2009年10月 6日 (火)

不完全性定理の雑記

 ゲーデルの不完全性定理の入門書である、前原昭二『数学基礎論入門』を読了したので、なんとか読めるだろうと思って、ゲーデルの原論文(岩波文庫『不完全性定理』)に手を出している。この本、紙幅の殆んどが解説で占められているという凄い本。しかも数学的解説ではなく歴史的解説なので、本文を読むのには何の役にも立たないというオマケつき。
 しかし、さすがは時代がかった数学論文。読みにくいことこのうえない。50ページほどしかない本文の、すでに15ページほど読み進めているというのに、いまだ無限の崖の前で立ち尽くしているような、この絶望的な気分といったらどうだろう!

 ついでながら誤植発見。p.29 の上から 15 行め。

【正】ψ(\X, \V)=εx[x≦φ(\X) & R(x, \V)]
【誤】ψ(\X, \V)=εx[x≦φ(\X) & R(\X, \V)]
※但し、ドイツ文字は X→\X、V→\V としている。

 英訳でも確認してみたので、多分間違いないと思う。
 http://www.research.ibm.com/people/h/hirzel/papers/canon00-goedel.pdf

 というか、直前の二式からも明らかであるし、そうでなかったら式の意味が通らなくなる。とはいえ、そんなことは理解してから言えることであって、こんなくだらない誤植に一日悩まされてしまったぼくとしては、絶望感に拍車をかけないでくださいと言いたい。
 今月25日の京都哲学道場までに、レジュメを作らないといけないのだけど。それまでに読めるだろうか。読めたとして、なにをどう纏めたらいいのだろうか。とりあえず、定理解説篇と哲学篇とにでも分けて、それぞれ作業を進めてゆくしかないかも知れない。

 ああ、この鬱憤は、ゲーデル的脱構築とかほざいてる哲学徒どもを完膚なきまでに批判することで晴らすことにしましょうかw

【2009/11/6 追記】 訳者サイトに訂正があるのを発見。
http://www.shayashi.jp/vitae-jp.html#iwanamibunkocorrections

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2009年9月28日 (月)

雑記 20090927

 よく考えてみたら ilp-project.net のドメインと容量 1.2GB のウェブスペースを所有しているにもかかわらず、全然使ってないや。というわけで、当面せめてもオンラインストレージとして利用することにします。

 土曜日は深草君と数学研究会でした。とりあえず、過去2回分のレジュメをアップ。

◆第1回京都数学研究会レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/kms001.pdf

◆第2回京都数学研究会レジュメ:
http://www.ilp-project.net/storage/kms002.pdf

 殆んどの方には何の有用性もないようなことしか書いてないので、アップする意味があるのかどうか分かりませんが……。

 それと折角だから、花映塚のリプレイファイルでもアップしてみよう。

◆LunaticCOM にきわどく競り勝ったの:
http://www.ilp-project.net/storage/th09rep.zip
【内容】霊夢vs幽花、霊夢vsてゐ、魔理沙vs幽花、霊夢vs小町、霊夢vsメルラン

 なんてか、大変残念な感じの詰め合わせになっております。まだ見られる動きになっているのは、……小町戦ぐらい?(いやそれも充分ひどいが)。メルラン戦はあまりにひどかったので、さっき撮りなおしました(それでもまだまだひどいが)。

    ○

 あと、Mitaka 凄いです。やたらに重いけど。
 http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/

 今年は世界天文年らしいですね。

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2009年9月24日 (木)

全歌論は全歌論にあらず

 『寺山修司全歌論集』(沖積舎)を所有しているが、寺山歌論の最重要論文である筈の「短歌における私性の問題」(★)が収録されていない。せっかく読めると思って購入したのに、なかったものだから、とてもがっくり来た。つい先日、『寺山修司短歌論集』(国文社)が出版されたので、こちらもチェックしてみたのだが、やはり収録されていない。おかしいなあと思っていた。
 ところが、ふとしたことから知ったのだが、寺山の評論集『遊撃とその誇り』(三一書房)に、ちゃあんと収録されているのである。とりあえず、どの本を購入すれば読めるのか分かったので、文句はないのだが、それにしても、どうしてこんな変なことになっているのだか。版権の関係であろうか。

