ぼくにとってもエヴァの影響は非常に色濃い。毒気に中てられたというわけだ。バッドエンドとはなにかをずっと考えていた。エヴァのラスト(映画版)はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。もっとバッドエンドをつきつめることはできないか。究極のバッドエンドとはいったいなにか。
 ふーん。ま、なんにせよ、サブカルチャーによけい興味を持ってきた。勉強不足でもあるし。やはり東浩紀は読まなくちゃなんないのかなあ。……

    ×    ×    ×

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2007年8月14日 (火)

完全な音楽

 瀬名秀明『八月の博物館』に、多少ネタバレになるかも分からないが、次のようなエピソードがあった(ような記憶がある。なんせ読んだのは四年前)。ある空間を完全に再現することで、その空間が再現元の空間とシンクロを起こし、再現元の空間から続いている筈の世界が、再現した方の空間からも勝手に構築されるというのだ。だから、江戸時代の京都市の1メートル四方の空間を完全再現したとすると、そこから江戸時代の京都市そのものが勝手に(宇宙の法則かなにかで!)構築されてゆくことになり、タイムトラベルもどきを果たすことになる。空間自体が共鳴しシンクロするとは、なかなか面白い発想だと思う。
 さて、話は変わるが、小学生の頃、ぼくは音楽の完全性について考えていた。たとえば、ここにある音楽の一小節だけが与えられてあるとする。さて、この一小節から音楽全体を再現することは可能か。すなわち、一小節に対して音楽全体は一意に決定されうるか。ぼくは、一小節に対して「完全な音楽」はひと通りにしか与えられないのではないかと疑っていた。
 おそらく、ぼくはイデア説のようなことを考えていたのだと思う。この一小節を含む楽曲のイデアはひと通りしかなく、それゆえイデアを探ることで音楽の残りの部分も一意に決定される、と。
 もちろん、こんなことは空想にすぎなかった。六年生になって、ぼくは反例を見つけた。すなわち、ある一小節に対して、それに続く何通りもの音楽が作曲可能であることに気づいたのだ。「完全な音楽」は、いくらでもあったのだ。
 しかし、これを「完全性をそなえた音楽」と言い換えてしまえばどうだろうか。一小節に対して、不完全な音楽はいくらでも作曲しうる。しかし、完全なる音楽はひと通りにしか作曲されないのではないだろうか。いやむしろ、ある一小節の音源に対して、完全なる演奏はひと通りにしか奏でられることができないのではないだろうか。もっとも美のイデアを多く含み持つ演奏というものは!
 バカバカしい話だ。けれど、ぼくは書きかけの小説に、いつもそれに続く「完全性をそなえた小説」を演繹し、そのイデアをなぞるように執筆を続ける。こんなものは夢かもしれない、いや夢でしかない。原子一個に対して、江戸時代の空間は再現されているだろう。しかし、ぼくは江戸時代へ歩きもどることはできない。もしかしたら、この原子は、あの原子ではないのかもしれないのだ。
 ぼくには殆ど友達がいないことに気がついた。「完全性をそなえた友達」を夢見すぎたせいだろう。そんなものは自分自身でしかない。だからぼくはナルシストである。独我論というのは、他者の定義にあまりにも厳しくありすぎたゆえに、もはや神しか他者でありえなくなってしまった人間のとる、哀しい論理なのかもしれない。このアプローチは、けれども文学的過ぎるようだ。

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2007年8月 8日 (水)

京都国立近代美術館

 京都国立近代美術館に行ってきました。京都市には、東山という、文化施設の多い風致地区があるのですが、このごろよく足を運びます。理由は単純で、京都府立図書館に1960年代の古新聞を調べに行っているからです。この話は、また別の機会にするかも分かりませんが、とりあえず今日は美術館の話。
 八月に入ってから、精神状態がメチャクチャに不安定です。リズムに乗ると好調なんですが、少しでもリズムを狂わせると一瞬で不調に。カントは周りの人から時計代わりにされるような規則正しい生活を送っていたとのことですが、ぼくもこんなふうになりたくて、本日は午前六時ごろにはすでに起きていました。もっとも、昨日から今日にかけて二時間しか寝られなかったわけで、単なる徹夜なんですけれども。少し前に作った計画表に従うと、七時四十五分起床ということになっております(誰が守るか!)。このまま起きっ放しで規則正しい生活にすべりこもうと、七時四十五分まで読書をして、それからは計画表通りに行動しました。『歯みがき』とか書いているのがいかにも幼稚なんですけども、書かないとしませんから。
 九時半、計画通り近代美術館前に到着。見るつもりにしていたのは『麻田浩展』です。麻田浩という人を、ぼくは存じません。せめても文化人らしい生活がしたかったのと、絵を見て憔悴の極限にある精神をおちつけようとしたのと、あとは、パンフレットを見てこの画家の絵に興味がわいたのとが理由です。予備知識がまったくない芸術家の作品を一挙に見るというのは、いきなりの全面対決みたいなもので、おもしろい。そもそも、絵は小説と深いつながりがありますよね。あまり小説とつながりがないのが音楽。音楽で興奮して、その感動を小説にしようとしても、できるもんじゃない。でも、絵なら可能です。稲垣足穂は、当時イタリアに隆盛していた未来派の技法を文学の中にとりいれました。もっとも、未来派宣言を出したマリネッティは詩人ですし、もともと文学と無関係だったわけではないんですが。懇意にしていただいているH先輩は、この話とのつながりで、
「君もどうや、未来派だと二番煎じやから、キュービスムの技法を文学にとりいれるとか、やらんのんか? いちおう新基軸やぞ」
 と、おっしゃってくださったことがあります。しかし、名乗ってはいないにしろ、キュービスムを文学って……もうそれらしいことは誰かやっているような気がしてならない。といいますか、筒井康隆の小説をポンと出されて、
「これ、キュービスムです」
 と、言われたら、ぼくには反論の仕様がない。そもそも他ジャンルの芸術には疎いぼくです。
 以下『麻田浩展』の感想列挙。

◆「境界」をテーマにした絵があったが、中味よりも境界が存在性をより多く含みもつような実験小説の構想は可能だろうか?
◆絵を見るという行為は、全体的視点と部分的視点とを交互にとりかえてゆくという作業である。このような視点の遷移法を実験小説で構想することは可能だろうか?
◆絵画を描く時の「計画法」というのは、どんなものなんだろう。それは詩作の方法論と似てはいないか?
◆どうしてこう、ぼくは「赤」に惹かれるのか。
◆ひびの入った地面と、地の底から這い出てくるどろどろの物体群。中期の麻田浩は、繰りかえし繰りかえしこのモティーフを描いている。端的に特徴づけるなら、積極的に部分的視点を奨励する「地表」に対し、部分的視点をとらせない「地底」といったところか。まあフロイト的に分析するならことは単純で、地表は意識的自我であり、地底は無意識・深層心理ということになろう。「地底」を、これだけ未分化なままで呈示しようとする意志は、幻想小説の技法と通底するところがある。無意識は、フロイトに反し、麻田浩にとって、あるいはぼくにとって、分析されては「ならない」存在である。
◆後期の麻田浩は、もはやひび割れた地面を描かない。彼はキリスト教的に充足した。大地には源をなす樹までが生いそだってしまった。彼の、存在不安を追い求め続けようとする意志は、遂に答えに辿りついたのだろうか。後期の作品は、ぼくにとっては理解不能である。
◆割れた地面は、全体的統一感に乏しい。部分々々をながめていると「はあ、なるほど」といった感じなのだが、全体をながめようとしても支柱がない。つかんだ手の中からこぼれてゆくような、いかにも不安な絵である。これが麻田浩の「不安」そのものなのだろう。
◆【幻視】灰色の海辺。埋まった玩具を掘り出そうとする子供。急に、土の下からおどろおどろしい虚無が掘りかえされてくる。
◆彼の絵には、全体的に「動き」が、流れる「風」が、感じられる。
◆麻田浩の追い求めたもの。割れた大地。水滴。正方形に区切られた岩盤。鳥の羽。突き出た硝子器具。からみつくツル。ビー玉や色つきの玉。網。どろどろに溶け合った肉体。……