(★)精確なタイトルは失念。資料が手許にないのでうろ覚えだが、たしか前衛短歌論争として有名な三論争の内で、寺山修司‐嶋岡晨の「様式論争」の立役者を演じた論文だった筈。

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2009年8月16日 (日)

雑記 20090816

 オフラインでの活動情報、二点。

 まず、すでに何度か告知していますが、松平耕一氏の『新文学』02号のこと。本日(8月16日)のコミックマーケットで販売される予定とのことです。ぼくの手許にも近い内に届きます。A5版、180ページ、700円だそうです。みなさん、ふるってご購入くださいませ。
 特集「ゼロ年代の六十八選――二十一世紀文学史へ」に対して、ぼくは【哲学】をテーマに「哲学と批評のディア=ロゴス」(6865文字)という文章を寄稿させていただいております。小説とかライト短歌とかも入って、なかなかヴァラエティーゆたかな誌面構成になっているようですよ。
 当日会場に行けない方のために、ネット通販もなさるということです。現在もご予約承り中だそうです。下記のリンクからどうぞ。
 なにはともあれ、松平さま、大変お疲れさまでありました。

◆松平氏のブログの告知ページ
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html
◆文芸空間社購買部
http://matudairayamame.cart.fc2.com/

 それから、マイミクの高田ひとし氏が、演劇情報フリーペーパー『とまる。』というものを発行されていらっしゃるのですが、その2009年夏号(現在、京都各地で配布中)に、『シリーズ:ハムレットマシーンvol.2/儀式』に対する推薦コメントを書かせていただいております。タイトルは「ぼくが目撃したハムレットマシーン」。330字ちょっとの短文で、内容は前回公演である『シリーズ:ハムレットマシーンvol.1/告別』を観劇した感想ということになります。まだ配布されていらっしゃると思いますので、見かけたら手にとっていただければと思います。
 『シリーズ:ハムレットマシーンvol.2/儀式』は、8月21日から23日にかけての公演ということで、構成・演出を高田さんが手がけておられます。ぼくも観劇しに行く予定です。会場は「アトリエ劇研」というところだということです。詳細情報は、下記リンクから tabula=rasa の公式サイトを参照してください。

◆『とまる。』の情報
http://tomarumaru.web.fc2.com/about.html
◆tabula=rasa 公式サイト
http://tabula-rasa.jp/

 個人的な感想ですが、最近、自分からお金を払わなくても文章を書ける機会にめぐまれることが多く、とてもうれしいです。

    ○

 たまには「教えて!goo」で質問してみたりだとか。
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5208507.html

 ちなみに、なにを考えていたかというと、平方数のことを四角数とも言いますよね。これは、点を正方形にならべると個数が平方数になっているので、そう呼ぶのですが、これを次元方向に拡張して、立方数、正八胞体数などを考え、その一般化としてのn次元γ体数を作って、その増え方の規則性を考えていたのでした。

    ○

 現在、めずらしく小説など書いています。原稿用紙換算で34枚まで書けていて、これで六割方といったところ。二年半前から構想していた短篇で、新版を書きはじめてからもすでに四か月経ってます。まことにのろのろと書き進めています。最初から書きなおした回数も数え切れません。どうしてこう、一文一文に時間がかかるのか分かりません。どう書いてみても、自分が理想とする文体には程遠い気がして、今日書いた文章を明日には破棄してしまうので、全然話が進まないのです。とても疲れた。でもまあ、ここまでこの調子でなんとかやってきたのだから、やれるだけやってみようと思います。
 こんなんじゃ、長篇なんか、とても無理ですね。文章の作り方からして、本質的に、ぼくは短篇しか書けないんじゃないかとも思います。

 短篇ということで、梶井基次郎。新潮文庫の『檸檬』を読んだのが五年前のことで、このほど再読しています。再読していて、とても驚いたのは、自分でもまったく気がつかなかったのですが、ぼくが梶井の文体からかなりの影響を受けていたということ。よくよく考えてみると、『檸檬』を読んだ中学三年のころ、ぼくは来る日も来る日も文体修練にあけくれていて、とにかく読んだあらゆる文章から技術を盗もうとしていたのですね。だから、小説のストーリーはちっとも覚えていないのに、漢字の使い方とか、文章のリズムとかが、自分がこれまで書いてきた文章とそっくりで、びっくりしました。特に顕著なのは『ある心の風景』や『Kの昇天』などで、『Kの昇天』を読み出して、この文章はぼくが書いたんじゃないだろうかと思えて仕方がない。ここまで文体というものが読んだ作家から受け継がれるものだとは思ってもみなかった。一度しか読んでいない文章を、ここまで脳細胞の襞が記憶しているものだとは……。

 丸善京都店の閉店が2005年10月10日で、『檸檬』の作中に出てくる果物屋「八百卯」も、今年に入って閉店しました。ぼくが初めて紙媒体に書いた小説は、某学文藝同好会会誌『漣』十一号に掲載した『パンプキン・パイの応酬』で、2005年の発行。当時、お世話になっていたF先生から「お前の小説は、梶井みたいな観念小説になってきたな」と評されたのを覚えています。『檸檬』はいろいろと、思い出ぶかい一冊です。

 初心に帰り、文体修練を続けてゆきたいと思います。ぼくにとって小説を書くとは、文体修練をすることであって、ストーリーを作ることではないのです。

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2009年7月15日 (水)

雑記 20090715

 野口廣『トポロジー 基礎と方法』(ちくま学芸文庫)を読書中。こないだ数学の夢を見たのも、多分この本のせいだろう。ここのところ二週間、この本にかかずらっていて、ほかの本が読めないでいる。ようやく半分ほど読めたが、基礎から解説してくれている叮嚀な本なので、前準備にかなり紙幅を割いていて、いまだ「ドーナツの穴がいくつ」だとか「クラインの壺」とかの話は出てこない。とりあえず位相空間のお手軽クッキング法(開集合族を作るだけ)とか、ユークリッド空間はハウスドルフ空間であるとか、そういうことは分かった。
 これが終ったら、教科書らしきものに見当をつけてきたので、ちょっと数学基礎論の勉強をしてみてもいいかなと思っている。

 まあ、あれだね。こう、なんでもかんでも手をつけては抛っぽらかす性格だけは、どうにもならないんだけど。
 もういちど人生をやりなおせるのなら、数学者になりたかったな……、って、ときどきフッと思うのです。

    ○

 コンピュータの調子が悪い。スタンバイ状態から復帰しようとすると、すぐに再起動してしまう。ときどきオプションで、再起動もできなくなったり、一切の入力を受けつけなくなったり、変なエラー画面が出たりする。
 こないだは、いきなりディスプレイが四分割されてしまい、右上の部品が左下にスライド、左上の部品が右下にスライド(つまり上下と左右が入れ換わっている)という、まことに珍奇で意味不明な現象が発生した。カーソルも、右端から左端、上辺から下辺へとワープする。操作は平常通りに可能。あまりに意表をつく現象だったので、「うちのディスプレイはトーラス曲面だったのか!」とか言って、ひとりで爆笑していた。むろん再起動したら元にもどった。
 七年前には最新型だったコンピュータも、いまではすっかりガタガタである。

    ○

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を、こないだ哲学道場の帰りに観てきた。手近なところに深草君が転がっていたので、彼と一緒に。
 なんというか、とにかく凄い。凄かった。なにかしら異常な映像を見せられている感じで、息を飲んで見入ることしかできなかった。これは間違いなく観るべきである。
 作画のことや技術的なことは全く分からないので、凄かったとしか評しようがない。基本的には、あらゆる作品をベタに鑑賞することにしているぼくとしては、もちろんテレヴィ版を再びやりなおすかのように作りこまれたストーリーに、一番興味を惹かれた。
 個人的に気になった点としては、使途の襲来の通過儀礼(イニシエーション)性が強調されていたこと。使途の襲来は死海文書に書かれているわけだから、当然予定されていることではあるのだが、本作では、使途を倒すごとに虹が出る(虹は、死海文書の預言が成就したことを意味するのだろう。使途の配色がレインボー・カラーになっていたりするのも、その意味を強調しているのだと思われる)とか、シンジの手の聖痕(スティグマ)を第8使途がつける(旧映画版では第26話『まごころを、君に』でつけられたもの)とかの変更が、使途の襲来をいっそう通過儀礼的に演出しているように思われる。
 あと、真希波・マリ・イラストリアスね。あのキャラクターの役割は、ストーリー補正用の形代人形なんじゃないか、と、ちょっと感じた。ただ、そうであるなら、3号機に乗るべきだったのは彼女だった筈だしねえ。
 テレヴィ版‐旧映画版のストーリーは、ゲンドウの補完計画→ゼーレの補完計画→シンジの(?)補完計画と進行するわけだけども、こうやってながめてくると、今作ではカヲルの(?)補完計画が達成されるのではなかろうか、と期待してみる。