 以上、感想でした。
 じっくり見ていたので二時間半も掛かって、昼過ぎにようやく喫茶店におちつきました。なんだか分かりませんが、明らかに動悸亢進。息苦しくなってきます。多分、不眠が祟ったのでしょう。嫌だなあ。すでに高橋和巳のマネをして神経性腹痛を持病にしていますが、このうえ高野悦子の心臓病までマネしなくともよいものを。まあ冗談ですが、本当に冗談であってくれるとよい。胸の辺りにかんしては、肋間神経痛と自己診断している胸痛もありますし。病院はきらいなんです。
 とりあえず、本日はこんなところ。

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2007年7月14日 (土)

雑記;2007/07/13

◆才能ということ

 言い古されたことかも分からないが、巷間に数多ある才能の内で、もっとも貴い才能というものが矢張りあって、それは「努力することができる」という才能である。可能性という視点から考えて、これ以上にゆたかな才能はないだろう(「天才」という特殊能力は無視する)。残念なことに、努力することができるというこの才能が、ぼくにはひとかけらもないようである。現実逃避が、この頃ひどくなってきた。精神の均衡を完全に失していて、殆ど自分の意志で抑制が利かない。ニーチェを読んで、なんとか自己暗示をかけようと努力している。魔術師にはなれそうもない。

◆「表現」

 ジャンルとして、ぼくは文芸の人であって、時代小説と戯曲を除くと、基本的にはこの枠内でなんでも書ける。自分のまわりには、矢張り「文芸」の人はいくらか存在するわけだが、ふと他ジャンルの人があまりいないということに気づいた。絵とか、音楽とか。同じ「表現」という間がらなのだから、視野をひろげるためにも、他ジャンルの、本気でそれを一生の仕事にしようと考えている人々と、交流を持ってみたい。そんな場が欲しい。似ている点、違う点がはっきりすれば、逆に「文芸」の意味を画定することができる筈である。

◆美と倫理の矛盾

 川端康成『雪国』を読んで、ぼくが感じたことはひとつだけ。つまり、女の子は酔わせるとかわいいということ。さて、今日テレヴィで『魔女の宅急便』をやっていて、別に視ちゃいないわけだが、そういえば主人公キキが風邪をひくシーンがあったなと思い出した。
「女の子は、風邪をひかせてもかわいい」
 正直言って、自分が小説を書くということの少なからざるパートを、恰好よく言うと「幻の少女を追いかける」ということが、もっとざっくばらんに言うと「女の子のかわいさを追求したい」ということが、占めている(無論、それを追求することが、自分にとって、それだけにはとどまらない意味を持っているからなのだが)。このことを自覚する時、ぼくが思いおこすのは、梅原猛の評論『美と倫理の矛盾』である。これは川端康成論なのであるが、要するに川端の中で「女性の美を求める心」と「倫理に従おうとする心」が撞着しているということ、そして最終的には前者が勝利したということを述べている。「残念ながら」と言ってよいのかどうか、自分の中でもこの撞着がかなり表面化してきた。たとえば、十二才の少女との愛欲を描くことはできる、現実にはできない。ここで、小説を現実世界の代理物にするだけなら、いったいどんな意味があるだろうか。小説は欲望のはけぐちであってよいのかということだ(別に悪いとは言わないのだが)。

◆紙の日記

 長い時には十日以上飛んで、だいぶ虫喰いだらけになってきた。毎日書くのは辛い。

◆辞書

 http://dictionary.www.infoseek.co.jp/
 パソコンでひける国語辞書というものは便利だと思う。一日平均で五六語をひいている。以下、近日調べた単語の履歴を晒してみるが、なかなかのカオス。
 those、きなくさい、下達、霊媒、巫女、託宣、宣旨、本領、十分条件、racoon、leopard、squirrel、身上、pigeon、索、そうぞうしい、倦む、おぼつかない、ゆらぐ、ゆれる、ぐみ、ぼく、シンタクス、きょうやく、開示、告示。