 そんなことを言ってる内に、『涼宮ハルヒの憂鬱』あらためて放送版(実質は新作を織りまぜての再放送)が、えらいことになっている。なんと四週連続『エンドレスエイト』でループ、しかもまだ終らない。ちょっと、コレ、アニメ史に残るんじゃないの? 来週終るのかどうか知らないけど、五週連続で殆んど全く変わらないストーリーをえんえん放送し続けるって、京アニ、なに考えてるんだ。しかも『エンドレスエイト』って原作なら短篇じゃないですか……。

 京 ア ニ は じ ま っ た な w

 とか書くべきなんだろうか。それにしても、みんなループ物がお好きですねえ。

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2009年7月12日 (日)

本日の夢 20090712

 こんな夢を見た。

 アマチュア数学者、S.T. が発見したという L 群についての解説書を読んでいる。
 ページには、ペアノ曲線みたいな巡回曲線が x-y 平面を充たしている図版がいくつも掲載されており、しかも y が大きくなるにつれてだんだんと角がとれ、10<y ぐらいになってくると、角は全然なくなって、平面を小円の集まりに近い曲線が埋め尽くしていたりする。L 群は、少なくとも三種類のパラメータ(x, y, z)から構成される函数によって表現され、これらの図版は L 群のふるまいを、特定の x-y 平面に対して射影したものであるようだ。z=7 や z=15 など、z が自然数の場合についての図版が掲載されている。
 L 群の発見は、数学界に激震をもたらした。L 群のふるまいは、これまで知られていたどんな函数のふるまいとも似ても似つかず、その奇怪な性質が解明されてゆくにつれ、ますます L 群は謎めいた存在となっていった。発見者である S.T. は、専門的な数学教育を受けたことのないアマチュアであって、彼は自作のヴィデオ・レターを日本数学会に送りつけ、L 群の存在を発表したのだった。ヴィデオ・レターは彼が撮影した星空の映像から始まっており、終り近くでは「小学生だったころの将来の夢」なども熱く語られていて、およそ数学の研究を発表するヴィデオだとはとても思えない作りになっていた。
 第一のヴィデオが送られてきた6月23日の時点において、S.T. はすでに、のちのち数学界をさらなる衝撃の渦に叩きこむことになる彼独自の解析手法「ヲサゴト(修事)」を開発していたと思われる。「ヲサゴト」による L 群の解析は、殆んど畏怖といってもよいほどの戦慄を世界中の数学者たちに与え、ただならぬ事件が数学界に出来したことを全世界の人々に知らしめた。その手法は、明らかに異常な、途轍もないものであって、その破壊力は計り知れなかった。S.T. は、9月13日と11月7日にも第二、第三のヴィデオ・レターを送りつけており、そこでも L 群についての追加研究を発表していたが、「ヲサゴト」については、依然として秘められたままであった。S.T. のなかに、その想像を絶する解析手法を公表することで、世間に招来される恐怖と混乱との甚大さに対する躊躇が、あったのかどうか、分からない。いずれにしても、この年、ついに S.T. が「ヲサゴト」の存在を公表することはなかったのである……。
 第四のヴィデオ・レターが送られてきたのは、年が明けてからのことだった。

      ×      ×      ×

 S.T. には、夢のなかでは、高木曲線などで有名な数学者の高木貞治(たかぎ・ていじ)の名前が当てはめられていた。名前を誤って「さだはる」だと思っていたので、イニシャルは S になる。しかも、「治」の字が、夢のなかでは「春」になっていた。
 根本的な話として、「群」なのに「函数」扱いになっている理由が分からない。まあ「群」そのものをよく知らないんだけど。
 おそらく、L 群というのは無限個の変数をとる無限次元空間の函数かなにかで、射影する平面の取り方によって、いろんなフラクタル曲線が現れたりするんだと思うよ。でもって、夢のオチとしては、その「ヲサゴト」とかいう解析手法で解析してやると、その結果にテトラグラマトン(神名 I‐H‐V‐H)とかの刻印が現れたりするんだと思う。