◆失踪

「失踪してみたい」ということを、たまに感じる。もともとぼくは無政府主義者なわけだが、近頃とみに「自分の戸籍が国家に管理されている」ことに嫌悪を覚えるようになった。こんなことを感じるようになったら、多分終わり。紙きれ一枚、データ数バイトなんだと、理性では分かっていても、感情がついてきてくれない。夫婦別姓なんて、昔は「たった一枚の紙がそんなに気になるか」と馬鹿にしていたものだったんだが。暗躍する地下組織「ヤミ文学出版会」とかあったらよいな。心から思う。

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2007年6月 3日 (日)

雑記;2007/06/03

◆自動詞の rule

 "Kuwata Keisuke rules!!!"
 "Yuki RULES!"
 以上、You Tube で見かけた用例です。多分ホメてるんでしょうが、いったいどういう意味なんでしょう。英英辞書まで渉猟してみましたが「統治する」ぐらいしか載ってません。スラング? まさか「地上を統治する」みたいなホメ言葉? どなたか、お分かりになる方おられませんか。

◆タロット占い

 一年半ぐらい前から(そろそろ二年になりますかね)、よくタロット占いをしてあげている女の子がいます。いわゆる「メル友」なんでしょうねえ。一時は毎日のように占っていたこともありました。お陰さまで、テクストブックもだいぶん使いこみ、占いのウデはかなりあがったかと思います。ひところ、占いに対して不信感があり、カードを切るのも辛かったことがあったのですが、さいきん、前にも申しました通り「魔術の現代的意義」の研究に目覚め、タロットカードも自分の中で再評価できるようになりました。すると的中するんです。当たり前ですね、的中するように占ってるのに、的中しなくてどうするんだ。これは魔術師としての自覚であり自信です。それにしても、今さらながら、京極夏彦って凄い人だと思います。あの人の、呪術に対する卓抜した視点は、もっと学術的に捉えなおされてしかるべきでしょうに。「式を打つ」という日本語以上に、魔術を端的に示した表現がありうるでしょうか?

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2007年5月20日 (日)

雑記;2007/05/20

Azami ◆読書記録

 このごろ読んだ本は、次の通り。
『劫尽童女』恩田陸/『永すぎた春』三島由紀夫/『蒲生邸事件』宮部みゆき/『村野四郎詩集』白鳳社/『吉田一穂詩集』岩波文庫/など
 現在読みかけている本の内、読む頻度の高い本(積読が多すぎて、頻度でしか事態を語れません)は次の通り。
『マルテの手記』リルケ/『日本文化史』家永三郎/『寺山修司幻想劇集』平凡社/『天才の心理学』クレッチュマー/『孤独な散歩者の夢想』ルソー/『孤独の世界』島崎敏樹/『あなたが、いなかった、あなた』平野啓一郎/など
 ペースが大幅にダウンしております。事情があって、いろいろ忙しいのです。

◆音楽

 このところ YUKI にはまっており、『joy』『WAVE』『PRISMIC』と、アルバムをあいついで購入しました。もとはと言うと、何年か前にエフエム802で『長い夢』がよく流されており、当時は暇つぶしにラジオをかけていただけだったので、なんとも思わなかったのですが、数ヶ月前、急に『長い夢』が聴きたくなってきたわけです。爾来、朝のコーヒーと YUKI なしでは生きていけなくなりました。
 クラシック方面では、リストの『超絶技巧練習曲集』CDを購入。クラシックは右も左も分からないのですが、たまにCDを買ってみることにしています。超絶技巧はイマイチだったかな……。

◆雑感(上からの続き)