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2009年6月19日 (金)

雑記 20090619

 松平耕一氏の『新文学』2号のこと、再度告知しておきます。

 ゼロ年代を代表するコンテンツ・アーキテクチャの特集に対して、ぼくは哲学をテーマに「哲学と批評のディア=ロゴス」(6865文字)という文章を寄稿いたしております。まあ、あまり哲学的にどうこう、といった文章ではないです。発行は、コミケに間に合うか間に合わないかぐらいであるとか。

 で。明日土曜日(6月20日)14時ごろより、公開企画会議・座談会ustをおやりになるそうです。ぼくも、とりあえず拝見はさせていただこうと思っております。お暇な方は、視聴されてみてはいかがでしょうか。

【松平氏の日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1196729166&owner_id=4275826

    ○

 当分「β」の外されそうもない書評ブログ「反批評的考察」ですが。16冊分書評してみて、ようやく気がついた。とてもではないが、アフィリブログとしては役立ちそうにない。それというのは、ぼくの読んでいる本のヴァリエーションがひどいものであって、

『異体字の世界』小池和夫/『哲学がはじまるとき』斎藤慶典/『思想地図 vol.2』東浩紀ほか/『砂の女』安部公房/『ジョン・レノン対火星人』高橋源一郎/『永遠の出口』森絵都/『パルタイ』倉橋由美子/『世界制作の方法』ネルソン・グッドマン/『差別感情の哲学』中島義道/『〈魂〉に対する態度』永井均/『塚本邦雄歌集』塚本邦雄/『ペラギウス派駁論集(1)』アウグスティヌス/『二十歳の原点[新装版]』高野悦子/『射影幾何学入門』丹羽敏雄/『天族ただいま話し中』稲垣足穂/『超速!最新日本文化史の流れ』竹内睦泰

 なんというか、まずジャンルがバラバラで、ターゲットがまったく分からない。しかも、売れそうにない本が多い。どマイナー。断言できるが、アウグスティヌス著作集からやってきて、本を購入してゆくユーザーなんてひとりもいないだろう。なんというか、ぼくと似たような読書傾向の人というのが、想像つかない。これはひどい。誰得ブログである。
 まあ、やる気が続くだけ続けて、やる気がうせたら即座に削除しておしまいにすることになるだろう。幸か不幸か、書評すること自体は殆んど苦にならない。自分でも気づかなかったことに気づけたりするのが、やってゆくうえで唯一の利点である。
 そういや、一冊だけボロクソに批評してしまった中島義道『差別感情の哲学』であるが、あれが 2ch 中島スレにさらされていたようで、大量のアクセスを稼ぐことができた。なるほど、なんでもいいから新刊を購入してきて、人目を惹く批評をすりゃアいいのか。

    ○

 世界に対する唯一にして無二の〈正当〉な怒りとは、世界に自分が生まれてきたことそのことに対する怒りである。あらゆる怒りは、この水準において怒られるとき、またそのときにのみ、まったく〈正当〉な怒りでありうる。不当に対する怒りというものは、もしその不当が正当であったとしたならぼくは怒らなくて済むわけだから、しょせんたいした怒りではない。本当の怒りというのは、相手が不当でない場合、それどころか自分の方が不当である場合においてこそ、ふつふつとわきあがってくる感情である。自分の方が不当であるのだから、怒りの〈正当性〉をその水準(法律ないしは道徳の水準)で担保することはできない。あらゆる怒りを〈正当化〉する、唯一にして無二の〈不当〉とは、世界に自分が生まれてきたという〈不当〉、そして(中島義道風に表現すれば)生まれてきたその瞬間から死刑宣告を受けているという(自分もいつかは死ぬのだ)、この目も眩むほど絶大な〈不当〉なのである。この〈不当〉は、どのような怒りによってもあがなえないほど絶大であるので、あらゆる怒りは、この〈不当〉に対しては〈正当〉なものということになる。子供は、だから泣くのである。相手が悪くても、自分が悪くても、そんなことにはおかまいなしに、子供は泣くのである。
 こんな〈不当〉をまえに、あらゆる怒りが〈正当化〉されたところで、いったいどうすればいいというのだろうか。土浦の犯人のように、不当でしかありえないほど(それゆえ、このうえもなく〈正当〉な)犯罪でも犯すか、さもなくば、世界に対して、あまりにも無謀であまりにも滑稽な戦いを挑んでみるしかないだろう。ぼくは、〈正当〉にも、生きて、なにごとかを行為している。
(もちろん、土浦の犯人のやったことは、あらゆる意味で不当な行為でしかない。それがぼくにとって〈正当〉な行為でありうる状況は、どんな場合でも考えることができないから)