 それにしても、音楽ってふしぎなものですね。音楽家が自由に旋律を楽しめるように、小説家も自由に文体を楽しめるようになったらよいのですが。音楽家が旋律で遊ぶことを認めてくれても、世間はなかなか小説家が文体で遊ぶことを認めようとはしないものです。文体を楽しまずして、いったいどうやって小説を楽しむというんでしょうかね。みなさん、芥川龍之介の小説を現代若者言葉に翻訳してあったら、読みたいと思われますか? それはそれで、ネタ的な意味で読みたい気はしないでもないですが。
 あと、情報媒体(CDとかね)を主軸とする現代的な音楽文化は「聴き込み」という作業を不可分な一部として鑑賞行為の中に組みこんでいるのが、おもしろいですね。同じ音楽を、二度、三度、くりかえして味わう。J-POP だったら、十回目ぐらいが、なんというか脂が乗ってくる感じで、もっとも大きな感動を与えてくれます。これ、小説だとありえないでしょ。小説って、鑑賞者がたいへんな労力を浪費してしまいますから、同じ小説はせいぜい二回、多くても三回ぐらいしか読まれません。ぼくが十回でも読みたいような小説なんて、まあ『デミアン』ぐらいかな。なにしろ手軽なんですね、音楽は。明治・大正時代の小説を苦労して読んで、どうにかこうにかいざなわれる「ああ、これが文学だ!」ってな感動を、バッハは再生ボタンひとつで与えてくれます(いわゆるゴージャスな気分?)。

◆日記

 本年二月二十一日から日記をつけだしました。かなり長続きしております。過去のことは、すぐに忘れていってしまいますから。過去をもてあそぶのが好きなぼくにとって、将来、なによりのオモチャになってくれそうです。ただ、悪いけど死後出版だけはされたくないなあ。ぼくの書くものはなんでも作品だからといって、そんなにうまく日記なんて書けないよ。

◆アザミ文字(上からの続き)

 で、たまに暗号で日記を書いてみたりしています。アルファベットを置き換えただけの暗号文字で『アザミ文字』という名前をつけているんですが、現物は写真をごらんください。ローマ字方式で綴るわけですね。大文字と小文字があり、自分で作っときながら小文字は自分でも覚えられません。
 どうして『アザミ文字』という名前なのかというと、その昔、ぼくが政治結社;アザミクラブを自分で勝手に名乗っていたころ、秘密通信をするための暗号が必要だということで、ぼくが開発したものだからです。ところが、アザミクラブは、現在ではほとんど潰れたも同然で、この暗号も機密情報でもなんでもなくなってしまったので、こうやってインターネットに写真を載せたりできるわけなのです。これでも、同じ文字が二つあったり、ジャミング記号がまざっていたりと、けっこう解読者を攪乱するような仕様になっているんですよ。
 現在、アザミ文字を使う利点はほとんどありません。唯一、人前で恥ずかしいメモをとることができる、これだけ。誰も通信する人がいなくて、おもしろくありません。誰か、アザミ文字を覚えてくださる人はいませんかー。

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2007年4月26日 (木)

魔術師;世界をデザインする職業

 魔術の現代的意義にかんするメモ。
 現段階では草稿。
 魔術の理論化;実地の検証;ゆくゆくは小説化。



 魔法(magic, witchcraft)の「法」とは rule, law であり、それはすなわち spell である。

 spell→綴り/呪文、魔力。

 魔法とは、世界を綴り変える(spell する)能力。

 世界が美しくない理由;不統一/無秩序(khaos)
 →これを見えない「法」により再びデザインする(美化)ことが魔法である(kosmos)

 見えないルール(Ex.五行説)
 ルールにしたがうことにより、儀式、あるいは呪文が意味を有するようになる。

 呪文の意義:spell に対して自己を適応させる。
 神聖な空間に対する自己の神聖化。

 魔術師=デザインする者=綴る者(speller)。

 魔力とは、ひとつにデザインする能力のことであり、またひとつには精神力のことである。
 魔法は、その使用者の魔力に依存して効果を発揮する。

 魔法を作るには spell を作るだけの能力が必須。
 spell の、自然からの読解法(哲学とのかかわり)。

 われわれは、誰でも魔法を使えるだけの潜在能力を持っている。しかし実際に魔法を使うのは、ほんのわずかの人間にとどまる。本人がどれくらい魔力を有しているかということ。

 魔術の現代的意義。
 よく魔術を用いうる者こそが現代を制する。
 現代→法の不在。あらたなる法は不在者のために。
 自分で魔法を作り出せる者だけが、現代を生き抜くことができる。

 世界をデザインせよ!