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2009年6月13日 (土)

ハムレットマシーン

 マイミクの高田ひとしさんが構成・演出をされたということで、ハイナー・ミュラー作『ハムレットマシーン』を、10日、立命館大学学生会館小ホールで観劇してきました。演劇といったら、テラヤマのアレンジをおととしの年末に観ましたが、それが最後。なかなかない機会で、新鮮な経験をすることができました。舞台そのものも、演劇的な細部に対する批評眼はありませんが、面白かった。ちょっとだけ、しろうと感想。
 まず、ぼくはハイナー・ミュラーも『ハムレットマシーン』も寡聞にして存じませんでしたが、かなり著名な作者と作品とであるらしい。パンフレットをみると、「『上演不可能』と言われるほど、戯曲の体を成していない」とあるので、逆にそれが上演可能になっているということは、おそらく構成・演出の点でおおいに解釈が入っていて、そこがポイントなんだろうと思います。
 で、はじめから、舞台の使い方、というか観客と女優(登場人物はオフィーリアが三人)との位置関係が面白くて、それは仕掛けに類することなので、それはよいのですが。断片とノイズだけで構成されている劇にもかかわらず、物語の流れはそれほど分かりにくくはなかったです。一番はじめに海の底(ないしは子宮)のようなイメージからはじまり、そこから「言葉」が立ちあがってきて、だんだん世界が構成されてゆく。そして、世界が自分を孕んでしまったことへの不安、自分が世界を孕んでしまったことのグロテスクさ、みたいなものがノイズのなかで表現されてゆく。この部分が、一番感覚的に迫ってくる感じがありました。そこから、「女たちのヨーロッパ」(だっけ?)の政治と性の狂躁のイメージに繋がってゆく流れは、むしろ分かりやすすぎる気さえするくらい。そして、終幕が宣言される。
 ここからあとの流れが、観劇中は消化不良というか、よく分からない感じでした。すべてが終わった舞台の上で、「言葉」が再び解体してゆき、最終的に海の底のような冒頭のイメージに繋げられて終わる。これが、『ハムレットマシーン』という、ノイズと狂乱と絶望の劇の終わり方としては、少し静かすぎるというか、まとまりすぎている感じがしたのです。むしろ途中の終幕宣言のところで放り出したまま本当に終わっていた方が、しっくりくるような気がした。
 それで、あとで高田さんと少しお話することができたので、お伺いしてみたのですが、「なにも無かったことにしたい」ということをおっしゃっておられて、なるほどなあと思いました。「まとまりすぎている」というよりは、端的に「無」の表現だったわけですね。これで、なんとなく分かったような気になったのですが、やっぱり分かってないのかもしれない。でも、とにかく終わらせ方に「意図」というか「決心」というか、そんなものが感じられて、素敵でした。
 明日13日まで演っておられるようなので、興味のある方は観に行かれてはいかがでしょうか。

【公演詳細】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1184953165&owner_id=6323679

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2009年6月10日 (水)