 There is no law beyond Do what thou wilt.
 この言葉が新時代を顕彰する。



 ※また変なことを言い出した、こんどこそ気が狂ったか、などと思わないように。いちおう冷静です、かつ本気です。前から西洋魔術の勉強中って言ってるじゃないですかー。魔法は決して非科学的なものではありません。現代のためにこそ、魔術は要請されます。魔術師(speller)になりましょう。

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2007年2月 9日 (金)

「いのり」の言葉

……この言葉は、もはや特定の意味内実を失いつつ、聴き届けられるか否かすら定かでないままに差し出される「挨拶」の言葉に似てはいないか。そしてそれが挨拶であるならば、私はすでにその挨拶の宛て先に「触れ/られ」てしまっているのだ。その宛て先ともはや無関係ではありえないにもかかわらず、それへと向けて差し出される言葉がはたして聴き届けられるか否か定かでないような言葉、それは死者たちに捧げる「弔い」の言葉に似てはいないか。もはや「ありえないもの」(存在ですらないもの)に向けて差し出される「祈り」の言葉に似てはいないか。そのような言葉を語り出すこと、それが「愛する」ということではないのか。
→『シリーズ・哲学のエッセンス/デカルト』斎藤慶典/NHK出版

 このひとくだりが、このごろ、ぼくのあたまの中を行ったりきたりしている。ここに言われていることは、懐疑の涯にデカルトが辿りついた(無自覚なままの)境地を示しているが、実際あらゆる意味で<他者>は「いのられる」しかない存在であるとぼくには感じられる。独我論なんていうことを、昔はふりまわしていた。永井均のおっしゃるところには、独我論においてもはや「独」の意味は理解されえない。独我論が理解されるためには<他者>の存在が要請されるのである、と。この論旨は、分かるような分からないような気がするのだけれども、むしろぼくには<他者>が「存在する」ということの意味がよくのみこめない。普通の人は<他者>が存在することを信じているのだと言うけれども、いったいかれらがなにを信じているのやら(冗談で言うのではない)本気で理解できないのである。このごろ、ちょっとじぶんの哲学が存在論にかたむき始めていらい、まったくわけが分からなくなってしまった。<他者>が存在するというのが、どういうことなのか、誰かに説明してもらいたいぐらいである。ぼくには、どうしても<他者>に「存在する」という述語をくっつけることができない。<他者>はただ「いのられる」ためだけのものだ。言うなれば、それは<わたし>のベクトルのむきを示すためだけのものなのである。ベクトルは無へと差し出されている。なにかを予感しているのですらない。無の中に予感できるものなど「在る」わけがない。<他者>はひたすらに「いのられる」。さて、およそ「いのり」の言葉、つまり呪文というものには形式がそなわっておらねばならない。ある形式にのっとるということが、呪詛を呪詛として機能させる。ぼくにとっては、その形式こそが「小説」なのではないだろうか。

 こうおもってみると、じぶんと「小説」とのかかわりが、いくらかハッキリしてきたように感じられる。ぼくの、ものを書くうえでの悩みのひとつは、どうしてこれだけ独りよがりな小説を書いておきながら、それを<他者>に読んでもらいたがるのか、ということだった。書くことでじぶんが充たされているのなら、誰かに読んでもらう必要なんかないではないか。書きためておいて、じぶんだけで読んでおればよい。それなのに、ぼくは無性に<他者>を求めている。この理由が分からなかった。人に読んでもらうこと、人からほめられることは心好い。しかしながら、あくまでぼくは、ただ書かざるをえないから書いているまでなのである。それならば、これはいったいどういうことか?

 こたえは、こういうことだとおもわれる。「小説」という形式は、ぼくにとって<他者>への呪文の形式である。書かれたものこそが、ぼくにとっての<じぶん>であり、ぼくの生きるリズムである。このリズム(=文体)を呪文という形式で組織することこそが小説なのである。ぼくにとって、実に<他者>とは<じぶん>のことであり、そして<じぶん>とは<他者>のことなのだ。ぼくにとっての<じぶん>は、常に喪われている。喪われた<じぶん>への呪文は、そのまま存在しない<他者>への呪文となる(ナルシシズム)。けっきょく、どんどんと<じぶん>の中に沈みこみ、どんどんと独りよがりになりつつも、それを文体(いのりの形式)において組織し、ついに<他者>へと弓がしぼられることになる。「独りよがり」かつ「<他者>を求める」というのは、自己撞着ではないのだ。むしろ、それはまったく同じことなのである。

 おもいかえしてみると、あるひとりの人のために、ぼくは小説を書き始めたようなものだった。<じぶん>=<他者>であり、しかも「もはやそれが喪われている」ぼくにとって、人への慕情は常にナルシシズムという形をとる。対象が喪われていなければ、それを求める必要はないのだ。だから、対象が喪われている時だけナルシシズムは成立する。実際、その人への感情がよわまってから、一時期、ぼくは小説のうえでじぶんのなすべきことを見うしなった。『化物』における用語で述べてみるなら、これはぼくの「人でなし期」から「化物期」への遷移である。「化物期」は乗りこえられざるをえない(乗りこえなければ生きてゆくことができない)。乗りこえたのちには、再びナルシシズムが始まるのであるが、このナルシシズムははじめのナルシシズムとは違うものである。すなわち、ナルシシズム1期(人でなし期)は化物期を経てナルシシズム2期へと移りかわってゆく。

 ナルシシズム1期は、喪失への端的な哀しみによって始まる。ぼくは「死への恐怖」ということをよく言うが、もしかすると中島義道からのうけうりだとおもっている人がおられるかもしれない。が、だんじてそんなことはない。真実はもちろんさかさまで、じぶんに「死への恐怖」の明確な経験があるからこそ、中島義道への傾倒が始まったのである。<じぶん>がいつか喪われること、今この時にも「過去」が喪われていること、これこそが喪失の原風景である。この哀しみは、ナルシシズムへの衝迫となる。<じぶん>を含めた世界全体へ(それがもはや喪われているにもかかわらず)恋をする。あるいは「その人」がもはや喪われていること(むしろ「喪われていなければならない」という強迫観念なのだが)へ恋をする。<恋人>=<他者>=<じぶん>であるから、けっきょく<じぶん>への恋(ナルシシズム)が組織されることになる。こうして「人でなしの恋」が完成する。

 ところが、ナルシシズム1期は崩壊を余儀なくされる。というのも、ある意味では「その人」を中心にして組織されていたナルシシズムが、ぼくの感情がうすまったことにより、もはや機能しなくなるからだ。「その人」に関連づけて理解されていた自己の全存在が存在意義(レゾンデートル)を喪う。ここから精神の彷徨が始まるが、この過渡期をぼくは「化物期」とよんでいる。もはや生きる意味は見出されなくなった。

 そして、ナルシシズム2期に入るのだ。これは「人でなしの恋」ではなくて、むしろ「人でなしへの恋」である。もはや人でなしではない自己が、人でなしだった過去の自己を求めてナルシシズムを製作する。<じぶん>(の存在意義)が喪われたことによる<じぶん>=<他者>へのナルシシズム。もはや喪失を体験できなくなった自己が、喪失体験(生きる意味)が喪失されたこと自体においてナルシシズムを成立させるのである。これはナルシシズムへのナルシシズムという屈折した感情であり、たとえて言うなら「自己への郷愁」なのだ。ナルシシズム2を通してナルシシズム1が導かれるので、全体としてナルシシズムの壮大な建築が営まれることになる。今のところ、ぼくはこの建築に棲んでいることになろう。

 はじめ、ぼくは<他者>(慕う人)が喪われることを<自己>へのナルシシズム1として作りかえた。その次に、ぼくは<自己>が喪われることを<他者>へのナルシシズム2として成立させたのである。めぐりめぐって、ナルシシズムが<他者>(としての<自己>)を求めるようになった。ここに「いのり」の形式が再びよみがえり、ぼくは呪文としての「小説」を再び組織できるようになった。<他者>を求めるものとしての小説が、ぼくの中に生まれたのである。この文学においては、<他者>=<自己>であることは自明の前提として組み込まれている。

 以上、ぼくのナルシスティックな「文学史」を自己分析してみた。これは『化物』への自己解説でもある。こうやって書きつらねてみることは、感情を整理してくれるし、自己理解への促進になる。

 なお、敬語と文体にかんする、似たような見地からの分析を、近日中に執筆する(かもしれない)。

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