雑記 20090609

 先だって深草君も日記に書いていたが、マイミクの大学生、ARUKOBU君が自殺した。先月のこと、硫化水素自殺だった。日記で自殺をほのめかしていて、深草君はジョークかどうか分からず反応にこまると言っていたけども、まあこんなことになるだろうなとは思っていた。マンガ学きわめるんじゃなかったんか、東京に出るんじゃなかったんかい、おい、と思いこそすれ、いまさら言っても詮ない話である。彼が亡くなった夜、ぼくは彼にスカイプを架けていて、しかも出たと思ったら切られてしまった。音声デバイスの不都合があったのかもしれない、少し残念である。死んだのだから、もはやどうでもいいけどね。
 彼はもともと、ぼくの差別論がきっかけになって、ぼくにアクションをかけてきてくれて、哲学道場にも二度くらい参加してくれた。浅田彰『構造と力』でぼくが発表したとき、居合わせた。あの『構造と力』発表は、哲学道場史に残るほどの名発表だったと自分で思っているので、往時の感動を伝えてくれる人がひとり減ったのは、つくづく残念である。彼が死んだころ、ぼくは短歌を作っていたわけで、せめてぼくの短歌を読んで批評してから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、なんとも残念である。彼と通話で表現について話し合ったとき、彼はぼくに何冊か海外小説をすすめてくれて、いまやタイトルを失念してしまったので、教えてから死んでくれたらいいじゃないか、と思うと、いかんせん残念である。彼がなにも返答してくれないということが、とにかく残念である。彼のミニコミ誌のために執筆し、彼の要望を容れて大きく書きなおしたりもしたチャットモンチー論だけが、ミニコミ誌はとうとう刊行されず、ぼくの手許に残された。
 興味がないのでお通夜には行かなかった。ただ、作っていた短歌三十首中に一首、彼への挽歌が急遽入れられることになった。ぼくにできる「喪の作業」といったら、このくらい。

    ○

 購入した本。
 三島由紀夫『美しい星』、廣松渉『もの・こと・ことば』、原口統三『二十歳のエチュード』、寺山修司『寺山修司全歌論集』、稲垣足穂『天族ただいま話し中』、中城ふみ子『中城ふみ子歌集』、田島邦彦『これでよくわかる短歌鑑賞・批評用語』、丹羽敏雄『射影幾何学入門』、ベンゼ『情報美学入門』、など。読了したものから書評ブログで報告してゆく予定。
 なんか情報美学おもしろそうだけど、これでレジュメ切ろうかな>深草君

※書評ブログ:http://d.hatena.ne.jp/TaniR/

    ○

 コミュニケーションとは、コミュニケーションの手順を習得することそのことであり、現実に対してなんらかの期待をいだき、その期待が現実によってたえず応答されるということである。これは現実に対して賭博的関係をとりむすぶということに相当する。中島義道的〈対話〉は、むろん現実に対する賭博でなくてはならない。
 ゼロアカ界隈では、象徴界S(ロゴス)の紐帯がゆるんだのちに、いかなるコミュニケーションの形がありうるかなどとかまびすしいけれども、事は単純だろう。現実に対するインターフェースのスタイルがどれほど変化したとしても、現実に対して「期待‐応答」というルーチンが反復されるかぎり、常にすでにコミュニケーションは生起していると言える。
 迷路とは、制作者と解答者とのダイアローグではないか、とこのごろ考えている。ぼくには迷路を作る趣味があって、最近はピクシブで発表したりしているのだけれど、イメレスで解答をもらえたりして、とてもうれしい。どうしてうれしいかというと、そこでコミュニケーションが成立しているからにほかならない。「迷路とは、世界で一番小さな賭博である」と、ぼくは思う。迷路というのは、分岐のひとつひとつに賭けてゆくゲームのことだからだ。手順を習得し、径路に期待をいだき、その期待が裏切られ、さらに制作者の心理を裏読みし、その裏読みが径路によって応答され……と、どこまでも〈対話〉に駈り立てられてゆく。それというのは、迷路が自己韜晦のスタイルでもあるからだ。迷路がどこか崇高に思えるのは、そこには神話が、すなわち「作者神話」が存在しているからではないだろうか。迷路は解答者のまえに「謎」として立ち現れてくる必要がある。そこで表現者とは「謎」を演出する者でなくてはならない。
 あるいは、東方花映塚(弾幕シューティング・ゲーム)をやりながら、弾幕がコミュニケーションであるとはどういう意味かを考えている。それはやはり、弾幕シューティング・ゲームをプレイするということが、手順を習得し、現実と〈対話〉することであるからなのでないか。この場合、弾幕シューティングにおける「弾幕の美」が「謎」に相当するかもしれない。ニコニコ動画に「東方紅魔郷Ultraモード」(sm6091554)なんていう動画が存在するが、この動画は弾幕をめちゃくちゃ濃くしておいて、それを実行速度50%でプレイするというしろものである。なんでこんな動画で感動できるのだろう。それは、なにか過剰なまでのコミュニケーションが視聴者の夢をなぞるように追体験できるからなのではないか。この動画をみていて、どこか渇望みたいなものを感じてしまうのは、ぼくだけなんだろうか……。
(ちなみに、賭けるということと、手順を習得するということにかんして、花映塚体験版についてくる「上海アリス通信 vol.5」で、神主の見解が述べられていて、参考になる)

※pixiv(迷路):http://www.pixiv.net/member.php?id=389792

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2009年5月14日 (木)

雑記 20090513

 図書館で借りて、アウグスティヌス著作集の第9巻『ペラギウス派駁論集(1)』を読んでいる。一体どうしてこんなものを読む羽目になっているんだか、自分でもよく分からない。
 『霊と文字』は、「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味を考えている。なかなかよくできた論考で、この「文字‐霊」という対立を、「旧約‐新約」という対立に重ね合わせて論じている。すなわち、ここで文字というのは律法のことなのだが、律法は聖霊を欠いては「殺す文字」である。罰の存在が律法を守らせる(行為の律法)というのではだめで、内なる聖霊の力による神への愛が律法を守らせる(信仰の法則)のでなくてはならない。前者が「旧約」に、後者が「新約」に対応する。この、文字と霊とのふしぎな一致には、「イエスがキリストである」という信仰告白に受肉の秘儀が現れているように、ひとつの秘蹟が介在していると言えるかもしれない。
 つまり、このぼくが神への愛(=憎悪)において行為することが、なぜだか文字(=ぼくという物語)に一致してしまうということである。この一致は偶然のたまもので、もちろん時に破られもする。しかし、どうして一致するのか。一致するように思えてしまうのか。
    ○
 定額給付金で春山行夫詩集(稀覯本、市場価格一万数千円ほど)でも購入しようかと思っていたのだが、売れてしまっていた。しかたがないので、エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』上下巻でも買い入れようかと考え中。春山行夫は、日本モダニズム詩の立役者のひとりなのに、なんでまともな詩集が出ていないのだか。
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 ブログの方で人と話しているとき考えたのだが、また「真理と意味」の話だけれど、真理→意味という流れがいまひとつつかめないのは、ここでいう「真理」の本性がどうもよく分かっていないためらしい。
 つまり、「真理」には三種類の意味がある。「客観的事実」「客観的世界」「客観的構造」の三種類で、関係としては以下のようになるだろうか。

◆客観的事実=客観的世界+客観的構造(+物自体?)

 まず、名辞の意味は客観的事実を介して学ばれる。このことは明白で、ぼくは現在でも、あたらしい言葉を覚えるためには、常に客観的事実を介してその意味を覚える必要がある。
 次に、客観的事実が存立できるための客観的世界という概念があるが、この客観的世界という概念がなくとも言葉を覚えることが可能かどうかは、凄く難しいところである。他者と会話できるためには、それぞれの言明が同一の世界についてのものであることが理解できている必要がある。とはいえ、これはどういうことか、そして本当にそうなのか。
 それから客観的構造。これはつまり「主‐述」構造ということで、客観的事実にも客観的世界にも由来するものではないから、独立して出自を洗わなくてはならない。
 ……とまあ、このように「真理」には多義性があるわけなのだが、一体「意味から真理へ叛逆することができない」というときの「真理」とは、このどれのことを指していて、そしてどういう理窟で叛逆できないということが言われているのだろう。そもそもこれらの内、叛逆可能であるのは「客観的事実」しかないように思えるのだが、そうだとすると、権利上叛逆可能であるということは、先の日記で論じたことである。
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 東方花映塚。暇をみつけて練習してる内に、ようやく霊夢でてゐを倒すことができました。これで念願のルナシューター……なわけないけど。えーきさんとか倒せないと、やっぱりだめなんだろうなー。足が遅いので、小町ぐらいなら倒せる気がする。また練習してみます。
 なお、操作デバイスは無論キーボード。

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